第77話 新しい名前
国家薬務局の開設は、式典の翌週だった。
場所は、王宮の薬草園に隣接する旧書庫棟。長年使われていなかった石造りの建物を、改装して使うことになった。
改装と言っても、大がかりなものではない。書棚を片付け、机を入れ、調合台を置いた。
初日の朝、私は建物の前に立っていた。
扉の上に、真新しい看板が掲げられている。
『国家薬務局』
シンプルな木の看板。金文字。
「お嬢様。いえ、局長殿?」
「局長殿はやめて。お嬢様でいい」
「でも公の場では」
「公の場ではそう呼んで。でもここは薬草園の隣だから。お嬢様でいい」
カミラが微笑んだ。
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初日の仕事は、人事だった。
薬師組合からマティアスが常勤で配属された。クラインフェルトで一緒に解毒剤を作った若い薬師だ。
「リゼット殿。局長命令を受けて参りました」
「マティアス。堅苦しくしないで」
「いえ。これは公務ですので」
「では公務として言います。堅苦しくしないこと。それが最初の局長命令」
マティアスが困った顔をした。
他に、書記官が一名。連絡役の騎士が一名。そしてカミラ。
四名体制。小さな船出だった。
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午前中は書類仕事だった。
全国の水質監視報告書。各地の解毒薬在庫量。薬師組合からの配置報告。教会配布拠点からの経過報告。
エレノアの修道院ネットワークからは、週に一度の定例報告が届く。
『北方サンクト・マリア修道院:在庫残り42本。新規発症ゼロ。住民への煮沸指導を継続中』
『東方リンデン修道院:在庫残り78本。先週の巡回で3名の未受診者を発見。投与済み』
一つ一つ目を通し、不足がある拠点には追加配布を指示した。
地味な仕事だ。だが、この地味な仕事が、誰かの命を守っている。
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午後、薬草園に出た。
薬草の手入れをした。公務ではない。ただの、習慣だ。
エキナセアの枯れ葉を摘み、カモミールに水をやり、ラベンダーの枝を整えた。
トビアスから手紙が届いていた。クラインフェルトのダンツィヒが代筆したらしい。
『おねえちゃんへ。ぼくはげんきです。みずもおいしいです。またきてね。トビアスより』
読んで、笑った。
返事を書いた。
『トビアスへ。元気でよかった。水がおいしいのは、とても大事なこと。また行くよ。約束。リゼットより』
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夕方、カミラと王宮の廊下を歩いていると、侍女たちのひそひそ話が聞こえた。
「あの方国家薬務局の局長だって」
「毒殺者の娘なのに?」
「でも疫病を止めたのは事実よ。八千人を死者ゼロで」
「そうね。でも、ヴァレンシアの名前は怖いわ」
「薬花の局長って呼ぶ人もいるわよ」
「薬花?」
「式典で言ったでしょう。毒花でも花は花だ、咲き方を選べると」
「あああれは良い言葉だったわ」
足を止めなかった。聞こえないふりをして通り過ぎた。
カミラが小声で言った。
「薬花ですって」
「聞こえてた」
「いい呼び名ですね」
「……うん」
毒花令嬢。それが、前世からずっと私につきまとっていた名前だ。
今世でも、クラインフェルトで「毒殺者の娘」と呼ばれた。
だが、呼び名は、変わり始めている。
薬師殿。局長殿。そして、薬花。
名前は変えられない。ヴァレンシアの姓は、一生背負う。
でも、呼ばれ方は、行動で変えられる。
父は毒花を咲かせた。
母は、毒花の反対側を作ろうとした。
私は、薬花を咲かせる。
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夜、官舎の自室で、処方箋集を開いた。
母の手紙を読み返した。
『毒花でも構わない。花は花だから。咲き方を選べるから』
何度読んでも、泣きそうになる。
だが、泣かなかった。
手紙を閉じて、新しいノートを開いた。
国家薬務局の運営計画を書き始めた。
薬師の育成制度。毒物流通の許可制。全国水質定期検査。解毒薬の備蓄基準。地方巡回薬師の配置。
書くべきことは、山のようにある。
書き始めた。
カミラが紅茶を持ってきた。蜂蜜入り。
「お嬢様。今日はもう休みませんか」
「もう少しだけ」
「毎晩そう仰います」
「毎晩もう少しだけなんだから、嘘ではない」
カミラが何も言わずに、毛布をかけてくれた。
書き続けた。
ペンの音だけが、静かな部屋に響いていた。




