最終話 幸せのかたち
公爵家の薔薇。
金髪碧眼の可憐な公爵令嬢。
栄えあるエスヴァルト帝国皇太子の婚約者であり、掌中の珠。
人々からそんな風に呼ばれ、羨望のまなざしを向けられてきた十八歳の公爵令嬢ローゼ・デア・アルノルトには、薔薇色の未来が約束されていたはずだった。
ところがこの夏、ローゼは皇太子テオフィルに婚約破棄をされ、あろうことか、皇太子付きの近衛騎士エリアス・クロイツェルとの結婚を命じられた。
この結婚は口さがない宮廷雀たちの格好の餌食となった。
高慢な公爵令嬢が近衛騎士などに下賜され、耐えられるはずがない。
しかもローゼは扇よりも重いものを持ったことがなく、騎士を毛嫌いしているという噂である。
近衛騎士と結婚したところでうまくいくはずがない、皇太子殿下も酷なことをなさる――と、そこここで囁き交わされた。楽しそうに。
だがしかし。
蓋を開けてみれば、ローゼ・クロイツェルは屋敷町で平民に入り混じって生き生きと過ごしていた。
その顔は宮廷の社交や虚飾であくせくする貴婦人方よりも、よほど幸せそうだ。
夫のエリアス・クロイツェルは、ローゼと共に偽聖女を排し本物の聖女を皇宮へ連れてきた功績により、歴代最年少で近衛騎士隊長に抜擢された。
今は新しく皇太子となった第二皇子ダミアンの最も信頼する近衛となっている。
同時にエリアスは愛妻家で有名で、仕事は毎日定時で上がり、妻の待つ家に帰るという。
♢
青空が高く澄み、旬の葡萄が市場に出回るようになった秋の日。
皇宮の馬車回しに、一台の馬車が停まった。
皇家の紋章の入った黒塗りの馬車。
少し前にここを出て、皇太子の客人を迎えに行ったものである。
降りてきたのは、近衛騎士隊長夫人ローゼ・クロイツェル。
皇宮で待ち構えていた夫のエリアス・クロイツェルがスッと歩み寄り、手を差し出す。
妻に向けたその表情は、普段の彼の険しい顔つきを知っている部下たちが見たら仰天するほど、甘く優しいものだった。
エリアスはローゼをエスコートして皇宮内に入った。
赤髪の近衛騎士隊長の隣を歩く夫人は、金の髪を美しく編み上げ、上品な青磁色のドレスを纏い、歩くたびに小ぶりだが品のあるルビーの耳飾りが揺れる。
ルビーは目の覚めるような赤色。
それが誰の色かなど、聞くまでもなかった。
皇宮警護の帝国兵たちが、二人を見てさっと姿勢を正し敬礼を送る。
「真の聖女を見つけて皇帝を救ったクロイツェル夫妻」の話は、今や帝国中に知れ渡り、歌劇や物語になっているほどだった。
(前世では離宮に閉じこめられ、今世でも最後に皇宮に来たときは婚約破棄をされて嘲笑されていたっけ……)
エリアスの隣を歩きながら、ローゼはちらりとすれ違う人々を眺めた。
宮廷官吏たちがローゼとエリアスに送るのは尊敬のまなざし。
年若い皇宮メイドたちは、憧れのこもった視線を自分たち夫婦に向けている。
(……少し恥ずかしいけれど、このほうが前よりもずっといいわ)
にっこりとほほえみかけると、官吏とメイドの集団は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「おい、今『薔薇夫人』が俺に笑ったぞ!」「いや俺にだ」「やだぁ、笑顔も素敵!」「あんな夫婦になりたいわ」
いつの間にか「公爵家の薔薇」から「薔薇夫人」に二つ名が変わっていたようだが、それよりも隣のエリアスから冷気が漂ってきてぞくりとした。
彼を見上げた。
いつも通りの冷徹な表情だが、灰色の瞳の奥に温度がないような気がする。
低い声が降ってきた。
「……殿下の執務室はこっちだ」
廊下の角を折れた。
心なしか、歩く速度が少し速くなったようだ。
まるで早く官吏たちの目から妻を遠ざけたいとでも言うかのように。
到着したのは皇太子の執務室だった。
今はテオフィルではなく、ダミアンの執務室となった部屋。
エリアスがノックして扉を開け、中へ通される。
広々とした室内は明るく、資料や書類はすっきりと整理されていて仕事がしやすそうだった。
兄がだらしなく散らかしていた部屋をダミアンが徹底的に片付けた成果である。
ダミアンは大きな机の上の書類を読んでいた。
皇帝がまだ病み上がりなので、彼が政務の多くを担っており多忙だとエリアスから聞いている。
その前に立って同じ書類を覗きこんでいたのは、新しく聖女となったイルムヒルト。
神秘的な聖女の衣装がよく似合っている。裾はたしかに長い。
なにやら仕事の話をしていたらしい二人は、ローゼとエリアスが入ってくると、同時にパッと顔を輝かせた。
「ローゼ! 来てくれてうれしいよ」
ダミアンが立ち上がり、ローゼに近づいて手を握った。
数日ぶりに会うイルムヒルトも、笑顔でローゼと抱き合う。
それから四人は向かい合ってソファに座った。
エリアスとローゼが隣に座り、その向かいにダミアンとイルムヒルトが腰を下ろす。
ダミアンが切り出した。
「ローゼ、今日来てもらったのは、あなたの父上――アルノルト公爵の処遇について話したかったからだ」
「はい」
ローゼはまっすぐにダミアンを見た。
父のアルノルト公爵が前皇太子テオフィルの国庫金横領の片棒を担いでいたことは、すでにエリアスから聞いて知っていた。
前世では離宮に軟禁されていた娘のローゼを見捨て、今世でも嬉々としてテオフィルの言いなりとなって悪事に加担した父に対しては、もう呆れを通り越して虚無の感情しかない。
優しかった母はローゼが幼い頃に病没している。
父と公爵家がどうなろうと、すべて受け入れるつもりだった。
エリアスとイルムヒルトが気遣わしげなまなざしをローゼに向ける。
ダミアンも姿勢を正して座るローゼを見つめ、膝の上で両手を組んだ。
「アルノルト公爵がぼくの兄と共謀し、帝国の金を使い込んでいたことはエリアスから聞いたと思う。もう一人の共犯、金庫の記録官だったキルステン男爵とともに爵位は剥奪。領地は暫定的に帝国の直轄領となることが決まった」
「……はい。致し方のないことでございます」
凛とした為政者の顔を、ダミアンがローゼに向ける。
「私の父とも話したんだが、公爵位は彼の弟……あなたの叔父上に渡ることになりそうだ」
「叔父上に」
ローゼは温厚で優しい叔父を思い出した。
普段はあまり目立たないが、誠実な性格の叔父。
きっと父よりも手堅く公爵領を守り、次の世代へ受け継いでくれるだろう。
目の前の皇太子と自分の叔父の境遇が、どこか重なるように感じた。
ダミアン自身もそう感じたのか、彼は小さく苦笑した。
「あなたの叔父に内々に話をしたら、緊張しながらも『きっとご期待に応えてみせます』と言ってくれたよ。ぼくも皇太子になりたてだから、新人仲間がいてくれて心強い」
「まあ」
ローゼがクスッと笑うとダミアンも笑った。
そして彼は隣にいる、同じく新人の聖女であるイルムヒルトと視線を交わした。
一瞬、その二人のあいだに生まれた親密な空気に、目が釘付けになった。
(あらあら……フローラの言う通りね。ダミアン様がイルミを見る目は火にかけたフライパンみたいに熱いし、イルムヒルトの目も同じくらい熱いじゃない。それにこうして見ると、なんてお似合いの二人なのかしら)
思わずにやにやして眺めていたら、二人は揃って赤くなった。
ダミアンが咳払いをして話を続ける。
「こほん。それから、もう一つ……実は、公爵と連座して処罰されたキルステン男爵の爵位を、あなたに与えてはどうかという話が出ている」
「え……?」
思いもよらない話に、ローゼは目を丸くした。
ぱっと隣のエリアスを見上げる。
あらかじめ、この話を知っていたのだろう。
彼は優しいまなざしを返して言った。
「あなたの心のままに」
「エリアス……」
ほわっと胸が温かくなる。
彼から全面的に信頼されていることに。
(――キルステン男爵は領地を持たない王都住まいの貴族。領地経営や視察で家を空ける心配はないわ。でも叙爵されるということは、貴族社会に戻るということ――)
ローゼはくるりと皇太子に向き直った。
「ありがとうございます、ダミアン様。大変光栄なお話ですが、辞退させていただけますでしょうか」
「……理由を聞いても?」
「私は今のまま、あの皇都の屋敷町で、近衛騎士隊長の妻として暮らしたいと存じます」
その言葉を聞くと、隣のエリアスは耳を赤くし、向かいのダミアンとイルムヒルトは顔を見合わせた。
ダミアンが眉を下げた。
「困ったな。本物の聖女イルムヒルトを見出し、皇帝の命をも救ってくれたあなたに、ぜひ男爵位を受け取ってもらうつもりでいたんだけど……」
「そうよ。それにローゼが男爵として後ろ盾になってくれれば、私も安心して聖女の仕事ができるわ」
「後ろ盾?」
ローゼの気持ちが、ぐらりと傾いた。
宮廷には聖女を利用しようとする輩が大勢いるだろう。
イルムヒルトはしっかり者だが、宮廷のことには不慣れである。対して自分は、皇宮で十年間も妃教育を受けてきた元公爵令嬢。
自分が爵位を授かれば、大好きな友達を支えることができる。
それに、もしかしたら――いつか遠くない日に、イルムヒルトは皇太子妃になるかもしれない。そのときにもローゼは彼女の役に立てるだろう。
迷いを浮かべた妻の顔を見て、エリアスが低く呟いた。
「俺も、あなたが近くにいたほうが仕事が捗るかもしれない」
「お受けいたします」
「早っ」
「わ、うれしい!」
ダミアンが驚きの声を漏らし、イルムヒルトは両手を合わせ満面の笑みを浮かべた。
エリアスがほほえむ。
「存分にやるといい。俺が支える」
「ありがとう、エリアス」
見つめ合う夫婦の周囲だけ、空気の中に砂糖でも溶けているかのようだった。
ダミアンとイルムヒルトは頬を赤くして視線をさまよわせた。
ローゼが我に返り、姿勢を正して皇太子に言った。
「皇太子殿下。おそれながら先ほどの言葉は撤回いたします。そして、謹んで男爵位を拝受いたします」
「そうか、よかった。あなたがいてくれればぼくも安心だ」
ほっとしたように笑うダミアンに、ローゼの頬も緩んだ。
すっかり皇太子らしくなった彼だが、ああいう顔は、ローゼを姉のように慕っていた以前と変わらない。
話が終わるとダミアンは立ち上がり、自分の近衛騎士に言った。
「エリアス、今日はもう上がっていいよ。ローゼを送ってあげて」
「御意」
二人で執務室を出た。
帰路は馬車ではなく、エリアスの馬に同乗した。
手綱を握る彼の前に横乗りをする。
逞しい片腕に、ぎゅっと腰を抱かれて密着しながら。
「……近くない?」
「安全のためだ」
エリアスがしれっと答えた。
そのまま皇都の大通りの中、ゆっくりと馬を歩かせる。
だが、ある場所にさしかかったとたん、彼はぴたりと馬を止めた。
「少し寄り道をしても?」
「ええ、もちろん」
連れられて入ったのは、可愛らしい菓子店だった。
エリアスは迷わず中央の卓に綺麗に積み上げられた小箱を一つ手に取り、会計をした。
薔薇の花の砂糖漬け。
店を出ると彼はローゼに向かい合い、リボンのかけられた小箱をスッと差し出した。
「……私に?」
「ああ」
エリアスは緊張した面持ちで、ローゼの反応を少しも見逃すまいという風にじっと見つめている。
どうして自分の好物を知っているのだろう。
ローゼは顔をほころばせて受け取った。
「ありがとう。このお菓子、大好きなの。うれしいわ」
「そうか」
エリアスの顔に、安堵と喜びが浮かんだ。
ふたたび馬に乗り家路に就く。
なぜか、ローゼを抱き寄せる腕の力がさらに強くなったように感じた。
「他に何かほしい物は?」
「何もないわ」
菓子の小箱を両手で大事に持ちながら、ローゼが答えた。
こぢんまりとした二人の館は、今日も茶殻をまいてピカピカに掃除をした。
厨房からは、午前中に時間をかけて作ったスープストックのいい匂いが漂っているだろう。
その透き通った金色のスープストックに肉と野菜を加えて煮込み、買い置きのパンを添えれば、今日の夕飯が出来上がる。
前世で焦がれていた市井の生活は、想像以上に心弾むものだった。
そして傍にはいつも、文字通り、包み込むように自分を愛してくれる夫がいる。
ローゼは腰に回された彼の腕に自分の手を重ね、囁いた。
「私と結婚してくれてありがとう、エリアス」
片手で器用に馬の手綱を繰りながら、彼はそっとローゼの額に唇を落とした。
とろけるように甘く熱いまなざしを注ぎながら言う。
「それは俺の台詞だ。必ずあなたを幸せにする」
「ふふ……もう十分幸せよ」
エリアスとほほえみあい、彼の胸に頭を寄せた。
空はすみれ色に染まりはじめ、冷たい夜が忍び寄ってくる。
明日からは男爵位を授かる準備も進めなくてはならないだろう。
だがエリアスと一緒なら、どんな未来も怖くない。
ローゼはもう一度、菓子の小箱と、自分をしっかり抱き寄せる夫の顔を見つめた。
幸せは、もう全部ここにあった。
お読みいただきありがとうございました。




