第一話
裏切りというものは、いつも「信じていいはずの顔」をして現れる。
真一が警察官として最後に見たのは、長年尊敬してきた上司の、困ったような笑顔だった。
「・・・お前の言っていることは分かる。だがな、蓑島。これは“触れてはいけない”案件だ」
警察内部の汚職。
証拠は揃っていた。金の流れ、虚偽の報告書、消された捜査記録。
正義だと信じていた組織の中に、腐敗があると知った時、真一は迷わなかった。
――だから、内部告発を選んだ。
結果は、想像するまでもない。
告発は揉み消され、逆に真一は「規律違反」「虚偽報告」「精神的不安定」という名目で切り捨てられた。
庇ってくれる者はいなかった。
信頼していた上司は、最後まで「お前が悪い」と笑いながら、書類に判を押した。
それが、真一の“社会的な死”だった。
職を失い、信用を失い、家を失った。
段ボールの下で見る夜空は、警察官だった頃よりずっと広くて、ずっと冷たかった。
人は、あっさりと人を見なくなる。
「助けて」という言葉が、意味を持たないことを、この時初めて理解した。
ある夜。
若者数人に絡まれた。
「お前が蓑島だな」
「...誰だ」
真一がそう答えた瞬間、刃物の冷たい感触。
腹部に走る痛み。
倒れ込む視界の端で、誰かが笑っていた。
「あんたに恨みはない。ただ知りすぎた」
血が広がるアスファルトを見ながら、真一は思った。
――最低の人生だったな…。
正義も、努力も、選択も。
全部、簡単に踏み潰される。
それが、簑島真一の人生の終わり。
……のはずだった。
次に意識を取り戻した時、真一は「地面の冷たさ」を感じた。
石畳。
見慣れない建物。
空は青く、異様なほど澄んでいる。
「……ここ、どこだ?」
起き上がろうとして、違和感に気付く。
――軽い。
体が、異様に軽い。
痛みがない。
刺されたはずの腹も、どこもかしこも、無傷だった。
「おいおいなんだあれ……、浮いてる…?」
そこには2メートルほどあろう生き物がふわふわと浮かんで移動していた。
そして、決定的な違和感。
真一は、自分の体を見下ろした。
「…………………………」
「――――――は?」
全裸だった。
文字通り、一糸まとわぬ姿で、異世界の石畳に放り出されていた。
「いやいやいやいや、ちょっと待て! なんで全裸!? 死後の世界ってもっとこう……配慮とか……!」
「とにかく、このままじゃヤベェ!」
何か着るものはないか。
辺りを見回している時、傍らに、一振りの日本刀が転がっているのが目に入った。それを見た瞬間、真一はこれがかつて自分が押収し、その後なぜかホームレスの自分の心臓を貫き、人生を終わらせたはずの、あの忌々しい刀だとわかった。そしてその刀身は、ボロ布で幾重にも巻かれ、禍々しいほどの存在感を放っている。
なぜそれが落ちているのか。
でも今は考えている暇はない。
真一は刀を拾い、慌てて身を隠すように裏路地へと走り出した。
その瞬間、気付く。
速い。
走る速度が、明らかに人間離れしている。
地面を蹴る感覚が、羽のように軽い。
「…え?」
壁に手をついて跳ねると、信じられないほど簡単に身を翻した。
「なんだ…これ…」
自分の体そのものが、強化されているような感覚だ。
その感覚に戸惑いながらも、人が少ない方をひたすらに進む。
「何が何だかわからんが、とにかく人気のない場所で着るものを探さないと。」
しばらく行くと街の色が、変わった。
建物は古く、壊れ、道は舗装されておらず、おまけに湿度が高いためどこもぬかるんでいる。
人の気配はないが、どこからか異臭がする。
「この辺りは懐かしい感じがするな。」
真一はこの街の雰囲気に、自身のホームレス生活を重ねた。
ようやく人気のない場所に辿り着き、隠れながらも散策していたその時、遠くの方で爆発音がした。
「なんだ?」
その矢先、すぐ近くで女性の切羽詰まった声が聞こえてきた。
「やめて…!やめてください……!」
路地の奥。
一人の女性が、数人の男に囲まれていた。
これも懐かしい光景だった。
警察官時代、嫌というほど見てきた。
「おい、やめろ!」
真一は声をかけると同時に顔の特徴、人数の把握、服装、持ち物などを素早く観察した。警察官時代の名残だ。
「(武器を持ってるのは4人・・・、後の2人は・・・、なんだあの生き物。あれは被り物か何かか?)」
ゴロつきが吠える。
「なんだテメェ、というかなんだその格好…」
そう言った奴は全裸の真一に一瞬うろたえたが、すかさずもう一人が
「関係ねぇ、とりあえずやっちまえ!」
「待て!暴行は犯罪行為だぞ!」
そう叫ぶ真一の言葉など聞かず、6人のゴロつきは問答無用で襲いかかってくる。
「ハッ、死ねよ変態!」
一人が指先を向けた。そこから炎の礫が放たれる。
真一は反射的に、左手でそれを払いのけた。
パチン、と。
まるで電球が切れるような音と共に、魔法の炎が霧散した。
「……は?」
放った本人も、真一も固まった。
だが、体が勝手に動く。心臓を貫かれたあの瞬間から、真一の体からは「恐怖」というリミッターが外れていた。
やるしかない、そう思った真一はそこからほとんど反射的に動いていた。
ボロ布を巻いたままで刀を振りかざした。
次の瞬間、世界が“遅く”なった。
踏み込み、振り抜く。
鳩尾みぞおち、手首、膝。
真一の体に染み付いた動きが、異様な身体能力によって再現される。
「ぐっ――!?」
「な、なんだこいつ――」
男たちは、文字通り成敗され、地面で伸びている。
真一は、自分の息一つ乱れていないことにも気付く。
「やっぱり体が軽い。それに、相手の動きも見えすぎるほどだ…。」
真一は自分の変化に驚きつつも、女性に声をかけた。
「あんた、大丈夫か?」
そう言いながら助けた女性に振り返った、その瞬間。
「きゃああああああああ!!」
全力の悲鳴。
「え、あっ、違っ、待て! 話を――」
だがもう遅い。
2度目の悲鳴を聞きつけた辺りの住民たちが、次々と集まってくる。
「なんだ!?」
「誰だあいつ!」
「……全裸?」
沈黙。
そして。
「不審者だ!!」
「今度は露出魔が出たぞ!!」
「待て待て待て!!おいあんた、説明してくれよ!!!」
そう叫びながら真一は半ば諦めたように刀を置き、両手を上げて、ひざまずいた。
スラムを管轄する聖導騎士団の詰所。
真一は、とりあえず貸し与えられた(というより投げつけられた)古びた外套を羽織り、鉄格子越しに外を見ていた。
「名前は?」
冷徹で、鈴を転がすような、しかしひどく高圧的な声。
鉄格子の向こうには、銀の甲冑に身を包んだ、凛とした美貌の騎士が立っていた。
聖導騎士団隊長、ルミア・フォン・アークライト。
「やっとか...。あんた来るのがおせぇよ。俺が捕まってからどれくらい経ってる?」
「...大体一日というところです。身分証は? 魔力測定の記録もありませんね。あなた、どこかのスパイですか」
「全裸で潜入するスパイがいるかよ。俺はただ、死に損なってあそこに放り出されただけだ」
真一は気怠げに、無精髭を擦りながら言う。
「いつになったら出られるんだ?」
ルミアの目は、真一の隣に置かれた「布巻きの刀」に向けられた。
「この刀、なぜ布で巻かれているのですか。何か隠しているのではないですか」
真一は思わず笑った。
「ご覧の通り、何も隠しちゃいない。それは俺の......『失敗』の象徴だ」
真一が気怠げに視線を外したその時、詰所に若い騎士が駆け込んできた。
「隊長! 密室の貴族邸で起きた『呪殺事件』……また死人が出ました! 現場は炎の魔法で焼き尽くされたはずなのに、死体は氷のように冷え切っていると……! 魔導士たちは『理に反する魔法だ、悪魔の仕業だ』と混乱しています!」
「……理に反する……?」
ルミアの顔が青ざめる。「火の魔法で焼かれたのに、死体が凍っている」という不可解な報告。
「(事件…?それに魔法…)」
真一は気怠げな態度を崩さず、しかし目は鋭くルミアを見据えながら言う。
「おい、疫病神の隊長サマよぉ」
「……誰が疫病神ですか」
「魔法ってのは本当に存在してるのか?」
「あなたは何を言っているのですか?なぜ魔法を知らないのです?」
ルミアは真一を見つめる。その顔には困惑が滲み出ていた。
真一はその顔を見て確信した。さっきから魔法だ魔力だと言っているのはどうやら本当らしい。
「(さっきのゴロつきが手から出した炎、あれは魔法だったのか)」
「(...でも、俺の手で簡単に防げたが、あれは一体...)」
ルミアは困惑を隠しきれない顔で真一を見つめている。
「(まぁとにかく聞いてみるか。その事件ってのも気になる)」
真一は鋭い目のまま、ルミアを見据えながら言った。
「その『魔法の炎』ってやつについて教えろ。……それは、燃える時に空気を食うのか?」
「……は?」
ルミアは呆気に取られたような顔をした。「空気を食う」などという表現を、高名な魔導士の口からも聞いたことがなかったからだ。
「質問に答えろ。魔法で火を出した時、火の粉と一緒に風が吸い込まれたり、爆発した後に耳がキーンとしたりするか?」
「……ええ。高位の炎魔法が発動した直後は、周囲の空気が揺らぎ、激しい突風が中心に向かって吹きます。それがこの世界の常識ですが……」
「……なるほどな。魔法っつっても、燃焼の基本原則は同じってわけだ」
真一の口角が、わずかに皮肉げに上がった。
「じゃあ、もう一つ。俺は事件なんかには明るい。その現場の死体……『凍っている』と言ったが、表面に霜は降りているか? それとも、ただ冷たいだけか?」
ルミアは戸惑いながら、手元の詳細な報告書をめくった。
「……ええと、報告によれば、衣服や皮膚に異常なまでの霜が付着し、肺の中まで凍りついていたとあります。しかし周囲の壁には、炎で焼かれた煤がこびりついている。だからこそ不気味なのです。火を放ちながら、同時に対象を凍らせる。そんな矛盾した魔法を使えるのは悪魔か、あるいは――」
ルミアは真剣な顔で独り言のように呟いた。
「もっと詳しく知りたい。その報告書を見せろ」
ルミアはハッとして、声を張り上げた。
「あ、あなたに見せるわけにはいきません!部外者は黙っていてください!」
そう言い放ったルミアだったが、真一は彼女の焦りの表情を見逃さなかった。
「あんたら、さっき悪魔の仕業とかなんとか言ってたが、この世界には悪魔がいるのか?」
「....それは....」
ーー真一は警察官時代に鍛えたその眼で、鋭く相手の動揺を見抜いた。
「じゃあ上層部から悪魔の呪いだということにしろ、とかいう圧力がかかってるんじゃないのか?」
「なっ......」
「図星か。組織の理屈ってのはどこも同じだな。当然だが、この事件が続けばその圧力も続く。そして、下手をすれば、あんたが消される」
ルミアは顔を伏せたが、悔しさと恐怖がその顔に溢れていた。
「……あんた、上からかなり突っつかれてるんだろ? どちらにせよ、真相に辿り着けない自分にイラついてるわけだ」
真一の指摘に、ルミアは言葉を失った。
聖導騎士団の上層部は、この事件を存在しない悪魔の所業として強引に処理しようとしている。
「取り引きだ。俺がその謎を解いてやる。さっきの質問でだいたいの検討は付いてるしな。その変わり、事件解決の暁には、俺をここから出してもらう。どうだ?」
ルミアは葛藤した。相手は素性不明の不審者だ。しかし、騎士団の誰もが「魔法の異常」を理由に思考を停止させる中で、唯一この男だけが、自分と同じ「違和感」を共有している。
「(…この男は、他の人と何か違う…)」
ルミアは辺りを見回し、他の兵がいないことを改めて確認して、真一に告げた。
「……一時間後に、騎士団の最終検分が行われます。そこで事故と断定されれば、真実は永遠に闇の中です」
ルミアは、自らの騎士道と組織への忠誠を天秤にかけ――鉄格子の隙間から報告書を差し出した。
もちろん、いくらその違和感を共有していたとしても、それが事件解決に繋がるとは限らない。しかし、今の彼女は、それほど焦っていた。
真一は、ルミアから差し出された報告書を指先で弾きながら、ふとした疑問を口にした。
「……なあ、一つ気になってたんだが。あんたら、指先から火を出したり、空中に文字を浮かべたりできるんだろ? なのに、なんでわざわざこんな『紙』の報告書なんて重宝してやがるんだ。もっとこう、魔法的にパッと記録して共有すりゃ済む話じゃないのか?」
ルミアは一瞬、何を当たり前のことを、という顔をしたが、真一が本気で首を傾げているのを見て、ため息混じりに答えた。
「……魔法は万能ではありません。むしろ『記録』に関しては、魔法ほど不確かなものはないのですよ」
「不確か? 証拠としては最強なんじゃないのか?」
「逆です。魔力による記録は、術者の実力次第でいくらでも書き換え(改竄)が可能です。高度な隠蔽魔法を使われれば、鑑定官ですら元が何だったか判別できなくなります。その点、『紙にインクで刻まれた文字』は、物理的な実体を持ちます。物理的に燃やしたり消したりしない限り、そこに在り続ける。……魔法が支配する世界だからこそ、魔法で誤魔化せない『物理的な証拠』が最も信頼されるのです」
ルミアは自嘲気味に、手元の封書を強く握った。
「皮肉なものですね。真実を守るために私たちが最後に頼るのは、魔力を持たない紙とペンだなんて」
真一はその答えを聞いて、皮肉な笑みを浮かべた。
「なるほどな。魔法使いの連中も、最後はアナログに頭を下げるってわけだ。……俺のいた場所も同じだよ。どれだけデジタルが進化しても、一番信用できるのは現場に残った『指紋』や『血痕』、それに紙の供述調書だったからな」
そう言いながら報告書まで隅々まで眺める。文字は読めない。だが、現場の見取り図と遺体のスケッチが、元刑事の鋭い脳内に「絵」として再現されていく。
「...で、この事件の質問だが、火で焼かれたのに、体が凍る。……そんな魔法、この世界に存在するのか? 例えば、氷を出す魔法と火を出す魔法を同時にぶつけりゃ、そうなるとか」
ルミアは戸惑いながらも、真一の鋭い眼光に圧されて答えた。
「……いえ、理論上は不可能です。魔法は術者の精神と魔力に依存します。相反する属性を同時に、しかもこれほど高密度で発現させるなど、理に反しています。だからこそ、鑑定官……魔法の痕跡を調べる専門家たちも、『悪魔の呪いだ』と匙を投げているのです」
「鑑定官、ね。……じゃあ、その専門家たちが現場で探す『証拠』ってのは、具体的に何だ?」
「『魔力残滓』です。魔法が使われた後に残る、空気中の歪みのようなものですね。ですが、この現場にはそれが一切残っていませんでした。まるで、魔法を使わずにこの惨劇が起きたかのように……」
真一はルミアの答えに耳だけを傾けつつ、報告書を読み漁った。
そして真一の目は、部屋の壁を這い、一箇所に集約されている細い二重線の束を捉え、
その配管のような図を指先でなぞりながら、ルミアに問いかけた。
「……おい、隊長サマ。この壁の中を通ってる無数の管は何だ? 全部地下の大きな部屋に繋がってるみたいだが」
ルミアは鉄格子の外から身を乗り出し、真一が指差す箇所を覗き込んだ。
「……それは冷却用の『魔導装置』の配管です。地下にある親機で冷気を生成し、この管を通じて各部屋の隅にある通気口から冷風を送る仕組みになっています。富裕層の邸宅なら標準的な設備ですが……それが何か?」
「この管の中には、ただの『空気』が流れてるのか? それとも、別の冷やすための何かが循環してるのか?」
「……本来は、冷気を生み出すための『魔導溶剤』が装置内を循環しています。溶剤が気化する際の力を魔力で増幅させて冷気を作るのですが、その溶剤自体が表に出ることはありません。厳重に密閉された管の中を通るはずですから」
真一の口角が、わずかに皮肉げに吊り上がる。バラバラだった死体の状況と、建物の構造が一本の線で繋がった。
「じゃあ、もう一つ質問だ。もし、その地下の装置をいじって、循環してる『溶剤』をわざと管の外に……つまり、この被害者の部屋へ直接ぶちまけるように細工したらどうなる?」
「なっ……!? そんなことをすれば、装置の圧力が暴走して大変なことになります。それに、その溶剤は非常に揮発性が高く、少しの火種で爆発しかねない危険なものです」
「それだ」
真一は確信を持って立ち上がり、鉄格子を掴んだ。
「謎は解けたぜ、疫病神。犯人は魔法なんて一発も使っちゃいない。……犯人はまず地下の装置に細工をして、配管から被害者の部屋に大量の溶剤を気体にして送り込んだ。遮断魔法で密閉されたこの部屋は、あっという間に可燃性ガスで満たされた『ガス室』になったわけだ」
「……待ってください、それではただの火災では……」
「いいや、あんたはさっき『冷やすための装置』だと言った。犯人はガスを送り込んだ後、装置をフル稼働させて急激に部屋の熱を奪わせたんだよ。液体が気体になる時、周囲の熱を猛烈に奪い去る。……俺のいた場所では『気化熱』と呼んでいたが、死体が凍りついたのはそのせいだ。魔法の痕跡(魔力残滓)が出ないのは当たり前だろ。……単なる『機械の故障と物理現象』なんだからな」
ルミアは言葉を失った。自分たちが「相反する魔法の呪い」として恐れていた現象が、この男の口からは、配管図一枚から導き出された「ただの工作」として暴かれていく。
「仕上げに、部屋に充満したガスに種火を放り込んだ。恐らく証拠隠滅を図ったんだろう。爆発の圧力が窓を外側に押し出し、凍った死体だけが残った。……完璧な密室殺人の出来上がりだ。……なぁあんた。この配管の仕組みに詳しくて、地下の装置を弄れる立場の人間……心当たりがあるんじゃないのか?」
数十分後。真一の指摘通りに現場を再調査させたルミアのもとに、若い騎士が血相を変えて戻ってきた。
「隊長! 報告通り、地下の冷却魔導装置に、本来ありえない逆流用のバイパスが取り付けられているのが発見されました! 点検を担当していた魔導工廠の技師を拘束したところ、すべてを自供しました!」
詰所内に、驚愕と、そしてそれ以上に深い沈黙が流れた。
ルミアは、鉄格子の向こうで気怠げに鼻を擦る「全裸上がりの男」を、もはや不審者として見ることはできなかった。
さらに数十分後。真一の指示で現場を再調査した騎士が、血相を変えて戻ってきた。
「隊長! 現場の通気口から微量の未燃焼溶剤が検出されました! 鑑定官が『不自然な油分』だと断定しました!」
ルミアは驚愕の表情で、鉄格子の向こうにいる男を振り返った。
「……約束だ。出してくれよ、隊長さん」
ルミアは震える手で鍵束を取り出し、鉄格子の錠に差し込んだ。
ガチャン、という重い音がして、扉が開く。
「……簑島真一。貴方は一体、何者なのですか?」
「ただの死に損ないだよ」
真一はルミアに背中を向け、出口へと向かった。
「待ってください、真一!」
ルミアの声に、真一が足を止める。
「……また、貴方の力が必要になる気がします。その時は……」
真一はそれには答えず、返却された「布巻きの刀」を乱暴に腰に差し、ひとり、雨の降るスラムの闇へと消えていった。
雨は止んでいたが、湿った空気にはまだスラム特有の重い異臭が混じっていた。
真一は、王都アルカディアの北端に位置する、通称**「忘却の街」**へ戻って来た。
煌びやかな大通りとは対照的に、ここは崩れかけた石造りの建物が歪にひしめき合い、影が濃い。真一は、人通りの途絶えた路地裏にある、かつては小さな酒場だったと思われる空き家を見つけた。
扉は半分外れ、屋根には穴が開いているが、雨風は凌げる。
「……ここなら、誰にも邪魔されねぇな」
真一は外套を脱ぎ、ボロ布を巻いた刀を壁に立てかけた。
鉄格子の外でルミアが見せた「正義への執着」と「組織への絶望」は、皮肉にも真一の古傷を疼かせた。だが、今の自分はただのホームレスだ。全裸で放り出されたこの地で、まずは生き延びる術を見つけなければならない。
翌日から、真一はこの世界の「ルール」を学ぶために動き出した。
真一は、元警察官としての「観察」と「聞き込み」の技術を、生き残るために再構築した。
真一はスラムにある酒場や、浮浪者たちが集まる広場へ通った。
彼らがこぼす愚痴や噂話には、教科書には載らない「現実」が詰まっている。魔力のない者はどう虐げられるか、騎士団の腐敗はどこまで進んでいるか。真一は酒を奢るふり(あるいは強面の威圧)で、彼らの口を割らせた。
次に、報告書が読めなかったことは、真一にとって屈辱だった。
彼は、ゴミ捨て場から拾った古い魔導書の残骸や、騎士団の掲示板の張り紙を、街の子供たちに小銭(あるいは獲った小動物の肉)を渡して「読み上げ」させた。音と形を脳内で結びつける。
そして、先ほど、自分の体に起きた「強化」を理解する必要があった。
真一は真夜中の空き家で、何度も拳を突き出し、壁を跳ねた。空気が「動く」感覚。それがルミアの言っていた「魔力」の影響なのか、あるいは別の何かか。彼は、さっきの戦いで感じた「世界が遅く見える」感覚を、意識的に呼び起こす訓練を始めた。
「んー、やっぱり実戦じゃないとだめだな。...そうだ」
何かを思いついた真一は、スラムを歩き回った。しばらくウロウロとしていたが、あるあばら屋の影で、腫れ上がった顔をさすりながら、奪ったはした金を分け合おうとしていた六人組を見つけた。
真一が成敗した奴らだ。
「よぉ。……元気そうだな」
低い声が響いた瞬間、六人の動きが凍りついた。
「ひ、ひぃっ! 昨日の全裸の悪魔……!」
「今日は服を着てる。…ん? おい!どこ行くんだ!」
逃げようとする彼らの前に、真一は音もなく回り込んだ。一歩の踏み込みで数メートルを滑るように移動するその姿は、やはりこの世界の住人には「転移魔法」にしか見えない。
「……殺しはしねぇ。だが、三つほど協力しろ。断れば、昨日の倍の力で関節を外す」
真一の冷え切った目に、ゴロつきたちは震えながら膝を突いた。
スラムの廃墟、崩れかけた円形劇場のような広場。
真一は中央に立ち、昨日の「指先から火を出す男」を正面に立たせた。
「……撃て。昨日と同じやつだ」
「で、ですが……。あんた、死んじまいますよ」
「いいから撃て。狙いは外すな」
男が恐る恐る指先を向ける。
「じゃ、じゃあ、撃ちますよ…」
真一は、刑事時代の鋭い観察眼を全開にした。
男は目をつむりながら、手のひらを真一に向け、手に力を込めた。
その瞬間、男の手に炎が生まれ、真一に向かって飛んで行く。
ーーしかし。
パチンッ!
放たれた炎の礫を、真一は紙一重でかわし、同時にその「熱の塊」を左手で薙いだ。
「――っ!? また消えやがった……!」
「……なるほど。この魔法の弾道自体は、肩が強い奴が投げる野球ボールと同じくらいか。だが、当たった瞬間に『何か』が爆発するような感覚がある。それが魔法...なのか...?」
真一は、何度も何度も炎を撃たせ、その「何か」の感触を体に刻み込んだ。
次に、真一は巨漢の男に棍棒を持たせ、全力で殴りかからせた。
彼はそれを避けるのではなく、「最小限の動きで受け流す」ことに集中した。
(身体が軽すぎる。以前の感覚で動くと、出力が出すぎて自爆する)
死の間際に生存本能の蓋が外れた真一の筋肉は、常に100%の力を出そうとする。それを、警察官時代に教わった剣術の「脱力」で制御する。
右へ半歩。棍棒が鼻先をかすめる。真一は巨漢の腕に軽く触れ、その慣性を利用して相手を転倒させた。
最後に、彼は壁に立てかけていた布巻きの刀を手に取った。
「(こいつがここでどれくらい使えるのかも試しておかないとな)」
「……おい、お前ら。全員で、俺にありったけの魔法をぶつけろ。火でも風でも、なんでもいい」
「は、正気ですか!?」
「いいからやれ。……この刀に向かって撃つんだ」
真一は布を巻いたままの刀を、静かに正眼に構えた。
六人が一斉に、拙いながらも魔法を放つ。炎、つぶて、真空の刃。それらが混ざり合い、一筋の巨大な「光の奔流」となって真一へと殺到した。
(パキ、パキィィィィッ!)
直撃の瞬間、耳障りなほど高い音が路地裏に響き渡った。
真一は、向かってくる魔法の塊を、無意識に刀の腹で「受け流そう」とした。
だが、その瞬間――。
「……っ!? なんだ、この……っ!」
真一の腕の筋肉が、ミシミシと悲鳴を上げた。
魔法は、真一の体に触れる前に、刀に吸い込まれるようにして消滅した。それはいい。だが、問題はその「後」だ。
魔法を「切った」はずの刀が、突如として異様な質量を持ち始めた。……いや、それだけじゃない。
真一の脳内に、自分のものではない**「感情の濁流」**が、直接なだれ込んできたのだ。
「(重い……! なんだ、この感覚。ただの鉄の重さじゃねぇ。まるで、何十人分もの人間の体重が、この一振りに凝縮されたような……!)」
真一の右腕が、耐えきれずに震える。
先ほどまで数百グラムだったはずの日本刀が、今や数十キロ、あるいはそれ以上の重石へと変貌し、地面に向かって強烈な引力を発揮している。
そして、その重さに比例するように、真一の感覚は、魔法の使い手たちの**「内面」**を物理的にプロファイリングし始めていた。
「……ッ、出し惜しみすんな! もっと撃て!」
「う、うわあああっ!」
必死の形相で魔法を叩きつける男たち。その光り輝くエネルギーが刀に触れるたび、真一の脳裏には、彼らの浅ましい情動が「絵」となって再現されていく。
炎の魔法が触れた瞬間、真一の皮膚に「焼け付くような、ドロドロとした嫉妬」が走る。
真空の刃を吸い込んだ瞬間、鼓膜の奥で「誰かを切り裂きたいという、幼い加虐心」が鳴り響く。
「(……なるほどな。魔法ってのは、使い手の精神を燃料にしたエネルギーだ。……こいつは魔法を『重さ(物理)』に変換する際、その中に込められた、薄汚ねぇ本音まで一緒にパッキングしてやがるのか……?)」
かつてこの刀は、真一の心臓を貫いた凶器だった。
あの夜、自分を殺した鉄の冷たさ。それが今、この世界で最も忌み嫌われる「魔法」を燃料にして、最も原始的な暴力である「質量」へと先祖返りしている。
「(……救いも奇跡もねぇ。魔法を食らって、ただの重い鉄屑に成り下がる。……その中に、誰かの恨みや辛みを抱え込んで、な)」
真一は、もはや制御しきれないほど重くなった刀を、重力に任せて地面に向かって無造作に振り下ろした。
(ズドォォォォンッ!!)
ただの素振り。刃さえ立てていない。
それなのに、叩きつけられた衝撃波は石畳を粉砕し、六人のゴロつきたちは魔法の反動と風圧で、木の葉のように吹き飛んだ。
静寂が戻った路地裏で、真一は重さに耐えかねて震える右腕を、左手で静かに押さえる。
真一は、魔力を吸いすぎて熱を持ったボロ布を、さらにきつく巻き直した。
「……誰かの悪意を『重さ』に変えて叩きつける。……俺みたいな死に損ないの刑事には、丁度いい相棒じゃねぇか」
ーー同じ頃、王宮の一室。
重厚な魔導障壁に守られた聖導騎士団本部の円卓会議室。
豪奢な法衣に身を包んだ老魔導士が、羊皮紙を無造作に放り出した。中央の魔導投影機が、貴族邸殺人事件の現場を青白く映し出す。
「魔力残滓は完全に消失。火と氷、相反する属性の同時発現……。結論は一つです。これは魔導士による犯行ではなく、魔界の裂け目から漏れ出した『悪魔の呪い』による偶発的な事故である。……異論は認められません」
円卓の末席で、ルミアは膝の上で拳を握りしめた。
「……お待ちください。事故として処理するには、地下の冷却装置のバイパス工作の説明がつきません。あれは明らかに物理的な――」
「ルミア隊長。……いえ、ルミア様」
最上座に座る騎士団総長、ガウェインが重々しく口を開いた。彼は王家に対しても忠誠を誓う老将であり、その声には鋭い叱責ではなく、どこか祈るような響きがあった。
「その『物理的工作』とやらが、この国の魔導技術の粋を集めた装置を、名もなき技師が一人で弄った結果だと……本当にそうお考えですか? それは我が国の防衛機構が、魔力を持たぬ平民の小細工で容易に破れると言っているに等しい。……それが公になれば、どれほどの混乱を招くか」
「ですが、事実は……!」
「事実なら、鑑定官が今述べた通りです」
ガウェインは、ルミアの真っ直ぐな瞳を正面から受け止めた。その瞳の奥には、彼女を黙らせようとする悪意ではなく、「これ以上深く踏み込むな」という悲痛な警告が揺れていた。
「魔法で説明できないものは、悪魔の仕業。それが今のこの国の安寧を守るための、唯一の解なのです。……ルミア様、どうかこれ以上、重箱の隅を突くような真似はなさらないでいただきたい。それは貴女ご自身を……そして我ら騎士団を、取り返しのつかない窮地へ追い込むことになります」
「.......ガウェイン。この解決は、私がスラムで拘束した『シンイチ』と名乗る男の助言があったからこそです。彼の視点があったからこそ、私たちは装置の細工を見抜けた。……今後、同様の不可解な事件が起きた際、せめて彼の能力を――」
「ルミア様」
ガウェインが、冷ややかに彼女の言葉を遮った。
「王女である貴女が、そのような素性不明の浮浪者の妄言を信じ、あまつさえ騎士団がそれに頼るべきなどと……。冗談が過ぎます。その男の言葉がたまたま理に適っていただけに過ぎない」
「……この件は、技師一人の暴走による事故として処理します。ルミア様、貴女には先日起きた『神の拒絶』の件を任せたい。迅速に、そして『波風を立てずに』終わらせてくださることを期待しております」
ガウェインの冷徹な一言で、議会は閉廷した。
悔しさに唇を噛み、独り足早に退出するルミアの背中を、議席の貴族たちが冷ややかな、あるいは憐れむような目で見送っていた。
「……王家の血を引きながら、あのような『汚れ仕事』をされるとは。お可哀想に」
「女だけの騎士団など、王宮の華やかさを汚さぬための、体面ばかりの飾りですよ」
そんな蔑みの囁きが、ルミアの耳に届かないはずはなかった。
ーーー王都の最上層に位置する聖導騎士団本部の総長執務室。
ガウェインは、人払いを済ませた後、壁に掛けられた一枚の肖像画を、愛おしむような、あるいは悔いるような目で見上げ、三年前のあの忌まわしき夜を思い出していた。
ノックをして入ってきた副長のリィナが、静かに口を開く。
「……宜しかったのですか。あのように突き放されては、ルミア様は再び独りで動かれます。恐らく、また例の不審者と接触する可能性も」
「構わん」
そう言いながら彼は、窓の外に広がる王都の輝きを見つめた。
「(...もう二度とあのようなことを起こしてはならん......)」
ーーー数日後。
スラムの片隅、崩れかけた空き家で、真一は孤児たちに拾ってきた食料を分け与えていた。
「真一、あのお姉ちゃんが真一としゃべりたいんだって」
子供が指差す先。路地の入り口に、私服に近い軽装を身に纏い、しかし隠しきれない気品を湛えたルミア・フォン・アークライトが立っていた。
「……まぁたあんたか。釈放の条件に、ストーカー行為は含まれていないはずなんだが」
真一が気怠げに尋ねると、ルミアは真剣な眼差しで、静かに言葉を返した。
「探しましたよ真一。……実は、また事件解決の依頼をしたいのです。ここに詳細が」
ルミアはそう言うと、一つの封書を手渡した。
ルミアが差し出した封書には、王立銀行の重厚な紋章が刻印されていた。真一がそれを無造作に受け取ると、ルミアは周囲を警戒するように声を潜め、事件の「異常性」を語り始めた。
「……事件が起きたのは三日前、王立銀行の最深部にある、通称『神の拒絶』と呼ばれる金庫室です。そこには、かつての大戦で数千人を死に至らしめたとされる国宝級の魔導具、『沈黙の首飾り』が厳重に保管されていました」
ルミアは、真一が封書から取り出した現場のスケッチを指差しました。
「この金庫室は、五人の高位魔導士が同時に魔力を注がなければ扉が開かない仕組みになっています。さらに、部屋全体には侵入者が一歩でも踏み込めば、魔力そのものを吸い尽くし、肉体を石化させる『不変の呪い』が二重三重に張り巡らされていました。物理的にも魔法的にも、この世界で最も安全な場所……のはずだったのです…が…またしても魔法の痕跡は無く、検察官も匙を投げ始めようとしています。もしこのまま迷宮入りすれば、騎士団への信頼は失墜するでしょう」
「報酬は金貨三枚。それと、この区画の孤児たちへの冬服一式。……これで、手を貸していただけませんか」
ルミアの声は低く、しかし切実だった。
「あんた、一人で来たのか?」
真一はそのスケッチを隅々まで読みながら聞いた。
ルミアは絞り出すような声で告げる。
「……これは、非公式の依頼です」
「なるほど、非公式ねぇ。……騎士団のメンツが邪魔して、スラムの『不審者』には公式に頭を下げられないってわけだ」
「……否定はしません。ですが、これは貴方にしか頼めないのです」
ルミアが周囲を警戒しながら促した。
「……場所を変えませんか。あまりここで話し込むのも、人目が気になります」
真一は、封書を指先で弄びながら、冷めた目で前を歩くルミアを見据えた。
「…で…なぜ俺なんだ?」
「......」
「あんたは騎士団なんだろ。組織内には魔法をはじめ、いろんな専門家が腐るほどいるはずだ。たまたま一件、事件の理屈を解いたからって、ドブネズミ同然の不審者に二度も非公式に頭を下げる理由にしちゃ弱すぎる。……本当の理由はなんだ?」
ルミアは視線を落とし、握りしめた拳を震わせた。スラムの湿った風が彼女の銀髪を揺らす。長い沈黙の後、彼女は重い口を開いた。
「……この国は今、『魔法』という真理の影に毒されているのです」
「毒されてる?」
「ええ。アルカディア、いえ、この世界において、魔法は万能の理であり、神が授けた絶対の力です。魔法の出来不出来はそのまま個人の価値であり、この国の秩序そのもの。だからこそ、魔導士も騎士も、魔法で説明できない事象を極端に恐れ、忌避するようになりました。……もし魔法の理に反する事件が起きれば、それは国家の、そして世界の基盤が揺らぐことを意味するからです」
ルミアは真一を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、魔法という絶対的な力を信じ、それに人生を捧げてきた者特有の切実な光があった。
「騎士団の上層部は、魔法の矛盾を『悪魔の仕業』という、理の向こう側の出来事として蓋をしようとしています。誰もが魔法という高尚な視点でしか世界を見ようとしない中で、魔法を知らず、ただ目の前の事実を冷徹に切り分ける貴方の眼が……今の私には必要なのです」
「……魔法が当たり前すぎて、誰も『当たり前じゃないこと』を考えなくなっちまったわけか」
真一は魔法を否定しているわけではない。手のひらから火が出るなら、それはそういう現象なのだろう。ただ、火が出れば空気を食い、跡に煤が残る。彼にとっては、魔法もまた「そこにある現実」の一つに過ぎない。だが、この世界の住人は「魔法」という名前をつけた瞬間に、それ以外の物理的な側面を思考から切り離してしまうのだ。
「だが、なぜそこまでするんだ。前にも言ったが、こんなことを続けると、あんたの進退だけじゃなく、命に関わるぞ」
「......それは...」
「(...明らかになんかあったな、しかもかなり辛い...)」
目を伏せ、体を震わせるルミアを見て、それ以上聞くのをやめた。
「...とにかく気をつけろよ。騎士団では処世術は教えてくれねぇみたいだしな」
真一は場の空気を変えるための軽口を叩いた。
(…しかし…厄介なことになったな)
ルミアの話から、この世界にとっての魔法の役割や立場を理解した真一は、背筋を這い上がるような嫌な予感を覚えた。
彼らが覗き見ようとしているのは、この世界の根幹を支える「魔法至上主義」という盤石なシステムが、その完璧さゆえに抱え込んだ巨大な死角だ。
ルミアが魔法を信じているからこそ、彼女はこの矛盾に悲鳴を上げている。そして、彼女が自分のような異端の存在に頼っているという事実は、彼女自身がすでにこの国の中で危うい場所に立っていることを示していた。
(知らず知らずのうちに、この世界のドロドロした暗部に片足を突っ込んじまったか……)
刑事時代、こうした「盤石に見える組織の、小さな綻び」の匂いを嗅ぎつけた結果、取り返しのつかない事態に発展した。一度踏み込めば、もう泥沼だ。そして、アスファルトの上で血を流すことになった。
「で、これはどこに向かってるんだ?」
「その封書に記された事件の現場です」
「俺はまだ依頼を引き受けるなんて言ってねぇんだがな」
そう答えた真一だったが、ルミアの真剣な、悲痛な表情を見て、ため息を一つつき、とりあえず着いていくことにした。
コツ、コツと、ルミアの履く靴の音が、静まり返った地下通路に硬く響く。
彼女は右手に灯した魔導火で暗がりを照らし、次々と現れる幾重もの鉄扉の封印を、慣れた手つきで解除しながら進んでいく。
真一はその背中を数歩後ろから追いながら、冷え切った石壁を無造作に眺めていた。
「……真一。一つ、聞いてもいいでしょうか」
真一は足を止めず、前を見据えたまま短く答えた。
「断っても、どうせ聞くんだろ」
ルミアは前を見据えたまま、迷いのない足取りで問いかけた。その背中は凛としているが、声には隠しきれない困惑が混じっている。
「貴方は、どこでその『物の見方』を学んだのですか? 貴方には魔力が全く感じられない。にもかかわらず、鑑定官が見逃した物理的な矛盾を、まるですでに答えを知っているかのように解き明かした。……貴方は、一体どこの国の出身なのですか?」
真一は、カビ臭い地下の空気を肺に溜め、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「……国、ね。さあな。俺にもよくわからねぇんだ。気づいたらあの石畳の上で全裸で転がってた。記憶が混濁してやがるのか……それとも、あまりに遠い場所から来たせいか」
真一の答えに、ルミアの歩みがわずかに乱れたが、彼女は止まらなかった。
「……ただ覚えているのは、俺のいた場所は、ここよりもずっと理屈っぽくて、もっと息苦しい場所だったってことだ。魔法なんて便利なもんはなかったが、その分、奴らは『火はなぜ燃えるか』『人はなぜ死ぬか』ってことを、しつこいくらいに突き詰めてやがった。……俺はそこで、人の悪意を物理的に整理する仕事をしていただけだ」
「…記憶が…それに、魔法がない場所...?」
ルミアは前を歩いたまま、息を呑む気配を見せた。魔法が万物の理であるこの世界において、その否定は世界の否定に等しい。だが、背後から聞こえる男の言葉には、無視できない重みがあった。
(記憶喪失……よほど凄惨な出来事があった、のかも......)
真一は混乱しているルミアの反応を見て確信した。
「(...やっぱりいくら魔法の世界とはいえ、別の世界から来た、なんてのは普通じゃなさそうだ。とりあえず今はその事実は隠しておくほうが良いだろうな。これ以上混乱させる必要もない)」
彼女はそれ以上、深く追求することはできなかった。だが、真一が語った「魔法のない場所で、人の悪意を整理していた」という言葉が、妙に重く、彼女の胸に突き刺さった。
ルミアはおもむろに立ち止まり、懐から二つ目の封書を取り出して真一に見せた。
「...これは、渡そうかどうか迷っていたのですが....」
少しの間があった後、真一はその封書を受け取り、中を確認した。
ーー最終報告書ーー
先の事件、「貴族邸事件」のものだ。
真一は最終報告書を指先で弾きながら、一通り読み終え、
「...なるほど」
そう言うと、鋭い目をルミアに向けた。
「この報告書ってのは、どういう手順で出来上がるんだ?」
ルミアは前を見据えたまま、淡々と答える。
「まずは現場の責任者が一次報告を作成します。その後、鑑定官による専門的な検証結果が加筆され、最後は騎士団本部の検閲を経て、副長のリィナが清書し、総長のガウェインが承認します。……今回のように大きな事件であれば、その過程で『円卓会議』が開かれ、組織としての公式な方針が決定されることもあります」
「会議か。……で、今回の会議ではどういう話し合いがあったんだ?」
真一の問いに、ルミアは微かに唇を噛んだ。
「……円卓会議では、騎士団総長、各部隊の隊長、そして魔導省から派遣された上級鑑定官が一堂に会します。......今回、鑑定官は、現場に魔力残滓がないことを理由に『悪魔の呪いによる事故』と断定しました。私が異議を唱えても、総長は『これ以上の混乱は不要だ』と取り合いませんでした」
「現場の一次報告が、お偉いさんの集まる会議を経て、誰にとっても都合のいい『正解』に書き換えられたわけだ」
「まさに魔法だな」
真一は皮肉たっぷりに笑ってみせた。
手順を聞く限り、先ほど読んだ報告書が、どの段階で「物理的な細工」の記述が消えたかは明白だった。ルミアの横顔は、魔導火の光に照らされて青白く、冴えない。彼女は何も言わなかったが、その沈黙こそが、信じていた身内が真実を「調整」した事実を、彼女自身が嫌というほど理解している証拠だった。
結局、どこの世界も組織というものは同じ仕組みで動いている。
真一は、かつて自分がいた場所を思い出していた。真実を追求するよりも、上層部の顔色を窺い、世間体が良いように事実を丸める。魔法という非現実なものに溢れた世界だが、今、手元にある「改竄された紙束」の重みは、嫌なほど見覚えのある、現実的な感触だった。
「んで、今の話を聞いた限り、あんたはこれが『嘘の塊』だって分かってるはずだ。俺にこれを見せて、一体何をさせたかったんだ」
彼女は自嘲気味に、微かに目を伏せる。
「貴方にこの報告書を渡したのは、私なりの『賭け』です。貴方がこれを読んで、それでもなお『事実はここにはない』と断じてくれることを……どこかで期待していた。自分一人の正義では、あの人たちの嘘を支えきれなかったのです」
真一は、鼻を鳴らした。
彼女が求めているのは、単なる情報の共有ではない。自分が信じた「事実」が、まだこの世界のどこかに息づいているという、残酷なまでの肯定だった。
そして真一は、元上司の笑顔を思い出さざるを得なかった。あの組織もそうだ。自分たちが作り上げた「平穏な秩序」を守るためなら、目の前の腐敗を「なかったこと」にする。この国では、それが『魔法』という便利な隠れ蓑に置き換わっているだけだ。
真一の目つきが変わった。
「大事なのは、紙に書かれた嘘を暴くことじゃねぇ。目の前にある『事実』をどう扱うかだ。少なくとも、あんたはそれがわかってるんだな」
ルミアはその言葉を聞き、拳を固く握った。
「刑事を辞めたはずなんだが...全く、変な人生だ」
真一は小さく独り言を呟いた。
「...何か言いましたか?」
「いや、気にすんな」
真一は得意の皮肉をたっぷり含ませた笑顔で答えた。
「引き受けてやるよ、この依頼。あんたが言う『世界で一番安全な場所』が、どれだけガバガバなザルなのか、拝ませてもらうぜ」
ルミアの目は一瞬輝きを取り戻したが、すぐに表情を引き締め、再び歩き出した。




