聞いていない名前
ある日、白俊が何気なく口にした。
「ヨリ、それを取ってくれへんか」
その一言に、尹怜の手がわずかに止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……今、何と呼んだ」
白俊は特に気にした様子もなく、肩の力を抜いたまま答える。
「ヨリ、と言ったけど。それがどうかしたんか?」
「いつ、その名を聞いた」
「弟子見習いにした時や。そう言う時に互いに名乗るやろ、普通は」
あまりにも当然のように言われ、尹怜はそれ以上追及しなかった。
言っていることに、特に不自然な点はない。
そのまま視線を戻し、何事もなかったかのように手元へ意識を戻した。
* * * *
それからしばらくたったある日、今度は別の場面で、同じ名を聞くことになる。
「ヨリさん、こちらへ」
それは、朴紘範の声だった。
柔らかく、落ち着いた調子で、最初からそう呼んでいたかのように自然だった。
尹怜はゆっくりと顔を上げ、朴紘範を見る。
「……お前もか」
「はい?」
「その名だ。いつ聞いた」
朴紘範は一瞬だけ考え、すぐに答えた。
「碁盤を使った、石を挟んで色を変える遊びをやった後に聞きました。
彼女が自分の負けだと言って、自ら名乗りました」
それもまた、不自然ではない。
尹怜は軽く息を吐き、それ以上は何も言わなかった。
* * * *
尹怜には、しばらく考える時間が必要だった。
二人の説明には何一つ矛盾はなかった。
いたって自然でもっともな話だ。
名は、必要な時、必要な場所で、自然と出てくるものだ。
そもそも、そういうものだ。
それは納得できる。
では、なぜ自分にはそれがなかったのだろうか?
ヨリと向き合った時間は短くない。
石を挟んで色を変える遊び、囲碁、将棋もやった。
盤を挟んで過ごした時間は、三人の中では自分が最も多いはずだった。
にもかかわらず、名を聞いたことがなかった。
(機会がなかった……それだけのことか)
そう結論づけることはできる。
それは事実だが、それでおさまるほど単純な問題とは思えなかった。
尹怜の視線は、自然とヨリへ向いていた。
ヨリはその視線に気づいていたが、何も言わなかった。
* * * *
ヨリはあえてこの男にはヨリとは名乗らなかった。
尹怜には、この名前で呼んでもらいたくなかった、それだけだった。




