↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眠る身体、動く身体 ーー番外編ーー   作者: 明日葉
音で遊ぶ人たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/2

悪魔の楽器

妓楼の女主人が、どこからどう手に入れたのかは誰も知らない。

だが、ある日ふいに「それ」は持ち込まれた。

細長い箱に入った艶のある木でできたものだった。

弦が張られており、弓で擦る楽器だった。


弦を張った見慣れぬ楽器だった。


「音が出るらしいよ」


女主人はそう言って笑い、妓女たちに持たせた。


結果は、惨憺たるものだった。


誰もが簡単に音を出せるものではなかった。

いや、弦と弓が掠れる音がするだけの音の方が音量が小さくてまだマシだったかもしれない。

音が出たとしても、弦は軋み、空気を引き裂くような不快な振動が部屋に満ちる。


調弦という概念もなければ、弦の押さえ方も知らない。

もちろん、弓の角度も圧も動かし方も、扱い方など誰も知るわけがない。

妓女たちは、力任せにただ擦り当てて音を出しているだけだった。


当然、音は壊れる。


それでも妓女たちは楽しげだった。

新しい芸だと信じて、競うように弾き続けた。


しかし、聴く側はたまったものではない。

一番近くでその音の被害を受け続けていたのが白俊だった。


気楽な場所であり、情報も集まる。

何よりこの適当な空気が嫌いではなかった。

しかし、この音が聞こえるとき、妓楼に入り浸っていたことを後悔したのだった。


「白俊様〜、聞いてくださ〜い」


嬉しそうに差し出される楽器。

嫌な予感しかしない。

しかし、そこは断れない距離と逃げ場のない空間だった。


ギィィィ……と鳴ったかと思えば、キィィ〜〜〜と鳴る。


白俊は、顔には出さない。

出さないが、


(あ、あかん)


と、内心では完全に崩れていた。


音程が存在しない。

音楽ではない。音ですらない。


(なんやこれ……拷問やろ、これ……)


それでも妓女たちは真剣だ。

彼女達は一生懸命弾いている、つもりだ。


「どうです〜?」と


目を輝かせて聞かれれば、


「……ええやん」


と答えるしかない。

たとえそれが嘘であっても。


冷静に考えればわかるのだが、その一言が、致命的だった。


翌日も来る。

次の日も来る。


毎日来る。


音は改善しない。

むしろ、悪化している気しかしない。


練習すれば上達する以前の問題だった。


(あかん……ほんまにあかん……)


ついには廊下で弾き始める者まで現れた。

部屋にいても逃げられない。


白俊は、もはや笑うしかなかった。


(誰か、助けてくれ)


その時だった。


尹怜と朴紘範が部屋に入ってくる。


(二人とも、よう来た……!)


その瞬間、ちょうど一人の妓女が全力で弾いていた。


ギィィィィィィ……


空気が裂ける。


尹怜の眉間に深く皺が寄る。


「……なんなんだ一体」


一歩踏み入れたところで、足を止める。


「ここは地獄にでもなったのか?」


白俊は、顔を上げた。


げんなりとした表情のまま。


「……勘弁してほしい」


白俊は珍しく本音を吐いた。

尹怜は一瞬だけ白俊を見て、すぐに視線を周囲へ戻す。


そして淡々と言った。


「お前、どうせ調子のいいことを言ったんだろう」


白俊は何も言えなかった。

尹怜は白俊のその態度で何があった大体想像がついた。

(図星だな……)


やがて妓女は満足したように頭を下げ、部屋を出ていった。


ようやく、音が止む。


望んでいた静寂が訪れた。


白俊は深く息を吐いた。


「……助かった」


心からそう思った。


二人が来たことで、ようやく“仕事の時間”になったのだ。


妓女たちは空気を読み、部屋を空けていく。


入れ替わるように、ヨリが入ってきた。


何も言わず、部屋に残された楽器へ視線を落とす。


重さを確かめるように、ゆっくりと手に取り、白俊へ差し出す。


「……俺か?」


受け取る。


弦を軽く弾く。


ポン、と音が鳴る。


音自体は悪くない。


(せやけど……)


弓を手に取り、構えて、試しに弾いてみる。


「……なんや、えらい難しいな、これ」


言いながらも、なんとか一曲を弾き切る。


ところどころ外れる。

旋律としては不安定だ。


尹怜が眉間に皺を寄せたまま言う。


「音はだいぶまともだが、曲になるにはまだ時間がかかりそうだな……」


白俊は肩をすくめた。


「五度上がりやろ。慣れてへんと無理や」


明らかに言い訳だ。

しかし、半分は本当だった。

白俊は、四度上がりの弦楽器は弾けるが、五度上がりの楽器を弾いたのは初めてだ。

しかも四度上がりの楽器は全ての音がある。

五度上がりの高音楽器は、音によって弦を抑える場所を調節しなければならない。


次にヨリが楽器を受け取る。


左側に構え、右手に弓を持ち弾き始める。

運指も弓の動きも、基本的な形を維持していた。


流れた曲は、よく知っているあの曲。きらきら星だった。


速度は遅く、辿々しい。

だが音は合っている。


少なくとも、さっきまでの惨状とは比べ物にならない。


(妓女連中よりは、はるかにマシやな……)


白俊は、素直にそう思った。


尹怜はまだ眉間に皺を寄せている。


朴紘範は微笑んだ。


「比較的、正しい音でしたね。

 ヨリさん、借りてもよろしいですか」


そう言って楽器を受け取る。


調弦から丁寧に始める。

弦が正しい音に整えられたところで、弾き始めた。


部屋の空気が変わる。

先ほどまでの地獄の雰囲気が、一気に明るい空間に変わる。


華やかで、澄んだ響きが部屋を満たす。


パガニーニ カプリース第24番


白俊と尹怜は顔を見合わせた。


「校理殿に、こんな特技あったん知ってた?」


「いや、知らなかった……」


ヨリはただ、うっとりと聴いている。


音も、強弱も、抑揚も完璧だった。


曲が終わる。


三人は立ち上がって自然に拍手していた。


朴紘範は聴衆である三名の前で一礼をした。

そして笑顔でヨリへ向き直る。


「私の演奏で踊っていただけますか」


ヨリは目を輝かせて頷く。


隣の空き部屋へ移る。


朴紘範がヨリの手を取り一緒に連れて行く。


その後を白俊と尹怜も続く。


バッハ 無伴奏パルティータ第3番ガヴォット


明るい、軽やかな音が響き渡る。


ヨリが舞い始める。


音に合わせて足が軽やかに、速く、滑らかに動く。

手は指先まで細かい動きをしており、天を向いたり、下に向けられたりして優雅に動く。

背中にも表情があるかのように舞っている。

時折飛び跳ね、コマが回っているかのように回転しながらも、美しい姿勢で動いている。


まるでそれは氷の上を滑るような姿だった。


白俊も尹怜も、息を呑んだ。


(……なんやこれ)


(なんだこれは)


ついさっきまで、あの音地獄にいたとは思えない。


曲が終わる。


優雅な姿勢でお辞儀をするヨリ。


いつの間にか女主人が部屋に入って見ていたようだ。

朴紘範のそばに近づいて言う。


「校理殿、いい腕してますねぇ」


「宮廷なんかやめて、うちに来なよ」


冗談めかして言っているが、女主人の目は本気だった。


「うちの妓女たちが使えば悪魔の道具だけどねぇ、

 校理殿が使えば、天使の道具だ」


朴紘範は静かに首を振る。


「いえいえ、まだまだです。

 本職には敵いません」


女主人は笑い、肩をすくめる。


「惜しいねぇ」


そして、ヨリへ視線を移す。


「あんたもだよ、ヨリ」


「今の舞、悪くないじゃないか」


「妓女になりな」


その瞬間だった。


白俊が動いて一歩前に出て女主人の前に手を広げて立ち塞がった。


尹怜も同時に動き、ヨリの前に立ち、自然に庇うような体勢になった。


そして二人は同時に、はっきりと言った。


「ダメだ、妓女は絶対にダメだ」


ヨリは、二人の顔を交互に見て、その後真っ直ぐ女主人の方を向いた。

そして、二人のダメという言葉に合わせるように、肩をすくめた。


朴紘範が一歩前に出て柔らかく伝えた。


「今のは妓女の舞ではありません」


一呼吸置いてから続ける。


「競技の舞です」


そして、今度は、険しい表情で冷たく言い放った。


「この楽器は、悪魔の道具のうちは、使わない方がいいでしょう」


女主人はしばらく黙り、やがてふっと笑った。


「……怖いねぇ、あんたたち」


それ以上は言わなかった。


部屋には、まだ美しい音の余韻が残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。