精霊と生命
曇天の空を見上げる。
精霊である僕、ロシアンが、こんな地方の空、山々の紅葉、風景を観ることができるのは稀有な例だ。大体の精霊は仕事を割り当てられるのだから。
足元の落葉が風で飛ばされカサカサと心地良い音を立て飛ばされてゆく。
隣には長年連れ添った老婆が座布団に座り、緑茶をすすって和んでいる。木造建築故か、木の香りが一人と一匹を和ませる。
僕は生まれつき精霊としての力が強かった。
上層部からは将来は上級精霊になること間違いなし、と囃し立てられ、出世街道を歩んできた。
僕はてっきり、仕事に懸命に取り組んでいる精霊や、大きな成果を残した精霊が上級精霊になるものとばかり思っていた。
すくなくとも精霊達にはそう説明がされていた。
こんな出来レースで上層部が決められていたと思うとやるせない気持ちになる。
割り振られた担当は楽で暇で、割りの良い場所ばかり。
異動になったと思ったら、いきなり上級精霊に昇格していた。これは昇格といっていいのか。
他の精霊に比べ、苦労も知識も、仕事の喜びすらも知らない状態で精霊の上に立ってよいのだろうか?
明らかに担当の精霊よりも知識も経験もない状態で、これがダメだ、こうしなくてはダメだ、と的外れな説教をする。
そんなものは個人のやり方だろう、という細かい動きまでも指摘し、改善を求める。
でも、と精霊達が一言でもいえばクビをちらつかせて黙らせる。
改悪かもしれないのに。
そうして現場の精霊に煙たがれるのにも慣れ始めていた。
時には違反を犯した精霊や、悪事を働いた精霊に裁きを下す役割も課された。
故意ではなく過失なのだ、と主張する悪意の欠片もない精霊すらも、裁きからは逃れることはできずに上層部の言われた通り、僕は次々と精霊達を断罪していった。
上層部の精霊達のほうが故意的に、余程の悪事を働いているのだというのに裁きはくだらない。
しかしそれは、知りつつも見過ごしている自分も同罪か。
心の中の黒く粘り気のある罪悪感が、精霊達の不幸な顔を見るたびに大きく増長していった。
それには耐えられなかった。
僕は、地位に固執する性格ではない。
他の精霊を不幸にしてでも良い待遇を受けたいとも思わなかった。堅苦しく、腐り果てている精霊界にいても自分の心が満たされることは一生ないだろう。
だから、僕は精霊界を飛び出した。
当時は大騒ぎになっていたな、と回想する。
上級精霊が突如として失踪したのだから。
精霊達の中で捜索隊が組まれ、その捜索隊から逃げながら過ごした日々も今はもう遠い。
都心部にいてはすぐに見つかってしまう。
路地裏から港、時には一軒家の屋根を次々と飛び超えながら逃走したこともあったかな。
数か月の逃亡生活を続けた頃、いかに上級精霊とはいえ、こんなに長期間も見つからないということは、エネルギーが尽き消滅した、と判断されたのだろう。いつしか捜索隊の姿を見ることもなくなり、僕を知る精霊もいなくなった。
解放されたロシアンはさまざまな世界を見て回ることにした。これまでの不足していた見識を補うかのように。
都会のビル群の中を探検した。アスファルトがひんやりとしており薄暗かった。住み着いている野良猫との生活を楽しんだ。
もちろんこちらの姿は見えていないが。
虫を食らい、鳥から逃げ、つがいを見つけ、子供を育てる。
野良猫との数年間は目まぐるしく、時間は飛ぶように過ぎていった。
確かまだ暑くなる前だったから6月頃だろうか。野良猫はあっけなく息を引き取った。
死が別れということを学んだ。
図書館にある本をこっそりとコツコツ、すべて読んでみたりもした。
日本だけではなく、海の先にはたくさんの国、というものがあり、そこには見たことのない動物や景色が数えきれない程あるのだと知った。
そして沢山の面白い作り話を読んだ。
檸檬はビルを破壊できる。
風の子が学校にやってくる。
人間は朝起きたら虫になっている。
悲しい話、笑える話、切ない話。
人間は面白いということを学んだ。
定食屋の厨房に忍び込み仕込み中の魚をこっそりと舐めてみたが美味しくなかった。人間はよくこんなものを食べられるな、と思う。
猫は魚を好んで食べると本に書いてあったはずなのだが姿かたちは似ていたとしても精霊の口には合わないようだ。味覚の違いというものがあるのだろう。
もう何年が経っただろうか、次の目的地はどこにしようかと迷っていた時だった。
一人の人間を見つけた。
街中で占いをしている、若々しく、美貌のある女の人間。
その人間の周りには人が集まっていた。
いつだってその女の予言や、占いは的中していた。
運命の人、探し物、人生相談、なんでもござれの腕利き占い師。噂がうわさを呼び、絶大な人気と信頼を誇っていた。
この人間の近くにいれば少なくとも人気には事欠かないと思ったからついていくことにした。
ロシアンはほかの精霊よりも燃費がよかったため、少ない人気でも動くことができた。
とはいえ、放浪しているフリーターが意を決して定食に就くように、ロシアンも誰かひとりの人間に付き添うというのも一つの経験なのかもしれないと考えた。
あとついでにその人間が手首に着けてる、沢山のビーズを紐で繋げたような装飾品が気に入っていたからというのは内緒の話。
その装飾品がジャラジャラと鳴る度に、ロシアンは目を丸くして気持ちが華やいだ。
そういえば一度、茶色のつぶつぶとした塊が皿に乗って置いてあったときがあったが、あれも占いの一つの道具なのだろうか。何に使うのかは結局不明のままだったが。
その人間は、占いを開けば、人が集まる、腕のいい占い師だったが、なぜか場所を転々としていた。今日は東京、来月は地方、と思えばまた東京に戻る。
その理由は腕と外見が良すぎる余り、同業他所からの嫌がらせを受けているからだということをしばらくしてから知った。
ただロシアンからすれば、沢山の経験が出来ていた。基本的にのんびり過ごしている精霊だが、ロシアンの好奇心は強い方だった。
女も各地を旅することを楽しんでいるようでもあった。いつでも生気のある声で相談しにきた人を照らす。
各地を旅しているので当然他の精霊を見る機会も多かった。ロシアンに気が付くものは当然いない。のんびりと座り込み、必要以上には動かない精霊を見ると、なにか、どこかへ行きたくならないのか、と思う。
日本国内、言ったことのない場所がなくなったと思ったくらい頃、ついて行った人間も歳を取った。
占い師時代に稼いだ貯金を殆ど使い、地方も地方の山がよく見える家を買ったのだ。
田舎だから土地が安いのか、人ひとりで住むには広すぎる和風家屋だった。
木材の匂いが心地よく、布団はいつだって温い。
ただ一つだけ欠点があるとするなら、畳で爪を研ぎたくなってしまうことだ。
占い師の女は、既に若々しさとは無縁の、老婆になっていた。しかし、キラキラとした若い心を持ち、好奇心を忘れていないということは、瞳を見れば分かる。
ただ、体は確かに弱ってきているようで、階段で転び、頭を打ちそうになっていた時はさすがに焦った。間一髪で自分自身がクッションとなり怪我をすることはなかったのでロシアンは胸を撫で下ろした。
「あぶなかった。」思わずロシアンはこぼしてしまった。
昔は転ぶなんてありえない程の健脚だったのに。人間は年を取るのが早いと月並みな感想が出てきた。
何故、この間まで現役だった占い稼業をぱったりと辞め、隠居に近しい生活を始めたのか。その理由はロシアンだけが知っていた。
この家を買う二カ月前にこの人間は、自分自身のことを占ってた。
どんな占いが出たのか、ロシアンは知らないが、そこから仕事を辞め、こんな生活をしているのだから結果を見ずとも、大方の予想はつく。
それはロシアンも同じ状況だったから。
残された余命が余り多くない。
ひょっとしたら同じ境遇だったからわかったことなのかもしれない。
長年、野良として生きていたロシアンもエネルギーが足りずに、じきに消滅すること。
別に精霊としての力が弱まっているわけでも、体調として表に出ているわけでもなかったが、実感としてどこか、自分の最期は分かっていた。
だがこのままでいい、と思っていた。
いや、こんなに平和な最期でいいのかと疑問すら持っていた。
老婆の人間はロシアンと同じ、紅葉を見ている。朱色の紅葉、黄色のイチョウの葉が舞い綺麗だった。
余命残り少ない一人と一匹。
このまま最期まで二人余生を過ごそうかな。なんて思っている。
老婆は普段、独り言の類は一切発さない、寡黙な人だった。
商いの時以外は、声を聞いたことが無い。
そんな老婆が突如として独り言を言うものだからびっくりする。
「綺麗な風景だねぇ。」
口には出さないが、そうだね。と心の中で老人に返事する。
「私は、独り言は言わないよ。」と老婆はさらっと発言した。
一瞬、いや一瞬にしては長い、腹の底がひゅっと浮き上がるような感覚がした。
ロシアンが慌てて老婆の方を見つめると、見えないはずのロシアンと老婆の目がはっきりと合った。
「え。」
老婆は悪戯心たっぷりにクスッと笑い、こう続ける。
「あなたバレていないつもりだったの?面白い子ね。」
「まぁ私も現役時代は水晶を通してしか見えなかったから、何かしらの霊なのかもって思ってたわ。」
「でも最近になって水晶なしでもあなたのことが見えるようになったの。」
「最初見えた時はびっくりしたわ。水晶には猫が映っていたのに実際にその場所を見た時はなんにも居ないんだらから。でも、ずっと私のそばにいたからそれも慣れていったわ。」と、しみじみと過去を回想する老婆。
確か精霊達の中でのルールに、「人間に姿を見られた場合は〜」みたいな項目があった気もするが、そんな遥か昔のことは忘れた。
いや、忘れたことにしておいた、という方が正しかった。
それからも度々、何かあるごとに、老婆は話しかけてきたが、ロシアンは耳を立て、老婆の方を向けるだけで、返事はしなかった。
人間の言葉も数えきれない程の読書で一通りすべて話すことはできるようになっていたが、一人でいた時間が長過ぎるが故に、改めて喋るとなると、発音のし方を忘れてしまったかのように上手く言葉が紡げない。
だから老婆の言葉も、振り向くだけにしておいた。
「寒くないかい?ほら、布団にお入り。じきに冬だから夜は冷えるでしょう。」
「お腹は減らないのかい?何を食べて生きているのかしらね。教えてくれないんでしょうけど。」
「良い家を買ったと思わないかい?貯金のほとんどをはたいて買ったの。」
返事をしないロシアンに対して老婆はずっと、問いかける。
別に老婆も返事を期待していないという事はロシアンにも分かっていた。
落葉樹の葉がすべて散る頃には随分と寒くなっていた。
朱色と黄色が交錯して美しい景色を織り成していた山も、今は雪の白と枝の黒の二色だけの味気ないモノクロになっていた。
足を労わりながらも、ちょこちょこと散歩に出ていたり、買い物に出ていた老婆も家にいることが多くなった。
寒いから家にこもっているのだろう、と安直な予想はロシアンはしなかった。
もう死期が近いんだ。
老婆は布団の中で寝ている。
今では一日の殆どを布団の中で過ごしている。ロシアンはそんなときは決まって、老婆の懐に潜り込む。
この時期になってから鼻先が冷えるので温める。老婆はロシアンの額を指でなぞりながら呟く。
「私ももう長くないよ。あなたならもしかしたら知っているかもしれないけど。」
「もしかしたらそんな可愛らしい見た目で死神なのかもね。大したご利益もなかったし。」
遠慮なく言うものだから流石にロシアンも否定したくなる。
死神というのは昔読んだ本に出てきていたが、あんなに恐ろしい形相でも、乱暴な性格でもない。鋭利な鎌など持っていない。鋭いものといえば、せいぜい引っ掻く程度の爪くらいだ。
死期を嗅ぎつけて寄ってきた訳ではない。
ただ興味でこの人間について来ただけだ。
そうしたらまたあの、悪戯心のある笑顔で、「冗談だよ。」そう言うものだから困った。
この老婆には動揺させられてばかりだ。
「そうだ。最後に、私に長く連れ添ってくれたお礼で一つ渡したいものがあるんだった。」と、起き上がり、タンスをゴソゴソと漁りはじめる。
最後、という言葉に引っかかった。
いいや分かっていた筈だ。死が別れだということを。もう覚えていないほど昔、野良猫と連れ添った日々。
回想しているロシアンにはお構いなしにタンスから次々と物を引っ張り出し、床に置く。
少し前まで使っていた見覚えのある水晶、奇妙な布、幾重にも重ねられた薄い紙。
老婆は目当てのものを見つけたようで、一つの箱を取り出す。あったわ。
取り出したものは、老婆が付けていたビーズを連ねたような装飾品。
老婆が動く度にジャラジャラと鳴ってその心地よい音に釣られてついて行った、あの。
「これをあげようと思ってね。」
老婆は近づき、ネックレスをかけるように、ロシアンの首にかける。
ロシアンの全身に煌々とした言葉にできない力が漲る。
「やっぱり私の読み通りだったね、この数珠は人の気持ちが詰まっているの。だから弱ってきたあなたにぴったりだとも思ったのよ。」
なんで僕が弱ってきているとわかったのか、聞く前に老婆が答える。
「水晶無しでも見えるようになっているってことは、それだけ霊としての力がもうなくなっているってことじゃないかしらって、思ったのよ。」
老人は嬉しそうに言う。その笑顔は何十年も前から変わらない。
コホコホ、と咳をして、布団に戻る。
「あなたの姿はもう見えなくなっちゃったわよ。だからもうどこにいるかも、今近くにいるのかすらもわからない。」
だから、「こんな死にゆく老人なんて放っておいて、どっかに行きなさい。」老婆の声はほんの少しだけ、震えていた。初めてこの老婆からマイナスな感情が見えた気がした。
あの太陽のような人から。
ロシアンは困惑している。
が、することは決まっていた。
老婆の懐に潜り込む。
「おや、まだいてくれるのかい、優しい霊さんだねぇ。」
さすがにこんなに施しを受けて、返事をしなくては恩知らずだと思ったので、「にゃあ。」と返事をした。
この老婆の前ではあくまで、猫の霊的ななにかでいなくてはならないと勝手に思っていた。
老婆はまた、面白い子ね、笑いながらいった。
「あなたが喋れることくらい知っているわよ。どれだけ長くいたと思ってるの。頭を打ちそうだった時、助けてくれてありがとうね。」
見えてないはずなのに頭を撫でられた。
ロシアンはすこしだけ、嬉しくなった。




