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──複数の命を持つこと。
それがリタに与えられた神からの祝福だった。
リタからすればそれは祝福ではなく呪いの類だが。
祝福は血を選ばない。
そういう諺がある。
両親と同じ祝福を持つことは稀だ。祝福に血は関係ない。
だがリタはリタの父と同じように複数の命を与えられた。
それを知った時父は悲しんだらしい。
こんな運命を愛しい我が子に与えたくなかった、と。
リタの父は祝福を多くの人の為に使おうとした。
邪竜退治もその一つだ。何度も死線をくぐり抜けたことから、いつからか不死の英雄と呼ばれるようになった。殆どの人は父が本当に何度も死んで、そして生き返っていたとは思わなかっただろう。
父は凄い人だった。
多くの人の命を救ったのは間違いない。しかし父が自ら死線に飛び込んでいった理由は、リタが大人になるに連れて分かった。
複数の命を持つという祝福を、時に誰かが狂う程求めているものだということを。
リタの祝福はあまりにも都合が良すぎた。だから祝福の一部を父は隠すことにしたらしい。
本来、自分の祝福を誰かに譲るということは通常できない。
しかし『他人の祝福を奪い誰かに与える』という祝福を持つ者が存在するため、一部の権力者たちは彼らを囲い込むことで様々な祝福を奪い取っていた。
父は自分の命を奪われる前に、自分で使おうとした。だから誰もが止めるような危険なことに自ら向かって行った。そうして民衆からの支持を集め、権力を得てリタと母を守ろうとした。
不死の英雄の娘として。リタの命を奪おうとする者から。そして運命から。
だがリタはずっとそれを知らなかった。
父のことはいつも家にいない薄情な人だと思っていた。母はリタの勘違いを正そうとしたけれど、幼いリタは聞く耳を持たなかった。
だっていつも家にいないのだ。自分も母のこともどうでもいいんだろう。
そう思っていた。
だからある歳のリタの誕生日に、父が帰ってこないと嫌だとわがままを言った。来ないならもう父とは呼ばない、と。
どうせ叶えられることはない。別にあの人は私のことを何とも思っていないから。
拗ねてそう言ったリタに母は悲しげに微笑んだ。
しかしリタの予想を裏切りその願いは叶えられた。リタは父と母の愛情を知ったが、同時にそれはもう二度と得られないものとなった。
***
何も答えないリタに男は苛立ったようだった。
「1回くらい殺ってもいいかもな」
リタが脅えると思ったのかそう言ってリタの反応を伺ってくる。
しかし男の予想に反してリタは無表情を貫いていた。男は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、それにも反応を返さない。
「おい、本気じゃないと思ってるのか?」
「っ、」
男がリタが縛られている椅子を蹴る。
驚いて少しだけ表情を揺らすと満足気に嗤った。
「ははっ!いい顔も出来るんじゃねぇか。
まあ商品だからあんまり手をつけるのも良くないだろうが…」
思案顔になった男の前でリタも考える。
どうしたらいい?
この男に殺される?
また痛い思いをするの?
死の経験をリタは思い出す。
自分の命が消えた瞬間を。
あんな思いはもう二度としたくない。
でも。
もう生きていても仕方ないんじゃないかと思う自分がいるのも確かだ。
その諦観はリタが一人になったときからずっと付きまとっていたものだった。
父と母と別れ一人でこの街に逃げるようにやって来てからずっと。
ああでも。
あの男と過ごしたときは、この考えは消えていたかもしれない。
美しい顔の男がリタと視線が合うだけで赤面していた様子を思い出す。
今頃になってリタはぼんやりとそう思った。
しかしあの男はもう居ない。
この男はリタの命の数が多ければ、試しに一度殺そうとするだろうか。
本当はもう二度とリタは目覚めないけれど、自分の運命に誰かを巻き込むこともない。
それは恐ろしく甘美な考えでリタを誘った。
「………3回」
「なに?」
「私の命はあと3回よ」
急に喋ったリタに訝しげな表情を向けながらも、男も何か考えがまとまったらしく「3回か」と呟いた。
心のうちでリタは密かに笑った。
自分から死に飛び込もうとしているリタを、父と母は何と言うのだろう。
それだけは気がかりだったが、もう彼らには会えない。考えるだけ無駄だろうと頭の奥底に追いやって蓋をした。
「3回か…1回はお前の分だとして、殺ってもあと1回は残るな……」
男は自分の腰に差している剣を一瞥した。
迷っているらしい男にリタは苛立った。やるのなら早く終わらせてくれればいいのにと思う。そして生き返らないリタを見て精々後悔すればいいのだ。金蔓を自分から逃してしまったことに。
リタがそんなことを考えている間に何らかの結論が出たらしい。
男が自分の剣に手をかけたその時。
「ぐはっ……!」
ごぽりという水音がして、男が自分の口から血を吐いた。
驚いた顔をして男は自分の血が飛び散る様を見ていた。
「なっ……」
リタは男の血を真正面から受け、顔や体にかかったが、それどころではなかった。
何が起きたの?
床に崩れ落ちる男を呆然と見ていることしかできない。
男の体に影がかかる。
ゆっくりと顔をあげると、そこにいたのは美しいあの男だった。
男は床に倒れているリタを殺そうとした男を一瞥すると、縛られているリタの後ろに周り縄を切った。
自由になったが、リタは驚きのあまり暫く動くことができそうになく椅子に座ったままだった。
その間にも男はリタをじっと見つめ、縛られていた腕についた縄の後を見つけると少しだけ痛そうな顔をする。
リタの顔に着いた血に気づくとそっと指で拭った。
「何が……」
されるがままで辛うじてそう言ったリタに男は淡々と告げた。
「俺の祝福です」
「祝福?」
「はい。俺の祝福は血を操ることなので」
そんな祝福は聞いたことがない。
息を飲んだリタに、おぞましくて気持ち悪いでしょう?そう言って男は笑った。
「まるで人を殺すためにあるような祝福だ。
実際、俺はこの力を使ってずっと人を殺してきたんです。たくさんたくさん。それが役割だったので」
「…」
「孤児だったんですが、タチの悪い奴らがこの力に目をつけまして。引き取られてからはずっと。どこの血管を破れば人が早く死ぬのか、苦しんで死ぬのか、痛がるのか…そんなことを教えられて、そうやって生きてきたんです。人殺しなんです。」
「…」
「あの夜、俺はもう終わりだと思った。自分の命の終わりがはっきりと見えていた。でもそれでいいとも思っていたんです。まあいいかなと。…でも」
そこで男は言葉を区切るとくしゃりと顔を歪ませた。明らかな後悔が滲む。
「でも。貴女は俺を助けた。ずっと不思議だった。俺は確実に死んだと思ったのに。
傷は治ってるし、最初は誰かに治療させたのかと思ってましたが、それにしては時間も経ってなかった」
そう。リタが彼を見つけたとき、彼は既に虫の息だった。全身傷だらけで、顔が分からないほど血がついていた。
そして彼は驚いて息を飲むリタの目の前で。
「ようやく分かりました。俺は一度死んだんですね。
俺は貴女の祝福を知らないけれど、予想はつく。貴女は、複数の命を持ちそれを与えられる祝福なんですね。
そして貴女はあの夜の俺に命を分け与えたんじゃないですか」
リタは肯定も否定もしなかった。
だが黙っているということは認めたのと同じだ。
男は何も言わないリタに苛立った声を上げた。
「貴女は馬鹿です」
初めてこんな声を聞いたな、とリタはぼんやりと思った。
「ずっと言いたかった。
こんな生きる価値も無い、見ず知らずの人間をあの夜助けたんです。それも自分の命を削って。本当に信じられない。貴女はおかしい。」
酷い言い様だ。
でも男の言うことは間違っていないとも思う。
だから反論はしない。
「貴女は本当におかしい。どうして、俺を助けたんですか?こんな風に狙われるのなら、命がいくつあっても足りないでしょう?どうして俺を保護したんですか?どうして貴女の貴重な命を、こんな俺に渡したんですか」
男の声はだんだんと強いものから囁くような音量に変わっていった。リタを覗き込む瞳は今まで見たことも無いくらい、深くて暗い色をしていた。
「それだけでもおかしいのに、貴女は家がないと言った俺に居候するように言って…自分がおかしくなったのかと思いました。
…………こんな自分に降りかかる幸運を信じられなかった」
ふと密やかに男の口元が綻ぶ。それはまるで女神のように綺麗で。リタは直視出来ず視線を逸らす。それを見て男が笑みを深めたことは知らない。
───もう無理だと思った。
リタはずっと閉じていた口を開いた。
「……知ってたよ。貴方が人殺し…いや、殺し屋だってこと」
そう言って男を見ると、男は完全に虚をつかれた表情で固まっていた。
「………どうして」
「流石に貴方がどうやって生きてきたかまでは知らないけれど。
でもやばそうな人くらい分かるし、貴方に会った次の日、診療所に負傷者がたくさん運び込まれた。どこかの組織が組織の子飼いだった殺し屋によって潰されたって聞いた。ベルーガさんは拒まないから誰でも治すし、情報だけはよく入るの。
あれは貴方がやったんでしょう?」
リタの言葉に男はならどうして、と視線で問いかけてくる。
だからリタは答えた。
「あの夜、貴方は『許して』って言ったから」
そう、あの夜の、命が尽きるそのときに彼はそう言った。
助けて、でも死にたくない、でもなく。
『許して』と。
「だからこの人はきっととても優しい人なんだろうと思った。私よりもずっとずっと優しくて、だから」
そう言い放ったリタに、男は再び激情を顕にした。
「そんなこと…!!そんなことない!!俺は、貴方から何かを奪うような、そんな価値はない!!!!」
「っ違う!!!!!」
どうして分かってくれないの。
「私は貴方が思うような存在じゃない!!!
女神なんて呼ばないで!!!
私と関わると死ぬんだよ!!」
リタのその叫びは悲鳴にも聞こえた。
祝福は運命に見合ったものが授けられる。
まことしやかに囁かれ、誰かがそうだと突き止めた訳では無いけれど、広く知られている真理。
リタからすれば、祝福を与える神様はなんて慈悲深くて残酷なんだろうと思う。
「私や不死の英雄と呼ばれた父がなぜ命を複数も持っているのか知ってる?
私たちの運命は命が一つでは足りないから。
それが理由よ。
私たちは普通の人よりよっぽど命の危機が多い。つまり死を呼び寄せる力が強いの。だから複数の命を祝福として与えられた。私の傍にいる人は死ぬ運命だった私を庇ってみんな死んだ。父も、母もね」
「……不死の英雄」
男がぽつりと零す。リタは彼を見返した。
「父と私が一緒に暮らすと余計にその確率が高まると思った父は、滅多に家に帰らなかったけれど、私の馬鹿な一言がそれも全て壊してしまった。
私は数年ぶりに父の顔を見たその日に、私を逃がす代わりに父と母は死んだ」
「…」
息を飲んだ男にリタは笑いかけた。
「私の誕生日に父に会いたいと言ったの。もし来ないのなら貴方を父親とは思わないって。
父のことも自分の運命の事も私は知らなかった。だから死を呼び寄せる私たちが集まるとどうなるのか分かっていなかった。
そしてその日、父は約束を守って私と母の元へやってきた。私は久しぶりに会う父に自分が呼び寄せたくせにどんな反応をしたらいいのか分からなくて、あまり話は進まなかったわ。母はそんな私を見て困ったように笑っていたけれど、久しぶりに父に会えたことが嬉しかったらしくていつもよりにこにこしていた。
子ども心に家に居づらいと思った私は、そっと家を出た。まさか本当に父が帰ってくるとは思わなかったから、少し距離をおきたくなったの。
で、そこをまんまと誘拐された。当時暮らしていた国の偉い人が、ずっと私と父が揃う時を狙っていたらしいわ。おそらく私を人質として父を操りたい意図もあったのだと思う。
すぐに両親は気づいたけれど、もう遅かった。誘拐されて自分の身さえ守れない私を、彼らは父の目の前で殺したの。一度私の祝福を試す意味もあったのでしょうね。
それに父は激昂して私を助けようとした。でも多勢に無勢で、何度も死んで命が尽きるまで何度も蘇った。父が殺されている間に私は母に助けられたけれど、母も逃げている途中で私を庇って死んだ。
一連の出来事は通り魔のやった殺人事件として処理されたらしいけれど、もうそれすらもどうでもよかった。
とにかくひっそりと誰も運命に巻き込まずに生きたくて、私はこの街に逃げ込んだのよ」
父と母と別れた時のことはあまり覚えていない。これが最期だと思う暇も無かった。ただ2人に守られるだけの子供で、自分の運命と死が深く結びついていると知ったのも2人と別れたあとだった。
「許してと言った貴方を見た時、自分とは違うと思ったの。
散々逃げ回って、人を死に誘って、でも自分で死ぬこともできない私なんかとは違う。
血だらけだったけれど、貴方は自分のした事を悔いていた。
死を覚悟しながらも、もう誰も殺したくなくて組織から抜け出そうと思ったんでしょう?
………私よりよっぽど尊い命。だったらあと1回残ってた命をあげてしまえばいいと思った」
もともとリタの命は3つあった。父は9つあったらしいけれど、リタの方が数は少なかった。
ひとつは父の前で殺されて、もう1つ残っていた。でもリタはもう二度も死にたくなかった。死に近い運命は嫌だけれど、死ぬのは怖い。
だから押し付けた。
人助けならしょうがないと、父と母も許してくれるだろうと思って。
「ねえ、女神じゃないでしょう?
全て自分のためにやってるの。慈悲深い女神様なんかじゃない。
それでも貴方は私を女神って呼べる??」
皮肉めいた口調で男に問う。
男はリタを何と思うのだろう。あんなに崇めていた分、失望するに違いない。
心の中でうっそりと笑う。
失望して、そしてリタを殺してくれたらいいな。
「貴女は女神さまです」
罵倒を、あるいは落胆の言葉を想像していたリタは、その言葉に耳を疑った。
男はもう一度繰り返す
「それでも、俺にとって貴女は女神さまです」
「……………は、?」
吐息のような言葉しか出ないリタに美しい男は言う。
「命だけじゃないです。俺はあの時救われたんです。貴女に」
男は真っ直ぐにリタを見ていた。
「得体の知れない男の作った料理を美味しそうになんの躊躇いもなく口にして、怪我をしたら手当をしてくれて、迷子の世話だってするし、一人の食事は寂しいといい、誰かが死ぬと悲しむ。
俺はそんな貴女が眩しくて、まるで女神だと思ったんです。命を救われたからだけじゃない」
「っ」
私はそんな女神じゃない。
貴方に真っ直ぐ見られるような人間じゃない。
死を呼ぶのだ。もしかしたらあの患者だって、リタが手術室に足を踏み入れなければ死ななかったかもしれないのに。リタをここまでさらった男だって、リタに関わらなければきっとここで命を落とすこともなかったのに。
全部全部自分のせいだ。
自分と関わるから人が死ぬ。だから誰とも関わらない。
それでも死が怖くて自分で命も絶てない。
そんな自分は生きる価値は無いと思ったのに。
「貴女が生きていてくれて本当によかった。貴女のおかげなんです。
貴女とひと時でも一緒に過ごせて、なんて幸運なんだろうと思いました」
そう言って男は笑った。
女神のような美しい笑みだった。
リタはそれを見て顔を伏せた。
俯いた顔から、声にならない嗚咽と涙がぽろぽろと零れおちた。
男はリタの前にしゃがみこむと、そっと優しい手つきで涙を拭った。
「俺を助けてくれて、ありがとうございます。女神さま。
貴女に見える幸運に巡り会えたこと、俺は神に感謝しています」
そう言って女神のように清らかに笑うから。
リタは堪えきれずに嗚咽混じりに心の内を零した。
父と母に言いたかった言葉。その後も、ずっと誰かに言いたかった言葉を。
「いっしょにいて」