洛帝国編8
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嵯柘夫人ことシウランは、会いたいという麗蓮妃からの書状を見ながら考えあぐねていた。
サシャ王国とサラライナ王国は、砂漠の国々の中では互いに最も近い国であり、王家同士の婚姻も建国以来何度も行われていたが、それでも砂漠を越えての旅になるので、上流階級の女性たちの行き来は少ない。シウランがサラライナを訪れたことは一度もないし、レアウレナエーがサシャ王国を訪れたのは一度だけ。サラライナ王国がチェルダム王国とキオグハンの侵攻で大きな打撃を受けた後、王の名代で戦後の見舞いに赴いたリクシュン王子が、療養と休養のためだといってレアウレナエーとセウネイエーを伴って帰国した時だけだ。
療養が必要なほど弱っているときに砂漠を越えて旅をしてきたというのには驚いたが、母国に留まっていればそれよりもっと心身の負担が大きいという状況だったらしい。それに、兄と両親が話しているのを少し漏れ聞いたところでは、チェルダムから迎えた三番目の王妃と初めての王子を亡くした国王の心の痛手が大きく、それがもとでレアウレナエーをしばらく遠ざけたがっているようだということでもあった。
レアウレナエーとセウネイエーは数十日滞在していたが、それで親密になったかというと、それほどでもなかった。レアウレナエーはしばらく弱って臥せっており、回復に向かいはじめると、戦争で打撃を受けた故国を案じて余裕がない感じで、少し怖かった。セウネイエーはそんな姉が心配でたまらない様子で、いつもべったりそばにいた。
そんなふたりに、シウランは、恐ろしい思いをしたのだからと同情しながらも、近寄りがたいものを感じて、あまり親しく話したことはなかった。もとより、仲良くいっしょに遊ぶという雰囲気でもなかった。
いまにして思えば、あのころの自分は何不自由なく甘やかされて育った子供で、祖国が滅亡するかもしれないという危機を経験したふたりの気持ちがわからず、薄っぺらな同情をして感謝されないことにいらだっていたという気がする。姉のように慕っていたカウリンがふたりに深く心を寄せ、親身に接していたことへの嫉妬もあったと思う。
今の自分は、あのときの姉妹以上の恐怖を味わった。祖国の危機どころか、祖国の滅亡を経験した。洛帝国の力に屈して妃嬪となったというところも共通している。洛帝国が国と一族を滅ぼした仇か否かという違いは大きいが。
レアウレナエーはどうして自分に会いたいと言ってきたのだろうか? 九年前に会ったときには好感情を持たれなかったと思うが、いまは自分に同情しているのだろうか?
そう思うと屈辱に感じたが、傍らの寝台で眠っているわが子を見下ろすと、会ったほうがいいだろうと思う。
侍女たちが聞きこんできた後宮内の噂話では、皇帝は麗蓮妃に夢中で、妃嬪たちのなかで最も寵愛しているということだった。つまり、レアウレナエーは、いまや後宮で皇后に次ぐ権力者と思ったほうがよい。九年前に不快感を持たれたとすれば、それで気後れなどせず、悪印象を払拭しなければならない。わが子のために。
頭ではわかっていても、やはり気後れしてしまう。が、同時に、それではいけないとも思う。感情よりも、兄を見習って、損か得か、有利か不利かで行動しなければならない。それが自分の気性とどんなに合っていなくても、わが子のため、故国の民たちのために、強い者は味方にしなくてはならない。
そう思ったものの、ひとりで会ってうまく話す自信がなかったので、兄に同席してもらおうと、シウランは考えた。
シウランがレアウレナエーからの書状を前に悩んでいたころ、兄のリクシュンは行きつけの店で暁王と会っていた。暁王と密談する際にいつも利用している店であり、店主は蓉妃のいとこである。店員たちは暁王のことを店主の遠縁だと聞かされていたが、まさか皇子だとは気づいていない。上流階級の子息が身元を伏せたまま遊ぶのはよくあることなので、内心であれこれ推測する者がいたとしても、それを口に出して詮索する者はいない。
何度か暁王と同席しているリクシュンもすっかり顔なじみで、宦官だということはうすうす察しているだろうが、名を聞かれることはない。皇子を待たせるわけにはいかないので、いつも早めに店に着くのだが、しつけの行き届いた店員たちは心得たもので、リクシュンの顔を見ると、店の奥にある個室の一つに通してくれる。
この日も、リクシュンが先に到着して下座の席で待っていると、まもなく暁王が入ってきた。リクシュンが立って拝礼すると、暁王が座りながら手で合図をして、リクシュンを座らせた。
店員が酒と肴を運んできて、テーブルに置いて退室すると、暁王が切り出した。
「麗蓮妃について知りたい。彼女の噂を聞いた父上が妃嬪として召し出したのは知っているが、実際に後宮入りした今はどうだ? 父上の心をつかんだままか?」
「はい。妃嬪たちのなかで最も寵愛が深いのは、まず間違いなく麗蓮妃様でしょう」
暁王が頷いた。この点は母からの情報と一致している。
「麗蓮妃にはすでに会ったか?」
「いいえ、後宮入りしてからはまだ会っておりません」
「後宮入りしてから? ああ、そうか。西方の国々の間では国交があったな。その折に会ったことがあるのだな」
「はい。サシャの王太子としてサラライナを表敬訪問したことが何度かございますので、その折に」
「では、まだ子供のときだな。今はかなり変わっているだろうな」
「そうでしょうね」
「後宮内で、麗蓮妃が魔性の女という噂があるのか?」
「魔性の女? 初耳ですが。何ですか、それは?」
「いや、噂があるわけではないのだな。母がそう評していたのでな」
「ああ」と、リクシュンが納得した。
「なにしろ夫人の方々を差し置いて、最初から皇妃として迎えられましたからね。後宮入りする前から夫人の方々は不快に感じていたようで、皇帝の寵愛を一身に集めている今はなおさらです。蓉妃様も競争相手としてさぞ警戒なされていることかと思われます。そういった方々のあいだで『魔性の女』という声が出ていても不思議ではございません」
「そういうことか。それなら、皇后様や梅妃様もさぞかし不快に思われているだろうな」
「いえ、そのお二方は麗蓮妃様に好意的なご様子です」
「好意的? 競争相手なのに?」
「皇后様や梅妃様には、麗蓮妃様にもそのほかの妃嬪に対しても、競争相手という認識はなさそうに見受けられます。陛下も、おふたりには、女性に対してというより、親友に対するように接しておられるようですし」
皇后や梅妃の年齢になるとそうなるのかと、暁王は納得した。若い妃嬪たちと女として競うのは無理だが、年を取っても損なわれることのない立場を確保して尊重されている。その余裕から、他の妃嬪たちを競争相手とは思わず、妬むことはない。そういうことなのだろう。
母の蓉妃は皇后や梅妃を見下すと同時に、対抗意識を燃やしているようだが、それも同じ理由からだろう。相手がいくら年をとっても追い落としようがないのが悔しいのだ。もちろん、皇后のほうが自分より地位が上という理由もあるだろうが。
皇后や梅妃をこれほど早く味方にしてしまうとは、麗蓮妃の社交術は油断ならないと、暁王は思った。
「ほかには? 麗蓮妃に好意的な者は?」
「女官たちや、こちらから配属した侍女たちにもおおむね評判がよいようですね」
「後宮の外で彼女とつながりそうな者は?」
「妹姫が留学生になっていますから、妹姫経由でつながりができても不思議ではございません」
暁王は、留学生たちの授業を参観したときのことを思い出した。女生徒たちの多くが憧憬の視線を向けてくるなか、星寧姫と湘国の梨芳姫だけは警戒するような視線を向けてきた。星寧姫と梨芳姫は気が合うのかもしれない。湘国とはつながりが欲しいので、梨芳姫に警戒されているのはいささか面倒だ。その梨芳姫と星寧姫が親しくなるのも、星寧姫を介して梨芳姫や湘国と麗蓮妃につながりができるのも厄介だ。
「あ、そうそう、つながりといえば、官吏の妹が自ら志願して、麗蓮妃様の侍女になっております」
「官吏の妹?」
「沙蘭国への使節団の副使を務めた董玄焔と申す者の妹が」
リクシュンが言いかけるのを、暁王の叫びが遮った。
「なんだと! 董玄焔の妹だと?」
暁王も驚いたが、リクシュンもまた暁王の反応に驚いていた。
「この者をご存じなのですか?」
「能力のある官吏だ。出自の身分は低いが、それを補ってあまりある才覚がある」
暁王は、有能な官吏をできるだけ多く自分の傘下に収めたいと思っている。その筆頭が董玄焔だ。
暁王にしてみれば、母であれリクシュンであれ、実力のある官吏に無関心というのは理解しがたい。嵯柘太夫は、命惜しさに宦官となって皇帝に媚を売っているというので、皇后や皇太子には蔑まれているが、暁王はその保身術を評価していた。能力のある男と思って接近し、傘下に収めようとしているのだが、意外なところで抜けているようだ。
リクシュンのほうは、暁王の自分に対する評価が下がったかと、内心で焦った。命惜しさに宦官になったばかりか皇帝に媚びて寵愛を得ているというので、皇后や皇太子に蔑まれているという自覚がある。皇帝の年齢を考えれば、いつ代替わりがあっても不思議ではないので、皇太子に嫌われているのはまずい。できるだけ皇后や皇太子の機嫌を取りたいが難しいと思っていたところに第二皇子が接近してきたので、なんとか気に入られて重用されたいと思っている。
そこでリクシュンは失地を回復しようと、董玄焔について知っている限りの情報を提供することにした。
「使節団にいた者の話によりますと、その妹は、村長の息子に手籠めにされかけて逃げ出し、輿入れ行列に乱入して、麗蓮妃様付きの侍女になりたいと売り込んだのだそうです」
「妹が自ら売り込んだ? 兄に送り込まれたのではないのか?」
「いえ、兄は妹の暴挙に驚いていたそうです。麗蓮妃様が後宮入りしてから、董玄焔が妹に面会したことがあるのですが、話した内容は、気の強い妹が他の妃嬪の侍女たちと口喧嘩などしないか心配して、それを諫めるものだったということです」
後宮に新しく女官や侍女が採用されると、身元や採用の経緯などが調査される。妃嬪が実家から伴ってきた者は例外だが、董玄焔の妹は、後宮での採用ではなくても、道中で採用された洛帝国人というので、身元調査の対象になったのだろう。
また、身内の男が妃嬪や女官や侍女に面会を求めたとき、少なくとも初回は隣室で会話が傍聴され、ほんとうに身内か、よからぬ関係の男ではないかなど確認される。
後宮の宦官たちは、董玄焔という名に注意を払っていなくても、そのあたりは抜かりなく調べたのだろう。玄焔がそれを承知のうえで演技をしたというのでなければ、たんに妹の暴走を心配する兄というだけのことなのか。
暁王が考え込んでいると、リクシュンが勢い込んで言った。
「董玄焔と妹の面会については、初回だけで問題なしと判定したばかりですが、次回からも傍聴をつづけることにいたします」
「うむ。そうしてくれ」
命じながら、暁王は、もしも董玄焔が妹思いで心配性の兄だというなら、妹が彼の弱点になるだろうかと考えていた。
リクシュンが後宮に戻ると、麗蓮妃の侍女に兄が面会の申し出をして許可されたという報告を受けた。郷里から供をしてきた最年少の侍女で、兄は兵士たちのひとり。沙蘭国から供をしてきた兵士たちが数日の滞在ののち明日帰国することになったので、別れのあいさつに来たのだという。
兄と妹ということは明らかなので傍聴の必要はあるまいというのが許可した宦官の判断だったが、リクシュンは敢えて自ら隣室で傍聴することにした。おそらく単なる別れのあいさつだろうと思ったものの、失点回復のため暁王に報告できるよう、聞くだけ聞いておこうと思ったのだ。
申し込みの時刻にきたのはまだ少年の兵士だったので、リクシュンは驚いた。限られた人数で長旅の護衛をするのだから、屈強の兵士を選りすぐったとばかり思っていたのだ。
兄妹はサラライナ語で話しており、不審な会話は何もなかった。別れを惜しみ、互いの無事を祈るほか、妹は麗蓮妃から兵士たち皆に向けての言葉を伝えていた。
「みなさん無事に、家族のもとに帰ってくださいって。護衛してくれてありがとうって。みなさんの無事を祈っていますって」
「恐れ多い」
少年が涙ぐんでいるのが声でわかった。
翌朝、サラライナから来た兵士たちは、後宮の塀を遠望する広場に集まり、拝礼した。その様子を眺めていたリクシュンは、かつて洛帝国の兵士たちに連行されて郷里をあとにしたとき、涙ぐんで見送ってくれた民たちの姿を思い出した。
自分たちは民に愛されていた。レアウレナエーもまた、民に愛されている王女なのだ。
と、後宮の木戸から女が二人姿を現し、早足で近づいてくる。
「ナウナマエー殿。サムピナも」
兵士たちの長が侍女たちの名を口にした。リクシュンはまだレアウレナエーに面会していなかったので、侍女たちの顔触れは知らないが、兵士たちの態度から、ナ
ウナマエーというのは高位の侍女らしいと察せられた。サムピナと呼ばれたのは、きのう兄と面会していた少女である。
「レアウレナエー様は、ほんとうはご自分で見送りしたいとおっしゃっていたのですが、それは許されないことなので、わたしが名代として来ましたの」
「おお。ありがたいことでございます」
「どうぞ、皆さま、ご無事でご家族のもとにお帰りください。そして、国王陛下に、王女様方はどちらも健やかにお過ごしだとお伝えくださいませ」
「承知いたしました」
涙ぐみながらその場を後にした兵士たちは、すぐには門に向かわず、留学生たちの校舎のほうに足を向けた。リクシュンがあとを追っていくと、校舎から姿を現した人影が駆け寄ってくる。
「これは! 姫様!」
「今日帰国すると聞いたので、先生に言って、見送る時間をいただいたの」
「もったいないことです。遠くからひっそりお別れを告げて旅立つつもりでしたのに」
「それじゃ、わたしの気がすまないわ。会えてよかった。皆さん、ご家族のところに元気に帰ってね。道中の無事を祈っています」
セウネイエーは全員を見回して言ったあと、最年少の兵士に目を向けた。
「チムチャ。サムピナはねえさまのところでよく働いてくれているわ」
少年兵士は何か言おうとしたが、何と言っていいかわからないようすで感極まって涙ぐんだ。
「妹と引き離してごめんなさいね」
「いえ、それは最初からわかっていたことですから」
チムチャは涙ながらに拝礼した。
「姫様方にはまことにありがとうございました」
そのあと兵士たちは、セウネイエー姫に拝礼するとその場を辞し、城門に向かった。
その様子を垣間見ながら、リクシュンは、ふと思った。かつて王太子だったとき、はたして自分は末端の兵士たちにあれほど親密に接したことがあっただろうか、と。




