049 調布市の謎
布団の上で、股を開いた女の子座りのエルと、その脚の間に収まって座るパグのケル。
ケルは背をエルの腹部に密着させて、仰け反ってエルの顔を見つめていた。
エルは、そのケルの体を恐るおそる撫でている。
彼女の顔は相変わらず無表情に思えたが、よく見ると口角がピクピクと震えていた。
「あら、珍しいわね。もう懐いてるの? ケルは人見知りなのに。涼に似て」
祖母は、たまに一言多いのだった。
エルの相手を祖母とケルに任せて、木箱を片付けていると中から2通の手紙を発見する。
木野が、俺とエルに宛てた手紙だった。
涼へ。
エルを押し付けてすまない。
お前のスマホのアドレスに、魔王候補の部下用アプリをカスタムして送っておく。
残念だが、部下じゃないお前に渡せるアプリは簡易版クライアントで、ギルドアプリのような高機能はない。俺やカオルと、テキストメッセージのやり取りができるくらいだ。
それでも、お前に必要だと思えるアイテムを魔石に変えて収納してある。
魔石を取り出してから、冒険者ギルドアプリを使えば実体化できるはずだ。不要な物は換金してもいい。
生涼も喜ぶだろう。カオルが生涼のために確保してあった物も含まれているからな。
こんなことが、俺に代わってエルを保護してくれる礼になどならないのはわかっている。
いずれ、この借りは返すさ。必ずな。
エルは、正式な教育を受けたことがない。文字に関しては俺が教えた日本語しか知らないんだ。国語と算数だけだが、小卒程度の学力はあると思う。
彼女の手足は特にメンテナンスは必要ない。お前に送った簡易アプリに、手足になった魔物の情報なども記入してある。参考にしてくれ。エルは手足のせいで必要エネルギーが多くてね。彼女はかなり大食いだ。
それと、彼女は、奴隷としての生き方しか知らない。
精神年齢は、正直に言って未熟だが、知ってる通り精神力は桁外れに強い。
彼女の頑固さに困った時は、お前の命令で従わせろ。
理解力はあるので、後で、その命令が自分のためだったことくらいわかるんだ。この子はな。
どう扱うかは、お前に任せる。お前を信じてるよ、涼。
俺は、しばらく日本に滞在する予定だ。
また会おう。
PS.実はクルド人の恋人がいる。クルド戦士の女性だ。いずれ、お前にも会わせたいと思っている。
もう1通には、日本語で「エルへ」と書いて封がされていた。
手紙とは別に、エルのパスポートと、彼女が日本で生活するための必要書類がファイルにまとめて入れられている。
パスポートは東欧の小国の物で、偽造されたようには思えなかった。ストリートチルドレンだった彼女にマトモな国籍があるとは思えない。それでも、日本の書類も含めて、すべて正式な物のように思える。
これらを用意した木野の能力の高さ、持つ影響力の大きさを想像させられた。
『ふむふむ。よし。ちょっとカオルと話してくる。邪魔してスマホの操作するなよ。頼むよ、涼くん。じゃ!』
俺のそばで手紙を読んでいた生涼は、自ら召喚をキャンセルして姿を消していった。
あいつは、俺に無断で新たなメッセージアプリをスマホにダウンロードしている。
そして、俺に見られないようにパスワードをかけて、誰かと話しているのだ。
問い詰めると、『俺にもプライバシーがあるんです!』と答えやがった。
たぶん、JKZとチャットしているのだろう。そこにカオルも加わることになるはずだ。
果たして、生涼はカオルの機嫌を取り直せるのか? お手並み拝見である。
「これ、木野からエルに。手紙」
俺から手紙を受け取ったエルは、わずかだが不安を顔に表している。
「加穂留は、ここには来ないのか?」
「えと。まずは手紙を読んでくれ。読めるんだよな?」
エルは頷くと、封を開いて手紙を読み始めた。
木野は、俺の元へと行くことを、エルになんて説明しているのか? 俺まで不安になってくる。
手紙を読み進めるエルの顔は、能面のような無表情がさらに強くなっていった。
手紙を持つ手が震えている。
俺は息を飲んで見つめるしかできない。
読み終えた手紙をエルは丁寧に折りたたんで封筒にしまう。
ポトリと大粒の涙が、エルを見つめるケルの顔に落ちる。顔をそらして表情を隠すエル。
ケルは前足をエルの太腿に乗せて立ち上がり、エルの顔を再び激しい勢いで舐め始めた。
「お、おい。大丈夫か?」
「ツガミリョウ。あなたが新しいマスターだってことはわかった。加穂留には私がもう必要ないことも」
「ちょ、ちょっと待て。その手紙になんて書いてあった?」
エルは、顔をケルに舐められながら、大切そうに手紙を胸に抱いている。
「いや、別に手紙を見せなくてもいいよ。その手紙、大事にしような」
エルは、ケルを腕で持ち上げて引き離した。
そして、なぜかリボンを引き抜いてメイド服を脱ぎ始める。
「お、おい。何してんだよ!?」
「布団の上に私を寝かせていたということは、それが新しいマスターの望みなはず」
「ちっ、違う違う。やめろ。脱がなくていいから! お願いやめて!」
「涼、あんたという人間は! 私の目の前で、なんてことを!?」
「いやいや。布団敷いたの、ばあちゃんじゃん!」
「グルルル!」
手を口にあて、避難の目で俺を見る祖母と、俺に向かって怒りの唸り声を上げるケル。
「エル。やめろ。そんなこと、俺は求めてない!」
「では、この犬もどきが私の相手か?」
「そんなわけないだろ!」
ケルはエルの言葉に反応する。後ろに飛び下がり、目を見開いて頭を左右に振っていた。
「木野は、お前にそんなことをやらせてたのか?」
俺は気になっていたことを聞いてしまった。
「加穂留は、ダイアナ以外の女を抱こうとしない。奴隷の私でも抱かない。日本人はみんなそうなのか? それとも生霊スキルの持主は、みんな何か約束? えっと、なんだっけ? ケイヤク? ケイヤクにでも縛られているのか?」
木野の恋人は、ダイアナという女性らしい。アメリカ人みたいな名前だな。
「約束」という言葉が重い。俺は愛梨の顔を思い出さずにはいられなかった。
愛梨との間に「約束」や「契約」が、俺にあるわけではない。
羽田空港での別れの時に交わせなかった、愛梨との契約は、俺だけの約束になった。
木野も、ダイアナに同じような気持ちなのかもな。
こんな魅力的な少女に手を出させないほどの大切な約束が、きっとあるのだろう。たぶん。
「こんにちわー。御室でーす。津神涼さん、いますかー? 勝手に上がりますよー」
エルの脱衣をなんとかやめさせた後、突然にあの男が現れた。
「お前さ、警察官のくせに、ひとんちに勝手に上がってくるのやめてくれる?」
「俺には、お前がいるのはわかってるからな。それに可奈さんも。可奈さん、いつもすみません。お邪魔します」
祖母は一瞬呆れた顔をしていたが、すぐに笑顔で御室を歓迎した。
調布市最大の謎でもある「なぜか住民に信頼される御室」の力が発揮されたと言えよう。
「御室さん、お茶でいい?」
「あーもう。お構いなく。麦茶でいいです。ほんとすみません」
「あつかましいっての。で、なんか用なのか?」
「いやぁ。お前に協力を頼みたいことがあって。あれ? メイドさん?」
祖母がお茶を淹れるために台所へと向かう。
狭い廊下で祖母とすれ違い、部屋を眺めた御室は、エルの存在にようやく気づいた。
それまでガニ股でだらしなく歩いていた御室は、警官の帽子をかぶり直し敬礼をして直立した。
「こ、こ、こんにちわ。初めまして。御室と申します!」
脚の間のケルを撫でているエルは、一瞬だけ小首を傾げて御室を見てから、小さく会釈をする。
「お、お、おい。この外人さん。すげー美少女じゃねーか! おい、津神。どーなってんだ!」
「この子、日本語わかってるよ」
「な、そういうことは早く言いなさいよ! くっ、くそ。なんでお前の周りにだけ、いい女が集まるんだ? ついこの前まで童貞だったくせに」
御室は、生涼と同じことを言いながら、ブツブツと文句を垂れだした。
「エル、このおじさんは、御室って人でな。日本の警察官だ。けどな、気を抜いて、近づくんじゃないぞ。でも、まぁ、そんなに悪い人じゃないかな? そんな気もちょっとだけする」
「こら。おじさんってなんだよ。お前と同じ年齢だろ。それになんだ、その紹介は!」
「そう? 変態って紹介した方が良かったかな?」
「お前は、アフォか?!」
「私はエル。ツガミリョウの奴隷だ」
「。。。」
「ちょ、こらエル! やめなさい!」
「津神」
「いや、この子の言うことはさ。え、あれ? 御室?」
「津神、お前を人身売買の現行犯で逮捕する! 今回こそ、本当に網走に送ってやる!」
羽田空港でオーガとゴブリン数体の魔素を吸収した御室は、もう以前の彼ではない。
御室は、怒りに震える全身から覇気を迸らせている。
そして、日本警察正式拳銃・ニューナンブを俺に向かって構えていた。
「はぁ」
「なんだ、そのため息は!? てめー、こんな真昼間から布団なんか敷きやがって! 羨ましいぞ、この野郎!! あれか、ついに憑依か? 夢に見た、かゆいところに手が届くやつか?! 誰が変態だ?! 変態はお前だ、ばかやろう!」
「御室、本音しか出てないぞ」
「うるせー!!」
御室が本音を叫んだあと、俺の足の間をケルが走り抜ける。俺はケルを見送った。あれは逃げる時の走り方だな。
ケルが逃げ出した原因はエルだった。エルは大股で立ち上がって御室を睨みつけている。
魔王候補・木野加穂留の部下だった少女が攻撃体制に入ろうとしている。
顔の前に掲げた右手が、わずかに黒く変色していた。
「いやいや。エルさん? 御室のアホは大丈夫だから。君が戦わなくてもいいんだよ」
「マスターを守るのも、私の使命。加穂留の最後の命令、リョウの傍が私の居場所だと」
「エル」
木野の馬鹿野郎が! くそ!
御室を見ると、奴の目はエルのめくれて短くなったスカートとニーソックスの間に注がれている。
「御室、知覚強化で秘密の花園を探ったな!? てめー、 生きて帰れると思うなよ。ゴジモンの餌にしてやる!!」
俺は、我慢できずに怒りを言葉にしてしまう。
だが、御室の様子は少しずつ変化していった。目が見開かれ、顔が青ざめていく。絶対領域からも目をそらしている。
そして、銃を下げてその場にへたり込むと、三角座りで膝を抱えてしまったのだった。
「こ、こんなことが許されるわけがない。こ、こんな女の子に。。。」
御室が涙を流していた。こいつは何を見、何を聞き、何のナニを嗅いだのか?
「誰が!? なんのために?! 地獄じゃねーか。クッソ! 許さねー」
「俺の友人が、お前が知覚した世界からエルを救い出した。その後、俺が預かることになったんだ」
「救ったのは、木野だな?」
「わかるのか?」
「羽田に残された人間の痕跡。その体臭が、かすかに彼女に残っている。体内からじゃねー。体内からは。。。くっ」
「木野は、エルを救うために真・イスラム帝国を壊滅させたんだ。その影響でテロリスト扱いを受けている」
知覚強化(中)は、人間のどこまでを探ることが可能なのだろうか?
違うな。スキルじゃない。たぶん、人を深く知りたいという御室の思いと、持って生まれた彼の才能の成せる技だろう。
ダンジョンで共闘した自衛官たちに、そこまでの人を深く探る能力があったとは思えない。知覚強化(大)を持つ早田にしてもそうだ。
御室なら、彼なら、知覚強化(大)の限界も超えて、透視も使えるようになるかもしれない。
彼の人間を深く知りたいという情熱があれば、透視くらいはどうにでもなる。俺には、そうとしか思えなかった。
「津神、俺はお前の言うことを信じるよ。俺にもエルちゃんを守らせてくれ」
「御室、お前」
「何も言うな、津神。誰にも手は出させねぇ。たとえ警察や政府を敵に回したとしてもな」
「調布市最大の謎の意味。やっと理解できた気がするぜ」
「エルちゃーん。お茶が入ったから、取りに来てー」
「わかった」
祖母が台所から、エルに声をかける。エルは、それに応えて部屋から出て台所へと向かった。
この場で争いが起きることはない。それを本能的に悟ったのだろう。
残された御室は身を低くして、去っていくエルの絶対領域を後ろから眺めていた。
ローアングルである。
エルが台所に消える。すると、俺を見て御室は言い出した。
「津神、俺もエルちゃんを守るために、ここに住むべきじゃないかと思うんだ。ご主人様がお前だけじゃ心配だろ? 俺も一緒にその役目をやるよ。いや、それしかないな。うん。な? いいだろ?」
「良いわけないだろ」




