水面が映す、憂愁の影1
「馬が逃げたらしい」
穂摘新はそう呟いてから、ノートパソコンをぱたりと閉じて嘆息する。
今宵も黒いローブと耳当て帽子を被った異様な姿の相棒に向かい、彼は困った表情を浮かべていた。
彼は別に、馬が逃げた事に困っているわけでは無い。
困っているその理由は……
「この依頼は、妖精の仕業だと思うか?」
そう、依頼内容が自分達の解決出来るものなのかどうか分からずに困っているのだ。
穂摘は既に食べ終えた夕食だが、アリアはまだ丁寧に鍋をつついて残さず平らげようとしている。
崩れてしまった豆腐の欠片まできちんと椀によそって、食材一つ一つを愛でるように味わう金髪の妖精。
「馬が逃げただけならば、飼い主のミスではないのか?」
「そうだよなぁ……それだけじゃ分からないと返事はしておいたんだけど、一応お前にも聞いてみたんだ。馬を逃がすような妖精が居るのかどうか」
「悪戯好きの妖精は多く居る。だが、馬のみを狙って逃がす妖精は知らぬ」
「確かにそんな妖精が居たら、僕としても何か嫌だ」
でも、居そうなのが妖精でもあった。
何かしらのトラブルの裏には妖精が居てもおかしくないし、そしてそれは妖精だけではなく幽霊、妖怪、悪魔、などと名前や括りを変えて世界には点在している。
この世には、人間の科学で証明出来ない事柄が多い。
解明されているように見えて掘り返してみたなら謎ばかりの分野は実は腐るほどある。
ただ、それはその道を進んでいるからこそ、謎を謎として知る事が出来るのだ。
存在や事象を知り得なければ、まず謎がそこにある事すらも分からない。
例えば、穂摘が何故妖精を見えているのか……と言う事も、穂摘が妖精を見えている事実を知らなければ、それは周囲にとって謎ですら無いのであった。
「ところでアリア」
穂摘は、アリアが食べ終えたのを確認したところで話題を変えるように話し出す。
その視線の先は、彼女の黒いローブ。
「服を着るようになったのに、ローブはやっぱり上から着るんだな」
彼女のローブの隙間からは、穂摘の買い与えたジーンズが見えている。
なのに相変わらずの黒ローブ姿はいかがなものかと穂摘は思う。
暑苦しい。
「……服は、確かに着ているのだ」
「うん?」
「けれどな、やはりブラジャーが嫌なのだ」
「……う」
まさか。
穂摘は脳裏に浮かんだ、アリアの黒ローブの中身を想像して言葉を詰まらせた。
以前のように素っ裸では無いのは大きな前進であるが、それでもやはり恋人でも何でもない男の部屋にノーブラ女が居る状態は好ましくない。
今日はまだ週半ば。
夏堀椿に新しい下着を買わせるには週末くらいしか時間が取れない為、数日の間はノーブラTシャツの状態で我慢して貰わねばならない、と言う事か。
いや、この妖精は元々全裸でも気にしないので、色んな意味で我慢をしなくてはいけないのは穂摘のほうだったりするのだが。
暑苦しいローブ姿で居られるのは不快だが、それは今までも同じ。
脱がせたほうが色々と危険なのでこのまま視界の一部を黒に占領される事にする。
が、穂摘が様々な都合不都合を考えているうちにアリアは自己完結してしまったようで、
「仕方ない、脱げと言うならそうしよう」
そう言いながらローブを脱いでしまった。
デジャヴ。
あらわになる白い肌。
たわわに実る乳房。
以前とは違い、ジーパンは履いている。
穂摘の頭の中が、思っていたものが一枚足りない光景によって埋め尽くされる。
あれ? ブラジャーが嫌だったんじゃないのか? どうしてTシャツも着ていない?
穂摘は相変わらず、人間の価値観で物事を考えてしまっていた。
彼女は妖精。
ブラジャーをつけないのならTシャツも着ない、と言う非論理的な行動に走る事だって想定せねばならない。
出来るかこんちくしょう。
ローブを脱いだアリアは、突っ込む事も出来ずに固まっている穂摘の視線を胸元に感じながら、上目遣いに彼を見る。
「珍しいな、アラタがここまでしっかりと肌を見るのも」
「あ」
外ではなく室内と言うシチュエーションのせいもあるのかも知れないが、ようやく自分がそれを凝視していた事を自覚した穂摘は、慌てながら着衣を促したのであった。
その週末、土曜日。
専門店の多い商店街を、穂摘とアリア、そして夏堀が三人で歩いていた。
穂摘から事情を聞いた夏堀は、恥を知らぬ妖精を呆れ顔で見流す。
今日は姿を普通の人間に見えるようにしている事もあり、きちんとTシャツとブラジャーを着ているアリア。
彼女は夏堀の言いたい事を分かっているのか、その視線だけで俯いてしまう。
穂摘とアリアとの関係とは違い、女二人は比較的対等であるようだ。
二人を後ろに歩かせながら、夏堀を間に介せばアリアを扱うのは容易そうだと穂摘は一人思う。
母親の行動の償いをしている穂摘にとって、逆らえないほどでは無いにしろアリアにはあまり強く出られない立場だからだ。
けれど、
「いいですか、アリアさん。一応アリアさんは女性で、穂摘さんは男性なんですから、そう簡単に見せたら駄目ですよ。誘惑したいんですか?」
思わぬ叱り方に、ぶーっっっ!! と吹き出す穂摘。
振り向きたいけれど、振り向いて話に混ざる勇気も出ず、ただ背中で凶器のような会話を浴び続ける。
アリアは最初はきょとんとした顔をしていたが、少し考えてからその答えを述べる。
「むしろ異性として見ていないからこそ平気なのだぞ」
「アリアさんはそうかも知れませんけれど、穂摘さんがそうとは限らないでしょう」
「……そうなのか、アラタ」
「そんな話をこっちに振らないでくれ!」
女として見ているのか、いないのか、どちらと答えても怒られる予感しかしない穂摘は怒って誤魔化す事を選んだ。
今日の商店街散策の目的はこんな話では無い。
先週末は予定が埋まってしまって買えなかった、アリアに合う下着探しである。
この人間では無い存在に一切女を感じていないのかと言うとそれは嘘になるが、外見はともかく中身はお断りである為、穂摘は話を掘り下げたく無いのだろう。
しばらく歩き、ようやく目的の店に辿り着いて、穂摘はほっとしたと同時に新たな不安を覚えていた。
先日の大型ショッピングモールでもそうであったが、女性の下着専門店は男にとってかなり敷居が高い。
まず店内の色合いがもう、男を追い出さんとせんばかり。
綺麗なはずなのにどうしてこうも立ち入り難い雰囲気があるのか。
いや、それは店としてはむしろわざと作っている空間なのかも知れないが、こうやって女性に付き合わされたりする男性としては堪ったものでは無かった。
「さ、アリアさん! 今日は試着も出来ますからじっくり選びましょうね!」
夏堀が明るく言い放つ。
明度の高い店内に、彼女の黒髪が目立っている。
逆に、帽子を被っているとは言え、アリアの髪は店内に同化するような色だ。
店外からその様子を眺めながら、穂摘は深い溜め息を吐きつつ、このくだらない悩みが今日で解決してくれる事を祈った。
さて、穂摘にブラジャー選びを託された夏堀はまず、アリアに問う。
「ワイヤーが嫌だって言ってましたよね、アリアさん」
「あぁ、そうだ。痛いのだ」
「どのあたりが痛いですか?」
「……む? ううむ、こう、窮屈というか」
そう言ってアリアは自分の胸を寄せて揉むような仕草を見せた。
夏堀はその様子を見て、納得したような顔で店頭にあるブラジャーを一つ選ぶ。
デザインも可愛らしく、手触りの良さそうな……つまりは高そうな一品。
そしてそれをアリアに渡し、
「多分、これなら痛くないんで、試着してみてください」
「そうなのか!?」
「劣化したブラジャーのワイヤーが痛いのはよくあるんですけれど、買ったばかりのが痛いのって、単に体型に合ってないだけの事が多いんですよ。アリアさん、私の目測より胸が大きかったですし、痛いのも当然かなぁって」
ほほう、と小さく溜め息を漏らし、アリアは渡されたブラジャーを眼前に上げながら眺める。
「同じカップでもそのデザイン次第で微妙にワイヤーの位置が違って、それが胸と合わない事もありますから。私の場合はここの位置が低いブラジャーをなるべく選んでいたりします」
夏堀が指を指したのは、ブラジャーの、カップとカップの間。
前の中心部分だ。
ちなみにぼんやりと遠目で眺めて聞いているだけの穂摘には、夏堀が何を言っているのか全く分からずにいた。
ただ、女の子は変なところで大変そうだ、と言う事だけは彼にも伝わってくる。
ブラジャー一つでそこまで悩まなくてはいけないものなのか。
それ以前に、ブラジャーってそんなに痛い事がよくあるのか。
その脂肪を支える為の「陰の努力」を垣間見ながら、穂摘は少しだけ女性の見方を改めた。
しばらくして、アリアが試着コーナーから出て来る。
彼女は翠の瞳を丸くして、先程まで試着していたブラジャーを凝視している。
そして開口一番。
「これだ! これを買うぞ!」
「痛くなかったんですね」
単純過ぎるアリアの変わり様に、穂摘は眼鏡の下の瞼を半分閉じて遠くを見つめてしまった。
何だ、体の形に合ってなかっただけじゃないか。
しるか、そんなこと。
僕は悪くない。
男である穂摘にはそうとしか受け止められず、自分が過去に勇気を振り絞って買った安物を、心の中で正当化する。
だが、夏堀の話はそこでは終わらなかった。
「これはあくまでサイズと、大体の形のチェックですから、他にも色々選ぶ物はありますよ」
もうそれでいいじゃないか。
なのに何故そこで、更に選択肢を増やすような事をする。
女の買い物が長くなる「瞬間」を目の当たりにした気がする穂摘は、店内で本腰を入れてブラジャーを選ぼうとしている夏堀を睨み付けた。
だが、彼女は穂摘の視線を堂々と受け止めて、声を発する。
「穂摘さん、何着まで買ってもいいんですか?」
「なっ、何着……?」
「だって、替えが必要じゃないですか。それと、ブラジャーは結構買い替え頻度が高いんです」
「へ?」
穂摘は、ちらりと一番近くにあったブラジャーの値段を確認した。
八千円。
ショーツ込みでは無い、ブラジャーだけでこの値段。
いや、別に穂摘は金に困っているわけでは無いので構わないのだが、先日買った安物上下セットの品との差に愕然とする。
何故こんな小さな布っきれがこんなに高いのか、この業界は実はぼったくり産業なのでは無いか、と自分の裏の仕事を棚に上げてそんな事を思ってしまう。
この値段の物をちょこちょこと買い換えていたら、普通に働いていてはかなりの出費だろう。
かと言って男性の下着と違い、女性の下着は手を抜くべきでは無い事も何となく分かる。
女性は男の下着についてなど突飛な物でなければ文句を言わなそうだが、男性は……気にする上に、実際に文句を言う奴も少なくはないような気がするからだ。
男は女の下着に対して、色にも形にも注文をつける。
縞パンでなければ萌えない、一般的なメイド喫茶のメイドは白い下着を強要されている等、女性がここまで下着に金をかけざるを得ないのは男の為なのだ。
かく言う穂摘だって、ぶっちゃけてしまえば好みの下着の色や形は確実にある。
女が身なりに金をかける事を否定するのならば、少なくともその男は女の身なりにケチをつけてはいけない、と穂摘は思った。
穂摘は、女の……いや、アリアの服装に文句を言いたい。
ので、
「……いいのを、選んでやってくれ」
穂摘の持つ大金を稼いでいるのはほとんどアリアの手柄だ。
彼女の身を飾る事に惜しむ金では無い。
一瞬「無駄すぎる」と思った使い道は、きっと無駄では無い。
アリアの下着は今度も見る機会がありそうな気がする以上、多少値の張った物で小綺麗にして貰うに越した事は無い。
見るなら綺麗なほうがいいだろう。
そう決断した穂摘に、夏堀はぱぁっと明るい笑顔で、近くにあった買い物かごを手に取った。
「やったぁ! ついでに私の分を買って混ぜても、多分穂摘さん気がつかないですよね!」
「君は僕の金で買った下着を身に着ける気なのかな?」
事情があるアリアならまだしも、基本的に異性に買って貰った下着を身に着けると言うのはやや意味合いが深くなってしまうのでは無かろうか。
その点を無駄に気にした穂摘だったが、
「何か不都合でもありますか?」
「いや……いい」
夏堀はその辺りは気にしていないらしい。
保護者の金で衣服を揃えているような女子高生には、関係の無い事なのかも知れない。
「一応言っておくけど、支払いの際には僕が立ち会う事を忘れないでくれ。買うのはいいけどその分給料から引くだけだよ」
「時給五千円様様ですね!」
「引かれても気にしないなら、最初から自分で買えばいいのに……」




