水面が映す、憂愁の影2
その後、無事に買い物を終えた穂摘達は、穂摘の部屋のあるマンションへと帰って来る。
脱衣所でアリアが着替えている間にパソコンを立ち上げた穂摘は、新しく届いていたメールを確認しては、歪みそうになる表情筋を抑えるのに精一杯だった。
挙動不審な事になっている穂摘を見て、夏堀がその原因と思われるモニタ画面をひょいと覗き込む。
「買ったばかりの馬が全裸の男になって走って逃げた……ですか?」
二人は顔を見合わせた。
不思議そうだった夏堀の顔も、次第に穂摘同様、表情筋を抑える事に専念せざるを得なくなる。
互いが互いの心中を察し、共通の心境になった二人に妙な親近感がこの場限りで生まれている。
「今、僕は、笑いそうなのを抑えるのに必死だ」
「私もです、穂摘さん」
先日届いたメールはUターン後、愉快な事になっていた。
穂摘にサイト経由で依頼してくる内容は確かに突拍子の無いものが多いが、今回の依頼は絵面を想像するとどうしようも無いほど怪しい。
「もしこれが悪戯メールじゃないのなら、世の中には色んな珍事件があるものだと心から思わされるよ」
「って言うか普通に考えて、コレ悪戯じゃないですか? 馬が変態になっただけじゃないですか」
穂摘と夏堀がもう我慢しきれず半笑いの状態で話し合っていたところに、ようやく依頼に関する判断の出来る妖精が戻ってきた。
買って貰った下着をきちんと着けたアリアは、普段よりも胸が一回り大きくなっているように見える。
薄いTシャツの下にバランスの取れた曲線が綺麗に描かれていて、大抵の人間は男女問わず真っ先にその胸元へ視線を向けるに違いない。
「何だ、馬面の変態がどうかしたのか?」
彼女は、愉快なメールを見て愉快な事になっている二人の間に首を突っ込んで、同じようにモニタ画面を凝視した。
流石に日本語はしっかり見ないと読み取れないようで、しばらくの後、
「ほう、魚尾の川馬だったか」
その発言で穂摘達の表情を驚きに変える。
「えっ、この気持ち悪いやつ、妖精なんですか!?」
先に声を出して驚いたのは夏堀。
穂摘も勿論驚いてはいるが、先に夏堀に言いたい事を言われて彼は黙っていた。
アリアは頷き、説明する。
「ああ、臆病で気性の荒い馬よ。危険も多いが、きちんと手懐けたなら名馬となる。妖精に限らずとも馬とは、一見気性が荒くて手に負えないようなもののほうが速かったりするであろう?」
そう言って彼女は、銀の腕を胸元で組んで何かを思い返すように翠の目を閉じた。
アリアがそうしている間に、穂摘がメールの詳細を読み上げる。
「依頼主は馬を育てる厩舎を持っているそうなんだが、どうも輸入馬がこんな気持ち悪い事態に陥ってしまったらしい。返送するにしても馬が居なければ返しようが無いから捕まえて欲しい、そうだ」
「あっ、この厩舎のある高原、牧場とかもあって楽しいんですよ」
「帰りに牛乳でも買って帰るか」
「アイスも捨て難いと思います!」
行き先が観光地近辺と言う事もあってか、それとも今回の妖精に怖さを感じないからか、遠足気分で話し始める二人にアリアは苦言を呈す。
「先程も言ったであろう、魚尾の川馬は危険も多い。川に引きずり込まれ、食われるぞ。今回の依頼が、退治ではなく捕獲なのであれば少し難しいかも知れぬ」
「全裸で逃げ出したのに、おっかない妖精なんですね」
「臆病な者ほど恐ろしい事をしでかすのは人間も同じであろう。本当に自分の強さに自信を持つ者は、必要以上に相手を害したりはせぬのだ」
必要であれば容赦なく害すがな、と付け加えてアリアは穂摘と夏堀を見流した。
暗に自分が「強さに自信を持つ者」として二人に示しつけるよう。
確かにアリアは必要も無いのに何かを斬るような素行は見られない。
けれど、必要があれば本当に容赦なく斬り捨てて来ているのも穂摘は見ている。
今まで斬って来たのは妖精だけだが、同胞である妖精を躊躇する事無く斬っているのだ、もし人間相手ならばもっと容易く剣を振り下ろすのかも知れない。
二人きりではなく三人で居る空間だからか。
気になっていた事が堰き止められずに穂摘の口から漏れ出てくる。
「もし必要があったら、お前は僕の事も斬るのか?」
それは彼女との壁。
彼女をどうしても信用させてくれない、要因の一つ。
声は、震えていたように思える。
その痛切な様子に、夏堀は穂摘の顔をじっと見つめる事しか出来ずにいた。
アリアは穂摘の言葉を耳に入れると、真顔になっていた表情を緩く崩して傾ける。
「断言しよう。それは絶対に無いぞ」
帽子に少し隠れた金の髪が、揺れる。
それを受けてまず、夏堀が明るい顔になった。
穂摘は何故断言をして貰えたのかが腑に落ちず、表情を曇らせたままだったが、
「アラタもツバキも、大好きだからな」
続いた言葉の意味があまりに素直に響くので、曇りを通り越し一瞬にして真夏の日照りのようになる。
室内では意識出来ないが、今日の外気もまさにそれで。
マンションの一室では、穂摘と夏堀が赤面状態でしばらく言葉を失っていた。
翌日の日曜。
穂摘達はその、妖精によるものと思われる珍事件の起きた高原に、朝早くから足を運んでいた。
もし捕まえる気ならば早めのほうが良い。
魚尾の川馬は足が速い故に、間を空ければ空けるほど遠くへ逃げてしまっている可能性も高くなる。
電車とバスを使って三時間で行ける程度の近県にある高原なのだが、厩舎のある土地は流石に普段観光客が来るような場所では無いようで、そこまではバスではなく依頼主である相手方の迎えの車に乗った。
車を降りてみると、空気はそうでは無いものの日差しは街中よりもずっと強く、もはや痛くなる程の感覚が肌に焼き付いてくる。
薄い上着でも着て来るんだった、と穂摘が後悔している横で、夏堀は折り畳みの日傘を広げ、アリアは私服の上からいつもの黒いローブを着てしまっていた。
夏堀はともかく、アリアのローブの中は蒸してしまわないのか、と疑問に思う穂摘であったが、一応女性なのだから蒸すよりも焼けるほうが問題なのかも知れない、とその結論で落ち着く。
それぞれ対処をするのを見届けた後、運転手がそのまま牧場を案内する。
到着したのは厩舎の一角だった。
「例の輸入馬は、ここに収容されておりました」
「であろうな。臭いが、濃い」
「収容された当日の夜、突然の出来事です。あの馬はみるみるうちにその姿を変え……」
そこまで話したところで運転手が軽く嘔吐いて咳き込む。
どうやら迎えの運転手はここの従業員、しかもその現場に居合わせた人物らしい。
穂摘も黒い犬が人間に変化する様を見た事があるが、不可解な動きで肉が、骨が、めきめきと形を変える様は気分の良いものでは無い。
「芦毛の、綺麗な馬だったのです。高い買い物だったと言うのに……」
「芦毛か。まさに魚尾の川馬の特徴の一つよ。間違いはあるまい」
嘆く従業員をよそに、アリアは厩舎の中に入っていく。
「何か分かりそうか?」
穂摘がそう聞くと、アリアは振り返ってにこやかにローブのフードだけを脱ぎ、帽子からさらりと流れる金髪を見せた。
「大丈夫だ。厩舎がそのままだったのが幸いしたな。臭いが濃いまま残っておる。うまく辿れるであろう」
馬の臭いくらいは分かるが、外でそれを辿れる程の嗅覚は持ち得ていない穂摘と夏堀は二人で顔を見合わせ、そして再度アリアに目をやった。
「残念ながら私の匂いはせぬ。だが些細な情報でも良いのだ。どんなに些細でもそれらを繋ぎ合せればいつか必ず、点は線で結ばれ、辿り着く……!」
「そう、だな……」
彼女の石への想いを感じながらも、それが強すぎてうまく言葉が出てこない穂摘。
だが、この広大な土地で臭いを辿れるのならば……今回の依頼もそう時間は掛からない事だろう。
夏堀も連れて来てしまっている以上、あまり危険な状態が続くのは好ましくない。
この仕事で労災保険は下りないのだから。
穂摘とアリアの会話をよそに、夏堀は夏堀で先程嘔吐いていた従業員から何やら話を聞いているようだった。
困り顔になりつつある従業員に気がついた穂摘が、放っておいてしまっていた夏堀への対応に戻る。
「夏堀さん? 何か気がついた事でもあったのかな」
夏堀を穂摘達に着いて来させるメリットは、過去にアリアの石と接触した記憶を探る事。
きっと妖精絡みの件である可能性が高いので、こういった小さな事件だとしても情報が得られるかも知れない。
だが、夏堀はそんな穂摘の意図など掠らぬ返事を返す。
「いえ、この辺りで美味しいアイスを売っている牧場が無いか聞いてました」
今は厩舎の中に入って日陰になっているとはいえ、十分暑い。
アイスが欲しくなる気持ちは、穂摘にだってよく分かる。
だがしかし。
「……君は、ここに何をしに来ているのか分かっているのか?」
一応夏堀は、時給が発生している状態で着いて来ているのだから、お遊び気分で居られても困ると言うもの。
もっと妖精関連に対し、真摯な態度で臨んで貰わねばならない。
窘めるように穂摘が言うと、夏堀は「勿論です」とだけ言ってにっこりと彼の言い分を突き放した。
そして三人はアリアを先頭として、牧場周辺を歩き始める。
その足は少しずつ深い森へと向いて行き、視界はどんどん青い緑に覆われていく。
沢山の方向から届く、虫の声。
じんじんと耳にいつまでもこびりついて、今現在虫が鳴いているのかそれとも幻聴なのか、穂摘には分からなくなっていた。
別に虫も自然も嫌いでは無いのだが、ここまで文明と離れてしまうと少しだけ落ち着かない。
しかも先日の事件で、森に悪い思い出が増えている。
今回の魚尾の川馬も危険な妖精ならば、また、人の死に直接触れる可能性だってあるのだ。
不安を押し留めながら草を踏む。
穂摘は最後尾で、目の前には夏堀が居る。
森の中を歩くと思っていなかったのだろう、彼女はスカートで肌が露出しており、その足はよく育った鋭い草に触れていた。
乱雑に生え広がる木の根を避けて進む彼女の足は、不自然に動いている。
「足、大丈夫かい?」
自分に掛けられた言葉だと気付くのに一瞬遅れたようで、夏堀は穂摘の問いに数秒の間をおいてから答えた。
「大丈夫です。ちょっと痒いですけれど」
「無理はしなくていいよ。僕も君も、着いていく必要はそこまで無い。何なら事後報告を聞いて、君の心当たりを探るだけでもいいんだ」
「着いて行かないとお給料出ないじゃないですか!」
「そこなのか君の判断基準は」
「それもありますけれど、一番は……自分の目で情報を直接見たいんです」
額の汗を可愛らしいキャラクター物のハンカチで拭いながら、夏堀の顔が上げられる。
木々の隙間から零れる日差しは、彼女の髪と顔を煌めかせていた。
「穂摘さんも気になりませんか? 私が、アリアさんしか見られない理由」
「確かに、気になりはするけど」
「アリアさんが来なかったら私はずっと、自分の、他人との違いに気付く事は出来ませんでした。自分の体の事は、ちゃんと知っておきたいじゃないですか。レントゲン結果も見せられずにいきなり『患っています』って言われても納得出来ないんで」
「特定の妖精が見える状態を病気に喩えるのか……」
「……全部見えている穂摘さんにはちょっと酷い喩えでしたね、すみません」
「いや」
一般人から見たなら、それが正しい反応だろう。
本来見えないものが見えている。
しかもそれは科学的には証明されていないもの。
穂摘も穂摘の母親も妖精が見える事が当たり前になっていたが、そもそも『何故見えるのか』と言う疑問をどうして彼女のように深く気に留めなかったのか。
それが当たり前になっている者にとって、その疑問に気付く事は難しい。
謎を謎として知る事が出来ていなかったのは、夏堀だけでなく穂摘も同じだったのだ。
「僕はそういえば……母に、何故自分達にだけ妖精が見えているのか、聞いた事が無かったよ」
「そうなんですか?」
「僕の母が既に見える人だったからね、他人には見えずとも、見える事自体は当たり前だったんだ」
そこで、くしゃり、と強く草が潰れる音が響く。
アリアがその歩みをようやく止めたらしい。
その先には流れの強そうな大きな川が流れていて、向こう岸に渡る橋は周囲には見受けられなかった。
アリアは、行き詰った事ではなく、穂摘達の会話にまず口を挟む。
背中は穂摘達に向けたまま、向こう岸を見つめつつ。
「妖精が見える理由を教えてやろうか?」
それは穂摘達が謎として議題にしつつも解けていない部分。
そこに明確な理由があるように、妖精であるアリアは言葉を置いた。
夏堀は相槌の代わりに疑問のような事実確認をする。
「私がアリアさんだけ見えるのは、アリアさんの石に直接触れたからだろう、って言ってましたよね?」
「ああ。私のあの石は……少し特殊だからな。私の力が凝縮されている故に、中てられる。少し触れたくらいでは全ての妖精を見える程にならないが、少なくとも石と同じ波長である私の事は見る事が出来るようになったのであろう」
穂摘の母は、その石をアリアから奪った張本人。
その石にどんなに力があろうとも、まずその石に触れる前からきっと穂摘の母は妖精が見える人間だったに違いない。
日本には少ないが、外国には妖精が見える人間も多少は居ると聞く。
その者達が……妖精を見る事が出来る理由、とは。
「私達は別にどう足掻いても見えない存在なわけでは無い。こちらが人間に姿を見せようとすれば見えるのは、以前にも言ったな?」
「言ってたな。僕には妖精の意思なんて関係無く見えるけど」
「そう、そこだ。妖精が人間に可視化するには妖精側の意志が必要だが……可視化に関係無く、生まれつき常時妖精が見えるのであれば、それはとても単純な事実があるだけなのだぞアラタ」
夏風に、アリアの金髪が靡く。
強くぬるい風が、彼女のフードやローブをめくりあげ、それと同時に森がざわめいた。
風のせいなのか、それとも彼女の纏う空気がそうさせたのか、穂摘には分からない。
けれど、何故だろうか。
アリアがこれから、恐ろしい事を言おうとしている。
それだけは、汗の滲む肌から体温を奪うようにぞくりと伝わってくる。
そして彼女はゆっくりと振り向き、その事実を紡いだ。
「単に、人間では無いから妖精が見えていると言う事だ」
つまり、穂摘新という存在は、人間では無い、と。
この妖精は、言っていた。




