第1話「二枚の紙」
【プロローグ】
42紙
第一話 二枚の紙
人は、死んだらどうなるのだろう。
誰もが一度は考えたことがある問いだ。
病気になれば、神に祈る。
大切な人が事故に遭えば、奇跡を願う。
愛する人を失えば、「天国で幸せに」と願う。
人間は、何千年もの間、目に見えないものに祈り続けてきた。
病気になれば、神に。
困れば、神に。
愛する人が死にそうになれば、神に。
そして、死んだ人間にも、その先に何かがあると信じてきた。
天国。
地獄。
生まれ変わり。
けれど――。
それを実際に見た人間は、誰一人としていない。
そして、この世界にはもう一つ、誰も知らない事実がある。
神は存在しない。
◇
「あなた、今日早く帰ってきてね」
朝。
玄関先で、妻が笑っていた。
「今日は何で?」
「何でって……忘れたの?」
妻の隣から、小さな女の子が顔を出す。
「パパ、今日ね!」
「ん?」
「私の誕生日!」
「あ……」
父親――高橋修一は、思わず苦笑した。
「そうだったな」
「忘れてたの?」
「忘れてない、忘れてない」
修一は、慌てて手を振る。
「ちゃんとプレゼントも買ってあるから」
「ほんと?」
「ああ。本当だ」
「じゃあ、今日は絶対早く帰ってきてね!」
「分かったよ」
修一は笑った。
「今日は絶対帰る」
そう言って、家を出た。
それが、家族と交わした最後の約束になるとは知らずに。
◇
夕方。
会社の時計は、すでに定時を過ぎていた。
「高橋君、悪いんだけど、これ今日中に頼める?」
「今日中ですか?」
「ああ。明日の朝一番に必要なんだ」
上司から渡された書類を見て、修一は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
時計を見る。
妻と娘の顔が頭に浮かんだ。
今日は娘の誕生日だ。
約束した。
絶対に帰る、と。
修一は急いで仕事を終わらせた。
会社を出たのは、夜遅くになってからだった。
駐車場へ向かいながら、スマートフォンを取り出す。
妻からメッセージが届いていた。
『気をつけて帰ってきてね』
修一は電話をかけた。
「もしもし?」
『あなた?』
「ああ。今から帰る」
『うん』
「遅くなってごめんな」
『大丈夫だよ』
「プレゼントもあるからな」
電話の向こうで、娘の声が聞こえる。
『パパー! 早く帰ってきてー!』
「分かった分かった」
修一は笑った。
「今から帰るから」
車の助手席には、娘へのプレゼントが置いてあった。
あと少し。
あと少しで家に帰れる。
そう思っていた。
◇
突然、強い光が目の前を覆った。
ブレーキを踏む。
だが――間に合わない。
大きな衝撃。
車体が大きく揺れた。
何が起きたのか分からない。
ただ一つだけ、修一の頭に浮かんだ。
――帰らなきゃ。
妻と娘が待っている。
約束した。
絶対に帰ると。
その瞬間、意識が途切れた。
◇
「……ここ、どこだ?」
目を開ける。
白い。
どこまでも白い。
床も、壁も、天井もない。
ただ、白い空間だけが広がっている。
「……俺、どうなった?」
「死にました」
「……え?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
普通の服。
普通の顔。
普通の人間にしか見えない。
男は、コンビニの袋を片手に持っていた。
「どーも」
「……誰だ?」
「42紙です」
「……は?」
「えぇ、死神です」
修一は男を見つめた。
そして、もう一度見た。
「……死神?」
「はい」
「鎌は?」
「ないです」
「……骸骨は?」
「ないです」
「黒い服は?」
「今日は普通の服です」
42紙は、コンビニの袋を持ち上げた。
「鎌って、持ち歩くの邪魔なんですよ」
「…………」
修一は、何も言えなかった。
「それより」
42紙が少しだけ表情を変える。
「高橋修一さん」
「……はい」
「あなたは、亡くなりました」
その言葉が、静かな白い空間に響いた。
「……嘘だ」
「本当です」
「俺は……帰らないと」
「もう帰れません」
「家族が待ってるんだ」
「……はい」
「娘の誕生日なんだ」
「……そうですか」
「プレゼントも……買ったんだ」
修一の声が震えた。
「だから……帰らないと」
42紙は何も言わなかった。
ただ、静かに修一を見ていた。
そして、二枚の紙を取り出した。
「高橋さん」
「……何だ?」
「これを選んでください」
差し出された二枚の紙。
どちらも真っ白だった。
「一枚は――4」
「……4?」
「もう一枚は――2」
修一は紙を見る。
「何が違うんだ?」
「4を選べば、幸福な死」
「……」
「2を選べば、不幸な死」
修一の顔が強張った。
「待て」
「はい?」
「そんなの……選べるわけないだろ」
「そうですね」
「どっちが4なんだ?」
「分かりません」
「……は?」
42紙は、淡々と答えた。
「どちらが4なのか。俺にも分かりません」
「死神なのに?」
「死神だからって、何でも知ってるわけじゃないですよ」
「じゃあ、誰が決めたんだ?」
42紙は少し考えた。
「……分かりません」
「分からないって……」
「俺にも分からないことはあります」
修一は二枚の紙を見つめた。
人生の最後に渡された、たった二枚の紙。
どちらを選ぶか。
それだけだった。
「神様に聞けばいい」
修一が呟く。
「神様なら、分かるだろ」
42紙は静かに答えた。
「神様はいません」
「……何?」
「神様は、存在しません」
修一の表情が止まる。
「天国は?」
「ありません」
「地獄は?」
「ありません」
「……生まれ変わりは?」
「ありません」
「じゃあ……」
修一の声が小さくなる。
「死んだ人間は、どうなるんだ?」
42紙は答えなかった。
「……知らないのか?」
「はい」
「死神なのに?」
「死んだ人間が、どこへ行くのか」
42紙は、少しだけ寂しそうに笑った。
「俺にも分かりません」
「……」
「俺が知っているのは」
42紙は二枚の紙を見る。
「人間が死ぬ瞬間までです」
◇
修一は俯いた。
「じゃあ……人間は、何のために神様を信じてきたんだ?」
「怖かったんじゃないですか?」
「怖い?」
「人間って、自分じゃどうにもできないことがあるでしょう?」
42紙は指を一本ずつ折っていく。
「病気」
「事故」
「貧乏」
「愛する人の死」
「自分自身の死」
「そういうものを、自分一人で抱えるのは怖い」
42紙は言った。
「だから、誰かに預けたくなる」
「……」
「人間は弱いから」
42紙は少し笑った。
「神様を作ったんですよ」
修一は、何も言わなかった。
そして、しばらくしてから尋ねた。
「……お前なら、どっちを選ぶ?」
「俺には選べません」
「なぜ?」
「あなたの人生だから」
修一は二枚の紙を見つめた。
妻。
娘。
今日という日。
家族と過ごした時間。
楽しかったこと。
喧嘩したこと。
後悔したこと。
何気ない朝。
何気ない夜。
そんな日々が、頭の中を流れていく。
「……そうか」
修一は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして――。
一枚の紙を選んだ。
◇
白い世界が消えていく。
妻の笑顔。
娘の笑顔。
初めて娘を抱いた日。
家族三人で旅行に行った日。
くだらないことで笑った夜。
仕事で疲れて帰った日。
妻が「おかえり」と言ってくれた。
娘が「パパ」と呼んでくれた。
それだけで、幸せだった。
修一は静かに笑った。
「……俺」
涙を浮かべながら、呟く。
「ちゃんと幸せだったんだな」
最後に、妻と娘の姿を思い浮かべる。
「……ありがとう」
そして――。
修一の人生は終わった。
◇
42紙は、一人で白い空間に立っていた。
手元には、残されたもう一枚の紙。
しばらくそれを見つめる。
「……幸福な死」
42紙は、小さく呟いた。
「……か」
そして、コンビニの袋を持ち直す。
「帰ろ」
その姿が、白い空間の中へ消えていった。
◇
――そして。
一人の青年がいた。
「神様なんて、見たことないし」
青年は、そう呟いた。
神社。
寺。
教会。
人々が何かに祈っている姿を見ても、彼には理解できなかった。
見えないものを信じる。
存在するかどうかも分からないものに、人生を預ける。
そんなものを、信じる必要があるのだろうか。
その夜。
時計の針は、午前二時十七分を指していた。
青年が眠ろうとした、そのとき。
部屋の隅に――。
いつの間にか、一人の男が立っていた。
「……誰だ?」
男は、軽く手を上げた。
「どーも」
青年は目を疑った。
男は、ごく普通の服を着ていた。
普通の顔。
普通の男。
ただ一つだけ。
その男の名前を、青年はまだ知らなかった。
「42紙です」
男は笑った。
「えぇ、死神です」
その瞬間。
青年の目の前に――。
二枚の白い紙が現れた。
物語は、ここから始まる。
第1話・完




