氷姫雪桃、旅立ちの雪
都では、桜が咲いていた。
しかし今年の春は、明らかに異常だった。
夜になると、賀茂川から女の泣き声が響く。
人気のない路地では、逆さまの女が天井を歩いていたという。
北の山では山姫が旅人を喰い、
川では河童が子供を引き込み、
夜空には鬼火の列が現れる。
さらに昨夜。
御所近くの屋敷で、
十三人もの人間が眠ったまま目を覚まさなくなった。
全員、悪夢を見るような表情で。
薄暗い謁見の間。
公家たちの顔色は青かった。
「これほど同時多発的に怪異が現れるなど……」
「都だけではないそうですぞ」
「伊勢でも、出雲でも、奥州でも妖怪災害が起きております」
ざわざわと不安が広がる。
その時。
陰陽師装束の老人が、一歩前へ出た。
「日本だけではありません」
静かな声。
鋭い眼差し。
朝廷陰陽寮を束ねる陰陽頭――
安倍泰親だった。
「唐では妖狐が暴れ、西洋では死人が街を歩き、海では巨大怪魚が船を沈めています」
「世界中の怪異が、同時に活性化しているのです」
場が静まり返る。
泰親は続けた。
「しかも厄介なのは、 日本妖怪の中にも、 異国の魔女と通じている者たちがいることです」
「……魔女?」
公家の一人が呟く。
泰親は頷いた。
「古代ギリシャの大魔女――メディア」
「人の嫉妬、 憎悪、 絶望を糧にする女です」
「彼女は世界中の怪異へ干渉し、災厄を拡大させています」
「つまり、この混乱の元凶はメディア」
「もはや陰陽寮だけでは、対応しきれません」
重苦しい沈黙。
その時。
最奥の老公卿が、ゆっくり口を開いた。
「……桃太郎殿に頼る他あるまい」
その名が出た瞬間。
場の空気が変わった。
絶望の中で、唯一希望が差し込んだように。
橘新右衛門は顔を上げる。
桃太郎。
鬼退治の英雄。
だが近年は、英雄というより歩く天変地異みたいな扱いだった。
『ヤマタノオロチを8の字走法で撹乱し、首同士を締め合わせ窒息させた』
『雪女を押しくら饅頭で倒した』
『九尾の狐をくさやの臭いで撃退した』
意味がわからない。
だが、全部事実らしい。
「橘新右衛門」
老公卿が宣旨を差し出す。
「お主を勅使として備前へ遣わす」
「桃太郎殿に、魔女メディア討伐の勅命を伝えよ」
新右衛門は深く頭を下げた。
「御意」
◆
数日後。
備前国――桃太郎屋敷。
「…………留守?」
新右衛門は固まった。
巨大な桃型の門。
庭に並ぶ鬼の金棒。
海外の神像。
なぜか巨大なタコの干物。
そして。
柴犬が元気よく現れた。
「桃太郎様は現在、海外視察中です!」
「海外視察?」
新右衛門が聞き返すと、柴犬は誇らしげに胸を張った。
「おいら、二代目お供のハチマンです!」
「世界神話調査ですね!」
「何を調査しているんだ……」
「海外の昔話です!」
「昔話?」
「はい!」
ハチマンは尻尾をぶんぶん振る。
「最近、西洋で大ヒットした昔話作品がありまして!」
「桃太郎様たち、“なぜ売れたのか研究する”って出発されました!」
新右衛門は真顔になった。
「……研究?」
「『赤ずきん・ダークハンターズ』とか!」
「『シンデレラ血戦編』とか!」
「『三匹の子豚VS人狼王』とか!」
「かなり刺激を受けたらしく!」
「“やはり海外市場も意識せねばならん”と!」
新右衛門は黙った。
「……」
「……」
「……何をしているんだ、あの御仁は」
遠い目になった。
ハチマンは明るく続ける。
「ちなみに私の父も、“海外映えする必殺技とは何か”を研究中です!」
「そうか……」
だがさらに。
「雪女様は遠野へ帰省中!」
「かぐや姫様は月へ帰省中!」
「玉藻の前様は大陸で皇帝を誑かして遊んでます!」
「なんと!!」
思わず叫んだ。
「……なら、屋敷にいる者へ会わせてくれ」
「え?」
「誰か残っているんだろう」
「まぁ……いますけど……」
ハチマンが少し困った顔をする。
その時。
屋敷の奥から、ゆっくり女が現れた。
長い黒髪。
妖艶な美貌。
だが瞳の奥には、人外の気配が宿っている。
メデューサだった。
かつて蛇髪の怪物として恐れられた存在。
今は完全に人の姿となっている。
新右衛門は息を呑んだ。
(これが……ギリシャ神話の怪物……!)
だがメデューサは、少し困ったように微笑んだ。
「……何かしら?」
「朝廷の勅使として参りました!」
新右衛門は深く頭を下げる。
「魔女メディア討伐のため、桃太郎殿のお力を――」
「ごめんなさいねぇ」
「主人は今、海外へ出ておりますので」
「ですが世界中で怪異が――」
「それは聞いています」
メデューサは静かに頷く。
「都でも人が死んでいるのでしょう?」
「はい……!」
「お気の毒に」
だが。
「あいにく、今はわたくしと……、いえ、とにかくごめんなさい」
「せめて、どなたか助力を……!」
「ごめんなさい」
「わたくしも勝手に家を空けられません」
「そこをなんとか!」
新右衛門が頭を下げ続けると、メデューサは困ったように笑った。
「真面目な方ですねぇ」
「でも、主人がいない以上、勝手に決めるわけにもいきませんし」
そして優しく言った。
「今日はお引き取りください」
「……」
「お茶くらいは出してあげたいんですけど、娘へ送る荷物の準備があるので」
「ごめんなさいね?」
すっ――と、
静かに門が閉められた。
「…………」
新右衛門はしばらく固まっていた。
ハチマンが気まずそうに近づく。
「すみません……」
「いや……無理は言えまい……」
新右衛門は深くため息を吐いた。
「どうしたものか……、勅命を果たせねば、都には帰れん……」
その時だった。
ガサッ!!
庭の繁みが揺れた。
次の瞬間。
巨大な熊が飛び出した。
「!?」
新右衛門は刀へ手をかける。
熊は一直線に襲いかかってきた。
だが。
「……邪魔」
静かな声。
縁側に座っていた少女が、片手を軽く上げる。
瞬間。
ゴォォォォッ!!
白い吹雪が庭を走った。
熊が空中で凍りつく。
氷像。
一瞬だった。
少女は気怠そうにこちらを見る。
「……あなた誰?」
白い短丈着物。
雪模様の脚衣。
雪のような肌。
腰まで届く黒髪。
そして、静かな黒い瞳。
整いすぎた顔立ちは、まるで雪国の人形のようだった。
だがその瞳だけは、冷たくもどこか寂しげだった。
一方、雪桃も新右衛門を見ていた。
背は高い。
黒髪を後ろで束ね、凛々しい目をした若侍。
無駄のない体つき。
武人にしては珍しく、肌は白い。
長く日に焼けていないせいか、どこか都育ちらしい上品さもあった。
真面目そうで、どこか不器用そうな顔。
そして、人を守ろうとする者特有の、まっすぐな目をしていた。
(……変な人)
雪桃は最初にそう思った。
新右衛門は一瞬言葉を失いかけたが、慌てて頭を下げる。
「失礼した。俺は橘新右衛門」
「朝廷の勅使として参った」
少女はじっと新右衛門を見る。
「……朝廷?」
「ああ」
「都では怪異災害が広がっている」
「日本妖怪の中にも、異国の魔女メディアに通じる者たちがいるらしい」
「その元凶を討つため、桃太郎殿へ勅命が下った」
少女は少しだけ目を細めた。
「メディア……」
その時、ハチマンが横から口を挟む。
「こちら、雪桃お嬢です!」
「桃太郎様と雪女様の末娘!」
「……ハチマン」
「はい?」
「余計なこと言わないで」
「すみません!」
だがハチマンは尻尾を振っている。
雪桃は小さくため息を吐いた。
「……で?」
「その勅命、パパたちに何をしてほしいの?」
新右衛門は宣旨を握りしめる。
「魔女メディア討伐への助力を願いたい」
「無理」
即答だった。
「パパたちいないし」
「だが世界中が混乱しているんだ!」
「知らない」
「人が死んでいる!」
「興味ない」
冷たい。
本当に氷みたいだった。
新右衛門は食い下がる。
「頼む! 力を貸してくれ!」
「嫌」
「そこをなんとか!」
「嫌なものは嫌」
ぴしゃり。
雪桃は立ち上がる。
「私は戦うの好きじゃない」
「面倒」
そう言って奥へ消えていった。
新右衛門は大きく息を吐く。
「ダメか……」
するとハチマンが小声で近づいてきた。
「雪桃お嬢、あんな感じですけど」
「別に冷たいわけじゃないんですよ」
「そうなのか?」
「クールビューティってやつです!」
「素直じゃないんですよねぇ」
ハチマンは尻尾を振る。
「しかも、あんな態度ですけど」
「お兄さんのこと、結構気になってますよ!」
「な、何を根拠に」
「さっきから三回くらい、ちらちら見てました!」
「……本当か?」
「はい!」
その瞬間。
奥の襖がぴしゃんと閉まった。
ハチマンは笑う。
「あ、聞こえてましたね」
◆
その夕方。
新右衛門は村を歩いていた。
「このままでは、都には帰れん。生きては帰れぬだろうが、俺一人でメディア討伐に向かおう……」
そう独り言を呟いていた時だった。
「やーい! 疫病神!」
「お前ん家、河童に畑壊されたんだろ!」
子供たちの笑い声。
ひとりの少年が、泥の中へ突き飛ばされていた。
「やめなさい!」
新右衛門は低く言った。
「なんだよ侍!」
「関係ないだろ!」
「弱い者いじめをしてはならんぞ」
新右衛門は少年を助け起こした。
「怪我はないか」
「……う、うん」
悪ガキたちは逃げていく。
新右衛門は少年の頭を撫でた。
「泣かぬとは強いな。立派だ!」
その光景を。
木の上から、雪桃が見ていた。
黒い瞳が、少し揺れる。
「……変な人」
普通の人間は、損得で動く。
面倒事を避ける。
なのにこの侍は違った。
雪桃は胸の奥に、小さな熱みたいなものを感じていた。
◆
翌朝。
新右衛門は荷をまとめていた。
「……やむを得ぬ。諦めるか……」
その時。
「帰るの?」
振り返る。
雪桃が立っていた。
朝日を受け、白い着物が淡く光っている。
「ああ」
「そう」
少し沈黙。
そして。
雪桃はそっぽを向いたまま、小さく言った。
「……一緒に行ってあげようか?」
「え?」
「暇だし」
「よいのか?」
「勘違いしないで」
「別にあなたのためじゃない」
だが耳は少し赤い。
その時。
門の向こうから、メデューサの声が聞こえた。
「雪桃ちゃーん」
「もし旅の途中で、石桃に会ったら、この手紙渡してくださいねー!」
封筒がひょいっと投げ込まれる。
雪桃はため息を吐きながら、それを受け取った。
「……メデューサおばさん、投げないで」
「だって間に合わなかったんですもの!」
「あと、まだお姉さんで通る見た目でしょう!?」
「知らない」
「あら、冷たい!」
だが次の瞬間。
メデューサは少し真面目な声になった。
「それと雪桃ちゃん」
「……何」
「ちゃんと遠野へ寄りなさい」
雪桃が少し眉を動かす。
「ママのところ?」
「ええ」
門の向こうで、メデューサは静かに続けた。
「今回の相手は、ただの妖怪ではないの……」
「メディアは、神代級の魔女なの!」
「あなた一人でどうにかできる相手ではないわ!」
雪桃は黙って聞いていた。
「だから、ちゃんと雪女さんへ許しをいただいてきなさい」
「勝手に危険な旅へ出たって知られたら、絶対怒られますよ?」
「……」
「それに」
メデューサの声が少し優しくなる。
「あなたは、主人と雪女さんの大事な娘なんですから」
「無茶したら駄目よ」
雪桃は少しだけ視線を逸らした。
「……わかってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「その“たぶん”が不安なんですよぉ……」
ハチマンが苦笑する。
「雪女さん、末っ子の雪桃お嬢のことになると過保護ですからねぇ」
「言わないで」
「すみません!」
メデューサはくすっと笑った。
「とにかく、まずは遠野へ寄ること」
「約束ですよ?」
「……うん」
その返事を聞いて、ようやくメデューサは安心したようだった。
ハチマンが飛び跳ねた。
「旅立ちイベントきましたー!!」
「ハチマン」
「はい!」
「雪桃お嬢が行くなら、おいらも行きます!」
「あんたがいた方がいろいろと助かるかも」
「ですよね!」
その時。
ひらり。
春空から雪が舞った。
まるで、旅の始まりを祝うように。
雪桃は小さく呟く。
「……よろしく、新右衛門」
その声は、吹雪よりずっと柔らかかった。




