第五十話 至高の存在
「おはよう! 晴斗くん」
扉が突然開き、大司祭が入ってきた。
後ろにはシンも控えている。
そのさらに後ろから、苛立たしげな奏とレオンが続いた。
「ちょっと! 晴斗はまだ寝てるかも……」
奏はそう言いながら俺を見て、ぎくりと肩を揺らした。
俺は結局、一睡もできないまま、膝を抱えてヴァルガのそばに座っていた。
泣き腫らした俺の顔を見て、驚いたのかもしれない。
奏は立ち尽くし、呟いた。
「……晴斗……」
大司祭は俺の顔を覗き込み、眉をひそめる。
「ひどい顔。眠ってないの? 駄目だよ。大事な身体なんだから、ちゃんと休めないと」
俺は目を逸らした。
何も話したくない。
「食事にも手をつけてないじゃないか」
大司祭が、床へ置かれたままの食事を見る。
「治療を続けたって、晴斗くんが自分で身体を壊したら意味がないよ」
「……あんたのせいだろ」
掠れた声が出た。
「ヴァルガをこんな目に遭わせておいて……」
大司祭は考えるように顎に手を当てた。
「魔族の番って、異種族の場合は絆を感じることはないはずだけど」
「君は本当にヴァルガくんに恋をしたんだね」
「……だったら、なんだよ」
大司祭は俺を見つめて、ふっと笑って目を閉じた。
「……いいや、素敵だね。そんなこともあるんだ」
妙に含みのある言い方が気になったけど、無視した。
「何度も言ってるけど、ヴァルガくんは死んでないよ」
まるで俺を安心させるように、優しく微笑む。
「何も苦しくないし、痛くもない。この中で眠ってるだけ」
「……でも、いずれ処刑するんだろ」
口に出して、体が震えた。
どうしよう。
本当に、ヴァルガが殺されてしまうんだ。
今からでも、大司祭に頼み込んで、処刑を取りやめにできないだろうか。
今さら何を言ったって、無駄なのかもしれない。
それでも、ヴァルガが助かる可能性があるなら……
「あの……」
どうにか声を絞り出した、その時。
広間の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
全員が扉へ目を向ける。
間もなく、ひとりの兵士が転がり込むように広間へ入ってきた。
「大司祭様!」
兵士は床へ膝をつき、肩で大きく息をしている。
「何があった」
シンが大司祭を庇うように前へ出た。
「王都の北方に、魔物の大群が現れました!」
奏が眉をひそめた。
「魔物?」
「はい。黒い泥のような身体をした、正体不明の化け物です」
背筋に冷たいものが走った。
黒い、泥のような化け物。
兵士は青ざめた顔を上げた。
「数は確認できません。見渡す限りの大群が、王都のすぐそばまで迫っています。このままでは、間もなく北門へ到達します!」
レオンの表情が変わった。
「まさか……」
森に放たれた黒濁は宝珠を追う。
それが、ついに追いついたのか?
大司祭は、何も言わなかった。
眼帯に覆われていない淡紫色の瞳が、わずかに見開かれている。
けれど、それもほんの一瞬だった。
やがて、その視線がゆっくりと奏へ向く。
「奏くん」
「……なんだよ」
「行ってくれるね?」
奏は大司祭を睨みつけた。
「……あんたが行けばいいだろ」
「私が?」
「あれが何なのか、何も知らないわけじゃないだろ」
大司祭は一瞬だけ目を細め、それから困ったように笑った。
「残念だけど、そんな大群を止める力は私にはないよ。戦うのも得意じゃないし」
「……都合のいいことばっかり言いやがって」
奏は俺を振り返り、そのあと黒い結晶に閉じ込められたヴァルガを見る。
「それに……今、晴斗を置いていけるわけないだろ」
「でも、このままでは大勢の人が死ぬよ」
奏が奥歯を噛み締める。
「……それは」
報告に来た兵士が、縋るように奏を見上げる。
「勇者様……! お願いします! 今も兵士たちが、前線で食い止めようと戦っております!」
「……っ」
「王都を守れるのは、勇者である君だけなんだ」
大司祭は、安心させるように微笑んだ。
「君なら、数時間もあればあの化け物たちを退けて戻ってこられるよ。晴斗くんを長く待たせることにはならない」
奏は俯いて、強く拳を握りしめた。
「……もう、見捨てたくない」
その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
やがて、奏はレオンを振り返る。
「……レオン。晴斗を頼む」
レオンは眉間に皺を寄せたが、小さく頷いた。
「……わかりました」
奏は俺を見た。
「晴斗……待ってて」
そう言い残し、足早に広間を出ていった。
その後を兵士が続く。
扉の閉まる音が広間に重く響いた。
大司祭は扉の方を向いたまま口を開く。
「彼、変わったね? 前は民のことなんて気にもしなかったのに」
そして俺を振り返り、優しげに笑う。
「晴斗くん。君は勇者と魔王に守られて、この世界で生きてきたんだね」
大司祭が俺へ歩み寄る。
レオンも動こうとしたけれど、シンがその前へ立ちはだかった。
「それ以上、晴斗に近づくな」
レオンの厳しい声に、大司祭は首を傾けた。
「心配しないで。私が晴斗くんに痛いことするわけないでしょう?」
レオンはシンと大司祭を睨みながらも、それ以上は動かなかった。
大司祭は俺の前に屈み、肩へそっと手を置く。
「でも、大丈夫。今度から私が大事にするから」
甘い声音に、なぜか不快感が込み上げる。
肩に置かれた手を振り払いたかった。
それでも、どうにか堪える。
この人の機嫌を損ねちゃいけない。
ヴァルガのために。
「……あの、ヴァルガのこと、助けてください」
大司祭の顔を見ていられず、俯いた。
「誤解があるんです。あいつは、リヴェルトで教わったような、恐ろしい魔王じゃない」
返事がなく、恐る恐る視線だけを上げる。
澄んだ淡紫色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
何を考えているのか分からない。
その沈黙が怖くて、俺は膝をついたまま、頭を床へ擦りつけた。
「あいつは、いいやつなんです。お願いです。殺さないで……」
声が震え、涙が床へ落ちた。
「俺にできることなら、なんでもします」
「だから……ヴァルガを助けてください」
最後は泣き声になった。
俺には、何の力もない。
相手を従わせることも、取引できるようなものも持っていない。
こうして頼み込むことしかできない。
それが、どうしようもなく苦しかった。
今ほど、無力な自分が嫌になったことはない。
「顔を上げて。晴斗くん」
頬に両手を添えられ、そっと顔を上向かされる。
大司祭は、幼い子供を慰めるように微笑んでいた。
「本当はね、ヴァルガくんを殺すつもりはないんだ」
「……え?」
「彼を、魔王だからというだけで殺すつもりはないよ」
意味が分からず、大司祭の顔を見つめる。
「でも、処刑するって……」
「あれは、奏くんを納得させるための嘘」
大司祭は、なんでもないことのように言った。
「魔王を倒せば元の世界へ帰れるっていう話もね」
背後で、レオンが息を呑む気配がした。
ヴァルガの言葉が蘇る。
──俺を殺しても、元の世界には帰れない。
奏はそれを信じなかった。
殺してみたら分かると、剣を振るった。
「じゃあ……ヴァルガが言ってたことは、本当なのか?」
「そうだね。少なくとも、魔王を殺せば帰れるなんて話には、何の根拠もないよ」
「何の根拠もないのに、奏をヴァルガと戦わせたのか……?」
「目的がないと、動いてくれそうになかったから。奏くんは、ずっと君のことばかり考えていたからね」
頬に触れる指先が、ゆっくりと輪郭をなぞった。
「今は少し変わったみたいだけど……君が大切なことに変わりはない」
「だから、奏くんがヴァルガくんを弱らせてくれたおかげで、私の術が成功したんだ」
大司祭は、黒い結晶に閉じ込められたヴァルガへ目を向ける。
「……それにしても、晴斗くんは本当にすごい」
「奏くんだけじゃない。ヴァルガくんも、君を守るためなら自分のことなんてどうでもいいみたいだ」
再び俺を見て、満足そうに微笑んだ。
「だから君は、私にとって至高の存在なんだよ」
「この世で一番強い二人を、繋ぎ止めてくれるんだから」
「それに──」
大司祭は何かを言いかけ、俺の顔をじっと見つめた。
やがて、楽しそうに目を細める。
「……ううん。これは、またあとで」
何を言おうとしたのかは、分からなかった。
でも、無性に腹が立った。
奏は大司祭の嘘を信じて、ずっと戦ってきた。
それなのに大司祭は、奏に真実を明かさないまま、ヴァルガを弱らせるために利用した。
全部、この人の掌の上だったのか。
頬に触れる手が、急にひどく気持ちの悪いものに思えた。
「……じゃあ、本当はどうすれば帰れるんだよ」
まだ怒りは収まらない。
でも、奏のためにもヴァルガのためにも、聞いておかなければならない。
奏だけは帰してやりたいから。
たとえもう二度と会えなくなっても。
大司祭の笑みが、わずかに薄れる。
「それは、私にも分からない」
「え……?」
大司祭の召喚で俺たちはこの世界にやってきた。
何も知らないはずがない。
「本当だよ」
大司祭は俺の頬から手を離すと、広間の奥に立つ女神像を振り返った。
「……信じられないなら、証拠を見せてあげようか」
「証拠って……」
「今まで、この世界へ呼ばれた勇者たち」
その言葉に、シンがわずかに顔を強張らせた。
慈愛に満ちた女神像を見上げながら、大司祭は楽しそうに笑う。
「みんな、まだここにいるよ」




