第三話 その名を呼ばれて
夜明け前に、ふと目が覚めた。
——あれ?
いつもなら、起きた瞬間から視界に入るはずのものがない。
顔が近すぎて、寝返りも打てないあの状況。
だが今は、ベッドがやけに広かった。
体を起こして周囲を見る。
「……いない?」
ヴァルガの姿は、どこにもなかった。
眠るまでは、確かに隣にいたはずだ。
俺はシーツに、そっと触れてみる。
冷たい。
何かの用事で姿を消すことは、これまでもあった。
けれど夜だけは、「一緒に寝る」と言い張って、俺が嫌がっても離れなかったくせに。
「……まあ、いいけど」
俺は分厚い布団にくるまり、もう一度横になった。
いなくて困るわけじゃない。
むしろ、気が楽だ。
いくら手を出してこないとはいえ、
俺を“妻”にしたいと思っている男が隣にいる状況は、どう考えても落ち着かない。
——それでも。
理由もなく、いないというのは少し気持ち悪かった。
あの男が、何も考えずに姿を消すとは思えない。
***
ヴァルガが、こない。
もうとっくに朝になって、
飯の時間も過ぎている。
ギュルギュル……
腹の音が、情けなく鳴った。
俺は痩せすぎだと言って、
あいつは一度も食事の時間を欠かしたことがないのに。
「……なんで、こないんだよ」
落ち着かなくて、部屋の中をうろつく。
いつもの、カリカリに焼いた香ばしいパン。
クリーミーなポタージュ。
肉を串に刺して焼いたやつ。
くそっ。
あいつが餌付けなんかするから……。
ドアの前に立ち、耳を当ててみる。
——何の音もしない。
今度は、少し強めに扉を叩いた。
反応は、ない。
どうにも落ち着かなくて、ドアノブに手をかける。
——ガチャリ。
「えっ」
思いがけず、扉が開いた。
いつも、外に出る時は必ず鍵をかけるのに。
「……なんなんだよ……」
扉を少しだけ開き、廊下を覗く。
初めて見る廊下は天井が高く、
部屋と同じく豪華で、
そして、やけに静かだった。
「ヴァルガ……?」
控えめに呼んでみる。
返事はない。
誰も、いないのか?
——その瞬間、胸がざわついた。
これは、
逃げ出すチャンスなんじゃないか?
そろりと、一歩。
床に足を乗せるたび、無意識に耳を澄ます。
そうして俺は、
長く続く廊下を、慎重に歩き出した。
***
廊下を進んでいると、
前方から、低い声が聞こえてきた。
「……遅ぇな」
「森の方、相当荒れてるらしいぞ」
——声?
俺は反射的に、柱の陰に身を寄せた。
そっと、覗く。
そこにいたのは、人間ではなかった。
背が高く、がっしりした体躯。
額から伸びる角。
鎧の隙間から、獣の尻尾が覗いている。
人の形はしている。
だが、どこをどう見ても、人間じゃない。
二体の魔族が、槍を手にしたまま、城内を警戒していた。
あれ……モンスターか?
ゲームやアニメで見たことのある姿が、
現実に“動いて”“喋って”そこにいる。
喉が、きゅっと鳴った。
「また例のあれだとよ」
「……またか」
吐き捨てるような声音。
「あいつら、森の理を無理やり書き換えてきやがる」
「魔王様が直接出たって話だ」
——魔王様。
その言葉に、胸がどくんと跳ねた。
「……戻りが遅いのが、気になる」
「今回は数が多いらしい」
声には、焦りはない。
怒りも、恐怖も、ほとんど感じられなかった。
まるで、
“いつもの厄介事”を処理しているだけみたいに。
俺は、息を殺した。
ここは、城だ。
しかも、人間の城じゃない。
モンスターの兵士が巡回していて、
当たり前のように“魔王”の名が出る。
「……ここ……」
声が、喉で引っかかる。
「……魔王城、なのか……?」
心臓が、嫌な音を立てた。
魔王——
奏と一緒に聞かされた、勇者が倒すべき相手。
野蛮なモンスターを従え、人間を侵略する忌むべき存在。
人類の敵。
俺は、そっと後ずさる。
音を立てないように。
気づかれないように。
ここは、
俺が考えていたより、ずっと。
──危険な場所だ。
緊張して足がもつれる。
その拍子に、靴底が石の床を擦る音が、やけに大きく響いてしまった。
まずい。
そう思った瞬間には、すでにあの兵士たちが、こちらを振り向いていた。
「誰だ!」
反射的に、体が動いた。
俺は、がむしゃらに走り出す。
どこに向かっているのかも分からないまま、曲がりくねった廊下を駆け抜ける。
背後から、重い足音が迫ってくる。
鎧が擦れる音が、やけに鮮明に耳に残った。
近い。
息が浅くなり、胸の奥がきゅっと縮む。
ちゃんと走っているはずなのに、足の感覚がどこか遠い。
捕まったら、どうなる。
——ヴァルガが来たら、助けてくれるんだろうか。
ちくしょう。
なんであいつに、期待してるんだよ。
あいつだって、きっと——魔族なんだ。
俺は頭を振って、その考えを無理やり追い払う。
そのとき、視界の先に、大きな両開きの扉が飛び込んできた。
「……っ!」
体当たりするように押し開く。
——外。
目の前に広がっていたのは、
淡い光彩を帯びた、不思議な森だった。
部屋の窓から、何度も見ていた景色だ。
だから、初めて見るわけじゃない。
でも、実際に立ってみると、
胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。
なんだろう、この感じ……
「こっちだ!」
背後から声が飛び、
ためらっていた気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
考える前に、体が動く。
俺は一気に、森へ駆け出した。
森の中を、ただ無我夢中で走った。
枝が腕に当たり、足元の根に躓きそうになる。
方向なんて分からない。ただ、後ろから離れたくて、必死に足を動かした。
どれくらい走ったのか、分からない。
息が切れ、喉が焼けるように痛む。
視界の端が滲み始め、さすがにもう無理だと悟る。
俺は木の根元に背を預け、そのまま地面に座り込んだ。
肩で息をしながら、耳を澄ます。
……何も、聞こえない。
思わず、ほっと息をついた。
——ぐちゅ。
次の瞬間、湿った音が、静かな森に落ちた。
土を踏む音じゃない。
それなのに、生き物が動いたのは、はっきり分かる。
ずるり、と。
何かを引きずるような音が、確実に距離を詰めてくる。
背中に、冷たい汗が伝った。
俺は息を殺し、木の影からそっと覗く。
それを視界に入れた瞬間、目を逸らせなくなった。
獣のものとも、人のものともつかない手足に見える。
それが、不自然に痙攣しながら動いている。
体全体の輪郭が、どこか曖昧だ。
形が定まらないまま、粘つく音だけを立てて進んでくる。
大きく裂けた口。
そこには、形の揃っていない歯が、無秩序に並んでいた。
——そして。
異様に大きな“何か”が、ゆっくりと動く。
城の中で見た魔族たちは、確かに怖かった。
角があって、体が大きくて、人間とは違う姿をしていたけれど——
鎧を着て、言葉を話し、巡回していた。
ちゃんと、“兵士”だった。
——でも、これは違う。
モンスターって、こんなものだっただろうか。
ゲームや物語で見てきたものは、
もっと分かりやすくて、理解できる存在だったはずだ。
こんなのと、
奏は戦わなきゃいけないのか。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
逃げなきゃ。
頭では分かっているのに、体が言うことをきかない。
そのとき——
“それ”の視線が、唐突にこちらを向いた。
——見られている。
理解した瞬間、全身が強張る。
「……あ、ああ……」
意図しない音が、喉の奥からこぼれ落ちた。
視線は逸れない。
そして、ぱかりと赤い口が開く。
悲鳴とも、雄叫びとも違う、
耳を裂くような音が、森に響き渡った。
「う、わああああああ!!」
耳を塞いでも、意味はなかった。
頭の奥まで突き刺さるその声に、腰が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。
びちゃり。
びちゃり。
湿った音を立てながら、ゆっくりと距離が詰められていく。
歯が、勝手に鳴った。
喉が引き攣り、息の仕方さえ分からなくなる。
黒い粘液が、ぬるりと落ちてくる。
それが肩に、腕に、容赦なく降り注いだ。
——俺は、ここで死ぬのか。
こんな、人気のない森の中で。
誰にも気づかれず、
元の世界に戻ることもできないまま。
「やだ……やだ……!」
声が震えて、うまく出ない。
「やだああああああ!!」
その瞬間。
「晴斗!!!!」
聞き慣れた声が、頭上から叩きつけられた。
次の瞬間、
視界の端に、赤い影が落ちた。
風が、爆ぜる。
何が起きたのか理解する前に——
黒い塊が、真横に吹き飛んだ。
一閃。
それだけだった。
さっきまで、確かに“そこにいた”はずの化け物は、音もなく、真っ二つに裂けて地面に転がっていた。
ぐちゃり、と崩れ落ちたそれから、
黒い液体がじわじわと地面に広がっていく。
俺は、声も出なかった。
「……っ」
視線の先に、ヴァルガが立っていた。
肩で、荒く息をしている。
いつもは整っているはずの服は裂け、
腕も、首元も、黒い汚れと血でひどく汚れていた。
「……晴斗」
名前を呼ばれて、びくりと体が跳ねた。
ヴァルガは、俺の前に膝をつく。
伸ばしかけた手が一瞬だけ止まり、
自分の汚れを見下ろすように視線を落としてから——
それでも構わず、俺の頬を包んだ。
「……怪我は……怪我はないか?」
震えを押し殺した声だった。
その手の温かさに、
張り詰めていたものが一気にほどける。
「あ……うっ……」
言葉にならない声が喉からこぼれ、
俺はそのまま、ヴァルガに縋りついた。
***
泣き疲れて、ヴァルガの胸に顔を埋めたまま、
ぼんやりと呼吸を整えていると——
「……どうして、こんなところにいた?」
低く、少しだけトゲを含んだ声が落ちてきた。
はっとして顔を上げる。
赤い瞳が、揺れている。
「……俺がいない間に、逃げようとしたのか?」
「あ、あの……」
言葉に詰まった、その時。
遠くから、重い足音が近づいてくる。
城で見かけた、あの兵士たちだ。
「魔王様! ご無事ですか!」
ヴァルガに向かって、迷いなく投げられた言葉。
——魔王。
意味が、すぐには理解できなかった。
「……ま、おう……?」
喉から零れた声は、ひどくかすれていた。
ヴァルガは兵士たちには目も向けず、
ただ、じっと俺を見つめている。
その視線が、
さっきまでと同じなのかどうか——
俺には、もう分からなかった。




