可愛いだけでは済まない存在
クロスロードの朝は、等しく騒がしい。
鍛冶屋の音、商人の呼び声、路地裏の小競り合い。
どれも昨日と変わらないはずなのに――
事務所の扉を開けた瞬間、レインは違和感を覚えた。
視線が、集まっている。
正確には、事務所の中に。
「……見られてる?」
エルフィナが小さく言う。
通りを歩く人間の視線が、一瞬だけこちらに向き、すぐ逸れる。
露骨ではない。
だが、確かに意識されている。
原因は、分かっていた。
ピコが、扉のすぐ内側で転がっていた。
ぽよ、と体を伸ばし、
朝の光を浴びながら、床をころころと移動している。
「……なんで外に出したの」
ミリアが腕を組む。
「だって、外、ひといっぱい」
ピコは悪びれずに答えた。
「……みる」
「見る、じゃなくて見られる、ね」
カイラがため息をつく。
その時だった。
通りの向こうから、声が飛んできた。
「おい、あれ――」
「魔物、だよな?」
「……喋るって、噂の」
噂。
それだけで、空気が一段重くなる。
クロスロードでは、
噂は価値の前触れだ。
リュカが低く言う。
「広がるの、早いですね」
「止められない」
ノウンが淡々と補足する。
「昨日、ギルドが動いた。
商人も嗅ぎつける」
ピコは、近づいてくる視線を気にする様子もなく、
通りを指差した。
「あれ、なに?」
「……市場」
エルフィナが答える。
「ひとが、もの、えらぶ」
ピコは少し考えた。
「……ピコも、えらばれる?」
その一言で、空気が凍った。
誰もすぐに答えられない。
レインは、ピコを見下ろした。
理解は、できてしまう。
この街で、希少で、無害で、喋る存在がどう扱われるか。
だが――
「選ばせない」
レインは、静かに言った。
「ここでは、まだ」
ピコは意味を完全には理解していない。
それでも、その声の調子だけは分かったらしい。
「……うん」
ぽよっと体を揺らす。
その様子を、通りの向こうで誰かが見ていた。
冒険者か、商人か、
あるいは――それ以外か。
クロスロードは、
価値が動き出したものを、放っておかない街だ。
そして今。
事務所の中に、
まだ値札の付いていない存在が、転がっていた。
昼を過ぎた頃、事務所の空気はさらに重くなっていた。
騒ぎが起きたわけではない。
怒号も、争いもない。
だが――
人の出入りが、明らかに増えている。
「……三人目ですね」
エルフィナが、扉の向こうを気にしながら言った。
最初に来たのは、見慣れない冒険者だった。
低姿勢で、丁寧な口調。
「珍しい魔物を見たと聞いた」とだけ言い、
断られると、素直に引き下がった。
二人目は、商人。
言葉選びがうまく、視線が値踏みする癖を隠していない。
三人目は、ギルド経由の“紹介”。
どれも敵意はない。
だからこそ、厄介だった。
「“危険”より先に、“価値”が来てる」
リュカが、低く分析する。
「この街らしいですね」
カイラは腕を組んだ。
「黒巣のときは、裏から来た。
今回は……表から、じわじわ」
ピコは、床の上でころんと転がりながら、
そのやり取りを半分も理解していない。
「……ひと、いっぱい」
「そうだな」
ミリアが答える。
「人気者だ」
「にんき……?」
「好かれてる、ってこと」
ピコは、しばらく考えたあと、
首を傾げた。
「……なんで?」
答えは、誰もすぐに出せなかった。
希少だから。
喋るから。
害がなさそうだから。
全部、本当だ。
そして、全部、値札になる理由でもある。
***
午後、再び扉が叩かれた。
今度は、はっきりとした目的を持った相手だった。
中年の男。
服装は地味だが、質がいい。
指には商会の印章。
「失礼。
私は、南区で交易をしている者だ」
名乗りは簡潔。
無駄がない。
「噂は聞いている。
あの希少種についてだ」
視線が、ピコに向く。
ピコは気づき、
軽く手――のようなものを振った。
「……ひと」
男の目が、わずかに見開かれる。
「……本当に、言葉を」
「用件を」
エルドが遮る。
男は咳払いを一つ。
「悪い話ではない。
保護、研究、生活環境。
全てこちらで用意できる」
条件は、整っている。
脅しも、強制もない。
「対価も、当然支払う」
金額は、言わなくても分かる。
事務所の修繕費どころではない。
ミリアが、一歩前に出かけて、止まった。
殴る理由が、ない。
レインが、静かに問う。
「……それで?」
「街にとっても、有益だ」
男は即答した。
「希少種が、無秩序に存在するのは危険だ。
管理されたほうがいい」
正しい。
制度的にも、論理的にも。
だからこそ。
「断る」
短い言葉だった。
男は、驚かなかった。
「理由を聞いても?」
「選択肢が、減る」
レインは、それだけ言った。
男は数秒、沈黙した。
「……理解できない」
「理解しなくていい」
男は、軽く肩をすくめた。
「では、また。
条件が変わったら、声をかけてくれ」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
ピコは、その背中を見ていた。
「……ピコ、いったほう、よかった?」
その問いは、
責めでも、自己犠牲でもない。
ただの、疑問だった。
エルフィナが、思わず口を開きかけて、止まる。
答えは、用意されていない。
レインは、ピコの前にしゃがんだ。
「行くかどうかは、
まだ決まってない」
「……うん」
「でも」
一拍、置く。
「今は、ここにいていい」
ピコは、ぽよっと体を揺らした。
「……ここ、すき」
それだけで、
この街では十分すぎるほど、危うい理由だった。
クロスロードは、
“好き”だけで守られる場所じゃない。
だからこそ、
その言葉は、誰にも聞かせたくなかった。
日が傾き始めた頃、事務所の空気は微妙に変わっていた。
誰かが怒鳴ったわけでも、脅しがあったわけでもない。
ただ――
街の視線が、確実にここへ向き始めている。
それは音でも匂いでもなく、
長くクロスロードにいる者だけが感じ取る種類の圧だった。
「……静かすぎる」
ミリアが、窓の外を見ながら言った。
通りはいつも通りだ。
商人が歩き、冒険者が笑い、路地裏では小競り合いが起きている。
だが、事務所の前だけ、
人の流れがわずかに歪んでいる。
近づいて、見て、
何もせずに離れていく。
「興味が、観察に変わってる」
リュカが言った。
「次は、評価。
その次が――介入です」
「まだ“敵”じゃない」
エルドが応じる。
「だが、放っておけば
敵になる必要もなく、持っていかれる」
ピコは、床の上に転がりながら、
その会話を聞いているようで、聞いていなかった。
壁の染みを指で――正確には、指のような突起でなぞる。
「……これ、ひろがる?」
「雨が続けばな」
エルドが答える。
「……ふーん」
それだけで興味を失い、
今度は扉の方へころころと転がっていく。
「外、いっていい?」
その一言で、全員の動きが止まった。
「だめ」
ミリアが即答する。
「……なんで?」
「今は、だめ」
「……こわい?」
問いは、純粋だった。
エルフィナが、言葉を探す。
「怖い、というより……」
言い切れなかった。
怖いのは、外ではない。
外が“優しすぎる”ことだ。
ピコは、少し考えてから言った。
「……ピコ、みられるの、きらいじゃない」
その場に、沈黙が落ちた。
嫌ではない。
拒否でもない。
それが、一番危険な言葉だった。
レインは、ゆっくりと立ち上がり、
扉とピコの間に、自然に立つ。
「見られることと、
選ばれることは、違う」
「……ちがう?」
「違う」
言葉は短い。
説明は、しない。
説明した瞬間、
理解という裁定が始まってしまうからだ。
ピコは、レインを見上げた。
じっと、長く。
「……ひと、むずかしい」
レインは、答えなかった。
その代わり、視線を外す。
理解しすぎないために。
***
夜。
事務所の灯りは、相変わらず弱い。
修繕は、まだ先だ。
その灯りの外で、
通りを歩く影が一つ、立ち止まった。
フードを被った人物。
商人でも、冒険者でもない。
しばらく扉を見つめ、
やがて、静かに立ち去る。
ノウンは、その気配を言語化する。
「記録された。
だが、まだ接触はない」
「誰だ?」
カイラが問う。
「分からない」
「分からない、か」
それは、クロスロードでは最悪に近い答えだった。
ピコは、毛布の上で丸くなっている。
今日一日で、さすがに疲れたらしい。
「……ねえ」
小さな声。
エルフィナが、顔を近づける。
「なんですか?」
「……ここ、ピコのばしょ?」
問いは、重い。
だが、答えは一つしかない。
「今は、そうですよ」
エルフィナは、そう言った。
“今は”。
その言葉の裏にある不確定さを、
ピコは理解しない。
「……うん」
安心したように、体を緩める。
その様子を見ながら、
ミリアが低く呟いた。
「……奪いに来るなら、殴れるのに」
「殴らせないために、ここにいる」
レインの声は、静かだった。
「まだ、選択肢があるから」
ノーリトリートは、前線に立つ。
剣を振る前に。
裁定が下る前に。
外では、クロスロードの夜が続いている。
正しさが交差し、
価値が値踏みされ、
優しさが、ゆっくりと形を変える街。
その中心に、
まだ何者でもない存在が眠っていた。
値札も、役割も、
まだ貼られていない余白。
だが、その余白は――
確実に、狙われ始めている。




