戦場のあとで、洗濯物は増える
朝だった。
世界が滅びかけた翌日としては、
拍子抜けするほど、普通の朝。
宿の裏庭に干された洗濯物が、
風に揺れている。
「……多くない?」
ミリアが、腕を組んで洗濯物を見上げた。
「昨日の戦闘、そんな泥だらけになったっけ」
「なった」
即答。
レインは、無表情で頷く。
「エルドが盾で受けすぎた」
「俺のせいか?」
裏庭の隅で、
エルドがタライを抱えながら首を傾げる。
「受けるのが仕事だろ」
「限度がある」
レインは淡々と続ける。
「あと、リュカが転んだ」
「転んでない」
物干し竿の向こうから、
リュカの声が飛んできた。
「“戦局重量”展開中に足を取られただけだ」
「それを転んだと言う」
ミリアが、くすっと笑った。
その笑いに、レインが一瞬だけ視線を向ける。
(……あ)
自覚は、ない。
ただ、
昨日までの“張り詰めた空気”が抜けて、
今ようやく——人の顔をちゃんと見ている感じがした。
「レイン」
ミリアが、洗濯物を一枚手に取る。
「これ、誰の?」
「俺の」
「……それ、裏表逆じゃない?」
レインは、一拍止まる。
「……そうか」
「気づいてなかったんだ」
「気づく必要がなかった」
真顔。
ミリアは、思わず吹き出した。
「もう! そういうとこだよ!」
その勢いで、
ひょい、とレインのシャツを裏返す。
指が、少しだけ触れる。
一瞬。
二人とも、動きが止まった。
「……」
「……」
風の音。
洗濯物の揺れる音。
誰も、何も言わない。
先に目を逸らしたのは、ミリアだった。
「……ほら、これでいい」
「助かる」
短い会話。
だが、
レインの《戦場演算バトル・カリキュレーター》が
意味のない警告を一つだけ出していた。
《不明要素:心拍上昇》
《原因:未特定》
(……?)
レインは首を傾げたが、
深追いはしなかった。
その頃。
裏庭の反対側では、
リュカとエルドが別の“戦い”をしていた。
「だからな」
リュカが、洗濯ロープを引っ張りながら言う。
「干す時は間隔を考えろ」
「風通しだ」
「風通しなら、盾の内側に干せばいい」
「それは違う」
「なぜだ」
「……湿気がこもる」
「だが守られている」
「洗濯物に守りは要らない」
エルドは、少し考えてから頷いた。
「……一理ある」
二人は、真剣だった。
昨日まで、
世界の終焉だの、敷設者だの、アバンドンだのと
訳の分からないものと殴り合っていた連中とは思えない。
ミリアが、その様子を見て呟く。
「……平和だね」
「そうだな」
レインも、素直に同意した。
「こういう時間が続くなら」
一拍。
「悪くない」
ミリアが、ちらっと横目でレインを見る。
「……それ、珍しいこと言ってる自覚ある?」
「ある」
「あるんだ」
少し笑う。
少し照れる。
だが、
誰も“関係を定義”しようとはしない。
それが——
《非裁定ノーリトリート(ノーリトリート)》の日常だった。
洗濯物が乾く。
朝が過ぎる。
世界は、今日も壊れていない。
そして、
それだけで十分だと——
全員が、まだ口に出さずにいられる。
宿を出て、五分。
リュカは、すでに疲れていた。
「……なんで、野菜一つ買うのに交渉が発生するんだ」
市場の真ん中で、
彼は籠を片手に立ち尽くしている。
向かいには、
妙に元気な八百屋の親父。
「だから兄ちゃん、今日はキャベツが安いんだって!」
「その“安い”の基準を聞いてる」
「気持ちだ!」
「論外だな」
即答。
その横で、
エルドは黙々と干し肉を手に取っていた。
「これは保存が利く」
「それは分かるが」
リュカはため息をつく。
「そればっかり買うな。食卓が茶色くなる」
「実用的だ」
「色の問題じゃない」
「では?」
「……気分の問題だ」
エルドは、少しだけ考え込んだ。
「気分は、重要か?」
「人間社会ではな」
リュカは断言する。
「特に、共同生活では」
その時。
店の奥から、
別の声が飛んできた。
「兄ちゃんたち、旅人かい?」
振り返ると、
笑顔の店主が二人を見ている。
「そうだが」
「じゃあこれ、おまけだ」
籠に、
色とりどりの野菜が放り込まれる。
「え、いいのか?」
「いいっていいって!」
「理由は?」
店主は、少しだけ首を傾げてから答えた。
「……なんとなく?」
リュカが、固まる。
(なんとなく……?)
それは、
つい最近まで“止められていたはずのもの”。
だが今は、
ごく自然に発生している。
エルドが、小さく呟いた。
「……世界は、戻っているな」
「完全じゃないがな」
リュカは籠を持ち直す。
「でも、悪くない」
一方その頃。
宿の中では、
レインが一人、卓に向かっていた。
何をしているかというと——
帳簿の整理。
「……?」
そこへ、ミリアが顔を出す。
「何してるの?」
「昨日の消耗品の確認」
「……今やる?」
「今やる」
即答。
ミリアは、少しだけ口を尖らせた。
「相変わらずだね」
「効率的だ」
「そういうとこ」
ミリアは、レインの向かいに腰を下ろす。
しばらく、沈黙。
だが、気まずさはない。
「……ねえ、レイン」
「なんだ」
「昨日さ」
ミリアは、言葉を探す。
「怖くなかった?」
レインは、ペンを止めた。
一拍。
「怖かった」
素直な答え。
ミリアが、少し驚く。
「……言うんだ」
「言える相手だからだろう」
何気ない一言。
だが、
ミリアの心拍が一瞬だけ跳ねた。
「……それ、ずるい」
「何がだ」
「分かってないならいい」
ミリアは、立ち上がる。
「お茶、淹れてくる」
「頼む」
すれ違いざま、
ほんの一瞬、袖が触れる。
レインは、また例の“警告”を感じた。
《不明要素:心拍上昇》
《原因:未特定》
(……本当に分からないな)
彼は、深く考えるのをやめた。
考えなくていい距離感が、
今は心地いい。
夕方。
全員が宿に戻る。
買い出しの成果は上々。
「ほら、彩りだ」
リュカが、得意げに籠を置く。
「……緑が多いな」
エルドが言う。
「健康的だ」
「味は?」
「知らん」
ミリアが笑う。
「大丈夫。私が何とかする」
その言葉に、
全員が自然と安心する。
誰も命令していない。
誰も役割を決めていない。
それでも——
場は、回っている。
レインは、その光景を眺めながら思った。
(これが)
(《非裁定ノーリトリート(ノーリトリート)》の“守ってるもの”か)
選ばせない。
背負わせない。
でも、
関係までは奪わせない。
夕飯の匂いが、宿に広がる。
世界は今日も、
静かに、ちゃんと進んでいた。
夕食は、思ったより賑やかだった。
湯気の立つスープ。
焼いた肉。
色のある野菜。
「……ちゃんとした飯だな」
リュカが、匙を口に運びながら言う。
「ちゃんとしすぎて逆に落ち着かん」
「贅沢だな」
ミリアが笑う。
「文句言うなら食べなくていいよ?」
「いや、食う」
即答。
エルドは、黙って頷きながら食事を進めていた。
噛む回数は多いが、手は止まらない。
「……こういう日が続けばいい」
ふと、エルドが言った。
全員の動きが、一瞬だけ止まる。
否定も、同意もない。
ただ、その言葉が卓の上に残った。
「続くといいな」
ミリアが、少しだけ柔らかい声で言う。
「でもさ」
リュカが、視線を逸らしながら続ける。
「続くってのは、守らなきゃ続かない」
「守る、か」
レインは、静かに呟いた。
「俺たちは、“守ってる”自覚はないな」
「それでいいんだよ」
ミリアが、即座に返す。
「守ってます、って顔してるとさ」
「だいたい、ろくなことにならない」
リュカが苦笑する。
「確かにな」
食器が、軽く触れ合う音。
外では、夜の風が吹いている。
騒ぎもない。
悲鳴もない。
評価も、観測も、今は感じない。
「……なあ」
リュカが、箸を置いたまま言う。
「俺たち、これからどうする?」
その問いは、
“次の任務”でも
“次の敵”でもなかった。
ただの、未来の話。
ミリアが、レインを見る。
答えを、期待しているわけじゃない。
ただ——聞きたいだけだ。
レインは、少し考えてから答えた。
「同じだ」
「現場に行く」
「止まりそうな場所を見つけたら、立つ」
「決めないまま、動かす」
それは、宣言でもない。
方針ですらない。
ただ、今までやってきたことの延長。
「それって」
ミリアが、少しだけ笑う。
「《非裁定ノーリトリート(ノーリトリート)》っぽい?」
「そうかもしれないな」
レインは、珍しく曖昧に答えた。
エルドが、静かに言う。
「……それで、いい」
「世界がどうなろうと」
「今、ここにいる者が立てているなら」
その言葉に、
誰も反論しなかった。
食事が終わる。
片付けを終え、
灯りが少し落とされる。
ミリアが、窓辺に立つ。
「……ねえ、レイン」
「なんだ」
「今日さ」
一瞬、言葉を探してから。
「怖くなかった?」
レインは、少しだけ考える。
「怖くないわけじゃない」
「でも——」
視線を、仲間たちへ向ける。
「一人じゃなかったからな」
ミリアは、それ以上聞かなかった。
その代わり、
ほんの少しだけ距離を縮める。
肩が、触れない程度に。
夜は、静かだ。
世界は、まだ不安定だ。
敵も、完全には消えていない。
それでも——
今夜は、何も起きない。
その事実が、
何よりも尊かった。
レインは、心のどこかで思う。
(この時間を、失わせない)
それが、
彼にとって初めての——
個人的な願いだった。
物語は、まだ続く。
だが今は。
“何も起きない夜”が、
確かに、ここにあった。




