配慮の結果
最初に変わったのは、掲示物だった。
《お知らせ》
《安全配慮に関する新方針について》
学校の門前。
職場の掲示板。
役所の壁。
同じ文面が、同時に貼り出されていた。
「……読んだ?」
ミリアが足を止め、紙を見上げる。
「宝珠を使用していない方は、
心理的負荷を避けるため――」
レインは、続きを声に出さなかった。
読まなくても分かる。
これは、排除ではない。
「……配慮、だね」
リュカが、低く言う。
校庭では、子どもたちが二つの列に分かれていた。
宝珠を使っている子。
使っていない子。
教師は、穏やかに声をかける。
「はい、こっちはこっち」
「安心だからね」
誰も怒らない。
誰も文句を言わない。
宝珠を使っていない子どもは、
少し戸惑いながらも、従う。
「……なんで?」
小さな声。
教師は、しゃがみ込んで微笑んだ。
「怖い思いをしないためよ」
「あなたは、悪くないから」
その言葉は、優しかった。
だからこそ――
否定できなかった。
同じ光景は、職場でも起きていた。
「念のため、部署を分けよう」
「万が一の不安を減らすために」
「本人のためだ」
誰も、悪意を持っていない。
宝珠を使わない青年は、
上司に頭を下げた。
「……分かりました」
「ご配慮、
ありがとうございます」
その声は、震えていなかった。
それが、
余計に重かった。
《非裁定》は、
通りの向こうから、その様子を見ていた。
「……事件だよね」
ミリアが、小さく言う。
「うん」
レインは、静かに頷く。
「でも――
誰も、間違ってない」
エルドが、拳を握る。
「殴れない」
「止められない」
「裁けない」
リュカが、目を伏せた。
「“安全”って言葉が、
一番強い」
掲示物の紙が、風に揺れる。
そこには、こう書かれていた。
《すべての人が、
安心して暮らせる社会のために》
誰も反対しない。
反対できない。
それでも。
今日、確かに起きていた。
宝珠を使わない人間が、
善意によって、場所を失う事件が。
抗議は、起きなかった。
それが一番の問題だった。
宝珠を使っていない青年は、
翌日から別の部屋で働くことになった。
窓のない、静かな部屋。
机と椅子だけ。
「落ち着けますね」
上司は、心からそう言った。
「人が多いと、
疲れるでしょう?」
青年は、一瞬だけ言葉に詰まり――
それから、笑った。
「……はい」
「ありがとうございます」
その返事に、
誰も疑問を持たない。
「分かってくれて助かるよ」
「配慮って、
大事だからね」
その日の昼休み。
同僚たちは、
いつも通り談笑していた。
「最近、
安心だよね」
「宝珠のおかげで、
ギスギスしなくなった」
「使ってない人がいると、
気を遣うじゃない?」
その言葉に、
悪意はない。
むしろ、
“正直”だった。
別の場所。
学校では、
宝珠を使っていない子どもが、
専用の教室に案内されていた。
「特別クラス、
って思っていいから」
教師は、
優しく微笑む。
「少人数で、
安心よ」
子どもは、
黙って頷いた。
同級生たちは、
手を振る。
「またね!」
「大丈夫だよ!」
別れは、
明るかった。
だから、
誰も疑わない。
その光景を、
《非裁定》は見ている。
「……納得しちゃうんだ」
ミリアの声が、
かすれる。
「自分のためだって、
言われるから」
リュカが、
淡々と分析する。
「拒否すると、
“協調性がない”になる」
「拒否しなければ、
自分が消える」
エルドが、
低く呟いた。
「……どちらも、
選択だ」
「だが――
選ばされてる」
レインは、
青年の背中を見つめる。
彼は、
振り返らない。
振り返れない。
「……介入したら」
ミリアが、
歯を噛みしめる。
「ノーリトリートが
“正しさを否定する存在”になる」
「うん」
レインは、
即答した。
「“配慮”を壊す側になる」
世界は、
落ち着いていた。
暴力はない。
怒号もない。
それでも――
居場所が、
静かに削られていく。
その夜。
青年は、
一人で机に向かい、
宝珠を見つめていた。
使えば、
戻れる。
使えば、
同じ場所に立てる。
「……一回だけなら」
誰も、
止めない。
止められない。
幸福は、
圧力にならない顔で、
背中を押す。
青年は、誰にも相談しなかった。
相談すれば、
止められるかもしれない。
止められたら――
説明しなければならない。
だから、
黙っていた。
夜。
小さな部屋。
机の上に、宝珠。
淡く、
温かい光。
「……一回だけ」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
願いは、
はっきりしていた。
「……元に、
戻りたい」
光が、
静かに満ちる。
痛みはない。
恐怖もない。
魔物化は、
起きない。
何も、
壊れない。
翌日。
青年は、
元の部署に戻っていた。
「おお、
よかったじゃないか」
上司が、
笑顔で迎える。
「安心したよ」
「やっぱり、
同じ条件じゃないとね」
同僚たちも、
自然に席を詰める。
「おかえり」
「これで、
気を遣わなくて済む」
その言葉に、
誰も引っかからない。
青年は、
微笑んだ。
「……はい」
違和感は、
消えた。
隔離は、
なかったことになる。
それが――
一番、恐ろしかった。
数日後。
《非裁定》は、
報告書を前にしていた。
「魔物化、
確認されず」
「精神安定指数、
改善」
「社会適応度、
上昇」
完璧な成功例。
「……失敗じゃない」
ミリアが、
かすれた声で言う。
「むしろ、
“正解”だって言われる」
リュカが、
静かに続ける。
「一人が宝珠を使ったことで、
場が安定した」
「誰も傷ついていない」
エルドは、
拳を握りしめた。
「……戻れなくなった」
レインは、
報告書を閉じた。
「うん」
「これが、
《願望飽和》の怖さだ」
「拒否する自由は、
確かにある」
「でも――
拒否し続ける人生が、
許されない」
青年は、
今日も普通に働いている。
笑っている。
感謝している。
そして、
二度と宝珠を疑わない。
世界は、
一つ、
“正しさ”を学習した。
使わない方が、
不安定だ。
誰も、
そう言葉にはしない。
だが、
皆が知っている。
レインは、
窓の外を見た。
街は、穏やかだった。
「……もう」
小さく呟く。
「宝珠を止める話じゃない」
「これは――
使わない理由を、
守る話だ」
《非裁定》は、
敗北していない。
だが――
勝てない戦いに、足を踏み入れた。




