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海底遊歩(後編)

『私がいなくなっても、君はここで生きて行きなさい。この街の住人は皆、少しだけ変わっているから、君も紛れてしまえるよ。この街も、いつか海に沈むんだけど、それはずっと先の話だから』



 ヨシザキが言ったずっと先は、彼が亡くなって七十年以上経った今も、ずっと先にある。

 東から最初が始まろうとしている今も、最後はずっと先にある。

 今日に生まれた子供さえ、年老いて亡くなった先にある。

 みんないなくなった街で、いつか、わたしが見る光景は、そんな時間の先にある。





  最終話



 地下の古着屋には、店員でない筈の歯欠け男がいて、また店番を頼まれているのだと笑った。


「ね、今日は一人?」

「そうよ。買うものは決まっているから、すぐに済むもの。でも、一人で来た事は内緒にしてね。その茶色い革のジャケットが欲しいの」

「これ?んー、ん。彼女にはさ、もっと可愛いのが似合うんじゃない?」


 歯欠け男は顎に手をやり、商品を見上げるだけで下ろそうとしない。



「でも、革ジャケットを着るように言われたのよ。バイクの後ろに乗るならそうしないとダメだって」

「ハハッ、この寒いのにバイクで走るの?革じゃないとダメって事はないけど、だったら、もっと防寒タイプの方がいいよ?奥にいいのがあるから待ってて。中綿も入ってるし、革も厚めで柔らかい良い革を使ってるよ?だけど、白だから残っちゃってね」


 この様子では、頻繁に店番を頼まれているに違いない。というか、店の者は誰で何処で何をしているのだ。


「ね、これ可愛いでしょ。試着する?彼女には大きいかな。直しもするよ?」


 わたしは暑いのも寒いのも平気で、修理屋もそれを知っているから、今回、服装を指定されたのは転倒を考えての事だ。防寒については考えなくてもいいのだけれど、わたしはその品が気に入った。試着すると、少し大きいくらいで直す程でもない。



「これにするわ。ねえ、冬にバイクに乗るってそんなに寒いの?」

「走ると風がね、冷たいを通り越して痛いよ」



 地下を出ると、外は強いビル風が吹いていた。わたしは寒いのも痛いのもよく分からない。人間にとって気持ちの良い感覚ではないようだし、やっぱり、バスにした方が修理屋には良いのではないか。

 中央区のバスターミナルで路線図を確認すると、東回りはまた縮小されていた。街角の公衆電話は、電視台通りらしく電視電話。以前、解体屋が工場にかけてきたのもここだ。わたしは、駅ビルのダイヤル式なら何度か使った事がある。でも、ここは初めて。操作にもたつきながら工場に繋ぐと、不鮮明な画面に修理屋が映った。



「あのね、東端に行く時の事なんだけど、パスで途中まで行って、とても歩くのと、バイクに乗って、とても寒いのと、どっちが良い?」

『寒い方がマシ』


 修理屋はもう少し、言い方というものを勉強したらいいと思う。



「あ、バスがダメなら、バイクじゃなくて車を借りたらどうかしら。それなら修理屋も寒くないわ」

『車が通れるのはバス道まで。俺が我慢出来ない寒さなら行かない。それと、録音機は持って来ないで』


 切れた。修理屋は全部知っていたから、最初からバイクで行くと言ったのか。いちいち無駄がない人だ。録音機が留守番を言い渡されたのは、これも転倒した時に壊れるといけないから、という事だと思っておこう。

 念のため、解体屋が出入りしている診療所よりも安全な配管屋のアパートに置いて帰る事にした。配管屋はいなかった。この頃は道具屋でも見かけない。いない間に描いて、机に置きっぱなしだった絵は、積まれた古い絵の一番上に移動していた。配管屋はいつも、ちゃんと見てからそうしてくれる。机の引き出しには画用紙が入っていて、これは自分で買い足したり、いつのまにか配管屋が入れたりしたもので、質も大きさも不揃いだ。

 歯欠け男と沢山の服の絵を描き終わっても、配管屋は帰って来ない。何となく玄関まで出て、ふと、靴を隠して自分も隠れる事を思いついた。机の下という簡単な場所でも、奥に潜り込めば、長身の配管屋の視界には入らない。ずっと隠れているつもりはないから、布団に寝転がられてしまえばそれまで、というのも丁度良い。

 暗闇の中で二時間ほど待っていると、配管屋の足音と、すぐにポケットからキーホルダーを出す音が重なって聞こえた。玄関近くの壁スイッチで部屋の明かりが点き、洗面所へ行きかけた足が、方向転換してこちらへ来たものだから、わたしはてっきり、もう見つかったのだと思った。でも、配管屋は机の前に立ったままで、机の下を覗き込む事も、わたしに声をかける事もしない。少し屈んで、机の上に置いた新しい絵を見ているらしい。ここから見えるのは配管屋の足だけで、顔は見えないけれど、それは見なくても分かる。



「何を描いたんだかなぁ…。いっつも分かりゃしねぇや」



 ほら。いっつもそんな顔をする。画用紙を手に取る音に、わずかに遅れて呼び鈴が鳴った。部屋へ上がる客なら隠れているわけにはいかない。何かの集金という事もあるし、とりあえず、玄関先の会話を聞き取ろうと少し机から顔を出した。



「合鍵使えや」

「男の部屋の鍵なんか、いちいち持ち歩いていないヨ。下を通ったら、電気が点いたのが見えたからネ。寄ってみタ」



 困った。今はまだ、道具屋と会わない方が良い気がする。彼が帰るまでは出ないでおこうと決めた。なのに、道具屋はわたしが隠れている机の前に来て、とん、と机の上を指先で叩いた。今度こそ、本当に見つかったと思った。



「これが、ここを買う事にした理由かイ?言われた通り、稼げる仕事は回すけド、仕事ばかりされるとボクがつまらないでショ」

「まあ、頼まぁね。五年もありゃあ、何とかなりそうでな。そしたら、またお前の暇潰しにつき合うさ 」



 配管屋の姿を見なくなった理由が仕事で、それはこの部屋を買う為という事はわかった。でも、買う理由の 『 これ 』 って何だろう。机の上にはわたしが描いた絵があるだけの筈だ。カラカラと窓が開いて、配管屋がタバコに火を点けた。道具屋が机から離れてくれたので、ほっとする。



「前から考えていた事なのかナ?」

「いや。レンレンの記憶障害を直すとかで、修理屋がレンレンの所に泊まり込んでいた時だな。俺ぁ、メシを持って行っただけなんだがね。あの中は診療所のまんまだろ?休診日のようで、何とも落ち着かない。人が生活している家とは違う。ヨコハマの研究所もあんなだったんじゃねぇかって。だが、レンレンにはあれが自然なんだろうなあ。足す事も引く事も必要ないくらいにな。言い方を変えれば、ヨシザキって博士はそういう状態を保ち続けて、レンレンに残したのかもしれねぇな」

「機械にはあの環境が必要なのかもしれなイ。としたら、面白いネ。じゃあ、対照的とも見えるここは、レンレンにとって何なのかナ?あんたは冷蔵庫のビールと、布団と、煙草を吸うスペースがあればいいって事を知ってるかラ、ここまで自由にしているんだろうけド」

「ここはな、あの黄色いリュックの中身と同じだ。気に入ったモンを勝手に置きまくってるだけで、別に無くても生きていける。診療所みてぇに必要不可欠ってわけでもねぇ。それだけの場所が、お前にはどう見えるってんだ」

「ボクの目は、見える通りにしか見えなイ。ここは、



 その後に二人が話していた事は、浴槽に湯を入れる音に消されてよく聞こえなかった。湯張りが終わる頃、道具屋は帰った。配管屋が浴室の中である事を確かめ、道具屋がアパート前の道から見えなくなる頃を見計らって、外へ出た。配管屋のアパートと診療所は近いし、通い慣れた道だ。でも、修理屋が心配するから、急いで帰ろう。地下に一人で行った事も、隠れていた事も、夜道を一人で歩いている事も、後でバレませんように。




   ここは 好きなことをしテ

   好きな物に囲まれて暮らしている女の子の部屋だヨ


   だから 俺はこの場所を残そうと思う

   いつか 最後に一人残る彼女のために






 診療所に戻ると、玄関横のガラスブロックを通して、薄ぼんやりとした明かりが漏れていた。待合室に誰かいる。嫌な予感がして、扉をそっと開けて覗くと、前屈みで椅子に座る解体屋の背中と、その前に立つ修理屋が見えた。どうしてこう、悪い隠し事って出来ないんだろう。夜遅い時間まで一人で出歩いていた事が、あっさりとバレてしまったものだから、修理屋に叱られるのを覚悟して入る。でも、修理屋は解体屋と話の途中らしく、わたしの方を見ない。深緑色の旧軍用コートを着て解体屋を見下ろす目は、昔のフランス映画で見た敵国軍人のようで、ちょっと怖い。

 

 

「それって、一人残らずってコトでいーんだよねー?」


 解体屋は相手が離れていても、近くにいても、声の大きさを変えない。いつでも、他の人よりも少し大きめで、少し鼻にかかったような声でゆっくり話す。修理屋が左手を肘の高さまで上げると、解体屋は、腰までずり落ちていたコートを羽織り直しながら、立ち上がった。草臥れた黒のコートは修理屋の兄のお下がりっぽい。こちらへ来たので扉の前を退くと、彼はわたしの顔を見て、首を傾げた。外でなく、診療所の何処かにいると思っていたらしい。


「今帰ったんだー?」


 そうだとも。でも、そこを強調しないで欲しかった。


「出かけるの?」


 彼の夜遊びは珍しくないから、わたしの問いかけは、咄嗟に話題を変えようとしたに過ぎない。


「うん。強いの殺しに行って来るー」






 はい?



 勢いよく開かれた扉が、ゆっくりと戻って閉まるまで、わたしはただ突っ立って、それを見ていた。殺しに行くって言った。強いのを殺しに。強いのを殺しに、強いの、強いの…。確か、あれは地下で、歯欠け男が言ったのだ。東から来た人達の中に、強いヤツらがいて困っていると。わたしは思い当たり、修理屋に訊ねた。


「地下?東から来た人達と揉めているの?」


 修理屋は小さく頷いた。 地上はこんなに土地が余っているんだから、仲良く出来ないなら、棲み分ければ良さそうなものだ。その疑問を修理屋にぶつけると、人が日常的に住める場所は限られているし、これまで地下で何があっても、危機感なくいられたのは、彼らが地上に出て来ないからで、棲み分けは既になされていると言った。


「止められなかったの?」

「止めなかったよ。行かなくても、向こうから殺しに来る。こっちの地下の連中がそう仕向けたからね」


 彼らは解体屋に幹部殺しを頼んだ事を、わざと東側に漏らしたのだと言う。だけど、解体屋は状況を考えて動いたりしない。自分達の思い通りに動かすのは難しくても、解体屋は修理屋の言う事は聞く。そういった彼らの駆け引きに、自分が利用された事を修理屋はどう思っているのだろう。


「でも、それ、解体屋が知ったら、逆に自分達が危なくなるんじゃ」

「彼は自分が他人にどう扱われようと気にしないからね。地下も長いつき合いだから、そこにリスクはない事を知っている」

「修理屋は、地下の人達の事を怒ってないの?」

「解体屋は地下が居心地良い。だったら、連中がその場所を、彼にも守ってもらえば良いと考えるのは当然だ。やり方はともかく、ね」


 でも、殺し合いに、そんなお互い様みたいな修理屋の態度は納得出来ない。それが顔に出ていたと思うのに、修理屋はこう続けた。


「俺は、行くなら殲滅しておけと言ったよ。彼は報復に備えたりしないからね。一人でも残すと、後々面倒になる」


 解体屋を見下ろしていたと同じ目が、その言葉をより冷たいものにする。だから、そうならないように皆殺しておけって、でも、それはないと思う。何だか腹立たしくなって、床に視線を落とすと、修理屋は右手の指先でわたしの額を軽く押して、顔を上げさせた。わたしの不満が、少々、彼を苛立たせたのかもしれない。



「俺が望んだのは、彼が俺の知らない人間を沢山殺しても、彼は殺されない不公平であって、正義ではないよ」



 突き放すように発せられた声は、修理屋にしては大きくはっきりとしていて、でも、さっきのように冷たいものではなかった。わたし達が彼に生きていて欲しいと思う事は、これまでも、これからも、修理屋の言う通りなのだ。修理屋は、わたしよりもずっと、彼と彼に関わる生死を身近にして来た。その上で、自分に迷いが無い。比べて、わたしの中にあるのは、もっと、漠として頼りないものだ。



「前に、高いビルの屋上に連れて行かれて、端まで行こうとするから、あなたは本当は危ない事をしちゃダメなんだって言ったら、あの人、わたしを重石代わりにして落ちないようにして、ちゃんと、危険を回避した。そりゃあ、端に行かないという選択はしなかったけど、今度の事も、本当は、彼が危ない事しない方法があったんじゃないかって思う。何か、あったんじゃないかって」


 わたしは、あの時に繋いだ手の平を見て、そう後悔する事がなければいいと思った。





 修理屋はコートを脱いで、待合室の長椅子に寝転がった。


「毛布を二枚持って来て」


 薄い純毛の毛布を取って来て渡すと、蓑虫のように包まった。


「仕事を残してしまったから、東端へ連れて行くのは来週に延ばすよ」

「うん」

「電気消して」

「うん」

「それと、門限を守っていない事については、俺は怒っている」

「…ごめんなさい」



 その夜も静かで、いつもと変わらなくて、結局、抗争なんてなかったんじゃないかって思った。地下での事でも、集団で揉めれば地上も騒がしくなる筈だ。これなら、きっと。







 夜明け前、遠くで爆発音が数回鳴った。修理屋が起きて、外を窺う。


「何?」

「こちらがやったとすれば、出入り口を塞いだんだろう。抜け道を知り尽くしている方が有利だからね。誘導して一網打尽にも出来る。向こうがやったとすれば、厄介だな。あんたはここで待ってて」

「行くの?状況は知りたいけど、修理屋にはここにいて欲しいわ」


 だけど、修理屋は、細々とした指示をわたしに出して、護身用の銃を手に外へ出て行ってしまった。基本、修理屋はわたしのお願いなど聞いてくれない。わたしは病室や脱衣所の暖房を入れたり、バスタオルや入院患者用のガーゼの寝巻きで一番大きなものを用意したりと、言われた通りの事はしておいた。扉を開けてはいけないと言われたので、窓にへばりついて彼らを待った。その内、外はすっかり明るくなって、通勤や通学の人達で一番人通りが多い時間帯になった。

 突然、人々が不自然に道の両端へと寄るのが見えた。何かに道を譲っている。彼らが関わり合いたくないと思う何かに。ああ、それはきっと、その門から入って、この扉を叩くだろう。

 修理屋が最初に、次に、解体屋らしき大きな男が入って来た。砕けたコンクリートの粉を被って、髪も顔も服も灰色になっている。近くで見ると、その下は血がべったりと付着しているの分かった。解体屋は眠そうなだけで、何処も痛くしてそうにない。この血は他の人間の中にあったものだ。


「裂傷と軽い打撲。この有様なんでね。このままシャワー室に連れて行くよ」

「俺、もう寝たいんだけどなー」


 解体屋は廊下で服を全部脱いで、渋々といった様子で浴室に入った。拾うと、その服は捨てるようにと修理屋に言われた。吸い込んだ血と塵で重くなった服とは対照的に、彼らの様子はとても軽い。ビニール袋に入れて、固く縛って、裏庭のポリバケツに入れる。死体を捨てたような、嫌な気持ちになる。だって、この血が身体の中にあった人達は皆死んだ。これが、わたし達が望んだ不公平の結果だ。


「でもな、人を沢山死なせたら、それはやはり悪い事なんだよ」


 昔、配管屋が言った通りを口にしてみた。それから、蓋をして戻った。



「レンレン。そこにいるなら手伝って」


 浴室から修理屋が顔を出して呼ぶ。


「何とか脱衣所まで歩かせたけど、この通りだ。手早くしないと寝る」


 解体屋の目は閉じていて、上半身がぐらりぐらりと揺れている。


「わわわ!寝ないでね!せめて立っていてね!ああでも、屈むか座るかしてくれないと髪が拭けないっ」

「頭はタオルを巻いておいて。身体は全身に傷があるから、押さえるようにして表面の水滴をバスタオルに吸収させて。丁寧に急いで」

「それ、わたしには難しいわよぅ…」


 修理屋が正面、わたしは背中側に回った。結局、修理屋が三分の二を担当して拭き終わると、スプレー式の消毒液を豪快に散布した。


「もう病室へ連れて行こう。髪はあっちで乾かせばいい」


 両側から挟むようにして歩かせ、ようやくベッドに座らせると、解体屋は目を開けてぼんやりと周囲を確認した。


「もう寝ていいー?」

「髪が乾いたらね。今、何処か痛いか?」

「全身がヒリヒリするくらいかなー」


 そう言って、また目を閉じてしまった。修理屋が塗り薬の瓶を持った手の甲で、頬を軽く叩いて起こす。わたしは解体屋の目を隠さないように気をつけながら、タオルで髪を拭き続けた。


「ああ、消毒したからね。外傷は大した事ない。吐き気がしたり、頭が痛くなったら、すぐに言ってくれ」

「んー」


 ドライヤーで髪を乾かし終えた時にはもう、座ったまま眠っていた。上半身を倒して、二人で足をベッドの上に持ち上げる。解体屋は太っていないけど、骨太というか筋肉質というか、とにかく重い。眠っているから余計に重い。


「終わったーー…と、思っていいのかしら」

「そう思いたいね。内出血していなければいいけど」


 修理屋は解体屋の髪を分けたり、頭皮を触ったりしている。もう一度、一息ついたところで、呼び鈴が鳴った。



「仕返しに来たなら、呼び鈴を鳴らしたりしないわよね」

「そうとも限らない。扉を壊すより、中から開けさせた方が楽だろう?」

「そこで寝ている人は壊して入ったわよ」

「インターホン。直してあるから、出て」

「いつのまに…。えと、どちら様ですか?」

『ね、彼女ー。解体屋は帰ってるー?』

「歯か…っ!古着屋さん?」

『そう。正確には古着屋の友人だけどね』

「修理屋。地下で解体屋と話してた人」


 修理屋が前に出て扉を開けると、煤で薄汚れた歯欠け男が立っていた。


「一人も残していないか?」

「全員殺したと思うよ?まあ、こっちは数と地の利で押せたけど、向こうはとにかく、強いのが多くてさ。こっちも大分被害出たよ。これって、君らには良い事かな」

「そうでもない。共倒れて、あんたらがいなくなると、地下は崩れて、上も崩れる。適当にいてくれないと困る」

「ね、君が修理屋だよね。僕らは君をも利用したつもりだったのに、適当にいてくれとはまいったなあ」


 歯欠け男は悔しそうでもなく笑った。修理屋の質問がいきなりだったから、二人も知り合いだと思ったのに、違うみたいだ。


「解体屋はこっちよ」


 病室に案内して、スライド式の扉を開けると、解体屋はぐっすりと眠っていた。



「あんな後で、悪夢も見ないで眠れちゃうんだ?」


 歯欠け男は解体屋の顔を覗き込み、羨ましいように苦笑した。そして、続けた。


「暴力で快感を得るヒトだったら、まだ理解出来るんだよね。そういうの、多いから。でも、彼、他の何をする時とも変わらないんだよね。歩くのと同じ。話すのと同じ。眠るのと同じ。怖いよね」


 わたしは、いつでも何も見ていなくて、それでも怖いと思っていた。見ていたら、わたしの望みは今とは違うものになっていたかもしれない。

 修理屋は隣のベッドに腰掛けて、しばらくはここにいると言った。外傷よりも、落盤で頭を強く打っていないか気になるのだという。


「今更だけど、あなたはケガしなかった?何処も痛くない?」

「僕は伝令だからね。そういえば、珍しい事があったよ。僕が彼に次のポイントを伝えている最中に弾が飛んで来てね、それで、僕、反射的に危ねーって口にしたんだよ。そしたら、彼、これは危ない事かと聞くんだ。そうに決まってるだろうって言ったら、いきなり帰ろうとするし、困っちゃったよ。でも、センメツってのをしとけって言われたしなあって、彼も少し困ってた。彼が困るの、珍しいんだよね。何かね、危ない事をしたらダメだって言われたって、だから、怒られるって。まあ、そう言いながら、また戻ってくれたけど」


 修理屋が目だけを動かして、わたしを見たのが分かった。まさか、解体屋が覚えていたとは思わなかった。忘れていて、歯欠け男の言葉がきっかけとなって、思い出しただけかもしれないけれど、また、ちゃんと反応した。どうしてだろう。今まで、誰からも言われなかった筈はないのに。



 歯欠け男を見送る為に、一緒に廊下に出た。細かいざらざらとした砂が、スリッパの底で擦れて気持ち悪い。べとりとした黒い大きな足跡は、待合室を通って浴室前まで続いている。


「あーあ。掃き掃除をして、拭き掃除もしないと、それから、浴室も。わたしは今からが大忙しだわ」

「ね、解体屋が起きたら怒る?」

「わたし、あの人が悪い事をしても怒った事ないわよ?そういえば、どうして怒られるなんて言ったのかしら」

「やっぱり君が言ったんだ?でも、本当に帰ろうとしたんだよ。嫌われたくなかったんじゃない?」


 それは絶対にない。わたしは何年も前だけど、工場で解体屋の彼女を見た事がある。とても可愛い人だった。なのに、彼は、女の子は誰でもいいと言ったのだ。親しくしている人間に対してさえそうなのだから、わたしなどの認識は『わたし』ではなく『修理屋の』でしかない。



「ね、また地下においでよ」

「うん。でも、もう一人では行かないわ」

「奥に入り込まなきゃ、そう怖い所じゃないよ?」

「うん。さよなら」


 門を閉めて、内側から手を振った。修理屋にダメと言われているから、とは言わないでおいた。今日はよく晴れていて、風もない。東端へ行く日も、こんなだったなら、修理屋は寒くないだろう。









 ベルリンの壁というものは、こんなだったろうか。そう思ってしまうくらいに、東端は高い塀で他と分断されていた。修理屋はそのかなり手前でバイクを置いて歩き出したけれど、すぐに立ち止まって、手を伸ばして来た。何か要るものがあるのかと思い、背負っていたリュックを渡す。



「違う。手を繋いでおいて。足元が悪いから」



 修理屋は手を繋ぐのを嫌がるから、理由があるにせよ、自分から言い出すのは初めてだ。隣に走って行って、急いで手を繋ぐ。でも、修理屋はわたしに自分の手を持たせているだけで、ちっとも握り返さない。



「あのね、修理屋はわたしに手を繋いでって言ったの。でも、こういうのって、わたしが一方的に掴んでいるというのよ」

「じゃあ、掴んでて」

「うわ、言い直す方を選ぶ!?」



 わざと転んでやろうかなんて、悪い考えが浮かぶ。でも、修理屋は的確に、わたしが躓きそうな場所を避けている。わたしを支えきれない修理屋は、その為に手を繋いだのだ。何だか色々と諦めた気持ちになって、壁に沿って歩いていると、いくつか、頑丈に施錠された扉を見た。人が通る大きさだったり、大型車両も通れる大きさだったり、いずれも、開きそうにない。



「一ヶ所、崩れている場所があって、そこから中が見える筈だ」

「調べておいてくれたの?」

「いや。昔に聞いた話だ。今も塞がれてはいないだろう」



 少し歩いた所に、穴はあった。壁は思ったより分厚くて、そこも自然に崩れたのではなく、ドリルか何かで破壊されたようだ。修理屋に腰を掴んでもらって、頭から突っ込み、何とか肩も抜いて、向こう側に顔を出す。



 目に映ったのは、白。





 何もない。


 東端には何もない。道具屋はそう言った。

 それは、見るべきものは何もないという意味であって、本当に、何もないとは思わなかった。

 人造物も、植物も、何もない。色が抜けたような白い土が、海岸線にも建つ壁まで広がるばかりだ。

 道具屋は自分が生まれた場所があるとも言った。ここがその跡地なのだとすれば、ここには、何があったのか。ここで、何があったのか。どうして、今、こんなにも何もないのか。



 修理屋に声をかけようと首を捻ると、内側の壁にアルファベットと漢字と記号が入り交ざった文字が見えた。一番最後の一行は、この国が昔に呼ばれていた名前だ。修理屋にそれを話すと、彼は奇妙な事を言った。


「配管屋の国も、そのずっと向こうまでも、一つの国だったのは知っているか」

「うん」

「ここは、その頃にあって、そして無くなった場所だ」












 わたしは修理屋に連れられて、中央区の大きな病院へ来ていた。東端を見た日から、一ヶ月も過ぎた頃の事だ。


『あんた、手を繋いでいてやってくれないか』


 言われるままに、立派な病室のベッドに眠る解体屋の手を軽く握ったが、反応はない。


『ずっと眠っているよ』


「いつから?診療所にいないのは、女の子の所にいるからだと思ってた」


『地下から戻った日の午後に、一度起きて、また眠った。それからずっとだ』


 こんな事になっているなんて、思いもしなかった。修理屋は彼が戻って来た直後から、頭を打ってやしないかと気にしていたのに。わたしはどうして、すぐに忘れてしまったのだろう。



『あんたにやると言っていたよ』


「何を?」


 まだ呆然としたまま、考える。前に断ったお金の事だろうか。あの黒鞄は、結局、診療所の病室のベッドの下に転がされたままだ。


『あんたにはやらないって言ったけど、やっぱり、全部やるって、そう言った』


 修理屋は解体屋が口にしたままをわたしに伝える。何の事かとも聞かない。



「いつ、起きるの?」


『分からない』



 それから、わたしは毎日来て、手を繋いだ。握り返して来ないかと、そんな事も思わなくなった五年目の春。 解体屋は、この世界から逸れたまま、とても静かに逝った。





 虫屋は奥さんの七回忌の年に、胸を患った。どうしても夏までは生きたいから、病院は嫌いだけど仕方が無いと言い、入院先ではわたしがお世話をした。


『おう、今日は十三日か』


「そうよ」


『そうか。やっと、あいつより年上になれた』


「年上になりたかったの?」


『まあ、一度くらいはな』


「ふーん」


『今日はいい日だ』


 虫屋はわたしが知る中で、最も高齢まで生きた。それでも、やっぱり今の人は百年と生きないのだ。





 修理屋の兄は、小さな飛行機で大陸へ向かったのを最後に、消息を絶った。高い所が好きで、乗り物が好きで、猫はそうでもなくて、人がいる所が嫌い。背の高さも、少し垂れ気味の目も、髪の色も、話し方も、修理屋とは何もかもが似ていない人だった。





 道具屋の彼女は、四十歳を過ぎた頃から姿を見せなくなった。彼女がいつも腰掛けていた事務椅子を片付ける道具屋は、全部分かっていたような顔をしていた。


『いなくなったら泣くかなと思ったのにネ。自分の変わり無さにうんざりするヨ 』





 晩年、配管屋は仕事をやめて暇だからと言って、いつも道具屋の店先にいた。時々、わたしも加わり、三人でボロ机を囲む。店の前の黄色い道にはトラックが通り、たまに客が来る。その日もそんなで、道具屋に来客があって、彼が鉄扉の中にいる時、配管屋が肘の辺りを掻きながら、ふと聞いて来た。


『いつか、この街から人がいなくなっても、お前はここに残るのか?』


「うん」


『道具屋に他所へ連れて行ってもらわねぇか?』


「ううん。わたしはここから何処にも行かないのよ」


『そうか。まあ、そうなんだろうなあとは、何となく思っていたがね』


「配管屋は道具屋の事、よく知っているの?」


『見てりゃ分かる事しか知らねぇよ。どうしてか、ゆっくり年を取るって事くらいだ。あとは、たまにしょうもない事で拗ねる』


 後の言葉は、内緒だ、というふうに笑った。





 修理屋は、子供の頃から丈夫な人ではなかった。でも、長生きはするつもりだと言って、実際、長く生きた。毎年、修理屋の誕生日にはお祝いをした。ウサギの着ぐるみは、年を経て色が抜けて、最後は薄汚れた白になった。修理屋の髪も、同じように白くなった頃、彼は掠れた声で、独り言のように、こう言った。




   あんた、よく来たね。       よく来てくれたね。 




   うん。ニホンから船に乗って来たのよ。  



    修理屋。  わたしを待っていてくれて、ありがとう。










 配管屋の部屋の窓枠に座って、足をぶらつかせていると、爪先がばしゃりと水面に触れた。街が浸水を始めた頃の水は茶色くて、自分の足元も見えなかったけれど、今の透明度は中々のもの。もう、すっかり海の色だ。

 隣には黒い録音機。再生ボタンを押しても動かない。簡単な故障なら、わたしにも直せるようにと、修理屋が教えてくれた。けれど、手動充電器の方が先に壊れてしまった。でも、淋しくない。この中に、ちゃんとあるから、淋しくない。


 さて、空に手を振って、そろそろ行こう。録音機を背負って飛び込むと、沢山の小さな泡が出来て、わたしの体に触れては消えた。ゆっくり、ゆっくり、地上に降りる。

 道具屋へ通った道。工場区へ続く橋。水銀灯の道。猫の駅。駅ビル。高架下。しばしの海底遊歩。他にも行っておきたい場所は山ほどある。それほど、わたしはこの街で、多くの時間を過ごした。だけど、動けなくなると困るから、まだ何処も不調じゃない内に、修理屋のアパートへ向かった。門柱はそのまま。建物は窓ガラスが全てなくなっていて、小さな沢山の魚が出入りしている。玄関前の階段は、石や砂は勿論、プラスチックのバケツの欠片やら、電化製品の残骸やら、とにかく様々なもので覆われていた。手で全部取り除くと、まだコンクリートの白い部分が残っていた。その上を、斑に濃く葉の影を落としていた日を懐かしむように、水面を映した薄い光が揺らいでいる。

 あの日、ここに座り、十二歳の修理屋が、わたしを待っていた。






 ピー・・ガーーーッ・・・・



『『『 発見した。かなり腐蝕が進んでいる…。写真、本当に撮らなくていいのか?』』』


「いいヨ。カノジョが最後に選んだ場所を知りたかっただけだかラ』


『『『 ここは…アパートの玄関前だな。階段に座っている 』』』


「そう。ありがとう。お疲れ様。もういいヨ」



 ダイバーが小型船に戻ると、最近、知り合ったばかりの彼の友人が、海に花束を投げた。


「あんたがその花束を用意した時さ、それは何だと聞いたら、この街で最後に死んだ女の子の為に、と言ったろ。まさか、ロボットだとは思わなかったぜ」

「ロボットだけど、女の子だったヨ」

「ハハッ。知っていたコみたいに言うんだな」


 ダイバーはさして気にも留めず、沈んで随分と経つ水底の街を眺めた。






これで完結です。ありがとうございました。

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