海底遊歩(前編)
『二一九一年。八月二十八日。十五時三分。曇り。修理屋のアパートよ。はい、修理屋。喋って』
『何?』
『このマイクに向かって喋って。そうすると、こっちの機械に録音出来るのよ』
『それは分かっている。俺に何を話せって?』
『何でもいいのよ。沢山喋って』
『別に話す事はない。それ、邪魔だからこっち向けないで』
『長椅子に寝てるだけじゃない。わたし、ちゃんと休憩に入るまで待ってたのよ。…背中を向けられてしまったわ。 いいわよ。質問に切り替えるから。わたしの事、好き?
…手を挙げてもダメよ!しかも、面倒そうになんて失礼しちゃうわ。録音なんだから、言ってくれなくちゃ』
ここで、いつも、わたしはスピーカーに耳を近づける。古い録音機は、この後に続く修理屋の声を、わずかに捉えてくれていた。この頃にはもう、初めて聞いた時の、極端にかすれた声ではなかった。それでも、大人になる前の修理屋の声だ。
「…あのなあ。それ、俺ん家で再生するのはやめてくれねぇか?修理屋も俺に聞かれたくはねぇだろうよ」
「二一九七年。十二月八日。十時十五分。雨。配管屋のアパートよ。配管屋が煙草を吸っていて、窓を開けているから、ほら、雨音が聞こえるかしら?」
「今、録ってんのかよ?もう、俺の声なんかいいだろ」
わたしは覚えている事なら、見た時のまま、聞いた時のままを鮮明に再現するから、配管屋はどうしてわざわざ他の機械を通すのか、といった顔をする。
「まあ、写真を撮られるよりはマシだがね。黙ってりゃいいんだからよ」
六年前に道具屋でこれを購入する時、カメラやビデオも手にしてみた。でも、彼らを通した世界は、わたしに馴染まなかった。それからは定期的に、これを手提げて歩き、街の音を録った。人の声も録った。そうしていつか、みんながいなくなった時、この機械は、わたしと同じものを覚えてくれているのだ。
「今更だけど、これ、リュックに入れて背負うようにしたらどうかしら」
「まあ、その方が歩き易いだろうよ」
「おねーさんに作ってもらえるか聞かなくちゃ。ねえ、おねーさんの家って、道具屋に聞いたら教えてくれるかしら」
「眼鏡のねーちゃんかぁ?昨日は店の方に来てたぜ。今日もまだいるんじゃねぇか」
「ええっ!道具屋とおねーさん仲直りしたのっ?道具屋は喧嘩はしてないって言ってたから、仲直りって言うのは違うかもだけどっ」
「あー…お前、興味深々だったよな。道具屋が喋らねぇからって、ねーちゃんの方に聞いてやるなよ?」
彼女をおとすのは簡単だったのに、釘を刺されてしまった。しまった。黙っていれば良かった。道具屋が彼女を怒らせた状況も気になるけれど、実は、もっと気になっていた事がある。何故、道具屋は彼女を怒らせてみたのだろう。道具屋は、わざとそうしたに違いないのだ。意味のない気紛れかもしれないけれど、わたしは何となく引っ掛かっていた。
「じゃあ、これから道具屋に行ってみる。その後で、地下につき合ってもらえる?布地を見たいの」
地下は駅前ビル入口付近なら、これまでも何度か利用している。修理屋の誕生日に着るウサギの着ぐるみも、このエリアの雑貨屋で買った。でも、それを知った修理屋に、地下は治安が悪いからと、一人での出入りは禁止されてしまった。放任なのか、過保護なのか、よく分からない人だ。
「今日か?晴れりゃあ、午後は仕事に出るんでな」
配管屋は黒縁の眼鏡を外し、少し窓から乗り出すようにして、一方向の空を見た。わたしも一緒になって、同じ方角を見た。雲が薄くなって、もう明るい。
午後にはすっかり晴れた。
道具屋の店先に置かれたダンボールには、昨日、入荷したばかりだという半端物の色ガラス食器が入っていた。あれこれと持ち上げては陽に透かし、コンクリートにその色を落として遊んでいると、鉄扉の奥から彼女が出て来た。わたしに質問責めされると思ってか、思いっきり警戒している。曖昧に笑うばかりで、鉄扉から手を離そうとしない。背凭れの凹んだパイプ椅子に座り、雑誌を読んでいた道具屋が、一緒に商品を見てやってと、彼女に声をかけてくれた。
「この緑色、修理屋の右目と同じ色だわ。わたし、これ買おうっと。ねえ、おねーさんは青を買わない?」
「本人にバレると恥ずかしいんですけど…」
「あら、色違いでお揃いのコップを買うだけなんだから、ヘンじゃないわよ」
道具屋の目は青い。人種的には黒い筈の目が、両目とも青い。修理屋は左目が黒くて、右目が緑色だ。道具屋が言うには、彼の目と修理屋の右目は、理由がそれぞれ違うらしい。修理屋の右目は天然で、自分のは生まれつきでも人工と同じで、でも、わたしと同じではないと言った。どんな理由でも、きれいな青だ。
「それとね、この録音機なんだけど、背負って歩けるようにリュックを作ってもらえると嬉しいの」
「いいですよ。その四角い形なら、作るのも難しくないですし」
「ありがとう!布地はまだ用意してないから、手に入ったら道具屋に預けておくわ。これ、お礼にプレゼントさせてね」
二つのコップを両手に持ち、道具屋の所へ走って行って、ボロ机の上に置いた。
「これください。別々に包んでね」
「毎度ありがとうございまス。銀貨二枚ネ」
道具屋は緑の方だけを古新聞紙で包んで渡し、青い方は自分の手元に引き寄せた。
「おねーさんのも包んで」
「ここで使うでショ」
「そうなの?わたしは持って帰ると思うけど」
「ボクも、今はカノジョ、そう思っていると思うヨ」
「ここで使うって言うように仕向けるつもりね。道具屋のそういう所って才能なのかもだけど、お仕事だけにしておけばいいのに」
「そうだネ。ボクのはもう悪癖だから、わざとそうしないのも難しくて困っていル」
道具屋にとって、困るという事は、結構、楽しいのだろうか。ガラスコップを見つめて笑う彼は、何となく、幸せそうに見えた。ああ、そうか。もしかしたら彼は、困ってみたかったのかもしれない。彼女を怒らせてみたのは、そういう事だったのかもしれない。これは、わたしの勝手な想像だけれど。
「あーあ。結局、道具屋がおねーさんを怒らせた原因を聞けなかったわ。配管屋がおねーさんに聞いてやるなって言うんだもの」
「そんなに知りたいかイ?別に面白い話でもないけド、言葉を伏せていいなら教えるヨ」
「本当?うわ、やった!教えて欲しい!」
慌てて立ち上がった拍子に、ピアノ椅子がガーーッと後ろに飛んで行った。売り物のメジャーで録音機の寸法を測っていた彼女が、何事かと中腰でこちらを見た。手を振りごまかし、道具屋の声に耳を傾ける。
「あの日、ボクと配管屋はここに座っていテ、配管屋に今まで使っていた~が製造中止になったかラ、お前が使っているのと同じのを分けてくれって言われたネ。そこへ、たまたまカノジョがお茶を運んで来てくれタ。『ボクは~が出来て困る~はしないから~は使った事がない』って配管屋に言った後、カノジョに『ねえ?』って同意を求めたラ、そのまましばらく姿を見せなくなったんだヨ」
さっぱり分からず、不満が思いっきり顔に出た。道具屋は満足げに笑う。やられた。やっぱり、この人はこういう人だ。
ヨシザキが死んだ時は、隣に住んでいたお婆さんが世話をしてくれた。というより、わたしは何も分からなかったから、彼女が全部してくれた。わたしはその時に、お葬式というものを覚えた。彼女には身寄りがなかったので、彼女のお葬式はわたしが出した。だから、お葬式は一昨日が三度目だった。
修理屋の喪服を入れた紙袋に、解体屋が待合室に脱ぎ捨てたままだったそれも拾って入れる。寝心地なんてわたしには分からないが、診療所のベッドが気に入った解体屋はすっかり居ついてしまった。仕方なく、玄関の鍵は夜も開けっ放しだ。勿論、防犯上よろしくないのだけれど、解体屋が出入りしている家は泥棒だって避けて通ると修理屋は言う。
「ネクタイが見当たらないわ。何処に置いたの?」
「あっちの道ー」
それは置いたのではなく、捨てたというのだ。緩々でも、お葬式が終わるまでは確かに締めていたのだから、解体屋にしてはよくもった方か。
この辺りで洗濯屋は配管屋のアパート近くにしかない。カウンターで太い腕をしたおばさんが持ち込まれた服にシミやキズがないかを点検している間中、わたしは解体屋に話しかけ続ける。解体屋が水槽の赤いひらひら金魚やらに興味を持たないように、視線を自分に向けておく為だ。それでも、外で待たせるよりは目の届くところにいてもらった方が、こちらも止めようがある。短時間なら何とか話がもって、洗濯屋を出た途端、どっと気疲れた。もういい。帰りたい。
「はぁー…。修理屋がついて来てくれるって言ってたのに」
「急ぎの仕事ー。あいつじゃなきゃダメなんだって。あんたは急がないし、俺でもいいじゃん」
「あなたは一緒に行かなくていいの?」
「俺が必要なら俺を連れて行ってるよー。あんた、俺よりバカ?」
「うっ…」
解体屋は肉の解体をしていた頃から、修理屋の雑用のような事をしていた。主に、重い機械を運んだり。まあ、わたしも何度か運ばれている。今はこれが解体屋の仕事のひとつ。他に何をやっているのかは知らない。
「修理屋に言われたと思うんだけど、わたしが地下を出るまではついていてね。これって解体屋の仕事?」
「暇ならあんたについて行ってやればと言われただけー。それを覚えてる間はついて行くよー」
忘れられたら置き去りか。仕事なら解体屋はちゃんとするのに。
「じゃあ、わたしがお金を払えば仕事になる?えーと、ボディガードってヤツ?」
「あー、俺、それ仕事にすんの禁止されてんだよー」
耳が聞こえない解体屋と話しながらでは歩き難いから、地下へ下りる駅前ビルに着くまでは自然と無言だった。
地下は少し奥に進むと刺激的な遊び場というものがあるというし、最奥は危ないモノが売買されているというし、暴力的な事件も日常茶飯事だというし、わたしは修理屋に言われるまでもなく、そんな所に行こうとは思わない。でも、本当に入り口付近なら、修理屋が心配するような事は何もないのだ。
「こっちよ。すぐそこの…ええっ!店が無いっ?閉店した?いつ!?」
「俺が知るわけないじゃん」
そうだった。解体屋は少し前まで、この街から姿を消していたのだ。目当ての店があった場所は、古着を売る店になっていた。その店の通路から、ニット帽を被った若い男が解体屋の視界に入るように移動して来て、注意を惹くように手を振った。
「ね、本当に帰って来てたんだ?この店に用?僕はこの店の者じゃないんだけど、一時間くらい店番頼まれちゃったんだ」
男性にしては高い声だ。前歯が一本欠けている。この人は手をよく動かしながら話す。
「俺じゃないよー。用があったのはこいつ」
「そうなんだ。ね、彼女?年下は珍しいね」
「わたしは違うわよ。それに、用があったのは前にここにあった店よ」
歯欠け男はわたしが客じゃないと分かると、また解体屋と喋り出した。
「ね、奥には行った?知らない顔が増えたよ。東から随分と流れて来てる。その中に強いヤツらがいて、ちょっと困ってんだ。近い内にその事で連絡があると思うよ。今、鳥通りの家にいるって聞いたけど本当?」
どんな情報網なのか知らないが、自分の家がわけのわからない人達に知られているのは気持ち悪い。修理屋が解体屋を泥棒避け扱いしたのも、冗談ではなかった。やはり、修理屋は冗談を言う人ではないのだ。
「んー…あっちいたりこっちいたりー、寝るのはこいつの家」
「そうなんだ。ね、やっぱり彼女?」
「違うってば。用があるのはウチのベッドで、わたしはいてもいなくても関係ないのよ」
そしてわたしは、布地が買えないのなら地下に用はない。地上までついて来てくれた解体屋は、遊ぶと言って地下に戻った。やれやれと伸びをして、ゆっくり歩き出したところで、さっき別れたばかりの人に後ろから追い抜きざまに腕を掴まれ、引っ張られた。人間なら腕が抜けてたと思う。
「俺、布が沢山ある所を知ってたー」
「は?ちょっと待って、待ってってば!」
わたしの腕を掴んだまま、ずんずんと前を行く解体屋の手を叩くが、中々振り返ってくれない。走って追い越して、口を指差す。
「店の場所を教えてくれたらいいからっ。まだ日は落ちてないし、地下じゃないなら、ついて来なくても大丈夫なんだってば!」
「そっかー。うん、店じゃないよ。爺ん家ー」
そう言って、解体屋はまた地下へと戻って行った。
何故、虫屋の家?と、疑問に思うよりもまず、虫屋の所へ行くのは、まだ、遠慮した方がいいのではと思った。でもまあ、虫屋なら、都合が悪ければ帰れと言うだろう。普段から、相手をしたくない気分の時は帰れと言うような人だ。そう思い直し、訪ねると、虫屋は奥さんが入院していた頃ほど疲れた様子もなく、用があるのかと聞いてくれた。
「あのね、解体屋が言ったの。虫屋が布地を沢山持ってるって。それって、気に入るのがあったら、分けてもらえる物?」
「かまわねえぜ。好きに持ってけ。あいつは俺よりも年上だったからよ、もう、形見分けする相手もいやしねえ」
重そうな鉄製の大きなミシンが置いてある部屋に通されて分かった。虫屋の奥さんは、衣類をはじめ布製品は自分で作る人だったのだ。透明の衣装ケースに整理された様々な種類の布地の中から、欲しかった厚地のキルティングを見つけ出し、虫屋のところへ持って行った。
「何だ。そんだけでいいのか?」
「うん。ありがとう。これで録音機を入れるリュックを作ってもらうのよ」
「ああ、あれか。まだやってんのか。よく飽きねえこった」
以前、虫屋は街の音を録音して回るわたしを見て、昔、同じように色々な所へ出かけて回った若い夫婦を知っていたと話してくれた事がある。その頃は、検査で、生まれる前から色々な事が分かったもので、その若い夫婦の子供は心臓に穴が開いていたそうだ。医者にこの子はもたない子だと言われた若い夫婦は、子供がまだお腹にいる内から、出来る限り、色々な所へ出かけて、この世界を見せた。子供は医者が言ったようにもたない子だったので、生まれて三ヶ月で死んだ。人にとってそれは、どれ程の時間なのだろう。少なくとも、その子供の数ヶ月は、生きて、世界を見て死ぬのに、決して短い時間ではなかったような気がする。
道具屋にキルティングを預けてから、修理屋のアパートに行き、彼が帰って来るのを待った。帰って来たのは、わたしがこの椅子に腰掛けてから五日後だった。
修理屋は全く料理をしないので、冷蔵庫の中は飲料水と、朝食のシリアルにかける牛乳くらいしかない。わたしがいても、自分で用意して、自分で片付ける。そして、何もなくなった机の上に地図を広げて、赤ペンで線を引き始めた。
「もうすぐ閉鎖になるエリア。東端からここまで。あんた、この辺りは興味が無いようだけど、一応知らせておこうと思って」
昔に行った東は、何度も訪れたいと思う場所ではなかった。同じような建物が、真っ直ぐな道と高い塀で四角く区切られているだけだった。それでも、閉鎖になるなら話は別だ。地図上、東のルートを指でなぞる。
「修理屋も一緒に行ける?」
「週明けなら行けるよ」
修理屋との約束はいつも、その日に仕事が入らなかったらという条件が付く。わたしは昔、隣に住んでいたお婆さんに、男は容姿でなく仕事をする男を選ぶようにと教えられたものだから、仕事が相手なら仕方が無いと思っている。
「自転車で行く?それとも、途中までバスで行く?」
「いや。バイクで」
「あれに二人乗りは出来ないじゃない」
修理屋のバイクは子供の頃から乗っている改造モンキーZ50J。とても小さくて、わたしは乗せてもらったことがない。
「俺のじゃない。道具屋に借りるよ」
「道具屋のバイクって、あの大きな黒いバイク?乗れるの?」
「一応、乗れるよ。車体も起こせるし。解体屋みたいに担げないけどね。だけど、今度借りるのは悪路用の別のバイクだ。あんたのメットは俺が用意するけど、革のジャケットは持っていないなら自分で用意して」
革のジャケットなら、地下の古着屋で見た。歯欠け男の頭上に掛かっていた。彼が東から来た人達の事で困っていると解体屋に話していたのは、エリアの閉鎖が原因だったのか。地上には人が住むところが余っているのに、どうして彼らは地下が良いのだろう。
「修理屋はずっとこのアパートにいるの?」
「ここがある内はそうするよ」
修理屋は愛着があるふうでもなく答えた。人が造ったものは、人がいなくなるとすぐに壊れていくから、修理屋しか住んでいないこのアパートはよくもっている方だ。元が頑丈に造られているからだと修理屋は言う。
「わたしは修理屋がここにいるのが一番好き」
修理屋は首を傾げるようにこちらを見ただけで、何も言わなかった。そして、わたしは、これからもずっと鳥通り西の診療所にいるのだと思う。ヨシザキが遺した診療所は、わたしにとってヨコハマの研究所と同じで、人が自分の家に対する認識とは違うらしい。それを知ったのは、配管屋のアパートに出入りするようになってからだ。わたしはいつからか、あの場所に自分の好きなものを置くようになった。道具屋がその様子を見て、それは女の子が自分の部屋にする事なのだと言った。配管屋は昨年の夏、自分のスペースは台所と布団の上と窓際だけになったと文句を言いつつ、新しい飾り棚を作ってくれた。
週末。道具屋に行くと、録音機のリュックが仕上がっていた。背中側の右下に、わたしの名前が縫い取りがある。赤い刺繍糸でLingling。わたしは早速、作ってもらったリュックの使い心地を試そうと、録音機を背負ってスイッチを入れた。
「えと、ミシンは虫屋さんの所で借りました。虫屋さんに、機械は使わないと動かなくなるから、たまに来て、ここにある布を使って何か作れと言われました。だから、これ、洋裁の本なんですけど、古本屋さんで買ってみたんです。…すみません。もう話す事ないです。こんなでいいですか?」
「うん。おねーさんは喋ってくれる方よ。修理屋はマイクを向けても殆ど無視するし、配管屋は嫌そうな顔をするし、虫屋は面倒そうだし。いつもと変わらないのは道具屋だけよ。そうだ。道具屋の所にも行ってみよう。道具屋は?お客が来ているの?」
「いえ。倉庫の方にいますよ。バイクを整備するとか言ってました」
倉庫の扉は大きくて、真ん中から左右にスライドする。金属製だから重くて最初だけ力が要るけれど、少し開ければあとは滑るように開く。入り口から大声で入ってもいいかと訊ねると、電動ドライバーだか何だかよく分からないものの音が止まった。黄緑色のバイクの向こうから、汚れた軍手が手招きをする。
「修理屋が頼んだバイク?」
「そうだヨ。東端まで行くのかイ?」
「うん。せっかくだから行けるところまで」
「行っても何もないヨ。でも、最初になくなる場所だから、見ておいてやっテ」
言い終わるか終わらないかで、道具屋はまた作業を続けたので、わたしは少しだけ距離をとり、機械の音が止むのを待った。マイクは手を伸ばし向けたままだ。道具屋はわたしのこの行動に協力的なわけじゃない。録られる事を何とも思っていないだけで、修理屋とは別の意味でマイクを無視されているようだ。
五分程で、道具屋は手にしていた電動工具を収納箱に戻し、軍手と頭に巻いていたタオルを取りながら奥に向かった。わたしはすぐ後ろをついて歩き、聞いてみた。
「ヨシザキが言ってた。この街は海に沈むって。でも、ずっと先の話だって」
「そう。だかラ、あの辺りが最初。最後は今も先の話ネ」
「あのね、道具屋はぶっ」
急に立ち止まられたものだから、肩に顔をぶつけてしまった。この人は絶対に、こうなると分かっててやった。恨みがましく見上げると、道具屋は目の前のアルミ扉を親指で示して、こう言った。
「シャワー室」
続けてわたしのリュックを人差し指で示すと、更に愉快そうな猫目になった。
「一緒に入ってもいいけド、それ、防水じゃないでショ」
「…じゃないです」
録音機のストップボタンを押して、すごすごと立ち去る。そこから五メートル程も離れた時だった。もうシャワー室の中にいると思っていた道具屋の声が、わたしの耳に届いた。
「東端には、ボクが生まれた場所があるヨ。多分、そこは君が生まれた場所に似ていル」
振り向くと、アルミ扉は静かな音をたてて閉まった。




