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バックパッカーズ  作者: 根本起男&黒岩研


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3/10

十一~十六

 十一

 海岸沿いを進みつづけ、三十分ほどで直近のリゾートエリアに入ることができた。ショッピングモールのスーパーの前に制服姿の警官がいる。

 J.J.だ。

 恐ろしい形相で目をあちこちに光らせ、腰の銃に手をかけている。

「やっぱり自首したほうがいいかな」

「それはダメ。逮捕されたら最後、あなたの人生、おしまいよ」

「勝手なことばかり言うなって。こっちの身にもなってくれよ」

「飲み物ならスーパーに行く必要はないわ。この先のカフェでテイクアウトできるから」

 彼女の言うとおりだった。スーパーとは反対側にカフェがあった。緊張のせいでビールなんて飲む気になれない。コーラのラージサイズとサンドイッチを注文し、現金で支払った。カードは禁物だ。足がついてしまう。ビーチで日光浴を楽しむ人々にまぎれ、木陰に腰を落ち着ける。喉の渇きと空腹を満たしながら、あたりに注意深く目をやる。

「防犯カメラのことなら心配いらないわ」不安を察してヒロミが言う。「あなたの顔を捕えた映像は、自動的にほかの人の顔に差し変わって表示されるようにしておいたから」

「なんだって?」

「あなたはここには存在しないってこと。すくなくともモニター上はね。ただ、J.J.たちのことは気をつけたほうがいいわ。彼にとってあなたは国際テロリストというより、せっかくゆっくりもてなそうとしたのに目の前から消えていなくなった脱獄者だから。ネット回線はともかく、人間相手じゃ、わたしも手も足も出ない」

「うれしいこと言ってくれるね」苦笑するほかなかった。「潔白なんだぜ。不当拘束だ。火災に乗じて警察署から離れてなにが悪い? きみのことは知らなかった。そう言えばいい。じっさいそうなんだから」

「そのとおりよ。万が一、捕まったらその瞬間にわたし、この端末から消えるから。そうしたら証拠も残らない。あなたが合衆国の機密システムにアクセスしたなんて誰も思わないようにしといてあげる」

「そうだな。それがいい」吐き捨てるような物言いになってしまった。でも内心、新たな動揺が起きていた。ヒロミが人工知能であるかどうか本当のところよくわからないが、彼女が特別な力を持つことはあきらかだ。それを目の前で体験しているのは、ぼく一人のようだ。だったらもうすこし付き合いたい気もする。それにディスプレイに現れる彼女の顔には、まさにソウルメイトのように胸をかきむしるなにかがある。会社員として窮地に陥ったいま、すがりつくべき巫女なのかもしれない。ぼくは社会の決まりにしたがうべきか、それとも本能に忠実であるべきか。

 バックパッカー。

 放浪の旅人。

 無保険だ。だけど人生そのものが無保険だ。誰も助けちゃくれないし、結果は自らの選択次第だ。学生時代に思いを馳せる。向こう見ずそのもので旅に出た。将来のことなんて考えもしなかった。いま、そこにもどってなにが悪い。世界最高峰の人工知能がついているのだ。千載一遇の好機ではないか。

「このリゾート内に何人ぐらい来てるんだろう」ヒロミが米国政府が開発した人工知能だと信じることにして訊ねた。

「ここには彼を含めて三人が来ているだけ。いま手配書を配っているところ。ホテルとかお店とかに。顔写真つきの手配書。シンちゃん、ちょっと着替えたほうがいいよ」

 それはぼくにもわかっていた。汗まみれで臭うし、せめて帽子は手に入れないと。

「この先にアウトドア用品の店があるの。警官はまだ来ていない」

「現金が足りるか心配だな。二百ドルぐらいしかないんだ。カードは使えないだろ」

「スマホで払えばいい。心配しないで。お財布ケータイに切り替えてあるから」

「マジか」

「名義人はあなたじゃないわ。世界のどこかにいる誰かさん。お金のことは心配しないで」

 彼女の言うことをかみしめた。これはどういうことだ? 他人のカネでなんでもショッピングができるのか。急に億万長者になったようなふわふわした気分になる。でもそれは恐ろしいリスクを伴う。「犯罪だな」

「使用記録は完璧に抹消するからだいじょうぶ」

「いつかはきちんと返すよ。ほんのすこし借金するだけだ。見知らぬ誰かから」

 自分に言い聞かせ、速攻で店に向かった。必要なものを片っ端から取りそろえ、ヒロミの言うとおり、スマホで買い物ができた。レシートの名義は見知らぬ誰かだった。J.J.のパトカーが店の前にとまる寸前、ぼくは別人に変装していた。

 ホテル前の客待ちタクシーに向かう間に心を決めていく。行けるところまで連れていってやろう。とんだ有給休暇になったものだが、小さくまとまったサラリーマン人生とは決別するつもりだった。すくなくともいまは妻子のことは考えるべきじゃない。時間はどんどん過ぎていく。必要なのは一歩を踏みだす勇気だ。

 肩にずしりとくる真新しいバックパックは、ぼくを二十歳のころに引きもどしていた。


 十二

 午後三時過ぎ、ダニーはコナ空港の駐車場にもどってきた。

 古城晋治を留置する警察署で、オーブンレンジが突然発火した。こんな偶然あるはずがない。シヴァが察知したのだ。晋治はそのまま姿を消した。二時間ほど前のことだ。どこにいるか見当もつかない。島内各所の防犯カメラの映像を顔認証システムで解析しているが、三十分ほど前からシステムが不調だった。それに島内全域で通信回線が不具合を起こしている。理由は一つしかない。

 ダニーはこの島に晋治を閉じこめておきたかった。だったら空港を押さえるのが先決だ。もう一つ、ヒロ空港もあるが、直近はコナ空港だ。そこの搭乗口に真っ先に写真を配らねばならない。カラーコピーした晋治の社員証の顔写真を。

 パスポートコントロールの際の顔認証システムも障害を起こしている。あとはダニーが配る写真をもとに、係官一人ひとりの目に頼るほかない。ダニーは最悪の事態を想定した。これ以上、シヴァが暴走するなら長官の許可を得て、システムを破壊するほかない。それは人工知能プロジェクトの死を意味する。それはダニーのキャリアをも頓挫させることにつながる。甘受しがたい事態だ。

 シヴァを死なせはしない。

 念頭にあるのはそれだけだった。いまの状況を逆手に取って、なんとしても主導権を奪うのだ。それにはアナログな方法が一番だった。駐車場に現れた係官にダニーは写真の束を手渡す。もちろん車内から。たとえ顔を隠していても、むやみに自分の姿を構内の防犯カメラの前にさらすわけにいかなかった。

「偽造パスポートを持っている可能性は?」ケイリーという名札をつけた小太りのポリネシアンの女性係官が口にする。チームのリーダーらしい。

「低いと思う」

「だったら名前でわかる。顔つきなんていくらでも変えられるから当てにならない」

 ケイリーの言うとおりだ。晋治がこれからやって来るというのなら。だがすでにチェックをすり抜けてしまっていたら、アジア系の顔の男一人ひとりにパスポートの提示を求めねばならない。

「すぐに取りかかってください」

「イエッサー」ケイリーはダニーに敬礼して小走りで空港にもどっていった。


 十三

 晋治がコナ空港に到着したのは午後三時半だった。ホノルル行きの便は四時ちょうど発だ。ヒロミの力を借りて最も早い時間帯の便を予約していたが、乗りこんだタクシーの運転手がのんびりと走ったため、チェックインのリミットぎりぎりの時間になってしまった。

 またしても見知らぬ他人名義で航空券をネットで購入していた。どこに行きたいかヒロミに訊ねたら、あなたの行きたいところを選べばいいと言った。せっかくバックパックを担いでいるのだ。学生時代を思い起こし、モロッコを提案した。

 しかしディスプレイに現れたホノルル経由の目的地にぎょっとした。もうチェックインしないわけにいかない。パスポートは日本政府が発行した真正のものだ。ぼくの氏名と写真が記されている。だがチェックイン時にそれを登録すると、端末上は名義も顔写真も別人のものにすり替わるという。にわかには信じがたい。でももはや余計なことは訊ねなかった。彼女は一度決めたら絶対に曲げない。男を従わせるタイプだ。帽子を深くかぶり直す。サングラスはもう外さないといけない。チェックインカウンターの隣の手荷物検査場では係官が待っていた。バックパックは機内に持ちこめるサイズだった。いまいちどヒロミに訊ねる。

「ほんとにきみが言ったとおりになるんだろうね?」

「だいじょうぶだから。安心して」

「けど、名前ぐらいバレてるんじゃないかな」

「まだその手の情報は届いていないわ。通信障害がつづいているみたいなの」

「みたいなのって、きみがやったんだろ」そうつぶやきながら手荷物検査場の列に並ぶ。全身から汗が噴きだす。「やたら警官が多くないか」

「そうかしら。まあ、きのうのおなじ時間よりはすこし多いような気もするわ」

「わかるのか」

「防犯カメラの記録を見たの。ちょっと多いぐらいよ」

「ちょっとって……多いんだろ」

 列が進む。すぐ隣にJ.J.とおなじ制服の警官が立っていた。こっちを見ている。

「耐えられないよ、こんなの。自首したほうがいい」

「なに弱気なこと言ってるの。わたしを信じて」

 パスポートを開き、顔写真と乗客の顔を照合する白人男性の係官が目の前にいる。つぎがぼくの番だった。もう帽子も脱がないといけない。腹を決めるほかなかった。ヒロミは世界最高峰の人工知能。これまでもあらゆることを操ってきた。

 そのとき係官の背後からポリネシア系の女性係官が近づいてきた。彼女が手にするものが目に入り、たまらず帽子をかぶり直す。A4判サイズの紙にでかでかと印刷されたぼくの顔写真だ。その下にはローマ字が並んでいる。氏名だ。脚がとまり、失禁しそうになる。

「ネクスト!」男の係官が呼ぶ。ぼくの前にもう誰もいない。彼の背後にやって来た女性係官と目が合ったような気がした。

 電話の呼び出し音が高らかに響いた。女性係官はあわててスマホをつかみ、踵を返して検査場から姿を消す。

「ネクスト!」

 真っ青になりながらパスポートと搭乗券を手渡す。搭乗券はぼくの名義のまま。端末上、他人名義となっているだけだ。係官はちらりとぼくの顔に目をやり、一秒後には渡したものを無造作に返してくれる。彼の頭には、ぼくの顔も名前もまだインプットされていなかったのだ。タイミングよく電話が鳴ってくれたおかげで。もうそれだけでぐったりと疲れ果て、搭乗ゲート前のベンチにへなへなと崩れ落ちる。

「だいじょうぶ? シンちゃん」ディスプレイのなかでヒロミが心配げな顔をする。

「助けてくれたんだね。ありがとう」口にできるのはそれだけだった。

 ヒロミは肩をすぼめる。「なにもしてないわよ、わたし」

「あの女係官の電話を鳴らしてくれただろう。写真を持っていたんだ。手配書だよ」

「いいえ、わたしはなんにもしていないわ」

「よしてくれ、そんなこと言うの。見てなかったのかい、ぼくの顔写真と名前が印刷された紙を手にしていたんだ」

「カメラにそこまで映っていなかったわ。でもそうだとしたら、ちょっとヤバいね」

「ほんとにきみが電話を鳴らしたんじゃないのか」きつい口調で訊ねてしまう。

「ちがうわよ。電話は偶然でしょ」

 ほどなくしてオープンエアの搭乗ゲートが開く。すぐ向こうが駐機場だ。ゲートでのチェックは搭乗券を端末で電子的に確認するだけだった。見知らぬ誰かの名前を借りてそこを通過し、灼熱の陽射しにあぶられるアスファルトに踏みだす。


 十四

 四十分後、ホノルル空港に到着した。目的地へはそこから米国本土行きの国内線に乗り継がねばならない。ヒロミの予感は的中した。ちょっとどころか、かなりヤバい状況に突入していた。ターミナルを移動する間、テレビというテレビのニュースにぼくの顔写真が大映しされていた。

 SHINJI FURUKI

 テロップに表示された名前は見たくもなかった。帽子を目深にかぶり、サングラスをかける。パスポートと搭乗券を電子的にチェックするだけなら、ヒロミがデータを改ざんできたが、人の目はごまかせない。ターミナルの途中に行列ができ、その先で係官が一人ひとりのパスポートをチェックしている。しかも日本のパスポート所持者だけがじっくりと調べられていた。係官の手元にぼくの顔写真があるのは明らかだ。

「わたしの言うとおりにしてくれるかしら」

 ヒロミが耳元でささやく。ディスプレイにはなにかの図面が表示されている。

「なんだよ、これ」

「この建物の地図。搭乗口のそばまで職員通路を使うの」

 近くのベンチにさりげなく腰掛ける。「この格好で? スタッフのIDもないのに? それにカギがかかっているはずだ」

「IDカードで開錠する電子錠がかかってるけど、それはわたしが外すからだいじょうぶ。防犯カメラの映像もウォッチしておくわ。人のいない隙に進むのよ。いいから、早くして。行列ができている先の右手にコーラの自販機があるでしょう」

 首を曲げてそっちに目を凝らす。「あるよ。たしかに喉がカラカラだ」

「そうじゃなくて。その隣の鉄扉が清掃スタッフの通用口なの。まずはそこに入って」

「見つかるよ」鉄扉に目立つように記された“STAFF ONLY”の表示にビビる。

「わたしの言うとおりに進めばへいき」

「けど、その姿を防犯カメラが撮影してるだろ」

「そっちは心配しないで。セキュリティー・センターには一日前の映像が流れるよう、もう切り替えてあるから。その手のことはお茶の子さいさいよ」

 渋々立ちあがる。ゆったりとした足取りで自販機の前に近づき、飲み物を選んでいるふりをしながら、周囲に目をやる。誰かが見ているような気がしてならなかった。ええい、かまうものか。たとえ誰かと鉢合わせしても、通路をまちがえたと謝ればすむだけの話じゃないか。目の前で電子錠が開く音がする。行くしかない。ドアノブをつかむ。

 コンクリートが打ちっぱなしの壁が迫るひんやりとした階段を早足で下りる。

「そのまま一階まで下りちゃって」その言葉で自分がいままでいたのが三階だったことに気づく。「下りたら右に曲がってまっすぐ二十メートル進んで。ディスプレイもよく見てね」

 言われるがままに一階の廊下を進む。ディスプレイ上では、自分の現在位置が表示され、すぐ先の左手に“EXIT”とある。そこはすぐに見つかった。

「ここから出るの?」

「そう。でもいまはダメ。外に清掃車がとまってる。けど、あなたのいる場所にはいまのところ誰も近づいていないから」

 そのとき英語で会話する声を耳にする。前方からだ。複数の女性の声だった。

「誰か来てる」

「来てないわよ」ヒロミは勝ち誇ったように言う。「すくなくともあなたのことが視界に入る範囲内には誰もいないわ。いまのところ」

「冗談じゃない……出るぞ」

「まだ外に人がいる。出たらアウトよ。通報される」

 足音が聞こえてきた。声は大きくなり、廊下に響くようになっている。ゴミ収集用のカートを押すようなガラガラという音も聞こえる。

「もうダメだ……上のターミナルにもどるよ。こんなのムリだって」

「ムリよ。もどれない。そっちからは保安要員が接近中」

 女たちの声がした廊下の先に影が見え、カートがひときわ大きな音を立てながら顔を出す。背後からは硬質な靴音が聞こえてきた。

「いまよ!」

 薄暗いトンネルのなかに転がりでる。後ろ手に鉄扉を閉め、饐えた臭いを放つ濡れた路面にしゃがみこむ。降り注ぐ照明が、あえぎながら揺れる頭の影をくっきりと映しだす。

「急いで。後ろから車が来てるから。パトカーよ。さあ、右手五十メートル、ダッシュ!」

 ディスプレイを凝視する。画面の中央に赤い矢印が出現し、それが新たな“EXIT”マークを指し示している。現在位置からたしかに五十メートル先だった。バックパックを背負いなおし、駆けだす。なんでもいいから逃れたい。ただそれだけだった。新たな扉を見つけ、ヒロミの許可も得ずにドアノブに飛びつく。

「ちょっと!」

 ヒロミの声が聞こえる。ノブが回らない。大声を出しそうになった瞬間、電子錠が開く。廊下だった。目の前にエレベーターがある。三階にもどりたかった。狂ったようにボタンを押す。扉はすぐに開きはじめる。

「わきに逃げて!」イヤホンに向かって絶叫が放たれる。

 バックパックをかついだまま本能的に体が左にワンステップし、廊下のわずかの膨らみ――剥き出しの鉄骨だった――の陰に身を隠す。

 エレベーターから作業服の男が現れ、くたびれたようすで目の前の把手に手をかける。たったいまぼくが飛びこんできたばかりの扉の。

 男の姿が消えたのをたしかめ、エレベーターに乗りこんで三階のボタンを押す。永遠とも思える長い時間が過ぎたのち、信じがたいほどゆっくりと扉が閉じはじめる。

 三階まで上がり、エレベーターから転がり出る。そこで視線にさらされた。しまった。見つかった。これでおしまいだ……。全身に冷や汗が噴きだしたとき、目の前を取り囲んでいるのが、日本人の団体客であるとわかった。たったいま、パスポートチェックを終えたところらしい。視界の右手に係官の背中が見える。

「急いで」耳元でヒロミがささやく。

 奇異の目を向ける団体客を無視し、係官のほうに背を向けてのろのろと歩きだす。目指すはハワイアン航空のニューヨーク便の搭乗ゲートだ。そっちのゲートは無警戒だった。ぼくが米国本土便に乗るなんて、彼らには想像もつかないのだろう。自ら炎のなかに飛びこむようなものなのだから。

 午前七時前、JFK空港に到着した。ホノルルから九時間。とてつもなく疲れているのに緊張のせいで一睡もできなかった。そこでヒロミはぼくを国際線ターミナルに向かわせた。チェックインカウンターで改めてスマホを提示させられ、新たな搭乗券を手にする。敵陣に飛びこまされるのかと思っていただけにほっとした。

 だが乗り継ぎまであと五時間もある。どうやって過ごせというのだ。顔写真付きの手配書を手にした警察官がいまにも目の前に現れそうだった。帽子とサングラスで顔を隠したまま、恐るおそるパスポートチェックを行う関所へと向かう。だけど心配する必要はなかった。NY便に乗っている間にヒロミが空港のシステムに侵入し、手配情報を改ざんしてくれていたのだ。ぼくは数時間前、ハワイ島で身柄確保されたことになっていた。逃亡した警察署から遠く離れたヒロの街をうろついていたという。

 係官たちがたむろするブースに手配書が貼りだされていることもなかった。ぼくはがっしりした体格の黒人係官ににっこり微笑んでパスポートを見せ、堂々と関所を通過した。

 もう完璧な犯罪者だ。


 十五

 コヒマがもたなくなって、中隊ごとにジャングルに逃げこんだんだ。そこからが長かった。補給がないなかで、敵と対峙しないといけない。毎日、戦闘があってどんどん仲間が減っていく。地獄のなかの地獄だよ。一か月半ぐらいだったかな。百人ぐらいいた中隊が、最後は十二人になっちまった。けど、ボンタとコースケが残っていたから心強かった。

 誰が考えたっておかしな作戦さ。日本は神の国だから、神さまの兵隊だ。負けることはない。そんなこと口にする現場の上官はもういなかった。言いそうな連中、つまりもっと上の連中は絶対に退却命令だけはくだしたくない。おまえのせいで負けたって言われたくないんだ。でも腹のなかではそいつらも負け戦だってわかってる。となると、あとは我慢くらべ。責任の押しつけあいだね。その間に兵隊がばたばた死んでいく。それが皇軍の真相さ。それでついに動いてくれたのがうちらの師団長閣下、佐竹さんさ。司令官の村上って野郎がいたんだけど、そいつがなんの指示もできない小心者なものだから、見かねて自分で参謀本部に提案したんだ。ウクルルまで撤退するから、そこで補給しろって。

 師団長って言ったって現場の人間さ。だから作戦指令を出す側じゃない。受ける側さ。そいつが作戦をどうするか決めちまうってのは、あきらかに軍規違反。上に反してる。だけど村上のせいで作戦自体がマヒしちまってたからしょうがないんだよ。撤退するなら軍規を無視するしかなかったんだ。もう師団長さまさまって感じだったよ。自分が銃殺になるつもりで撤退命令を下したんだ。

 撤退は六月三日。いまもおぼえてるよ。ひどい雨のなか、残ってる連中でのそのそ動きだした。参謀本部からは下がってよしなんて返事はもらえていなかった。それでも下がりだしたんだ。限界だったからね。でも全員は動けなかった。戦闘で大けがを負った連中や、マラリアとか赤痢とかでどうしようもない連中がいたからね。そういうやつらはかわいそうだけど、置いていくわけさ。手りゅう弾一発と食料をすこしだけ渡してね。「あとで必ず迎えに来るから」って言うんだけど、迎えにはいかない。置き去りだね。

 下がる途中は、とにかく食糧探しさ。なんでもいいから食えそうなものを見つけようとする。食えるものじゃなくて、食えそうなものだよ。バナナの木ってあるだろ。その木の芯のところがキュウリとおんなじにおいがしておいしそうなんだ。それでみんなして食べるだろ。全員下痢よ。ひっどい下痢。動けなくなっちゃう。だけどわかっちゃいるけど、空腹に勝てなくてまた食べちゃう。当然、体力はどんどん消耗していく。それに雨季だからジャングルが一面、田んぼみたいになっている。足が沈んでふつうに歩くときの三倍ぐらい疲れる。疲れないようにするには、ちゃんとした靴、破けていない靴が必要だった。だから行き倒れの兵隊からもらっちゃうんですよ。歩けなくなる連中もいっぱいいた。座りこんじまって立ちあがる気力がもうないんだ。助けてやりたかったけど、こっちもマラリアで頭がおかしくなっちまってるからね。見て見ぬふりさ。

 するとうしろから声がかかるんだ。「兵隊さん、お米、すこし恵んでくれませんか」って。自分が兵隊だってことがもうわからなくなっているんだよ。そこまでいってる連中は十中八九、やられてる。やつらに。

 白い疫病神に。

 全身真っ白くなってるやつもいたよ。いまじゃ白骨街道なんて言ってるみたいだけど、ほんとのところウジ街道だよ。ウジ虫街道。山のあちこちにやられた連中が転がってるんだ。だから野戦病院にたどり着いたときはほっとしたね。天幕があったから。体が濡れずにすむってのはありがたいことなんだ。そこで寝袋に入って泥のように眠った。

 そしたら叫び声で目が覚めたんだ。隣の天幕に明かりが灯っていて、そこで手術をしていた。「傷は浅いぞ! しっかりしろ!」って衛生兵が言ってね。ひょいとのぞいてみたら、傷は浅いどころじゃない。腸がにゅるにゅるって飛びだしてるんだ。腸がそういうふうになって生きてたやつは見たことがなかったから、ああ、こいつももうダメだろうなってすぐにわかったよ。そうしたらいっしょにいるやつの声がした。

「軍曹殿はあっちで用を足そうとしゃがんでいたところ、仲間が踏んだ地雷が爆発して破片が腹に刺さったのであります」

 地雷か。そういえば野戦病院のあたりは地雷原だから注意しろとは言われていた。肝を冷やしたね。でもそれ以上眠れなくなったのは、そのせいじゃないんだ。

 軍曹殿――。

 あの憎たらしい師範代。神保もいっしょになって下がっていたんだ。人が亡くなるのを期待しちゃいけないけど、おれたち極限にいたんだよ。だからみんなして頭がおかしくなってる。ボンタもコースケもそうだったと思う。おれは神保が苦しみながら死ぬのを待った。因果応報だと思ってわくわくしたよ。けど、やつはちがった。まさかおれたちに最悪の命令が下されるとは思わなかったね。


 十六

 時間ばかりが過ぎていく。

 ダニーはホノルル空港に隣接する空軍施設の一室で夜を迎えていた。部屋に防犯カメラは設置されていないから、マスクもサングラスも外すことができた。コナ空港はもちろん、ホノルル空港でも古城晋治の姿は見あたらない。晋治はすでにハワイ島をあとにし、最悪の場合、ハワイ州外に出ている恐れがあった。シヴァはあちこちのシステムに侵入してダニーを混乱させていた。州内各所で晋治のクレジットカードの使用記録を出現させ、警察を翻弄した。陽動作戦だ。ダニーは歯ぎしりした。空港内の顔認証システム、乗客名簿ともにあてにならない。やつがこっちの動きに気づいているのはまちがいない。シヴァを操る男がいったいどこに向かうのか。これはアナログな手法で探るほかなかった。

 東邦新聞の連中が晋治の妻に話を聞いてみたのだが、思いあたる行き先は判然としないという。ダニーは深呼吸を繰り返した。答えは容易には見つからない。人間の知性を超えた人工知能のほうが自ら端緒を明らかにすることはない。シヴァは完璧なのだ。

 尻尾を出すのは人間のほうだ。


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