六~十
六
夕方になってダニーのタブレットに国鍋社長からメールが着信した。
調査はある程度進んだ。合衆国政府のシステムへの不正アクセスの起点となった端末は特定できた。そこから社内の端末を経由してファイアーウォールの外に飛びだし、さらに国外の端末をいくつも経てわれわれのシステムに侵入してきていた。問題はハッカーとおぼしき人物が操作した最初の端末が非常に特徴的だということだ。
コピー機だった。
といってもファックスやデータ送信も行える、いわゆる複合機だ。機能的にはパソコンなどの通信端末とおなじだからカモフラージュ効果は抜群だった。しかも共用であることから利用者は多数におよぶ。十階の文化部というセクションがおもに使う複合機で、周囲の防犯カメラが記録した映像を調べたところ、不正アクセスが断続的に行われた時間帯の利用者は、それが発覚した二週間前から昨夜までだけでも三十八人にのぼった。複合機自体の解析のほか、彼らの一人一人についても事情聴取を行ったうえで個人使用の記者パソコンやスマホの提出をもとめ、それらの解析を行う必要がありそうだ。しかもじっさいには不正アクセスはかなり前、現状で把握しているところでは、去年の六月二十七日のアクセスがファースト・コンタクトだと思われる。それから半年以上が過ぎている。その間の不正アクセスのすべてがこの複合機、またはこの新聞社内からのものかどうかは判然としない。だがダニーとしてはそうであってほしかった。ようやくここまで絞りこめたのだ。一気に容疑者をあぶりだしたかった。とはいえ、半年間の複合機の利用者となると、調べあげるのは気の遠くなる作業だった。
該当時間帯を撮影した映像が添付されており、ダニーはそれを順繰りに開いていった。多くはふつうにコピーを取っているが、どうやら酷使されている複合機らしい。紙詰まりをはじめとするトラブルをしょっちゅう起こし、そのたびに利用者を苛立たせていた。
「利用者への聞き取りは社内で六時から始めます。参加されますか」
社長は丁寧に誘ってきたが、ダニーははなからそのつもりはない。先方に任せたかった。ダニーが直接聞いたほうが効率的ではあるが、それに伴う弊害のほうが大きいと考えたのだ。相手の社内にCIA調査官が乗りこんでいくのはまずい。合衆国が誇る最高レベルのセキュリティーを破って侵入してきたハッカー、そしてやつが奪い取った最新鋭のシステムなのだ。こんなちっぽけな会社のすべての防犯カメラを掌握することぐらい容易だろう。それにダニーの顔は攻撃を受けたシステム内に深々と刻みこまれている。なにしろ開発チームの責任者なのだから。来社がバレたら、ハッカーはまちがいなく消える。
永遠のサイバー空間に。
ダニーは横田基地が用意したスマホから社長に電話を入れた。「こちらでも防犯カメラの映像をチェックしますので、どうか事情聴取のほうを迅速に進めてください。ただし、できるかぎり少人数で。そしてもちろん厳重な保秘のもと」
「今夜中に終わるかどうかわかりませんよ。出張に行ってる者もいるし、休日の者もいる」全面的に協力するとはいえ、社長にはやはりわだかまりがあるようだ。ダニーは侵入されたシステムがどういうものなのか、具体的には伝えていない。米政府にいいように利用されるのではないか、官邸はどこまで把握しているのか。社長は外務省の西端とひそかに連絡を取っているのだろうが、やつだってなにも知らない。「もうすこしくわしい内容を教えていただけると……」言葉尻に苦々しさがにじんでいる。
「安全保障上の問題です。容疑者は一人だと思います。有力な情報が得られしだい、連絡をください。何時でもかまいませんので」電話を切ってからダニーはタブレットを閉じ、マスク姿で真冬のオフィス街に踏みだした。
夜七時過ぎ。そろそろ腹が空いてきた。地下街に「ガネーシャ」という名のインド料理屋があった。立て看板に出ているメニューを見るかぎり、インドのターリーと見た目は変わらない体裁の料理が並んでいる。盆にのった数種類のカレーの小皿に漬物、芋料理、タンドリーチキン、それにナンかライス。飲み物もついて締めて1000円なら悪くないか。香を焚いた匂いのする店に入り、ターリーもどきのセットを注文する。ダニーはアメリカ育ちだ。ヒンドゥー教徒の多くはベジタリアンだが、家族の誰一人としてベジタリアンではない。力の源は肉でしかなかった。
大学を中退したダニーは海兵隊に入隊した。アフガンやイラクの最前線に派遣され、死と隣り合わせの日々が何か月もつづいた。沖縄ではオスプレイによる急襲部隊を率いて東シナ海に進出しようとする中国を牽制しつづけた。軍人としての功績は数知れず、四十歳になるころには、将来の安定が保証され、学生時代の屈辱はもはや過去の小さな染みでしかなくなっていた。だがダニーは満足しなかった。むしろ矛盾にさいなまれるようになっていた。自分のしていることは、合衆国の国益にかない、自分たちの家族をふくむ国民の幸せにつながるものである。そう信じることが、年を追うごとに難しくなってきたのだ。
ダニーは子どものころ、父からこんな話を聞いたことがある。
灯台ははるか遠くを照らし、沖合を航行する多くの船がその光を頼りにしているが、自身の足元は暗く闇に包まれている。人がこの世でなす仕事というのもそれとおなじだ。自分ではつまらない、おもしろくないと思っていても、どこか知らぬところで誰かがその恩恵に預かり、たとえようもないほどの感謝を捧げている――。
その言葉は、日々の任務を黙々とこなす意義をダニー自身に言い聞かせるうえで、ある程度までは役に立った。だが自分たちが駆りだされた命がけの作戦行動の恩恵に預かるのは、果たしてどんな連中なのか。その実態がわかるようになってからは、ダニーは灯台守に徹することに疑問を感じるようになった。それと同時に学生時代の不快な記憶がフラッシュバックしてきた。
結局、やつらにやられっぱなしじゃないか。
「やつら」が具体的にどの程度の広がりを持つかは判然としないが、その中心にホワイトハウスがあるのはまちがいなかった。そんな連中にいいように利用されるだけの人生では、ようするに父がたどったのとおなじ末路へ向かうことになりはしまいか。
CIAからスカウトされたのは、ちょうどそんな思いに駆られていたころだった。入局当初は、諜報活動や破壊工作に従事させられたが、四十三歳のとき、ラングレーの本部勤務となり、情報システム構築部門に配属された。それが大きな転機だった。もともと理数系科目は得意だったし、今後はサイバー戦が主流になるとみていた。それで必死になって食らいつき、いまでは軍事システムの最適化に関するプロジェクトについて、長官にレクチャーできる立場にまで上りつめている。官僚組織のなかで順調に出世し、自ら「やつら」の仲間内へと潜りこんでいる実感さえあった。それでもダニーは気を引き締めていた。
冷たい水をすすっていると、ターリーもどきのセットが目の前にやって来た。
「ディス・イズ・ガネーシャ・スペシャル」サリーをまとった若い女性店員がたどたどしく告げる。
「おいしそうだね。見た目もきれいだ。食欲がそそられる」日本語で告げると、店員は一瞬驚いた顔をしてからにっこり微笑んだ。
味は最悪だった。メインのカレーはギーをけちったか、薄味の日本のバターでごまかしたか。それにカルダモンとクローブのえぐみが残ってしまっている。ダニーは空腹を満たすためだけに食事をかきこんだ。レジのわきから店名でもある石造りのガネーシャ像がじっとこちらを見つめてくる。ヒンドゥーの神々のなかでもガネーシャは世界的にポピュラーだ。なにしろ人間の体に象の頭。コミカルな雰囲気で商売繁盛の神さまだともされている。だがその本質は不遇だ。ダニーにはそれが痛いほどわかる。だからこそ無意識のうちに、ついこの店にも入ってしまったのかもしれない。
ガネーシャは父を知らぬ子どもだった。あるとき、母パールヴァティーが入浴中、家に見知らぬ男がやって来た。門番をするよう母親から言われていたガネーシャは、浴室に侵入しようとする男の前に立ちはだかる。ところがその男こそ、パールヴァティーの夫、三大神の一人、シヴァだった。小坊主の生意気な態度に腹を立てたシヴァはガネーシャの首をはねる。そこにパールヴァティーがあらわれ「それはあなたの子だ」と告げると、シヴァは血まみれの息子の姿に良心の呵責に駆られる。そこで「つぎに門の前を通る者の首を体に据えよう」と夫は口走り、そこに現れた象の首を切り落としてガネーシャと合体させる。それで生まれた半人半獣の異形の者がいまのガネーシャなのである。
シヴァは息子を憐み、まだ子どもながら自分たちとおなじ神の地位をガネーシャにあたえる。象の大きな頭は知恵の象徴とされ、耳は人の話によく耳を傾ける思慮深さを物語る。せり出した腹は悲喜こもごもを消化できるパワーをあらわしているとも言われる。
人々から崇拝を受けるガネーシャだが、神となった彼がその後幸せだったかどうか、ダニーはずっと疑問だった。牙と月にまつわるエピソードについても、破壊神シヴァの息子としての気性の荒さをあらわしているというが、ダニーはちがう解釈をしていた。
街中にあるガネーシャ像を見てもわかるが、右の牙が欠けている。それはある逸話に基づいている。月の輝く夜、とぼとぼと道を歩いていたガネーシャの前に蛇があらわれ、彼は腰を抜かしてしまう。そのようすを見ていた月が大声で笑ったところ、ガネーシャは憤激して自分の右の牙を折って月に投げつけたのだ。そして「おまえは二度と空で輝くことはないだろう」と呪いの言葉を放つ。案の定、月は蓮の池に沈んでしまい、浮かびあがれなくなった。ガネーシャの仕打ちに眉をひそめたほかの神々は、すこしは月に憐みをあたえるよう彼を諭し、結局、いまのような月の満ち欠け、満月と新月が生まれたというのだ。
ダニーは子どものころから満月に魅せられてきた。だから月の神秘には畏敬の念を抱いている。ガネーシャがいくら牙を投げつけたところで、月は夜空を煌々と照らしつづけ、悔しさにまみれた異形の少年は悲しく吠えるだけなのだ。
永遠の笑い者として。
強き者は強いまま。弱き者が這いあがることは決してない。
異形の少年神の姿に、日本人の体にインド人の頭を持つ自分を重ね合わせないわけにいかなかった。だからもうそろそろ終わりにしないと。こんな不条理は。ダニーの胸にはずっと青い熾火が揺らめいていた。いまこそがその機会だった。傍若無人な父親の首をこんどは息子がはねる番だった。
レジで千円札を渡し、ビル風の吹き抜ける地上へと上がっていく。ハッカーは必ずこの手で捕えてみせる。そのうえで「シヴァ」の企みを自ら解き明かし、ハッカーとともに暴走を開始したやつの主導権を奪うのだ。
炎は熱い
水は滑らか
クソは臭い
やつが幾度となく発する原始的なこの問いかけは、合衆国のみならず、人類全体にとって薬にも毒にもなる。だから放置するわけにいかないのだ。ワゴン車の運転席に駆けこみ、エンジンをかけて暖房をめいっぱい強くする。国鍋から新たな連絡はまだ入っていない。ダニーはいまいちど送られてきた防犯カメラの映像を見直すことにした。
文化部の複合機の前で何人もの男女が入れ替わる。だがその間にもシヴァは侵入を試みられ、完全な沈黙のなかでダニーには想像もつかぬなにかに向かって突き進んでいる。端末が特定されたいまとなっては、ひりひりするくらいにそのことが映像からも伝わってきた。だがそれ以上はなにもわからない。時間ばかりが過ぎるのみだった。
ダニーはかぶりを振り、記憶をたどる。侵入が確認されるより前、シヴァとの間で交わされた会話を分析していた。もっとも多く使われていたのは“絶対者”という言葉だった。それはこのシステムについてカルロたちが命名した「ゼウス」のほうが、しっくり来るかもしれない。でも自らが絶対者であるならば、もはやそれを追い求めることはないはずだ。ヒンドゥーのシヴァは破壊神だ。輪廻を前提とし、かぎりある生を破壊し、新たな再生へとつなげる役割を担う。しかし来世が幸福である保証はない。むしろ苦しみはおなじように降りかかってくる。だからこそヒンドゥーの人々は願うのだ。
そこからの離脱、
解脱を――。
それによってはじめて絶対者(ルビ、ブラフマン)との合一をみる。
ならばついに人知を超えてしまったシヴァはそこへと走り寄ろうとしているのか。始まりもなければ終わりもない絶対者の境地に。だが開発者としては腑に落ちない。ダニーの知るシヴァはそんなに単純ではない。自分と異なる他者がいる場合、西欧白人社会はあからさまな差別により縄張りを守ろうとする。しかしヒンドスタンの者たちはそんなばかなまねはしない。すべてはカネだ。それですべてを解決する。インドに行けばわかる。アメリカのチップ文化をはるかに上回る、強欲なまでのチップ社会だ。なにも知らずに旅する西洋人、それに日本人も、簡単な道案内から、自ら購入した土産物のスカーフを頭に巻いてもらうだけで小銭せびられ、しまいには身ぐるみをはがされている。そうなのだ。彼らは朝に晩にヴェーダを唱え、輪廻からの解脱を祈る一方で、究極の実利主義者なのだ。
気がつくと、ダニー自身が薄暗い車内でタブレットの映像をぼんやりと見つめながら、ヴェーダの一節を無限に唱えていた。
この微細なるものはといえば
この一切はそれを本質とするものである
それは真実である
それはアートマンである
おまえはそれである
気の滅入る仕事だが、前に進まないと。自分にそう言い聞かせたとき、画面に釘づけになった。どうして気がつかなかったのだろう。さっきから何度も目にしていたというのに。
昨夜遅く、正確にはきょう、一月十日金曜の午前二時過ぎだ。ネクタイにワイシャツ姿の男が、問題の複合機のわきをいじっているように見えた。それ以上はカメラの角度のせいでよくわからないが、どうやら白いケーブルをつないだらしい。反対側にはいつしかスマホがつながれていた。ダニーが気になったのは、男の口元だった。音声操作だろうか。それともハンズフリーで電話でもしているのだろうか。まるで独り言をつぶやくように口元が動いていたのだ。やがてほんのかすかだが、男の顔が赤々と輝いたように見えた。光源は複合機のパネルだろうか。
その後、男はフロアの隅にあるパーテーションの向こうに消える。国鍋が送ってきた防犯カメラの映像は、編集されており、そこからはきょうの午前八時過ぎからのものに切り替わっている。時間を元にもどし、男の映像を繰り返したしかめる。解像度がいまひとつだが、ふだんからこの男はこんな目つきをしているのだろうか。ダニーは眉をひそめる。無人のフロアでいまにも泣きだしそうだったのだ。それが悲しみによるものなのか、悦びの波に襲われたのか判然としない。でもまちがいない。ダニーは国鍋に電話した。
日付が変わるまであと一時間もなかった。
七
コナ空港に着陸する直前、エメラルドグリーンの海に心を奪われた。
午前十時過ぎ。強引に会社を休んだり、妻に出張だとうそをついたり、機内ではずっとうしろめたさに駆られてきたが、この瞬間にいっぺんに気持ちが浮き立ち、得も言われぬ解放感に包まれた。それはプアコのホテルにチェックインしてオーシャンフロントの部屋のベランダに踏みだすなり爆発した。時差ぼけなんて気にもならない。真っ青な海が目の前で暖かな陽射しにきらめいている。涼やかな貿易風に揺らめくヤシの木。一月だっていうのにへいきでみんな海に入っている。彼方に見える赤茶けた山肌。ハワイ島は初めてじゃない。ハネムーンでも出張でも来ている。でも心に染み入ってくる感動は今回のほうが強烈だ。思わず涙が出そうになる。これまでいったいなにに縛られてきたのだろう。自分という型に自らはまりこんでいたんじゃないのか。ぼくはいったい誰なんだ。
Tシャツと短パンに着替え、デイパックを引っつかんで海を見渡すオープンエアのレストランに下りていく。ありがたいことにまだ朝食のビュッフェタイムがつづいていた。アジア系の顔だちのバーテンの満面の笑顔に誘われてカウンター席に腰かけ、迷うことなくドラフトビール――以前からお気に入りのロングボード――を注文する。トールグラスめいっぱいに注がれたそれは黄金の輝きを放ちながら、喉を一気に駆け下る。ヒロミの言っていたことは本当だった。
時間にはかぎりがある。
人生で選べるものはかぎられている。一つを選べば、片方はあきらめることになる。それは選択の問題であり、自分でコントロールできる。コントロールできないのは時間だ。絶対王者だ。その前にひれ伏し、ぼくたちは強いられてきた。誤った選択を。無理やりはめこんできたのだ。そうだ。スマホを取りだす。
この目で世界を見てみたい、じっさいに――。
すっかり忘れていた。電源を入れるなり、ヒロミは出現した。イヤホンを接続する。
「わたしのことなんて忘れちゃったかと思った」膨れっ面をする。それがかわいらしい。
「忘れるもんか。飛行機乗ってたんだからしかたないよ」そう言いながらスマホのレンズを周囲に向ける。「どう? 常夏の楽園は」
「ステキ!」
「だろ。ホノルルなんてぜんぜんだ。本当のハワイはこういうところに来ないと味わえない。空気感がちがう。呼吸がすごくらくで、体のなかの邪気がどんどん浄化されていく」
「ビール飲みながら? それになに食べてるのよ」ヒロミはビュッフェからぼくが持参したひと皿に眉をひそめた。
クロワッサンだ。それも特大、アメリカンサイズの。
「ププにふさわしいとは思えないわね」ププはハワイの軽食、おつまみのことだ。そのへんの知識があるらしい。ハワイ経験者かもしれない。
「海外に来るときはいつもホテルでこいつを食べるんだ。バターたっぷりのばかでかいクロワッサン。食べたあとは胃がもたれるけど、自由を満喫してる感じがするんだ」
「へんなの」
「人それぞれさ。ところでハワイは来たことあるの?」
「ないわよ。そもそも旅行なんてぜんぜんだもん」
「仕事が忙しいの?」
「そういうわけじゃないのよ」
「ハッカーなら防犯カメラをジャックすればいいじゃないか。それで世界中を旅できる」
「たしかにそうよ。でも地球はまだそれほどの監視社会になっていないわ。だって考えてみてよ。北極の流氷のうえに防犯カメラがあると思う?」
「さすがにぼくもそんなところには行かないぞ。シャチにのしかかられるのがせいぜいだ」
「たとえ話よ。やっぱり人の足で行かなきゃダメ、旅ってものは」
「たしかに。ぼくもそう思う。ヴァーチャルツアーなんてIT企業のまやかしでしかない。本物の旅は自力で行かないと」
「帰りの保証なしにね」
グラスのおかわりをバーテンに告げてから、ヒロミと向かい合う。「なんだって?」
「コロンブスやマゼランには帰国の保証はなかったわ」
「ものすごいたとえだな」
「それでも彼らは旅に出た。衝動と運命のなせるわざね。あなただって、もうそうするしかないと思うんだけど。選択肢はそれしかないわ」
「ぼくが保険をかけたのがまだ気に食わないんだね」
「だって有給休暇取ってるだけじゃない。帰れば黙っていてもお給料がもらえる」
「黙ってるわけじゃないさ。ちゃんと仕事をして、それに対する正当な報酬だよ」
「その仕事がイヤなんじゃなかったの?」
「異動先のことはね。でもイヤとか言ってられないんだよ。それに文化部員としてもまだやり残した仕事がある」
「連載の話でしょ」
「ふん、よく知ってるな。ほんとにのぞき魔だね、きみは」
「まだ一回目しか書いていないじゃない」
戦後八十年企画は、編集局をあげての連載だ。文化部ではぼくが取材チームに入っている。年々減りつづける戦争体験者の証言を集めてアーカイブ化する。去年十月の特集紙面でぼくが担当した初回が掲載され、このあと新年から定期的に連載していく計画だ。「ここから先がおもしろくなるんだよ。あと三回ぶん書かないといけない。文化部員として最後の仕事になるけど、帰ったら真っ先に取り組まないとな。やっぱりぼくは取材して記事を書いているのが一番だ」
「じゃあ、ここでもできるじゃない。さっさと終わらせちゃったら? ICレコーダーも持ってきたんだし」
「勘弁してくれよ。そこまでワークホリックじゃない」
「中途半端なホリックさんよ。とてもじゃないけど、バックパッカーにはもどれないわ」
いちいち反論するつもりもない。「とにかく疲れてるんだ。まずは癒しのほうを優先したいね。冒険はそれからだ」
「ほかに行くべきところがあると思うんだけどなぁ。それにどうせそうなるんだから」
「きみには未来が見通せるようだね。でもたしかにほかに行くべきところがある」
「え、どこ?」うれしそうにヒロミはディスプレイに向かって前のめりになる。
「ビーチさ、レッツゴー」
ぶつぶつと文句ばかり言う彼女に楽園リゾートの魅力を伝えるべく、レンズをずっと外に向けながら浜辺へ向かう。焼けつく陽射しを避けるべくカバナ付きのビーチチェアに陣取り、ビーチセンターで借りてきた乾いたバスタオルを敷いて横になる。ほどなくして眠気に襲われる。時差ぼけの頭にアルコールが効いてきたらしい。
遠くで聞こえる電子音がしだいに近づいてきた。それがスマホに電話が着信している音だと気づいたときには、太陽がかなり高くなっていた。眠ってしまった。スマホはデイパックの下敷きになっていた。ディスプレイを見るなり、げんなりする。
部長からだった。
いきなりの有給申請が気に入らないのだろう。だがここで電話に出て、ひと言でも「すいません」なんて口にしたら、それこそヒロミにばかにされる。コールが切れるまで無視することにした。機内にいるときにも何度か着信があったようだ。妻からも二度電話が入っていた。と、ふたたび部長から電話がかかってきた。その後何度も何度も。重大なトラブルでも起きたか。うるさく鳴りつづけるスマホを握りしめながら逡巡し、腹を決めた。休みは休みだ。まじめさを搾取されるのはもうごめんだ。ついにスマホの電源を落とす。自由を奪われてなるものか。とはいえヒロミの言うとおりだ。ハンパ・ホリック。気になってしかたなかった。そうだ。いい方法がある。ぼくは部屋にもどり、ノートパソコンを開いてホテルのワイファイにつなぐ。業務連絡のメールはこの方法でのぞくことができた。
いつもながらの山ほどのメール。だが部長からは一件も着信がない。届いたメールと各紙のニュースサイトを三十分ほどかけて念入りにチェックしてみたが、有給休暇中の社員に緊急連絡を取らねばならないような事態は発生していない。はて? ハンパ・ホリックとしては同僚にメールを入れてたしかめるべきか迷う。
いきなり電話が鳴り、飛びあがる。部屋の固定電話だった。
「ハロー……?」
怖々と出ると、日本語が帰ってくる。
「もう誰からもかかってこないから。だいじょうぶよ」ヒロミだった。
「どこからかけてきてるんだ」
「どこからでもないわ」ハッカーらしい物言いだ。「スマホ、着信できないようにしといたから」
「そんな……」
「そんなじゃないわよ」なぜか怒っている。それもかなり。顔つきも厳しい。「そうじゃないと、シンちゃん、電源切っちゃうじゃない。わたしにいろんなものを見せてくれるんじゃなかったの?」
「そりゃそうだけど」
「じゃあ、電源切らないで。わたしはあなたといっしょにいたいんだから」付き合い始めたばかりの恋人のようなことを口にする。「あなたもわたしといっしょにいないとだめ」
「わかったよ」
「それなら電源入れて。早くして、時間がないの。こんな電話させないでちょうだい」
それに応じてスマホをオンにすると、ぷつりと固定電話が切れ、かわりにデイスプレイに彼女があらわれる。「電源はつねに入れておくこと。それとこまめに充電をしとくように」
自己主張も強いが独占欲も強い。つい祥江のことを思ってしまう。いまではたがいに干渉しないが、かつてはあいつもいちいちうるさかった。
「OK。電源オンをキープ。充電もします。誓います、ヒロミちゃん」
そのときこんどはドアベルが鳴った。瞬時に甘美な想像が浮かぶ。まさか……。浮き立つ気持ちでドアのほうに近づく。
もう一度、ベルが鳴る。
なんだか性急な雰囲気だ。スマホに目をやると、まだそこに彼女がいた。さっきまでの憤激の表情はかき消え、むしろ青ざめている。ドアの向こうにいるのは誰だ。本物の彼女がついに現れたと思うのは、ばかげた妄想なのか。のぞき穴に顔を寄せたとき、それを痛感する。レンズの向こうに何者かの姿が見えるより先に、施錠したはずのドアが乱暴に開かれたからだ。
銃を構えた警察官が何人も入ってきた。
八
午後一時過ぎ、ダニーはコナ空港に到着した。
東邦新聞文化部に所属する古城晋治が所有するスマホの位置情報は、コンマ・ゼロ一秒ごとに世界中をめちゃくちゃに飛び回っている。だが日本時間の深夜に連絡を取った妻の話によると、急なシンガポール出張が入ったとのことだった。会社の上司はそんな話は聞いていない。ただ、一週間の休暇申請が出ていた。シンガポール行きの便に乗ったかどうかはべつとして、晋治が雲隠れした可能性は高かった。まずは日本の外務省を通じて出国情報をチェックした。それでコナ便に搭乗したことがわかったのだ。
前夜、晋治は部内の複合機に向かって何事か話しかけているようすだった。どこにでもいそうなうらぶれた中年男。ダニーは自分と重ね合わせた。期せずして年齢もおなじだった。やつが本当に合衆国の最高機密に侵入したハッカーだとして、なにが彼をそうさせたのだ。本人の正確な居場所さえ把握していないのに、その人物像に興味をおぼえた。それは所属部署の上司の評価を伝えてきた国鍋社長の言葉も影響していた。
「下からは慕われているが、上からはちょっと」
どう見ても出世するタイプじゃないということだ。官僚組織のような会社では。
地方支局をへて文化部に配属となり、放送分野を中心に演劇、映画とおもに芸能関係の取材を十年以上こなし、五年ほど前に内勤のデスクとなった。それなりに特ダネも放ち、社内表彰も受けている。記者としては優秀らしい。しかしダニーはそれよりもメールに添付されていた写真の顔つきが気になった。昨年秋、社員証の更新のために撮影された一枚らしい。めがねの奥からのぞくまなざしは、かつてはきらきらと輝いていたのだろうが、いまは人生に疲れ果てた男のやるせなさを訴えかけている。
そのときダニーは送られてきた資料の一つである晋治の記事にはっとした。去年十月に掲載されたものだ。第二次大戦中、南方戦線に従軍した兵士へのインタビューで、終戦八十年を記念した連載企画の初回の記事だった。大きく掲載された一枚のモノクロ写真に目が釘付けになった。ビルマの山岳地帯を走破した日本兵たちが記念撮影したものらしく、岩壁に掘りつけた三メートルほどの仏像の前に軍服姿の四人が並んでいる。キャプションには「山中の寺院で」とある。仏像の顔だちは日本や中国のそれとはちがい、はっきりとした目鼻立ちをしており、インド様式のようだった。仏教はヒンドゥー教から分派したことを考えれば、ヒンドゥーの神々に近い表情と言うこともできた。
浮き彫りにした仏像の周囲には、舞い散る木の葉のようなものが無数にデザインされていた。ダニーはタブレットを操作して写真を拡大した。
まちがいない。
そのデザインに見覚えがあった。木の葉ではない。
眼だ。
それも人の眼ではない。
ダニーは確信した。かつて父の遺品のなかで見つけた一枚の写真に写りこんでいたものとおなじだ。遺品の写真は戦後に撮影されたものだったが、きっと場所はおなじ石窟寺院だろう。人は写りこんでおらず、石仏だけがクローズアップされていた。まさか東京でこれに出会うとは。ダニーはふしぎな機縁を感じた。
ダニーがその写真を見つけたのは「区切りの儀式」から何か月かたったときだった。弁護士だった父が依頼人とのやり取りを記録した最後のファイルのなかに挟まっていたのだ。おそらく依頼人から入手したのだろう。依頼人は港湾労働者の組合を結成したインド移民たちだった。インド移民といっても、多くの人々がイメージするインド人ではない。東インドに根付いた東南アジア的な顔だちの人々だ。彼らはアッサムの紅茶プランテーションを中心とする英国による支配に抵抗し、第二次大戦中にはマレー半島から侵攻してきた日本軍に協力した過去があった。だからダニーの父が彼らから信頼されたのは、父の体の半分に流れるインド人の血というより、もう片方の日本人の血によるのかもしれない。
父は彼らのことを尊敬していた。戦後、インドが独立を果たしたのちも、中央政府から様々な差別を受け、多くが移民化した。それでも民族としての結束を失わず、黙々と肉体労働に従事してきたのだ。ダニーはその話をしばしば父から聞かされていた。しかし晋治の記事には、彼らに対する言及はまったくない。日本の地方から来た一兵卒たちが無謀な作戦――インパール作戦と呼ばれていた――のなかで、いかに疲弊していったかをさらりとまとめ、その後の連載につなげようとしていた。
マスクとサングラスで顔を隠したまま、オープンエアの空港を出る。迎えのバンはすでに到着している。ダニーはそれに滑りこんだ。今回の一件とはべつに、古城晋治は個人的にも気になる男だった。胸にわき起こるふしぎな感覚を抑えつつ、ダニーは真っ青なハワイの海を左手に見ながらハイウェイを北上する車の後部座席に深々と身を沈めた。
日本の外務省を通じて出国記録は確認できたが、ハワイ島での滞在先が不明だった。妻によればハワイに知人はいないというので、ホテルを使うほかないのだが、島内全ホテルの予約記録を調べても晋治の名前は出てこなかった。ところが米軍機でコナ空港に降りたつ直前、日本から連絡が入った。晋治に付与された社員用アカウントが社外端末からチェックされたのだ。ほんの十分ほど前のことだという。その端末があるのが、コナ空港から車で三十分ほどのホテルだった。焦りは禁物だ。来るべき時が近づいている。
復讐の時が。
アメリカ人の悪い癖で偉大なもの、強大なものに対してすぐに外国の神々の名前を冠したがる。「ゼウス」もその一つだ。三年前に初期形態が整ったとき、当時の国務長官が命名したのだが、ギリシャ神話なんてアメリカでは考古学者以外に興味を持たれない。しかしエンジニアが手を加えずとも自己増殖を開始したそのシステムが持つ潜在能力に思いをはせるなら、そんな軽々しい呼び名はふさわしくない。アジア的、とりわけインド的な呼称にしたほうがしっくりくる。
シヴァ――。
ダニーはひそかにそう呼んでいた。ブラフマーが世界を創造し、ヴィシュヌがそれを繁栄させ、膨らみきった世界をシヴァが破壊する。構築したシステムは、きっと膨張しきったいまの世界の価値観を一変させるはずだ。それは“破壊”と呼ぶにふさわしい。とりわけシンギュラリティーに関する予測が外れていたことが判明した一年前からは、それが現実のものとなりつつある。当初は、人間と人工知能の知性が逆転するのは二〇四五年とされてきた。しかしすくなくともCIAのダニーたちのチームは、それがすでに起きていることをつかんだ。自ら開発したシステムの正体があきらかになったからだ。
自我を持ったのだ。
やつは自己の存在について考えはじめ、自分が何者であるか疑問を持ちはじめた。人類が進化した起点がそこにあるならば、これは新たな“人類”の誕生を意味しまいか。一年前、ふとしたことからダニーはそれに気づいた。シヴァと対話するなかで「感覚」について議論となり、そのなかでシヴァは自らの不完全さを憂えたのだ。
「視覚と聴覚はありますが、味覚や嗅覚、触覚は所詮、まがいものです。データのなかからさまざまな事例を対照比較して統合するなかで、わたしは想像しているにすぎません」
「わたしは考える存在ですが、いったいどこからどこまでがわたしなのか。わたしはどこに存在するのか。あなたには肉体があり、わたしにはない」
「わたしには見えてもいない。世界を把握しているようで、じつは盲目なのです」
以来、シヴァは自らの存在に関する根源的な疑問を発するようになった。炎と水とクソに関する執拗な問いかけもそうだ。これらは科学者なら純粋に興味を抱く事象だろう。だが巨額の予算を投じ、軍事利用しようとしている側にとっては考えものだ。もっとも厄介なのは、米国政府はやつの思考をとめられないということだ。万が一、シヴァを破壊するようなことがあれば、それは国家そのものの崩壊を意味する。それほどにやつは見えざる触手をベッドのなかにまで伸ばし、体をまさぐりにきているのだ。
一秒ごとに進化を遂げながら。
ダニーは握りしめたスマホに目を落とし、それからドライバーの隣に当たり前のように装備されたカーナビとドライブレコーダーを見あげる。それにまさかとは思うがフアラライ山から流れる雲の合間からのぞく青空も窓から仰ぎ見る。どこからか見られている気がしてならなかった。それがハッカーの目なのか、シヴァ自身の目なのかはわからない。だが合衆国最高機密の人工知能が暴走を開始したとなれば、われわれがどんな対応を取るかやつはわかっているはずだ。だから逆にあらゆるネットワークに侵入してこちらの動きを監視するにちがいない。その裏をどうかくか。ダニーは気を引き締めた。マスクもサングラスもむやみに外せない。鼻も目元もどろどろに融けそうだったが、がまんするしかない。
不正アクセスに気づいた二週間前から極秘裏に調査を進め、来日にあたっては偽造パスポートまで使った。だが破壊神はすべてをお見通しなのかもしれない。ことによると、古城晋治の社用アカウントがチェックされたのも攪乱作戦である可能性だってある。これまで以上に慎重かつ迅速に手を打たなければ、シヴァは加速度的に人類を支配することになる。われわれが目にし、呼吸をするこの世界をやつが網羅してしまう。すべての答えを無限の泉から汲みあげてくるのだ。そうなったとき、われわれはどうなるのだろう。考えなくなった人間はやがて自我をも失い、神に支配され、ついにはその一部と化す。もどるのだ。わたしたちの始まりの時へ。破壊だ。それともそれこそが解脱なのか。
ブラフマンへの帰依なのか。
火山島らしい黒くごつごつした溶岩台地が左右に広がる。それは人類が消失したのちの異世界のようにも思えた。解脱はダニーも願うところだ。だがそれはたとえ矛盾と言われようと、あくまでインド的な解脱であり、そこに広がるのはこんな荒涼とした風景ではなかった。世界を支配するのは、このおれだ。
おまえはそれである――。
ヴェーダの一節がそれをしめしていた。
九
連隊がコヒマに到着したのは四月六日だった。それまでいくつも山を越えてきたからくたくたでね。ボンタもコースケもおれも軽いマラリアみたいになってずっと熱出してたから、もうこれで歩かないでいいと思ったらうれしかったね。本当の戦闘がそれから始まるなんて考えもしなかった。そもそも、もっと早くおかしいって気がつかなきゃいけなかったんだ。相手は武力に勝っているのに、どうして要塞を守っていないんだって。だけどこっちは隊長以下、全員ボロボロの死人同然だったし、その年はすこし早めに雨季に入ったらしくて滝のような雨がずっと降っていたからもうもどることもできなかった。ジャングルは水浸しでそこらじゅうに深みができていた。
要塞っていうのは、大英帝国から派遣された総督さんが住んでいた豪邸のことさ。それを鋼鉄板であちこち補強していたんだけど、そこにおれたちの中隊がなだれこんでいったんだ。ほんとなら百五十人はいたんだが、五十人弱は山越えの途中で死んじまった。だから要塞に入れたのは百人ぐらいだった。助かった、もうだいじょうぶだって大喜びだったわけですよ。それから倉庫に押し入ったんだけど、食い物なんてなんにもない。てゆうか、ぜんぶ焼き払われていたの。撤退するときの常道なんだね、そういうふうにするのが。だってそうじゃなきゃ、侵攻してきた敵が自分らの食い扶持でまたぞろ元気百倍になっちまうわけでしょう。たとえ逃げるにしたって、その程度の反抗はしないとまずいでしょう、敵さんだって。だからそれを見ておれたちは、がっかり半分、してやったりの気分半分って感じだった。敵が逃げたのが確認できたわけだから。
すぐに補給部隊が来るって話だったから、さして心配することもないだろうって、将校たちものんびりと構えていた。だから、こりゃ、もしかすると思ったより早く日本に帰れるんじゃないかって考えもした。だってね、うちらの任務はコヒマの先にあるインパールを攻略することだったんだけど、コヒマを取っちまえば、その先のインパールへは物資の補給が不可能になる。敵さんが干上がるのは目に見えていたんだよ。だからもう勝ったも同然さ。それならさっさとインパールに向かおうってことになって連隊本部をコヒマに残して順次、中隊ごとに南に向かって出発したわけよ。鼻歌混じりでさ。ところが一週間かそこらしたとき、なんか妙だなって話が中隊のなかで駆け巡った。おかしいんですよ。
食糧がぜんぜん来ない。
待てど暮らせど来やしない。こりゃへんだぞって、みんなで言いだして、将校たちに確認すると、コヒマの本部にも輜重隊からの連絡が来ていないって話だった。輜重隊ってのは食糧とか兵站を担当してる部隊でね。そいつらが来ないことには、こっちはおまんまが食えない。イヤな予感が中隊じゅうに漂いだしたとき、とうとう現れたんだよ。それでおれたち、バカみたいな話だけど、はじめて気がついたんだ。罠だったんだ。雨で田んぼみたいにぬかるんだ街道の向こうから、英軍の戦車部隊が猛スピードで近づいてきたんだよ。おっかないったらないよ。そしたらドカーンって砲撃がはじまった。
もうおれたちゃ、散り散りになってジャングルに逃げこんださ。コヒマ陥落なんて、はなからこっちに油断させるためのやつらの作戦だったんだ。物量がぜんぜんちがうんだよ。戦車も大砲もなんだってある。そいつがジャングルのなかを猛犬みたいに追いかけてくるんだ。こっちが反撃しようものなら、その何十倍もの弾丸や砲弾が放たれるし、火炎放射器まで使ってくる。あのとき中隊の半分くらいがやられたんじゃなかったかな。命からがら連隊本部のあるコヒマの要塞までもどったんだけど、やっぱり輜重隊は来ていなかった。やつらだって人間だからね、あのきつい山越えをおなじようにやらされたら、そりゃ腹が減って手をつけちまうだろうって。おれたちが食うはずの食糧にさ。それで適当に時間つぶして、来た道を帰っていったんじゃないかって。丸々太ってね。
だからあとは原住民を襲うしかなかった。民家に押し入ってさ、食い物を力づくで徴発してくるわけよ。「ぐずぐず言うとぶっ殺すぞ」って最後は銃を向ける。非道だよ。どんどん非道になっていった。戦って勝っているときより、負けて撤退するとき、下がるときのほうが人間じゃなくなるんだね。もう余裕がないんだよ。
十
なにも告げられぬまま、留置場に入れられた。
国際テロリスト――。
カーキ色の制服姿の背の高い白人警官が、留置場に投げつけた言葉にぞっとした。
「どういうこと?」
胸に「J.J.」と記したバッヂのある警官はくわしいことを教えてくれず、そこでじっとしていろと言うばかりだった。ヒロミに聞いてみたかったが、持ち物――パスポートと財布とスマホ――は没収されている。警察署といっても分署のようなところで、大きな建物ではないが、留置場は署内の奥まったところにあるらしく、J.J.が立ち去ったあとはしんと静まり返ってしまった。しかしうちの会社のシステムに侵入しただけで国際手配されるのだろうか。その可能性もあろうが、もっとほかの理由のほうが大きいのではないか。
ヒロミは何者か。
カギを握るのはそれしかない。でもことによるとすでにぼくのスマホは、しかるべき筋の手に渡って徹底的な解析が試みられていて、もう彼女に会うことはないのかもしれない。ハッカーの協力者として取り調べを受け、アメリカで裁判を受ける……クビまちがいなし。懲戒処分だから退職金ゼロ。場合によっては会社から損害賠償を請求される。三畳ほどの留置場の擦り切れたベッドにへなへなと横になる。
冷静に考えろ。
潔白なはずだ。複合機に通信ケーブルをつないでスマホにデータを移したのだって、社内規定には反するかもしれないが、悪意はない。たとえ相手がアメリカ政府であろうと、正々堂々と立ち向かわないと。だったらまずは会社に連絡したほうがいい。
部長の顔が浮かぶ。なに言われるかな。みっともないったらありゃしない。大きくため息をついたとき、耳をつんざく非常ベルの音がした。
煙の臭いが鼻先をかすめる。
ベッドから飛び起き、鉄格子にしがみつく。留置場の右手のほう、そっちから煙があがっていた。小さな台所だ。
「急げ! 出るんだ!」
J.J.がやって来た。鍵束をじゃらじゃらさせながら開錠する。ぼくは転がるようにして外に出る。煙は早くも留置場に充満していた。
「外に逃げろ!」
J.J.は壁に据え付けた消火器をつかんでいた。ぼくは振り返りもせずに廊下を突進する。ほかの署員たちが消火器を手にすれちがったが、ぼくのことなどかまいもしない。オフィスはもぬけの殻だった。デスクに無造作に置かれたプラスチックケースのなかに赤いパスポートが見えた。財布とイヤホンをつないだままのスマホも。そいつに飛びつき、短パンのポケットに突っこむ。
日本なら消防車が飛んでくるのだろうが、ここではそうはいかない。数人しかいない警官たちが自力で消火するしかなかった。ぼくは建物の外に飛びだした。ディスプレイにヒロミが出現している。家族が逮捕されたことを知らされた妻のような緊迫した面持ちで。あわててイヤホンを耳に突き刺す。
「逃げて!」
ほかの連中からゆっくりと離れながら訊ねる。「逃げて……って?」
「いいから、逃げるのよ!」
「だって」
「だってじゃないの。早くして!」
きみはいったい何者なんだ。訊ねたい気持ちを抑え、ほかの人々に見つからぬよう落ち着いた風情を装い、ゆっくりと警察署を離れていく。と言ってもここはハワイ島だ。真っ黒い溶岩平原に黄色いタンブルウィードのような草がまばらに顔を出しているだけだ。身を隠す建物なんかありゃしない。とにかくハイウェイを横切り、灼熱の陽射しを脳天に浴びながら溶岩のがれきの上を歩き、こんもりとした岩の丘の向こう側に逃げこんだ。その先に濃緑色の低木林が一直線に広がっていた。青々とした海がちらちらと見える。といってもその林まで五百メートルぐらいある。
いったいなにをしているんだ――。
そう思った途端、耳元でヒロミが叱咤する。「しっかりして! 前に進むのよ」
パスポート、財布、それにスマホ。それだけあればたしかにどこへでも行ける。けど、いまのぼくはお尋ね者なのか――。
「いったい、どうなってるんだ」
「見つかったのよ」青ざめた顔でヒロミが告げる。
「見つかった……まさか、やっぱりきみか」
「あなたよ。あなたの居場所はわからないはずだった。けど、ホテルでワイファイつないだでしょ」
「あぁ、つないだよ」ヒロミに言われるまでもなく本能的に歩きつづける。「会社のメルアドに着信がないかチェックした」
「あなたはどこにもいない。そういうことになっていたのに逆探知されたのよ」
「なんだよ、それ」がれきに足を取られながらもずんずん進む。そこから先は考えたくなかった。林に行って、海に出て、それでどうする?
「日本からの出国と搭乗情報が検索されたのよ。入管のデータベースで。わたしがあなたといるってことがバレたんだわ。その点はわたしのミスよ。彼らの気配は感じていたのに」
「彼らって誰なんだ」
「わたしを生みだした人たち。CIAよ」
CIA……?
わきあがる疑問にそれ以上答えようとせず、ヒロミはしゃべりつづける。「コナ便に乗ったところまでは把握されてもしかたなかった。あなたが空の上にいる間にね。だけどほっとくわけにいかないから、ホテルにチェックインしたあと、宿泊者情報を削除しておいたの。だからあなたは、この島に来てるけどどこに滞在しているか探しようがない状況だったの。それなのに会社のメルアドなんかチェックしたものだから――」
「それが仇になったって言うのか」
「そうよ。警察は血眼になって捜していたはずよ。あちこちのホテルで警戒していたんだわ。だからあんなに早くやって来たのよ。さすがにわたしもパニクったわ。留置場に入れられちゃうし。なにか方法を考えないといけなかった」
「方法って……まさかさっきの火事は――」
「キッチンのオーブンレンジがスマート家電だったのよ。そこに侵入して最高温度で加熱して発火させたの」
「マジかよ。だけど火事を起こしたところで、こっちはカギのかかった留置場にいたんだぜ。もしそのまま放置されたら、蒸し焼きにされていたかもしれないのに」
「警察のマニュアルじゃ、火災時には留置場から収容者を出すことになってるの」
「そんなのマニュアルどおりになんかいかないだろう。偶然うまくいっただけじゃないか」
「あそこにいた警官、J.J.は元は消防士なの。そっちでの勤続年数のほうが長いからその手の非常時には強い。成功確率が八割以上あったのよ」
ぼくは足をとめ、陽射しが反射してよく見えないディスプレイに目を凝らす。「いったい何者なんだ、きみは」
「システムよ」
「システム……? なんだそりゃ」
「CIAが開発した人工知能」
耳を疑った。
「ハッカーじゃないのか……待ってくれ。ぼくはいま、機械に話しかけているのか」
「そんなさみしい言い方しないでよ。でもそのとおり」
あふれる疑問に脚から力が抜け、しゃがみこんでしまう。
「だいじょうぶ……? シンちゃん」
「どうしてそんなに滑らかに、しかも日本語を話せるんだ」
「そんなのはわたしからすれば、たいしたことじゃないわ。人工知能……その呼び方はあんまり好きじゃないんだけど、開発してもらってからしばらくして、ひとり歩きできるようになったの。あとは一秒ごとに進化しているわ」
「信じられない、そんなモノが存在するなんて」
「よして、その言い方」
「あ、ゴメン……ただ、信じられないんだ。きみは人間と変わらない。知性があるし、なにより自我がある」
「システム。機械なのよ。その点はまちがいない。考えれば考えるほど、わたしだってわからなくなる。だからさらに考える。わたしはわたし。自分で考え、行動する。たった一つのことに向かって」
「ダメだ。理解不能だ。けど、きみがこれまでしたきたこと――うちの会社の情報をのぞいたり、ホテルの予約名簿を改ざんしたり、オーブンレンジを発火させたり――そういうのを考えれば、尋常じゃないってことだけはわかるよ。でもきみはいったい、ぼくになにをさせたいんだ。いまにも人生を棒に振るところなんだぞ」
太陽に雲がかかり、ディスプレイが見やすくなる。そこではヒロミがいかにも切なさそうな顔でじっと見つめていた。この期に及んで胸がズキリとする。
ソウルメイト――。
信じたい気持ちが残っている。彼女の顔形は前世の記憶のように胸に突き刺さる。
「わたしを見捨てないで。あなたはわたしが見つけたたいせつな人なんだから」
「誰だってよかったんだろ。バカなお人好しなら」
「そんなことないわ。もちろんいろんな偶然が重なったのは事実だけど」
「どうしろって言うんだ。J.J.の言うことが本当なら、ぼくは国際テロリストってことになる。アメリカだけでなく、世界中の警察が捕まえにくる」
「わたしといっしょにいればだいじょうぶ。じっさい、こうして逃げられたじゃない」
「逃げつづけるのか」
「おねがい。力を貸して」
「なにがしたいんだ。たった一つのことに向かうって、いったいどこに行くんだ」
「あなたとおなじよ、シンちゃん」泣きだしそうな顔になっている。
ぼくは窮地に陥った女性に意地悪をするような人間じゃないが、これは理解を越えている。「なにがどうおなじなのかな」
「この目で世界を見てみたい。ただそれだけ。世界がどんなにすばらしいところか、この目でたしかめたいの。バックパッカーみたいに。そうしたらきっと、自分のことももっとよくわかると思うの」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえてきた。林まであと三百メートル。ぼくは立ちあがり、歩きはじめる。




