第8章:距離を測る声
朝のフロアは昨日より少しだけ乾いており、窓際のガラスには青みのある光が貼りついていた。株式会社東映社アドバンスの若手企画部の空間には、まだ開ききらない端末の低い熱と紙に残ったインクの匂いが薄く混じっていた。真白依吹は席に着く前に鞄の紐を一度だけ握り直した。
大型コンペの資料は、もはやただの資料ではなくなっていた。画面を開くたびに、自分の案と瀬名遥平の案が並んでいるような感覚が胸に残る。競い合っているはずなのに、相手の言葉が自分の行間に入り込み、追い出そうとしても消えないほどに強さを増していた。
真白はノートパソコンを開き、昨日残した一文を見た。瀬名が消すなと言った一文だった。消さなかったことをまだ少しだけ後悔している。
後悔しているのに、その一文は資料の中で一番呼吸していた。自分で分かってしまうから余計に腹が立つ。認められたいわけではないのに、認められた言葉だけが手放せない。
瀬名の席にはすでに資料が置かれていたが、本人はまだいなかった。真白はそこを見たつもりはなかったが、視界の端に捉えてしまった。
見たくないものほど目に入るものだ。いや、見たいから入ってしまうのかもしれない。真白はそんな考えをすぐに押し殺し、画面に視線を戻した。
共有ファイルに新しいコメントが入っていた。瀬名からだった。開かないでおこうと真白は思い、数秒だけ抵抗した。
結局、開いた。
「最後の展開、もう少し遅らせた方が効く」
短い指摘だった。昨日なら素直に読めたかもしれないが、今朝はその一文がやけに近く感じられた。
「遅らせたほうが効く」仕事の話だ。分かっている。
それでも真白には、瀬名がこちらの呼吸まで測っているように見えた。資料の展開ではなく、真白自身がどこで崩れるかを読まれている気がした。
「勝手に効かせないでください」
と小さくつぶやいて、真白はコメントを閉じた。返信はしない。
少しして瀬名がフロアに入ってきたが、真白は顔を上げなかった。椅子が引かれる音、資料が机に置かれる音、端末が開くかすかな気配だけが聞こえる。
それで十分だった。十分すぎるほど分かってしまう。
朝の作業確認はフロア奥の共有テーブルで行われた。大きな会議室ではなく画面と紙を並べてすぐに触れる場所だったため、真白は自分の資料を持ち瀬名の向かい側に立った。
向かい側というだけで余計に意識してしまう。机を挟んでいるのに言葉はまっすぐ来る。真白は資料の端をそろえて視線を紙に落とした。
「コメント、見たか?」
瀬名が言った。
「見ました」
「返事がなかった」
「返す必要がある内容でしたか?」
「ないならいい」
その引き方が今日は妙に腹立たしかった。踏み込まれたくないのに引かれると、追いかけたくなる。真白は、その矛盾を仕事の顔で押し隠した。
「遅らせた方が効くって、瀬名さんは何でも遅らせればいいと思ってるんですか?」
「何でもではない」
「でも、私の案には言う」
「早く出しすぎてるからだろ」
「感情を後ろに置きすぎると、読者が離れます」
「前に出しすぎると逃げる」
瀬名の声はいつも通り低かったが、真白には少しだけ硬く聞こえた。昨夜の「嬉しい」と言った声とは違っていた。
その違いが気になった。気にしたくないのに、耳が勝手に拾ってしまう。
「逃げるって、資料の話ですか?」
と言ってから、真白は後悔した。仕事の会話のはずだったのに、自分で境目を曖昧にしてしまった。
瀬名はすぐに答えなかった。資料の端に視線を落とし、言葉を選ぶ癖が出ている。
「資料の話だろ」
遅れて返ってきた答えに真白は胸の奥で小さく笑った。逃げた、と思った。逃げたことに安心すると同時に、傷ついた。
「そうですよね」
真白は短く返した。
その声が思ったより冷たく出た。瀬名の目が一瞬だけこちらを向いたが、真白はすでに紙に目を落としていた。
作業は進んだ。真白の案は最終選考に向けてさらに磨く必要があり、瀬名の案も同じだった。
互いの資料を見ているのに、今日はやけに言葉が刺さる。近づいた分、言い方が雑になる。いや、雑にしなければ近づきすぎたことが見えてしまう。
「このコピー、まだ強い」
瀬名が言った。
「強さが必要なんです」
「必要な強さと怖がらせる強さは違う」
「瀬名さんの案は、逆に怖がらせないことを怖がっているように見えます」
瀬名の指が止まった。真白はそこで、言い過ぎたと気づいた。
けれど、言葉は戻らない。
「どういう意味だよ」
「きれいに通そうとしすぎています。誰も傷つけないように作っているから、最後に何も残らないのです」
言ってしまった瞬間、空気が薄くなった。仕事の指摘として成立しているけれど、それだけではなかった。
瀬名は資料を見下ろしたまましばらく黙っていた。真白は、彼が本当に傷つきそうな場所を知っていたのかもしれない。知っていて、そこへ近い言葉を置いてしまったのだ。
「そう見えるなら、直す」
瀬名の声は平坦だった。
平らすぎて真白の胸がざらついた。怒ってくれればよかった。言い返してくれればいつもの形に戻れたのに。
「反論しないんですか?」
「今は必要ない」
「必要ないって、便利ですね」
「真白こそ、今日はずいぶん刺すね」
その言葉に真白は唇を結んだ。言い返す前の癖だった。
刺している。分かっている。
近づいたのが怖いから。瀬名の声ひとつで資料の一文を残してしまった自分があまりに無防備に思えたから。
「刺されるの、嫌なんですか?」
「嫌じゃない」
「じゃあ何ですか」
「痛い場所を分かって刺してくる時がある」
真白は何も言えなかった。瀬名の声は責めていない。けれど、そう言われる方が苦しかった。
「瀬名さんだって、いつもそうでしょう」
「そうだな」
「認めるんですね」
「認める」
「じゃあ、お互いさまです」
「そうだな」
そこで会話が途絶えた。真白は勝った気がしなかったし、瀬名も勝つつもりなどなかったように見えた。
共有テーブルの上には資料が並んでいた。言葉の刃が交わった後、紙だけがやけに清潔に見えた。
昼に向かうフロアはコンペ準備の熱気で乾いていた。朝の青さは消え、窓の外には白く膨らんだ東京の空が広がっていた。ビルの反射が机の金属部分に細く刺さって画面の文字を少しだけ見づらくしていた。
真白は自分の席に戻り、瀬名に言われた箇所を開き、最後の展開を遅らせた。悔しいが、たぶん正しい。
正しいと思うことが今日はひどく嫌だった。瀬名の指摘を受け入れるたびに自分が彼に近づいていく気がして、資料の上だけならまだしも胸の中まで同じ方向へ傾いていくようだった。
真白はコピーを一行削り、次に場面の順番を変えた。
すると、資料は少し静かになった。静かになった分、最後の言葉が深く入ってくる。
「……本当に嫌」
それは自分に向けた声だった。誰にも聞こえないはずだった。
今日は聞こえないように気をつけた。そういうところまで意識していることがまた嫌だった。
瀬名からのコメントは来なかったが、代わりに彼の共有ファイルが更新された。
真白は見ないつもりでいたが、やはり開いてしまった。
瀬名の案には真白が指摘した箇所の修正が入っていた。「誰も傷つけないようにしている」という言葉が効いたのだろうか。最後に少しだけ踏み込む一文が足されていた。
それは瀬名らしくないほど危うかったが、悪くないと思った。
そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。あの言葉で彼に無理をさせてしまったのではないかと、余計なことを考えてしまった。
真白はコメント欄を開き、書こうとして止めた。
「良くなりました」違う。
「踏み込めています」違う。
「さっきは言いすぎました」も、もっと違う。
結局、何も書けなかった。
昼の確認用プリントを取りに、真白はフロア端のプリンターへ向かった。紙が吐き出される乾いた音が続き、温かい紙の匂いが昼の空気に薄く立ち込めた。
瀬名も同じタイミングで来たが、真白は顔を上げずに先に出てきた自分の資料を取った。
機械音の中で、重なった沈黙が妙に目立つ。
「さっきの」
瀬名が言った。
真白は紙を揃えたまま答えた。
「何ですか?」
「言い過ぎたと思ってる顔してる」
「顔で決めないでください」
「違うのか?」
真白はすぐに否定できなかった。紙の端が手の中で少しずれた。
「違います」
「遅いな」
「うるさいです」
瀬名は自分の資料を取った。紙はまだ温かかった。
「気にしなくていい」
「そういう言い方をされると、気にしてるのが確定するでしょう」
「じゃあ、気にしろ」
「最低」
「真白は、そのほうが動きやすいだろ」
その言い方は優しくなかったが、真白の逃げ方を知っている言葉だった。
真白は紙を抱え、胸の前に置いた。すると、紙の温度が少しだけ伝わってきた。
「瀬名さんは何でそんなに私の動きやすさを知ってるんですか?」
と聞いた後、心臓が少し跳ねた。
瀬名はすぐに答えなかった。プリンターが最後の一枚を吐き出し、昼の静かな機械音が止まった。
「分かる時がある」
「またそれ」
「理由は分からない」
真白は息を止めた。
瀬名の声にいつもの余裕が少なかった。真白はそこで、さらに踏み込むべきではないと悟った。
分かっているのに、胸の奥が先に動いてしまう。
「分からないなら、言わなければいいのに」
「言わないと、また真白が自分を勝手に責める」
「私のこと、どんな人間だと思ってるんですか?」
「面倒な人間」
即答だった。
真白は睨んだ。けれど、そこに本気の怒りは乗り切れていなかった。
「最悪」
「知ってる」
「でも、瀬名さんも相当面倒です」
「それも知ってる」
「知ってるで済ませるな」
瀬名は少しだけ笑った。真白は、その笑い方を見てすぐに視線を紙に落とした。
近づいている、と真白は感じた。その瞬間、また言葉を鋭くしたくなった。
「だから、さっきの修正も少しわざとらしいです」
と言ってから、しまったと思った。
瀬名の表情は変わらなかったが、目元の温度がわずかに下がるのを真白は見逃さなかった。
「そうか」
「……全部じゃないです」
「いい。直す」
違う、そう言いたかった。
悪くなったと言いたいわけではない。踏み込み方が彼らしくなかっただけだ。
でも、言葉が追いつかない。刺す方が早い。刺した後でいつも、後悔が追いかけてくる。
「瀬名さん」
真白は紙を抱えたまま、声を少しだけ落とした。
瀬名がこちらを見た。
「今の、撤回はしませんけど」
「しなくていい」
「でも、全部が悪いとは言いません」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
今度の声は少しだけ柔らかかった。真白はそれに救われそうになり、また腹が立った。
昼の後半、互いの資料はさらに調整された。直接話すと余計な言葉が出てしまうので、真白はコメント欄に逃げた。瀬名もそれに合わせてか、短い文だけを返してきた。
この順番だと唐突。
なら前に伏せる。
伏せすぎると弱い。
一行だけ残す。
そのやりとりはほとんど会話のようだった。声に出さない分、余計な感情は少ないはずなのに、文字の短さにかえって体温が感じられる。真白はそれを嫌がりながらも、消すことができなかった。
夕方に近づくころ、フロアの空気は疲れを含み始めた。大型コンペの資料はほぼ形になり、次は翌日の社内選考に向けた最終整理へ進む。真白は画面を保存して首の後ろをそっと伸ばした。
瀬名の席を見るつもりはなかったが、見てしまった。
彼は画面を見ており、目元に疲れが表れていた。
あの夜に見た、疲れた横顔がふいに重なった。まだ真白の中に、笑えなかった感覚が残っている。
真白は立ち上がりかけたが、やめた。水を置きに行くようなことはしない。繰り返したくない。
そう決めたはずなのに、数分後、真白は自販機の前にいた。会社の奥にある小さな休憩スペースは白い照明で少しだけ冷たく感じられ、缶が落ちる音が空いた場所に響いた。
自分の分だけ買った。瀬名の分は買わない。
そう決めて、指が止まった。
もう一本買ったらあからさまだし、買わなければそれで済む。
真白は迷った末、もう一本買わなかった。代わりに、自分の飲み物を手にしたまましばらく休憩スペースの端に立っていた。
逃げている。自分でも分かる。
距離を取ろうとしているのに、意識の中心がずっと瀬名に向いている。避けるという行為は、こんなにも相手を見ることなのか。
フロアに戻ると、瀬名の席は空いていた。少しほっとした反面、落ち着かなくなった。
真白は自分の席に戻り、缶の蓋を開けた。冷たい音が指先に響く。
そのとき、共有ファイルに瀬名のコメントが入った。
真白の最後の一文は、残した方がいい。
まただ。
真白は画面を見つめた。何度も同じことを言われているわけではないが、残せという言葉だけが妙に深く胸に響いた。
自分が消そうとしているものを、瀬名はどうしてこうも見つけるのだろう。
真白は返信を打った。
「瀬名さんは、残すものを勝手に決めすぎです」
返事は少し遅れてきた。
「勝手に消すからだろ」
真白は缶を持つ手を止めた。言い返したかった。
しかし、言い返す前に胸の奥が静かに反応した。「勝手に消す」資料の話だ。
それでも、真白自身のことを言われたような気がした。
夕方の最終確認のため、真白と瀬名はまた共有テーブルに立った。朝よりもフロアの光は低く、窓の外には東京の薄い夕色がにじんでいた。机の上の紙は、朝よりも少しくたびれて見えた。
「避けてるだろ」
瀬名が言った。
真白は資料から目を上げた。
「何をですか?」
「俺と話すのを避けてるだろ」
「仕事に集中しているだけです」
「コメントのほうが多い」
「効率的なので」
「効率だけを考えるなら、さっきの修正は直接言った方が早かった」
真白は資料を閉じた。資料を閉じる音が思ったよりも強く響いた。
「話すと余計なことを言うので」
正直すぎた。
瀬名は黙った。真白はすぐに目を逸らしたくなったが、逸らさなかった。
「それは俺に?」
「自分にもです」
瀬名は資料を見て、少しだけ息を吐いた。
「俺も、今日は言い方が悪かったな」
「いつもです」
「今日は特に」
素直に認められると真白は困る。責める場所がなくなるからだ。
「……近いんですよ」
と言ってから、真白は呼吸を止めた。
瀬名が顔を上げた。
「距離か」
「違います。いや、違わないかもしれないんですけど」
言葉が乱れた。整えようとしても、余計に崩れてしまう。
真白は資料の端を握った。紙が少しだけ曲がる。
「瀬名さんの言葉が前より近いんです」
瀬名は何も言わなかった。
真白は続けた。ここでやめたら、もっとおかしくなる気がした。
「だから、こっちもひどい言い方になる。近くに来られる前に、先に刺しておきたくなる」
言ってしまった。
フロアの音が遠くなり、誰かが席を立つ気配や端末の通知音が薄い膜の向こうへ消えていった。
瀬名は真白を見ていた。強くはないが、目を逸らさない視線だった。
「俺も似たようなものかもしれない」
真白の胸が小さく鳴った。
「瀬名さんが?」
「近いと思うと、言わなくていいことまで言ってしまう」
「いつも言ってます」
「そうだな」
瀬名は少しだけ笑ったが、その笑いはすぐに消えた。
「でも、今日は少し違う」
真白は資料を見下ろし、顔を上げているのが少し苦しくなった。
「何が違うんだ?」
「真白に嫌われる方がまだ楽だと思った」
その言葉は静かに落ちた。
真白は息を吸えなかった。嫌われる方が楽。自分がずっとやってきたことと、同じ形をしていた。
好きになる前に嫌いでいること。傷つく前に相手を傷つけること。近づかれる前に相手のほうを悪者にしておくこと。
瀬名もそれをしている。そう気づいた瞬間、真白の胸の奥がひどく熱くなった。
「……ずるいです」
真白は低く言った。
「何が?」
「そんなこと言われたら、怒りにくい」
「怒ればいい」
「今日は無理って、前にも言いました」
「そうだったな」
瀬名の声が少しだけ緩んだ。その緩みを感じてしまい、真白はますます困った。
「でも、私は怒っています」
「分かってる」
「近づいたからって、勝手に分かった顔しないでください」
「分かってない」
「じゃあ」
「分からないから、言いすぎる」
真白は黙った。
分からないから、見ている。分からないから、言いすぎる。
その言葉は瀬名らしく不器用だったが、嘘ではなかった。
夕方の光がフロアの窓に淡く残る中、東京のビルの輪郭が少しずつ暗さに沈み、室内の照明がガラスに映り始めた。真白は、その反射の中で自分の横顔がいつもより柔らかく見えることに気づき、すぐに目を逸らした。
「今日はこれ以上話すと、悪化します」
真白は言った。
「そうだな」
「肯定するんですね」
「悪化させたくない」
その一言が真白の胸に残った。
「悪化させたくない」。関係を、とは言わない。仕事を、でもたぶん足りない。
言わないことでかえって分かるものがある。瀬名の言葉はいつも足りないくせに、足りない場所が熱を持つ。
「なら、資料だけ見てください」
「分かった」
「私の顔は見ないでください」
「努力する」
「そこは、分かったでいいでしょう」
「嘘になる」
真白は睨んだ。瀬名は少しだけ目を伏せた。
その反応が腹立たしくもあり、少しだけ救いでもあった。
夜に向かう時間、作業は静かになった。直接話すのは最小限にし、必要な修正だけを互いの資料に加える。朝の棘々しさは消えていないが、形が少し変わっていた。
真白は自分の一文を残した。瀬名のコメントに従ったわけではない。
自分で必要だと思ったから残した、と自分に言い聞かせる。
しかし、その必要性を感じたのは瀬名だった。そこだけは否定できない。
瀬名の案にも最後に一文が残っていた。それは、誰も傷つけないために弱めるのではなく、必要なところだけ踏み込む言葉だった。
真白はコメントを入れた。
「そこは、残したほうがいいです。
送った後、胸が少しだけ高鳴った。瀬名からの返事は短かった。
「分かった」
それだけだった。
でも、真白には十分だった。
夜のフロアには人の気配が少なくなっていた。窓の外の東京は昼とはまったく違う密度で光っており、灯りの粒がガラスに映り社内の白い照明と重なって境目が見えにくくなっていた。
真白は帰り支度をした。鞄に資料を入れ、缶を捨てた。小さな動作をひとつずつ終えることで、今日の自分を少しずつ閉じていった。
瀬名も席を立ち、真白は気づかないふりをした。
今日は一緒に歩かないほうが良い、そう思った。
近づくと、言葉がひどくなる。ひどい言葉でしか守れないなら、少し離れた方がいい。
出口へ向かう途中、真白は窓際で足を止めた。外の灯りがガラスの向こうににじんでいる。東京はいつも遠くに見えるのに、今日はやけに近く感じられた。
瀬名は少し離れた場所で立ち止まったが、呼びかけはなかった。
それがよかった。
真白は窓に映る彼の影を、直接ではなく反射の中で見た。
「明日、社内選考ですね」
真白は前を向いたまま言った。
「そうだな」
「どちらかが落ちるかもしれません」
「そうだな」
「そのとき、変に優しくしないでください」
瀬名は少し黙った。
「真白もな」
「私はしません」
「嘘だな」
真白は振り向きそうになってやめた。ガラスの中の瀬名だけを見た。
「何でそう思うんですか?」
「今日、俺の案を残した」
「仕事です」
「そういうことにしておく」
「腹立つ」
「知ってる」
いつもの返答だったけれど、今日は少しだけ静かに響いた。
真白は鞄の紐を握った。夜のガラスには真白の表情と瀬名の影が薄く重なっていた。直接並んでいるわけではないのに、反射の中だけ距離が近い。
「近づくと、よくないですね」
真白は言った。
瀬名は答えるまで少し間を置いた。
「そうかもしれない」
「否定しないんですね」
「今日は否定しないほうが良い気がする」
「本当に、そういうところが嫌です」
「知ってる」
「でも」
真白はそこで言葉を止めた。まだ、続けるには早い。
瀬名も待っていた。急かさなかった。
真白は息を吸い、夜の冷えたガラスに映る自分の目を見た。整えすぎないほうが良い、と思った。
「嫌なだけなら、こんなに疲れません」
と言ってしまった。
瀬名は何も言わなかった。
その沈黙は真白を責めるものではなく、受け取るための沈黙だった。
「俺も今日は疲れた」
瀬名が言った。
真白は、ほんの少しだけ笑いそうになったが笑えなかった。いつか、疲れた横顔を見て胸が重くなった夜とは違い、今は、笑っていないのに奥の方が少しだけ緩んでいた。
「瀬名さんのせいです」
「真白のせいでもある」
「最悪ですね」
「そうだな」
夜のフロアには空調の低い音だけが響き、ガラスの向こうでは東京の灯りが揺れ動いていた。それは、直接言えないものを代わりに映し出しているかのようだった。
真白は出口へ向かい、瀬名も少し遅れて歩き出した。
並ばない。近づきすぎない。
それでも、同じ夜の中を歩いていることだけはわかった。
明日、どちらかの案が採用されるかもしれないし、どちらかが却下されるかもしれない。
その予感は、今までなら真白の背中を強くするはずだった。しかし、今夜は競争の熱とは別の重さが胸に感じられた。
瀬名に勝ちたい、そして負けたくない。
それは変わらない。
しかし、瀬名の案が傷つくところを見たくない自分がもう確かにいる。そう認めるにはまだ早いかもしれないが、今日の言葉を否定するにはあまりにも多く残っている。
フロアの出口近くで真白は一度だけ足を緩め、瀬名も歩幅を落とした気がした。
振り向かない。呼ばない。何も確かめない。
その何もない時間が今夜は言葉よりも濃かった。
真白は唇を結び、夜の通路へ出た。近づいた分だけ言葉はひどくなった。
しかし、ひどい言葉の奥底で、互いに消さなかった一文だけがまだ静かに熱を帯びていた。




