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棘まで恋だった  作者: reika1021


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10/10

第10章:夜底に残る声

朝の東京は、まだ昨日の熱を舗装の奥に隠していた。ビルの壁を淡い光が滑り、会社へ向かう歩道では早く動き出した人たちの靴音が、乾いたリズムで重なっていた。真白依吹は信号の手前で立ち止まり、鞄の中の資料を指先で確かめた。


紙の角が布越しに触れ、その小さな硬さだけで胸の奥が少しこわばる。今日、コンペ資料を正式に提出する。真白の案が軸になり、瀬名遥平の導線もそこに残っている。


勝ったはずの資料なのに、紙の束は昨日より重く感じられた。自分の言葉だけではないものを抱えている重さが朝の空気の中で静かに沈み、瀬名が「勝てよ」と渡した声が車の音に紛れてもまだ耳の奥から消えなかった。


真白は鞄の紐を握り直して青に変わった横断歩道を渡り、会社のガラス扉に映る自分の姿を確認した。背筋は伸びているし、顔も崩れていない。


けれど、胸の奥にあるものだけがもう昨日までの形には戻らなかった。戻せないことを今朝の真白は少しだけ分かっていたが、それを名前で呼ぶ勇気はまだなかった。


フロアに入ると、空調の冷たい匂いと紙の匂いが混ざっていた。株式会社東映社アドバンスの若手企画部には提出日の独特の緊張感があり、キーボードを打つ音まで慎重に聞こえた。真白は席につき、ノートパソコンを開いた。


画面に最終版の資料が表示された。最後の一文は真白が書いたものだったが、その一文が届くまでの過程には瀬名の考えが確かに反映されていた。


自分の案として通す。瀬名のためではなく、真白の案として。昨日そう言った自分の声を思い出し、真白は小さく息を吸った。


瀬名は少し遅れてフロアに入ってきた。真白は顔を上げなかったが、足音と資料を置く音で分かった。もう、その程度のことは分かってしまう。


分かってしまうことを、今日は否定しなかった。否定する余裕がないのではない。否定しても仕方がないところまで来てしまっただけだ。


「最終版、見た」


瀬名の声に、真白は画面から目を離した。


「早いですね」


「早く見たかったから」


その返事に、真白は一瞬だけ言葉を失った。仕事の話だと分かっているのに、声の出し方が少しだけ違って聞こえた。いつもの低さの中に、急かすでも試すでもなく、独特の温度があった。


「粗探しですか?」


「必要なら」


「最低」


「でも、今日はあまりない」


真白は画面に視線を戻した。胸の奥が小さく熱を持つ。褒められたいわけではない。そう思う癖はまだ残っているが、もうそれだけではごまかしきれなかった。


「瀬名さんの導線、残しました」


「見た」


「消せって言っても消しません」


「言わない」


「珍しいですね」


「必要だと思ったから」


真白は資料の端に視線を落とした。「必要」という言葉は、彼の声に乗ると、いつも仕事だけでは済まない場所に触れる。その触れ方が嫌だった。


嫌なのに、もう遠ざけるだけでは済まない。瀬名の言葉は真白の中で少しずつ置き場所を変えている。前ならすぐに棘で払い落としていたものを今日は払い落としきれない。


提出前の確認はフロア奥の小さな投影スペースで行われた。大きな会議室ではなくモニターと数枚の紙だけが置かれた少し息の詰まる場所で、壁際のコードが床に沿って伸びており、黒い画面には薄くフロアの光が映っていた。


画面に映る資料は整っていた。言葉も導線も昨日より強く見える。真白は画面の前に立ち、声の震えをひとつずつ抑えるように説明した。


瀬名は少し離れた場所で聞いていた。視線は資料に向いているが、真白が言葉を置くたびに彼の呼吸がわずかに変わるような気がした。


それが本当かどうかよりも、真白がそう感じてしまうことの方が問題だった。資料の文字を追いながら、別の感覚が瀬名の中で同時に生じる。仕事に集中しているのに、彼の沈黙だけが余白に残る。


「この提案では、商品を選ぶ行為をただの消費として見せません」


真白の声は朝より深く出て、空調の低い響きに混ざりながらも画面の前で細く折れずに伸びていく。その声は、自分の中にある不安や強がりまで資料の中に溶かしていくようだった。


「自分の生活を少しだけ取り戻す。その感覚にブランドが静かに寄り添う形にします」


言い終えた瞬間、フロアの空気が少しだけ動いた。大きな反応ではないが、届いたときにだけ起きるわずかな沈み方だった。


真白は画面を見つめたまま指先の力を抜いた。勝ちたいと思っていたし、今も思っている。


しかし、この資料はもはや誰かを負かすためだけのものではない。少なくとも真白の中ではそうだった。瀬名に勝つための資料ではなく、瀬名の視線をこちらに向けるための資料となっていた。


確認が終わると、提出用ファイルが正式に送られた。画面に完了表示が出ると、真白は肩の力が抜けそうになったが、すぐに背筋を伸ばした。平気な顔を作る癖は、まだ残っている。


けれど今日は、その癖を少しだけ自分で笑えそうだった。壊れないために必要だった顔がいつの間にか少し窮屈になっていて、それに気づけることがたぶん変化だった。


瀬名は何も言わなかった代わりに、共有ファイルに短いコメントを残した。


通る。


真白はその2文字を見てしばらく動けなかった。「勝てよ」ではなく「通る」。瀬名がそう言うなら信じてもいい気がした。


そんな風に思う自分を今日はすぐに責めなかった。彼の言葉に寄りかかるのではなく、少しだけ背中を押される、という違いが今ならわかる気がした。


返信欄を開いたが、すぐには打てなかった。「ありがとう」は遠い。「知ってます」は今朝には少し強がりすぎる。


真白は迷って、短く打った。


「通します」。


送った後、画面を閉じた。胸の奥に静かな熱が残っていた。派手ではないのに、なかなか冷めない熱だった。


昼のフロアは提出を終えた後の奇妙な空白に包まれていた。忙しさはまだあるのに、中心にあった大きな塊が一度手から離れたせいで音の輪郭が少しぼやけている。真白は窓際の作業席に資料を置き、遅れてきた疲れをようやく自覚した。


指先にはまだ紙を握っていた感覚が残っており、窓の外では東京のビルが白い光を反射していた。昼の街は冷たいほど明るく、昨日までの迷いを簡単に隠してしまいそうだった。


真白は自分の手元を見下ろし、紙に残った指の跡をなぞった。ここまで来たのだとようやく少し思えた、その瞬間に瀬名の導線が資料の中にあることを思い出した。


瀬名は少し離れた席で別件の資料を開いていた。提出が終わっても仕事は終わらないが、真白の意識は何度も彼の方へ流れそうになる。


流れそうになるたびに画面に戻す。その戻し方が不自然だと自分でもわかる。見ないようにする動作ほど見ていた証拠になる。


「見すぎ」


瀬名の声がした。


真白はすぐに目を逸らした。


「見てません」


「今のは無理がある」


「瀬名さんこそ見ていたから、分かったんでしょう」


「そうだな」


あっさりと認められて、真白は言葉に詰まった。以前ならそこで強く食いついたはずだが、今日はうまく棘が出ない。


出せないのではなく、出す場所を選んでしまっているのだと気づき、少しだけ悔しくなった。自分の中で、瀬名を傷つける言葉の扱いだけが変わり始めているのだ。


「否定しないんですね」


「嘘をつくと長くなる」


「面倒くさがりですね」


「真白ほどじゃない」


「失礼」


いつも通りのやり取りだったけれど、その奥の温度は少し変わっていた。真白はその変化を持て余しながら、資料の端を整えた。


紙の角が指に触れ、現実に引き戻される。仕事の会話だと言い聞かせても、言葉の奥に別の感情がにじみ出る。瀬名もそれに気づいているのかもしれないと思うと、また落ち着かなくなった。


「提出、怖かったか?」


瀬名が言った。


真白は少しだけ黙った。


「怖くはないです」


「じゃあ何だった?」


「……重かった」


瀬名はすぐには返さなかった。真白は、言ってから思ったより本音に近い言葉だったことに気づいた。それは、勝負の重さではなかった。


自分の言葉だけではないものを背負った重さだった。彼の導線を残したことも、彼に「勝てよ」と言われたことも、すべてが資料の中で小さく響いている。それは重いのに、捨てたい重さではなかった。


「俺の分まで、とは言わないんだろ」


「言いません」


「ならいい」


「でも、瀬名さんの導線は背負いました」


瀬名の視線がこちらへ来たが、真白は逃げなかった。


「それは、私が必要だと思ったからです」


「分かってる」


「本当に?」


「今日の真白は、そこを嘘にしないだろ」


真白は少しだけ息を飲んだ。信じられている。仕事の能力だけではなく、自分の言葉の選び方を信じられている。


褒められるよりもずっと怖いことだったけれど、嫌ではなかった。嫌ではないことが少しだけ怖かった。


「そういう言い方、困ります」


「困らせるつもりはなかった」


「つもりがなくても困ります」


「じゃあ、悪い」


「謝られるのも困ります」


瀬名は少しだけ目を伏せた。真白はそのしぐさを見てしまい、すぐに画面に視線を戻した。見ないでほしい場所ばかり見つける人。


けれど、自分ももう瀬名の小さな変化を見落とせなくなっていた。声が低くなる前の間、言葉を飲むときの目線、気遣いを隠そうとして失敗する硬さ。そういうものまで真白の中に残ってしまう。


昼の終わりごろ、最終プレゼン用の簡易メモを整えることになった。提出した資料とは別に、真白が話す言葉を短くまとめる必要があった。瀬名はノートパソコンを持ってきて、窓際の作業席の反対側に座った。


真正面ではなく、少しずらした位置だった。視線がぶつかりすぎない距離を、彼は相変わらず正確に選んでいた。


その正確さが少し腹立たしく、少しありがたかった。近づきすぎないことで守られているのに、守られていると気づくと、また負けたような気がした。真白はキーボードに指を置き、画面に意識を戻した。


「ここ、話しすぎると資料が弱くなる」


瀬名が画面を見ながら言った。


「分かってます」


「分かってる顔じゃない」


「顔の話に戻さないでください」


「声に出てる」


「声も読まないでください」


「それは無理だろ」


真白は少しだけ視線を落とした。声を覚えすぎているのは自分だけではないのかもしれない、と思うと胸の奥がやけに静かになった。


それは、騒がしいのではなく逃げ場がなくなるような静けさだった。言葉にしてしまえば簡単に壊れそうで、黙っていると余計に濃くなるような、そんなものが作業席の上に薄く積もっていた。


「瀬名さんの声も、わかりやすいときがあります」


言ってしまった。


瀬名の指が止まった。


「どんなとき?」


「言いたいことを飲み込んでいるとき」


「そうか」


「あと、本当に傷つけたくないとき」


瀬名は黙った。窓の外の光が彼の頬に薄くかかっていた。仕事の顔ではあるのに、そこに人の迷いが少しだけ見えた。


真白は、その迷いから目を離せなかった。自分がこれまで見られてきた分だけ、今度は自分が見てしまっているのだ。そう思うと、胸の奥で小さな痛みが動いた。


「それは、真白がそう聞いているだけかもしれない」


「そうかもしれません」


「否定しないんだな」


「今日はしません」


真白は画面を見たまま言った。否定すると自分の耳まで嘘にすることになり、それはもう少し難しかった。


自分の中にある変化を全部仕事のせいにするのは、無理があった。資料の行間に瀬名の言葉が残るように、真白の生活の中にも彼の声が少しずつ残り始めている。


「私も、言いたいことを飲み込む時、分かりますか?」


「分かる」


「即答しないでください」


「今さらだろ」


「本当に腹立つ」


瀬名は少しだけ笑った。真白は、その笑い方を見ないふりをしてプレゼンメモの一文を削ったが、指先にはその笑いの余韻が残っていた。


消そうとしても簡単には消えず、画面の文字を削るようにはいかない。感情はいつも削った後に薄く跡を残す。


午後の光は少しずつ傾き、フロアの壁に淡い影を作っていた。提出を終えた資料は、もう修正するものではないのに、真白は何度も見返していた。それは、自分の言葉がどこか別の場所へ送られていく前の、最後の確認のようだった。


何度見ても、最後の一文だけが消えなかった。消せないというよりも、そこにあることを自分が選んでいるのだ。瀬名に言われたからではなく、そう言い切りたい気持ちが残っていたからだ。


瀬名はメモの整理を手伝った後、自分の席に戻った。距離が離れると、真白は少し呼吸しやすくなった。しかし、空いた距離が寂しく感じられ、その感情をすぐに机の下に押し込めた。


まだ名前をつけたくなかった。名前をつけると、これまでの棘が急に意味を持ちすぎる気がした。真白は画面に目を戻し、次の仕事のファイルを開いた。


社内の時間は夕方へ向かうにつれて静かになり、大型案件を提出した後のフロアには達成感よりも疲れが残っていた。誰も大きく騒ぐことなく、ただ少しだけ椅子を深く引き、少しだけ画面から目を離す。


真白もその空気の中でようやく息を長く吐き、肩に残っていた力が少しずつ抜けていった。窓の外では昼の白さがやわらかい色に沈み始めていた。


画面の端には、瀬名の短いコメントがまだある。「通る」という、たった2文字のコメントを真白は消せずにいた。


消す必要はない。仕事のコメントなのだから。そう思っても、消さない理由がそれだけではないことを真白は分かっていた。


「残しておけばいい」


瀬名の声がした。


真白は顔を上げた。


「何をですか?」


「そのコメント」


「見てたんですか?」


「見えた」


「便利な言い訳」


「本当だ」


真白は少しだけ画面に手を置いた。コメントを消せないことまで見られた気がして、恥ずかしさが遅れて込み上げてきた。怒ればいいのに、怒りよりも先に胸の奥が熱くなった。


「消そうとしてません」


「知ってる」


「何でも知ってるみたいに言わないでください」


「知らないことのほうが多い」


瀬名は静かに言った。真白はその声に少しだけ驚いた。いつもの返しとは違って、どこか素直だった。


足りない言葉の中に隠せないものがある。瀬名はすべてを言わないが、言わないことで余計に見えるものもある。


「だから見てる、ですか?」


「今日は真白に先に言われたな」


「瀬名さんの言い方、移ったんです」


「最悪だな」


「はい、最悪です」


真白は少しだけ笑いそうになったが、笑わないように唇を結んだ。そのしぐさを瀬名が見ている気がしたが、今日は怒る気になれなかった。


怒る代わりに胸の奥が少しだけ緩んだ。その緩みにまだ慣れない真白は、画面の端を見つめて何もなかったような顔を作った。


夕方の終わりに提出先から受領確認の連絡が届き、結果が出るのは先になるものの、正式に受け取られたという通知だけでフロアの空気が少し変わった。真白はその通知を見てようやく肩の力を抜いた。


ずっと握っていたものを少しだけ机の上に置けた気がしたが、まだ終わっていない。けれど、少なくとも今日の役目は果たした。


瀬名も見ていた。何も言わないが、彼の呼吸がわずかに深くなったのが分かった。


真白はその変化をもう見ないふりだけでは済ませられず、見えてしまうのならせめて雑に扱わないでいたい、とまで思った。そんな自分を知らない人みたいだと感じた。


真白は席を立ち、窓際へ歩いた。外の東京は夕方の熱を抱えながら夜へ向かっており、ビルの窓に灯りが増え始め、昼の白さがゆっくりと薄れていった。


街全体が別の表情に移る途中の色で、真白はその変わり目が好きだと思った。昼でも夜でもない時間は、言い表せないものを許してくれる気がした。


ガラスに映る自分の顔は朝より少し疲れていたが、壊れそうには見えず、誰かに見られることを恐れる顔でもなかった。


少なくとも今夜だけは、と真白はガラス越しに自分を見つめて少しだけ顎を上げた。それは強がりではなく、ただ立っているための姿勢だった。


瀬名は少し離れた場所に立っていたが、呼びかけることはなく、ただ同じ窓の前に立つ気配だけが感じられた。


それだけで会話が始まってしまうような近さだった。近すぎるわけではないが、以前なら避けていた距離だった。


「終わりましたね」


真白は前を向いたまま言った。


「まだ結果は出ていない」


「そういう現実的な返し、今いります?」


「いらないか」


「いりません」


「じゃあ、終わったな」


真白は少しだけ息を吐いた。言い直してくれたことが妙に胸に残った。以前の真白なら、瀬名がこうして少しずつ言葉を変えることに気づかなかったかもしれない。


今は気づいてしまう。気づくたびに、彼がただ鋭いだけの人ではないことがわかる。知れば知るほど、「嫌い」という言葉の居場所がなくなっていく。


「勝てますかね」


「勝てる」


「即答ですね」


「俺が言っただろ」


「勝てよ、ですか」


瀬名は黙った。真白はガラスに映る彼の影を見た。直接見るよりも、反射の中の方が言いやすいことがある。


今夜の言葉は全部、そうやって少し遠回しに言っていた。直接見たら、どちらかが先に逃げてしまいそうだったから、ガラスに映る薄い輪郭を頼りにしていた。


「重かったです」


真白は言った。


「悪い」


「謝らないでください。あれがなかったら、今日、少し逃げてたかもしれないので」


瀬名はすぐには返事をしなかった。窓の外では車のライトが細く流れていき、東京の夜はまだ始まったばかりだった。空の端には少しだけ青が残っていた。


その青が消える前に言わないといけない気がして、真白はガラスに映る瀬名の影を見ながら呼吸を整えた。


「真白は逃げても戻ってくるだろう」


「買いかぶりです」


「見てきたから」


その言葉に真白の胸の奥が静かに鳴った。見られるのが嫌だった。弱さを見抜かれるのが怖かった。


けれど、「見てきた」と瀬名が言うと、逃げたかった場所に少しだけ光が差した。踏み荒らされるのではなく、そこにあると知ってもらうだけで救われるものがあるのだと、真白は初めて思った。


「見ないでって言ったのに」


「言われた」


「でも、見てたんですね」


「見落としたくなかった」


真白は目を伏せた。その言葉は以前よりまっすぐ届いた。仕事の変化だけではない。


平気な顔の下にあるものまで彼はそう扱おうとしていた。見られることが怖いのに、見落とされることの方がもっと怖かった。ずっと言えなかった矛盾がそこにあった。


「勝手ですね」


「そうだな」


「本当に、ずっと勝手」


「真白もな」


「私も?」


「見ないふりして、かなり見てる」


真白は反論しようとしてやめた。反論すればするほど今日の自分が嘘になる気がしたからだ。瀬名の疲れも声の違いも歩く速度も言葉を飲む間も全部覚えている。


嫌いな相手ならそんなに覚える必要はないはずだったし、忘れようとしなくてもそもそも記憶に残らないはずだった。記憶に残っている時点で、もう答えは少し見えている。


「見えてしまっただけです」


「便利だな」


「瀬名さんの真似です」


「移ったな」


「最悪です」


けれど、真白の声はもう本気で怒っている様子ではなかった。瀬名もそれに気づいているのだろう。何も言わないまま、少しだけ目を伏せた。


夜がフロアの窓に迫り、外の灯りがガラスに重なって社内の光と混ざり合い、境目が少しずつ分からなくなっていく。真白は、その曖昧な光の中で瀬名との距離を測った。


近すぎない。遠くもない。けれど、もう以前の距離ではなかった。


そこだけがどうやってもごまかせなかった。ごまかせないことを恐ろしいと感じながらも、少しほっとしている自分がいた。真白はガラスに映る自分の目を見た。


「瀬名さん」


「何?」


「私、あなたのこと嫌いだと思っていました」


瀬名は何も言わなかった。真白は続けた。声は震えていない。


しかし、胸の奥では何かが静かにほどけていく。ほどける音はしないのに、内側で確かに結び目が緩む感覚があった。


「今も腹は立ちます。言い方は悪いし、見なくていいところまで見るし、こっちが隠したい場所を勝手に拾うし」


「ひどいな」


「本当のことです」


「そうだな」


「でも」


真白はそこで息を吸い、窓に映る自分の目を見た。逃げるな、と誰かに言われた気がした。


たぶん、瀬名ではなく、今までずっと強がってきた自分に対してだった。ここで逃げたら、また全部を棘のせいにしてしまう、と真白は思った。


「嫌いなだけなら、ここまで残らないです」


瀬名の表情はガラスの反射の中で少しだけ揺れたが、真白は直接見なかった。見たら最後の言葉が崩れそうだったから。


だから、夜のガラス越しに言った。


「あなたの声が、思ったより残るんです」


そう言うと、フロアの音が遠くなった。空調の低い響きも、遠くで打たれるキーボードの音も、薄い膜の外へ押しやられた。真白は、自分の声がまだ体の中に残っているような気がした。


瀬名はしばらく黙っていた。その沈黙は拒むためのものではなく、言葉を雑に扱わないためのものだった。


真白にはもう、その違いが分かってしまう。分かりたくなかった頃には戻れない。戻れないことを、今は少しだけ受け入れていた。


「真白」


瀬名の声に、真白は顔を上げた。


「嫌いなら、こんなに気づかない」


その一言は静かだった。直接好きだとは言わないが、それよりも逃げ場のない場所へ彼の声が落ちた。


真白は息を止めた。瀬名の言葉はいつも足りないくせに、肝心なところだけ逃がしてくれない。今日もそうだった。


「ずるいです」


真白は小さく言った。


「そうだな」


「そこは否定してください」


「嘘になる」


「本当に、嫌な人」


「知ってる」


いつもの返しだったけれど、今夜はそれでよかった。真白は少しだけ笑った。


今度は隠しきれなかった。大きな笑いではないが、胸の奥で長く固まっていたものがようやく形を変えたような笑いだった。


瀬名はその笑いを見てすぐには何も言わなかったが、真白にはそれがありがたかった。何かを言われたら、また棘で隠したくなったかもしれない。


「恋人とか、そういう名前はまだ無理です」


真白は先に言った。言ってから自分でも少し驚く。名前を避けるために名前を出してしまったのだ。


けれど今夜は、その不器用さももう隠せなかった。瀬名がどう受け取るのか、怖くないわけではないが、言わないままにしておく方がもっと怖かった。


瀬名は目を伏せた。


「急がない」


「急がれると逃げます」


「分かってる」


「分かってるって言われるのも腹立ちます」


「そこは我慢しろ」


「最低」


「知ってる」


真白はまた少し笑いそうになったが、今度は唇を結ばなかった。笑ってしまっても負けではない気がした。


夜のフロアは、もうかなり静かだった。遠くの机の画面がひとつ消え、社内の明かりが少しだけ薄く感じられた。窓の向こうでは、東京の明かりだけが少しずつ増えている。


真白はその光を見ながら少しずつ呼吸を整えた。終わっていくのではなく、何かが始まる前の静けさのようだった。名前をつけるにはまだ早いけれど、なかったことにはできないものが確かにそこにある。


瀬名はガラスの外を見た。真白も同じ方向を見た。直接触れ合わない距離が、今夜はこの距離感の足りなさではなく、これから先の余地のように思われた。


触れないままでも逃げてはいない、という距離感を真白は初めて知った。近づくことだけが恋ではないのかもしれない、と。


「真白は、まだ怒るんだろうな」


瀬名が言った。


「怒ります」


「俺もたぶん、余計なことを言う」


「知っています」


「知ってるで済ませるなって言ってたくせに」


「今日はいいです」


「今日だけか?」


「たぶん」


瀬名は少しだけ息を吐いた。笑ったのだと思う。真白は、その音をもう聞き逃さなかった。


聞き逃したくなかった。そう思った瞬間、胸の奥にまた小さな熱が灯った。相手の些細な変化を拾いたいと思うことが、こんなにも静かな欲求だとは知らなかった。


「次の案件でも、刺しますから」


「必要なら」


「必要じゃなくても、たぶん刺します」


「だろうな」


「でも、最後の一線は越えないでください」


瀬名は真白を見た。今度は真白も目を逸らさなかった。


「俺が?」


「私もです」


と言った瞬間、胸が少しだけ痛んだ。これまで傷つけることで相手を守ってきたが、これからは傷つけないように言葉を選ばなければならない。


それは、好きだと言うよりも前に相手を壊さないようにするという、恋より先にある約束のようなものだった。真白にとっては、そのほうがずっと大きなことだった。


「分かった」


瀬名は低く言った。


「真白の弱いところを、雑には扱わない」


真白の喉が詰まった。そう言われたかったのだと、言われて初めて分かった。自分でも気づかなかった願いを、瀬名はいつも少し乱暴に見つけてしまう。


「そういう言い方、本当に」


「嫌か」


「……嫌じゃないのが嫌です」


瀬名は黙った後、少しだけ笑った。真白は今度こそ目を逸らした。見ていたら、また何かを言ってしまいそうだった。


フロアを出る支度をするころには、会社の夜はすっかり深くなっていた。机の上の紙も閉じたパソコンも朝の緊張を失い、静かに並んでいた。真白は鞄に資料をしまい、提出した案の控えを一枚だけ手元に残した。


紙の角はまだ今日の温度を少し保っており、指で触れると朝の硬さとは違う感触がした。それは、終わったものではなく残っていくものの手触りだった。


瀬名がそれを見た。


「持って帰るのか?」


「はい」


「珍しいな」


「今日くらいは」


「そうか」


「瀬名さんの導線も入っていますし」


「真白の案だろ」


「私の案です」


真白は言った。


「でも、瀬名さんがいなかったら、この形にはなりませんでした」


瀬名は少しだけ目を伏せた。嬉しい、と言うだろうかと思ったが、彼はそうは言わなかった。


その代わりに、少しだけ低い声で返した。


「それなら、残ってよかった」


その言い方が瀬名らしかった。真白は、その声を胸の奥で受け止めた。言葉の少なさに苛立つだけではない、と。


出口に向かう通路には夜の空気が少しだけ流れ込んでいて、社内の冷たい匂いと外から吹く湿った風が混ざり、今日が終わっていく感覚を運んできた。真白は瀬名より少し先を歩いた。


並ばない。けれど、もう逃げている距離ではない。そのことだけで足元の感覚が少し変わった。


エレベーターを待つ間、金属の扉に真白の姿と瀬名の影が映った。真白は、その反射をもう見ても目を逸らさなかった。歪んだ銀色の中で互いの輪郭が少しだけ近く見える。


「瀬名さん」


「何?」


「今日のこと、忘れないでください」


「多いな、覚えることが」


「私も多いので」


「そうか」


「はい」


短い会話だったが、真白には十分だった。全部を言わなくても残るものがある。全部を言わないからこそ、残るものもある。


エレベーターが降りていく。床の振動が体に小さく伝わり、狭い空間に互いの呼吸だけが静かに響く。以前なら、この沈黙に耐えられずに言葉を刺そうとしたはずだ。


今日は探さなかった。沈黙の中にいられることが少し不思議だったし、何も言わない時間がこんなに逃げ場ではなくなる日が来るとは思わなかった。


扉が開き、エントランスには夜の灯りが低くたまり、ガラスの向こうでは東京の車の光が細い川のように流れていた。


会社の外へ出る前から、街の湿った音が近づいていた。自動扉が開くと、昼の熱を失った空気が頬に触れ、真白は少しだけ目を細めた。


外に出ると、夜の風が頬を撫でた。舗装からは少し乾いた匂いが立ち上り、ビルの谷間の空は狭かったが、そこにある暗さは朝よりもずっと柔らかかった。


真白はその暗さを見上げずに歩き出した。見上げると胸の中のものがこぼれそうだった。今夜はまだこぼさずに持って帰りたかった。


瀬名も続く。駅へ向かう方向は同じだった。偶然ではない。


しかし、わざわざ確認する必要はなかった。確認してしまえば、今夜の静けさが急にぎこちなくなる。だから真白は、前を向いたまま歩いた。


「少しだけ、近いですね」


真白は言った。


「距離か」


「それ以外も」


瀬名は少しだけ黙った。


「嫌か」


真白はすぐには答えなかった。夜の歩道に街灯の光が落ち、靴先がその光を踏むたびに胸の奥の熱が少しずつ落ち着いていく。


熱は落ち着くのに消えはしない。そういう熱もあるのだと思った。怒りより長く、悔しさより静かで、けれど確かに体の中に残るもの。


「怖いです」


正直に言った。


「でも、嫌ではないです」


瀬名の足音がわずかに変わった気がしたが、真白は振り返らなかった。振り返らなくても、彼がその言葉を受け取ったことは分かった。


「俺も、少し怖い」


その声は低かった。


真白は足を止めなかった。止めたら何かがこぼれそうで、夜の風が髪の端を揺らして耳の近くで小さく鳴っていた。


「瀬名さんでも怖いんですね」


「真白相手だと、いろいろと面倒だ」


「最低」


「でも、嫌じゃない」


今度は真白が黙った。言い返す言葉はあったが、どれも今夜には軽すぎる気がした。


夜の東京は、騒がしいのに静かだった。車の音も、遠くで聞こえる人の声も、風に混ざった排気の苦しさも、すべてが遠くで揺れているようだった。真白の耳には、瀬名の声だけが近く感じられた。


その距離をもう完全には拒めなくなっていた。近づけば刺すことも分かっている。それでも、離れたいとは思えなくなっていた。


駅の光が見えてきた。人の流れが少しずつ増え、現実の速度が戻ってくる。真白はそこで足を緩めた。


瀬名も近づきすぎない距離で歩幅を落とした。並ぶほどではないが、離れるには少し近い、その曖昧な距離が今夜の答えのようだった。


「明日から、普通にしてください」


真白は言った。


「普通って何だよ」


「仕事では刺してください。変に甘くしないでください」


「甘くするつもりはない」


「ならいいです」


「でも、雑には扱わない」


真白は瀬名を見た。夜の光が彼の目元に落ちている。疲れも迷いも言葉にしない感情も、そこには隠しきれずに残っていた。


真白はそれを見ても、もう負けた気がしなかったし、見てしまったことを責める気にもならなかった。彼もまた、平気な顔の奥でさまざまなものを隠してきた人なのだと理解したからだった。


「それは私も」


真白は言った。


「瀬名さんの痛いところを、勝つためだけに使うことはありません」


瀬名は黙った。少しして、低く答えた。


「それ、かなり重いな」


「知っています」


「真白に言われるとは思わなかった」


「私も、言うとは思いませんでした」


真白は少しだけ笑った。今度はちゃんと笑った。瀬名も少しだけ笑った。


派手ではないけれど、真白にはそれで十分だった。十分だと思えることが少し不思議だった。


駅前の風が髪を揺らし、真白は髪を耳にかけようとして途中で手を止めた。疲れているときの癖だと瀬名にはもう知られている。


そう思った瞬間、また少しだけ腹が立ったが、その腹立たしさはもう鋭すぎなかった。棘はまだあるのに、先端だけが夜の湿度で少しやわらいでいる。


「今の、見ました?」


「見えた」


「そこは見ないふりしてください」


「努力する」


「努力じゃなくて、見ないでください」


「無理なときがある」


「本当に勝手」


「そうだな」


いつものやり取りだったけれど、棘の先は少しだけ丸くなっていた。刺さることは刺さるけれど、もう深く壊すためのものではない。


真白は改札の光を見て、ここで別れるのだと思った。まだ「寂しい」という言葉は使いたくなかった。


使えば今夜の余白が急に狭くなる気がしたし、恋人という名前を急がないと言ったばかりなのに寂しさだけが先に名前を持つのは、ずるい気がした。


「瀬名さん」


「何?」


「また会社で」


瀬名は少しだけ真白を見た。


「また会社で」


同じ言葉が返ってくる。ただそれだけなのに、胸の奥に静かに残る。約束のようで、約束ではない。


真白は改札へ向かった。瀬名の足音は別の方向へ流れていく。離れていく音を聞かないふりをしたのに、耳は最後までその低い気配を拾っていた。


改札を抜ける直前、鞄の中の資料が少しだけ揺れ、提出したばかりの紙の角が布越しに指に当たった。痛いほどではないのに、その感触だけがやけに印象に残った。


真白はその小さな痛みを逃がさないように指先で押さえた。振り返らない、と決めたのは強がりではなかった。


振り返らなくても、もう置いていかれた気がしなかったからだ。瀬名の声は後ろにあるのではなく胸の奥に残っているのだから、振り返って確かめる必要はなかった。


ホームに向かう階段には夜の風が下から吹き上げており、鉄と湿ったコンクリートの匂いが混じっていた。遠くで電車の近づく音が膨らんでいく。東京の夜は相変わらず忙しく、誰の感情にも立ち止まってはくれない。


それでも真白の中では何かが静かに止まっていた。走り続けていた言葉がようやく息をついたような感覚だった。嫌いだと言えば済んでいた頃の自分が少し遠くに見える。


嫌いだったはずの声、腹立たしいほど正確な言葉、見ないでほしい場所ばかり見つけて、けれど最後の一線は踏み越えなかった人。


瀬名遥平という名前をもうただの同期として片付けることはできなかった。仕事の相手で、競争相手で、苛立つ相手で、それだけでは足りない人になってしまった。


真白は階段の途中でほんの少しだけ息を吸った。胸の奥に残っていた棘が抜けたわけではないが、むしろそこにあることを初めて許したような気がした。


痛みの残る場所に無理に蓋をしなくてもいいのだと、傷つけたことも傷ついたことも全部きれいな思い出に変えなくてもいいのだと、痛かったまま大切になるものもあるのだと。


傷つけた言葉も、言い返せなかった沈黙も、勝ち負けの向こうで渡された不器用な願いも、全部なかったことにはできない。けれど、なかったことにしなくていいのだと、今なら思えた。


恋はきれいな言葉だけで始まるわけではないのかもしれない。甘さだけではなく、悔しさや意地、そして見抜かれたくなかった弱さまで連れてくるものなのかもしれない。


ホームに出ると、夜の光が線路の向こうで細く揺れていた。電車の風が近づき、髪が頬に触れた。真白はいつものように髪を耳にかけようとして、途中で手を止めた。


見られていないはずなのに、瀬名ならきっと気づくと思った。その想像に少しだけ腹が立ち、少しだけ笑いそうにもなった。


電車が滑り込んできて、白い光がホームの床を流れて真白の靴先を照らした。扉が開き、人の流れができた。


真白はその中へ入る前に鞄の上から資料に触れた。これは自分の案だ、自分の言葉だ。


けれど、その奥には確かに瀬名が残せと言った熱がある。それをもう消したいとは思わなかった。消さずに持っていくことは自分の弱さではないと思えた。


恋はたぶん、もっと甘い顔で始まるものだと思っていた。優しい言葉を交わし、触れたい気持ちをきれいに隠しながら、少しずつ名前を持つものだと。


けれど、真白の胸に残ったのはそういう柔らかさだけではなかった。痛かったし、悔しかったし、腹が立った。それでも見落とされたくなかった。


瀬名にだけは平気な顔の下を雑に通り過ぎられたくなかったし、嫌いでいたいのに見ていてほしかったし、近づかれるのは怖いのに遠くへ行かれるのはもっと嫌だった。


だからきっと、棘まで恋だった。


真白は電車に乗り込んだ。窓に映った自分の顔は朝より疲れていて昨日より少しだけ素直だったが、まだ笑っているとは言えなかった。


けれど、もう平気なふりだけの顔でもなかった。強がりは残っているし、棘も残っている。それでもその全部を抱えたまま、誰かを好きになってもいいのだと今夜は少しだけ思えた。


扉が閉まる直前、ホームの灯りが細く揺れた。瀬名の声はもう遠いのに、胸の奥ではまだ消えずに残っていた。


遠ざかったからこそかえって熱を持つ言葉があると、真白は初めて知った。近くにいるときよりも離れた瞬間に強く聞こえる声がある。それを思い出すだけで胸の奥が少し痛んだ。


電車が動き出し、東京の夜が窓の外に流れていく。ビルの灯り、濡れたように光る線路、遠ざかる駅の輪郭がひとつずつ後ろにほどけていく。


真白は目を閉じなかった。閉じなくても瀬名の声はそこにあった。嫌いだったはずの声は夜の底で静かにほどけていた。


明日もきっと言い合い、また刺し、また腹を立てる。瀬名もたぶん余計なことを言う。


それでも、もう逃げるためだけに刺すことはない。壊すためだけに言葉を使うこともない。真白はそう思いながら鞄の紐を握り直した。


指先に残った紙の角の感触が最後にもう一度だけ小さく痛んだ。痛みは消えない。けれど消えないまま、灯りになるものもある。


その痛みごと、恋だった。


-完-


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