愛という名の凶器(二)
ボーン、ボーン、ボーン。
静寂を取り戻した室内は、風のない湖のように平坦な水面をしている。けれど、無機質なカオスの声が、一滴の雫として水面へ落ちると、たちまち波紋が生まれ、何重もの波がうねり出す。
「答えられるはずもない、親子ではないのだから」
途端、一同の視線がオモイカネに集中する。彼女はやはり何も答えない。しかしそれが答えだった。
そしてここからはカオスに代わり、正気を取り戻したモシュネが語り手となる。
「サトウくんはまだ嘘を吐いている。君たちはずっと騙されていたんだ。彼は人間ではなく神だし、蛙の神ではなく別の神だ。だけど、タジカラオという神でもない」
「は?」
誰ともなく漏れた間投詞に容赦なく「と言うか、君たちの仲間ですらない」と続け、こう宣言した。
「彼は、僕らの仲間だよ。人間で言うところの、ギリシャ神話に登場する神の一柱だ。まあ、神話と実体はかなりかけ離れているけど。――え?嘘じゃないよ。タジカラオに成り代わっているわけでもない。彼は間違いなく君たちにとってのタジカラオで、彼以外にタジカラオはいない。いや、そもそもタジカラオという神は存在しない、というのが正しいかな。――ん?だーかーら、彼は君たちの間でタジカラオという名で呼ばれているだけで、別の地域出身の神ってこと」
「ありえない!あいつは高天の原にいたぞ!神は他の地域から移動することはできない!」
かろうじて反論出来たのは百合だけで、カオスを除く神々はモシュネの説明をきちんと理解しようと頭を回転させるのに精一杯。
「彼の能力なら可能だよ。むしろ、彼しか出来ない芸当だね。おそらく、こちらの天上界から冥界の門から中へ入り、そちらの門から天上界へ出たんだろう。ああ、そっちは冥界を黄泉、天上界を高天の原と呼ぶそうだね。かなりの大移動だが、彼ならば半日にもかからず君たちの住む地域へたどり着けるだろう。本来であれば、突然現れた別の地域の神をやすやす受け入れたとは考えにくいけど、君たちの最高神は優しいと聞くから、世にも珍しい移住者を快く招き入れてくれたんだろうね。そして、その移住者にタジカラオという名を与えた」
彼は決意した。あの場所にはもう居られない、と。元来、彼は聞き訳がよく執着を持たない性格をしていた。長く暮らしたフランス地域と旧友たちに見切りをつけ、暗く湿った道を半日かけて進む。
冥界の門・黄泉の戸を開ける権限は限られた神にしかないが、彼もその一柱だったので、気付かれることなくこっそり門を開け、忍び足で冥界を駆け抜け、誰も自分を知らぬ土地を目指した。
そこは神の数がとにかく多く、魔獣や天変が少ないと噂され、仲間内では度々話題にのぼった場所である。しかしそこで暮らす神々はまだ地球に来ておらず、天上界にいるらしい。地球にいてくれるなら、人間の身体に宿り、数の多さを利用してに紛れ込めそうだが、天上界となるとそうもいかない。彼と、これから向かおうとしている地域で暮らす神とでは見た目が大きく異なる。東洋人、西洋人くらいの容貌の差が彼らにはあった。
突然やって来た自分を敵とみなし争いに発展するかもしれないし、馴染めるかも分からない。それでも、彼はそこをひたすら目指した。
冷たく重い岩戸に手をかけ、ゆっくり押し開ける。途端と、目を射す眩しさと新鮮で清らかな空気が彼の頬を撫でる。躊躇いがちに、緑豊かな地面を一歩一歩、踏みしめる。見上げた空は群青色、木々と草花は瑞々しくも逞しく天へ向かい伸び、全身を包む風は少しひんやりとして心地よく、華やかな香りがする。
彼は大きく深呼吸する。いつぶりだろうか、こんなにもすっきりとした気分になったのは。
「あなた、誰?」
気配がなく気付かなかったが、彼女は彼のすぐ後ろにいた。とても美しい女神だった。
彼は慌てたが、その女神は警戒する様子もなく、仲間を呼ぶ素振りもない。それどころか彼が事情を説明し終えるまで待ってくれた。説明を聞き終えると、満面の笑みを添え、彼女は言った。
「分かった、あなたの移住を許そう。私なら融通を利かせてやれる。見た目は隠せばいいし、名は、そうだな、タジカラオと名乗るのはどうだろうか」
「タジカラオ?」
「あの大岩を、我々は天岩戸と呼んでいる。天岩戸を動かすことのできる力の強い神だから、タジカラオ。どうだ?」
「分かりました。これから私はタジカラオと名乗りましょう」
「その代わり、何かあれば私に従ってくれ。私には皆を守る責務があるんだ」
「勿論です。私はここでは部外者です、あなた方のすることに意見はいたしませんし、協力も惜しみません。それで、あなたは?」
「ああ、私はアマテラスと言う。父はイザナギ、母はイザナミだ」
アマテラスは続けてこう言った。
「母との繋がりを感じられるあの岩が、私は好きだ。時々ここを訪れては、一目お会いすることすら叶わなかった母を偲んでいる。おかげで、あなたという新たな仲間との縁が産まれた。改めて、母に感謝しなくては」
そうして、アマテラスは彼をタジカラオに変え、居場所を与えた。さらにはオモイカネに協力を仰ぎ、時間を掛けて彼らを親子だと周囲に浸透させ、彼は姿を隠しながら習慣を学んでいった。
タジカラオが素顔で皆と会話出来るようになるのは、地球に下り、人間の身体に宿った後のこと。
「――彼はそうやって世にも珍しい移住者になり、昔からの仲間のフリをして君たちといたんだよ。彼はね、僕らといた頃も自身の出自を偽っていたし、元々嘘吐きなんだよ。まあ、嘘を吐きたくて吐いているわけじゃないけどね。だから僕も、正体を知りつつカオスにすら話さないで秘密にしてあげてた。彼が、私利私欲で自分の能力を使うタイプではないと分かっていたし、嘘を吐きたくなる気持ちも理解できたから」
なかなか確信を突かないことに痺れを切らしたのか、フレイが立ち上がり、モシュネに詰め寄った。
「待って。彼って、誰のこと?私達も知っている相手よね?」
「そうだよ。君も知ってる、だって彼は有名だから」
「待ってよ、そんな、まさか、」
「そう。彼は、シュガールだよ」
シュガール。
その名を聞き、フレイは言葉を失った。見開かれた目が、わなわなと震える口元が、シュガールという名すら知らない飛鳥達の不安を煽る。
フレイだけではない、コアトルもバッカスもマイアも、そしてケトまでもが蒼白になって固まっている。「まさか」「そんな」「どうして」と、現実を受け止め難いのか、うわ言のように呟く。
「シュガールがどういった神なのか説明するよりも、シュガールの父親について話した方が早い」
「父親?」
「シュガールの父親は、タルタロスだ」
聞き返す百合に、今度はもったいぶることもなくモシュネは答える。
「長らく、神々の間でもタルタロスは実在するのか否か議論されてきた神。それまでタルタロスとは、冥界の最果てにある空間や場所を示す言葉とされ、実体を持たない存在と考えられてきた」
そこは、神が無に帰る場所、死が相応しいと判断された神が送られる場所、神々が最も忌み嫌い恐れる場所。そして行こうと思って行ける場所ではなく、タルタロスに呼ばれた者だけがそこへ誘われるのだ。
実際、この場にいる者は誰もタルタロスに会ったことはない。タルタロスと対峙する=死、だからだ。彼と出会い、生きて戻れた者はいない。
悪事を働かなければタルタロスに呼ばれることはなく、どの程度の悪事が彼の片鱗に触れるのか基準も不明。人間を弄び殺した経験のある神も、仲間を陥れようとした神も未だに生きているのだから、タルタロスは気まぐれな性格をしているのかもしれない。
「タルタロスは僕らにとってずっと空想上の、それこそ神話の中の存在だった。悪い事をしたらタルタロス行きだぞ、なんて子供の頃に脅かされたよ。けれど、シュガールの登場を持って、その存在が証明されてしまった。さっきも言ったけど、シュガールは出自を隠してた。嵐を呼ぶ神、ずっと思わされてきた。そりゃそうだよね、タルタロスの息子なんて知れたら怖がられて誰も近づきたがらない。その気持ちは理解できたから僕も彼の嘘に付き合ってあげてた。――あの時までは」
秘密を秘密のままにしておけなくなったのは、『譲渡』が続発し、力を譲渡された元人間達が争うようになってしまった頃のこと。本来であれば、争う元人間達を冥界へ強制的に送り、事態を収拾するところだが、その権限を持つ神が力を譲渡してしまったためにカオスや他の神々が一時的に彼らを隔離処置していた。しかしそれは応急処置に過ぎない。永遠にそうしておけるはずもない。相手も神だ、それも特に強い力を持つ神である。下手をすれば逆にカオス諸共、多くの神が冥界へ送られかねない最悪の状況だった。
残された手は一つ、シュガールの力に頼ることだった。
「あの時はもうどうしようもなかったんだ。事態収拾のためにはそれしかなかった。シュガールだってしたくてしたわけじゃない、僕は彼の性格も生い立ちも知っている。彼は自身の力を嫌い、産み育む神に強く憧れている。自身の力を行使した経験もそれまでなかった。だからそういった意味では、あの件での一番の被害者はシュガールと言える」
「待ってくれ、じゃあ、あいつは、」
山田の声が微かに震え、掠れている。今にも倒れてしまいそうだが、止めを刺すが如く、モシュネは言い放つ。
「シュガールは、地上のタルタロス。神を殺す力を持っている」
思わず、百合は手を顔を覆った。胸が張り裂けそうだった。百合だけではない、飛鳥も珊瑚も山田も、息が出来ないほど苦しい。
佐藤がタニグクではなくて、タジカラオでもなくて、シュガールという別の地域に住む神だったことなど、この際どうでもいい。神を殺せる力を持っていることも今回の件の根幹に係る重大事だが、知ったことではない。
今、日本に住まう神々が胸を痛めている理由は、憩に殺したいほど憎まれていると、客観的事実として証明されてしまったことだった。 彼女の神々への復讐は、一矢報いるなどと言う甘いものではなかった。
神を自らの手で殺す。シンプルながら究極の復讐を、憩は実行しようとしていたのだ。底知れぬ憎悪と明確な殺意を携えて、そこへ向かって着実に歩みを進めてきた。
「君たちは彼女に、ちゃんと恨まれていたようだな」
カオスの言葉が胸に刺さる。分かっていたのに、痛い。涙が出るくらい、痛い。
いつの日か、佐藤が呟いた台詞がフラッシュバックする。
――「もう、知られてしまうのも時間の問題ですね」
佐藤は分かっていたのだ。海外に住まう神と自身が出くわせば、高い確率で正体が知られる。そこにモシュネがいれば、確実に自分がシュガールだと分かってしまう。知られれば、憩と引き離される。そうなる前に、佐藤は憩を神にしたかったのだ。
モシュネは一息つき、しみじみと呟いた。
「シュガールは蛙の神のフリをせざるを得なかったんだ。だって、アマテラスには正体を知られているわけだから、イコイと共にいれば、イコイの目的が自動的に分かっちゃうでしょ。それでなくとも、”神を殺したいほど憎む人間”と”神を殺す力を持つ神”を一緒にいさせることなど許されない。引き離されるし、最悪イコイは殺される。それでも彼女のそばにいたかったら、別の神に成り代わるしかない」
自己を何度も偽り、名を捨て、居場所も変えて、それでも痛まなかったシュガールの心は、ひとりの人間との別離で壊れそうになっている。完全に壊れてしまう前に、愛する人に全て捧げよう。そのため、彼女は長い間辛苦に耐え続けたのだから。
そう決心していたシュガールは今、隔離された空間の中で一心に憩の身を案じている。行方不明の理由を自分は知らない。どうか、これが彼女にとって不測の事態などではなく、描いた筋書き通りでありますように。
「・・・そうか、そうだったのか。佐藤は、あいつは本当に、憩さんを愛しているんだな」
そうささめいて、百合は力なく微笑み、下唇を噛んだ。




