8. ブライダリー・ダークソーン その③
「ぎぃおおおおおおお」
軟体動物のように、ソレはぐにゃりと立ち上がる。一歩ずつ、人ごみに向かって歩いてくる。
その度に、ぐっしょりと濡れた毛糸の中で、何かがうごめいた。バリバリ、バリバリと、糸が千切れる音がする。
「お、おい、冗談だろ! 来るな、来るなよ!」
次のターゲットは若い男性だった。たくましい見た目だったが、どうも腰が抜けて動けないらしい。がくがくと震え、その場に座り込んでいた。
「げぇええぎがご」
短い鳴き声の、その直後。
バリィッ、という大きな音とともに、タートルネックが弾け飛ぶ。下着も、ブーツも、全てただの布切れとなり、雨に濡れる歩道にはらはらと落ちてゆく。
一糸まとわぬ姿となった女性。しかし――その身体は、すでに人間のものではなかった。
口、口、口。病的に白い肌、その一面が、無数の口で埋め尽くされていた。腰から生えてきた尾のようなものも、漆黒の翼も、口に支配されていた。
「あああああああああああああああああああああああ!?」
男性は、人目もはばからず大きな悲鳴をあげる。そんな男性に、口の化け物は優しくハグをした。
瞬間、
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ」
響く男性の叫び声。無数の口が、男性の全身に牙を突きたてている。みるみるうちに、男性の肌から血の気がなくなっていく。
先ほどの少女よりも早く事切れた男性は、地面に倒れこんだ。
現場は既に阿鼻叫喚の様相を呈していた。さほど人がいたわけではない。が、皆散り散りばらばらに、必死の形相で逃げ始める。
が、化け物はそれを逃がさない。
「ぐああああるるるるるるるるっるぁぁぁぁぁああああああッッ」
雄叫びを上げる異形。それと同時に、赤いオーラが、衝撃波を伴ってその場を覆う。
「ぐあぁ!」
「がはっ!」
赤い衝撃波が人々を直撃する。しかし、人々は吹き飛んだわけではなかった。ただ、彼らの目の光は、衝撃波に当てられた時点で失われていた。
次の瞬間、駅前広場に響くのは、ごうごうと降り続く雨の音のみとなっていた。
吹羅の見える範囲の人間は、全てほぼ同時に倒れた。その全員が、肌から血の気を失っていた。
「フッ……どこの覇気使いだ、貴様。あいにくと、我には効かぬがな」
言い放つ吹羅は、他の通行人共とは違い、特に変わり映えもなく、右手を前にかざしてその場に立っていた。
もちろんのこと、今の赤いオーラは、ただの衝撃波ではない。怪物の超人的な動体視力によって視る限り、あのオーラには、人が当たる瞬間に、無数の口が出現していた。
察するに今の技は、その特性により『口』の形をとった魂が、直接血液を摂取するというものだ。血液には魂の力が宿っており、吸血鬼はそれを吸って生きている。魂のエネルギーというこの世で絶対的に優先されるものを摂取しているからこそ、彼らは無類の強さを誇るのだ。
だが、それが異能である限り、吹羅には通用しない。吹羅の異能・穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆すは、『自分が触れた異能を無力化できる能力』である。星を貫く神の雷であろうと、全てを喰らう闇であろうと、吹羅を傷つけることはできない。
「ぐぅいいいい、ぎるるるる」
突如、吹羅の耳に、不快な吐息がかかった。
「っ!?」
すぐさま吹羅は前方に飛び出した。すこし距離をとって着地し、振り返ると、ソレはいた。
「ぎぎぎぎぎぎぎぎ」
首をほぼ直角に傾けて、吹羅の方を見ている。目がないので『見ている』とは言えないのだが、そんな気がする。
「くっ……貴様ッ!」
どういう事情か知らないが、この化け物は吸血鬼が変化したモノのようだ。なぜ、大勢の人間を巻き込んでまで、こんな手段をとったのか……いや、今そんなことは重要ではない。
問題は、吸血鬼が吹羅にとって最大の難敵であるということだ。穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆すは、『触れた異能を無効化することができる』能力である。だが、もともと彼らの不死と超人的な身体能力は、『最初の吸血鬼』が異能によって自らの身体を作り変え、その『異能の結果』が遺伝してきたものである。吹羅が無効化できるのは『異能』そのものであって、『異能の結果』を無効にすることはできない。異能によって壊されたものを元に戻すことはできないし、異能によって殺された人間を生き返らせることはできない。
よって吹羅は、異能を抜きにした、本来持ち合わせる怪物としてのスキルで吸血鬼と戦わなくてはならない。しかし、身体的能力においては吸血鬼は全ての怪物の頂点に立っている。加えて、相手には『心臓を破壊しない限り死なない』という条件もある。
「……圧倒的に不利な戦い、か」
一人呟く。
吹羅は殺し合いにおける"敗北"というものを知らない。否、敗北することは彼女に許されていない。それは、『永遠にわたしはわたしでありたい』という吹羅の魂の願望が発現させている穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆すのもうひとつの能力。
それは、不死。かの帝王の一族と同じ特殊能力。
違う点があるとすれば、吸血鬼の不死が完全な体質であるのに対し、吹羅の不死は異能によって恒常的に実現されているということだろう。前者は『血液』を補給しなければ、身体は壊れずとも自我の崩壊が起こってしまうが、後者には特にリスクもない。
つまるところ、この殺し合いには終わりがない。互いに相手を殺すことなどできないのだから。
もちろん、殺す方法があるという点においては、吹羅のほうが有利かもしれない。だが、吹羅と吸血鬼との相性はすこぶる悪い。方法があっても、それを実現するほどには、吹羅の実力はわずかに足りない。
加えて吸血鬼には、血を吸う事で自らの体力を回復できるという"体質"がある。その対象は人間に限った話ではなく、『血』らしきものが通った生物であれば何でもいい。戦闘中に吹羅の血を吸ってもいいし、飛ぶ鳥を堕としてもいい。何なら虫でも構わない。
最終的に、あの化け物はどこまでゆくのだろう。この星の、全ての生き物の血を吸いつくして、世界を滅ぼしてしまうのだろうか。
決してあり得ない話でもない。怪物に変貌する寸前のあの女の眼差しには、相当な覚悟がこもっていた。自分が世界を滅ぼす可能性もそこには入っていたのか? 吹羅の知るところではないが――
「フフッ。フフフフフ。フハハハハハハハハ!」
今考えた事が、図らずも、我のスイッチをONにしてしまった。
「世界を救う戦いか! どうやら我は、とんでもないことに巻き込まれてしまったのかもしれぬなぁ!
よかろう。このヒュドラ、全力をもって貴様と戦おうではないか!」
高らかな宣言と共に、彼女の身体からゆらぎが生じる。
はじめは両手。腕を伝って頬へ。その身体が、うろこに覆われてゆく。
同時に、両脚がだんだんとひとつに融合し、細く長く伸びてゆく。変化の生じた場所から衣服は消滅していき、先ほどの吸血鬼のように、はしたなく破片を散らすということもない。
その変化の最中、何の脈絡もなく、濡れたシャツを突き破って(正確にはシャツを消滅させて、だが)、吹羅の腰から、一匹の大蛇が生えてきた。続いてもう一匹。また一匹。まだ、まだ蛇は生えてくる。
そして、八匹目の蛇が顔を出した時、吹羅の変化は止まった。
その場に現れたのは、全長三~四メートルにも及ぶ、半人半蛇の怪物だった。大樹の根のようなその下半身は、妖艶にとぐろを巻き、まばらにうろこに覆われた、華奢な人間の上半身は、蝋を思わせるように色白で、しかし身体のメリハリはなかなかのもの。
だが、最も目をひくのは、やはりその腰から生えた八匹の大蛇だろう。チロチロと下を出しながら、思いのままに蠢くその様は、見るもおぞましく、しかしどこか美しかった。
其は英雄殺しの毒蛇、万物の拒否者、死をあざ笑う者。怪物の母・エキドナの子が一人、ヒュドラの真の姿だった。
「さて。開演といこうか、"吸血姫"」
人間のものと同じであるはずの、ただひとつの口から現れた、二つに割れたその舌が、ねっとりと毒牙を舐めた。
★
「りーくん、あーんして♪」
「はいはい」
甘美な黄色い流体を乗せたプラスチック製のスプーンが、怪原理里の手で、目を閉じて物欲しそうに開かれた怪原珠飛亜の口に運ばれていく。
「ぱくっ」
それがその口の中に到達するのを待ち切れず、珠飛亜は自分からスプーンにかぶりついた。途端、彼女の目尻は滝から落ちる水の如く降下していき。
「んーん、おいしー! りーくんに食べさせてもらうと、百倍おいしー!」
「そりゃよかったな……」
もう、家族なのにとかツッコむことはとうに諦めている。この二つ年上の姉の辞書にはおそらく、そういったことに対しての『羞恥心』や『常識』などという文字はない。大学に入って少しましになるかと思ったが、全くそんなことはなかった。何せ、昼になると大学から(物理的に)飛んできて理里の高校に不法侵入し、人目もはばからず一緒に弁当を食べようとする始末である。教師陣も「ああ、怪原さんだからね……」と彼女と共に過ごした三年間のキャリアで納得してしまい、全く注意もしない。おかげで男子からは嫉妬され、女子からはドン引かれと、理里の前にはぼっちの栄光のロードが燦然と光り輝いているのであった。
「ねえねえ。りーくんは、どのくらいわたしのこと好き?」
「ど……!」
どこのバカップルだ! と叫びたい衝動は、ギリギリで抑え込んだ。理里がムキになるほど、この姉は喜ぶのである。
「……、そうだな。こ――――――れくらい、かな!」
可能な限り腕を広げて、多少笑顔も作って、理里は精一杯自分の愛を表現した。しかし、
「えー? たった二本の腕のなかに、おさまっちゃうくらいなのぉ? やだー、ぜんぜん足りない!」
こ、この野郎……!
「うーん、それじゃ……この地球くらい」
「だめ! それくらいじゃ、ぜんっぜんだめ!」
「くっ……じゃあ、この宇宙くらい?」
「だめだめだめぇ! ぜーんっぜん、たーりーなーいーよー!」
珠飛亜監督は厳しかった。なかなか俳優にOKを出してくれないくせに具体的な指示がないという、相当嫌なタイプの監督である。
……ならば、こちらも持てる最大限の力を出すッ!
「『どれくらい』なんて、表現できないっ! 人類が考え出したどんな単位でも表せないくらい、珠飛亜が好きだっ! 世界中の誰よりも、愛してるよっ!」
脳の血管が切れそうなほど、理里は叫んだ。どうだ、これが俺の全力だ!
どうやら珠飛亜も満足したようで、ニコニコと笑みを浮かべた。
「よろしい、合格っ! さーて、これでまた着ボイスの音源が増えたねえ」
そう言って、珠飛亜はポケットの内の何かを操作した。おそらく愛用のICレコーダーの録音を止めたのだろう。
……って、
「コラぁ! またやりやがったな!」
「うふふ。毎度毎度いい『音』を作ってくれるよね、この子は♪」
理里は即座にレコーダーを取りあげようと手を伸ばしたが、珠飛亜は軽い身のこなしでひらりとかわす。
「ちくしょう、じっとしろよ!」
「やーだもーん♪」
「ちょ、ちょっと……あ、あぶないよ……!」
顔を赤らめながらも、どうにか無視して本を読んでいた綺羅が、ついに口を挟んだ。このノリが始まると、最終的に家の中の物のどれかが壊れるまで止まらない。そうなる前に阻止せねばならない。
勇気を振り絞って綺羅が立ち上がったとき、ふいにインターホンが鳴った。
「まずい、近所の人が来たのかもな……珠飛亜、お前のせいだぞ!」
「えー、わたしは叫べなんて言ってないもん。りーくんがそれだけ、わたしを愛してくれてたってことだもーん」
痴話喧嘩を無視し、綺羅はモニターをのぞいた。しかし――
「!?」
そこに映った者を見た瞬間、綺羅はどさりと床に崩れ落ちた。
「綺羅!? どうしたんだ、そこに誰が映っているんだ!?」
「あ、あいつ……あかい、かみの…………!」
聞いた刹那、理里は即座にモニターに駆け寄った。そしてそこに映っていたのは……やはり。
「どういうことだ、こいつ……いったい、何をしにきたっていうんだ!?」
現在、希瑠と恵奈、そして吹羅は家にいない。ここにいる三人で、できるだけ穏便に対応するしかない。
しかし、こいつはなぜこの家の場所を知っているのか!? そして、何のためにここに来たのか!?
いつもの自信が見る影もなく取り乱した理里に、珠飛亜も心配して駆け寄った。
「なあに? 誰が来て……えっ!?」
希瑠に言われたとおり、綺羅は誰にも『浮気』の話をしていないし、理里も吸血鬼と謎の男に関する話はしていない。ことに珠飛亜に伝えると、無駄に騒いだり言いふらしたりと、かなり面倒なことになる。嘘をつけない純真な性格は彼女の美点でもあるのだが、それが逆効果になったことも数えきれない。
しかし、
「うそ…………生きて、たの……!?」
その風貌などはおろか、存在すらも聞かされていないはずなのに、珠飛亜は男のことを知っていたようだった。ただ、その表情にあったのは、理里たちとは違い、『驚き』だけだ。
「ど、どういうことだ珠飛亜! こいつを、知っているのか!?」
「し、知ってるも何も……このひとは、」
珠飛亜が告げようとした『真実』は、玄関の方から聞こえた、「キン」という金属音によってさえぎられた。
「な、何だ……?」
間髪いれず、「ガチャリ」という音がした。
そして、理里は全てを理解した。
「この野郎……鍵を壊して、入ってきやがった……!?」
「ふふ……くひひひ……きゃひひ、きゃははは、きゃっはははは」
少年のように純真な、しかし老獪な猛獣の如き恐ろしさをはらんだ笑い声が、ゆっくりと近づいてくる。




