《外伝》シーク・ザ・サーペント
海松布 鋏介は、生まれたその瞬間から、自分が『蟹』であることを知っている。
そして自分が、何のために生まれてきたのかということも、また知っている。
そう。おれは、一匹の『海蛇』を捜しに、夜空からこの世界にやってきたのだ。
かつておれと海蛇……いや、彼女は、夜空で仲睦まじく悠久の時を過ごしていた。だが、十五年前のあの騒ぎで、彼女は行方が知れなくなってしまった。戦いが終わったとき、すでに夜空に彼女はいなかったのだ。神々にも聞いて回ったが、誰一人として彼女の行方を知らなかった。
だからおれは、神々の目が行き届いていないこの世界に、最後の希望をかけて転生したのだ。もう一度彼女と出会うため。永遠の愛を取り戻すため。
たとえこの身が朽ち果てようとも、おれはあきらめない。彼女を見つけ出すまで、夜空に戻ってなんかやらない。そう決めていた。
そして――唐突に、その日はやってきた。
☆
「いってらっしゃい、きょうちゃん。今日からもう三年生ね、がんばりなさいよ」
「はーい、いってきまーす」
母親の応援を適当に流して、鋏介は家を出た。
『多分そう遠くない過去か未来に転生しているのではないか』という全能神のあてにならない助言に従って、あの日のちょうど一年前に転生してから、もう十五年が過ぎようとしている。だが、彼女とおぼしき者はいっこうに現れない。こちらから色々な方面にコンタクトをとったりもしているのだが、かけらほどの手がかりも掴めていない。まあ、ヒントが前世の姿しかないわけだから、見つからないのも当然なのだが……。
それにしても、記憶をもって生まれ変わるということがこんなにも疲れることだとは思わなかった。この時代で言うところの、RPGの二周目を遊んでいるような気分だ。なんの因果で数千歳以上年の離れたガキどもの遊びにつきあわなくてはならないのだ、と、幼稚園・小学校中学年ごろまでは特に苦痛であった。十年以上も、何も知らぬ子供のふりをするのは非常につらかった。
だが、小学校高学年にもなると、ある程度子どもは大人になる。そこまできて、やっとおれは自分になった。急に人が変わったおれに両親(この時代での)は戸惑っていたが、思春期の心の変化だろうとやがては納得した。
そして数年がたち、現在に至る。なにやら今年は高校受験とやらがあるようで、同年代の子らは死に物狂いで勉強しなければならないのだそうだ。完全に他人事なのは、別に学歴などに魅力を感じないからである。教育熱心な親には悪いのだが、おれは彼女さえ見つけられればそれでいいのだから、それだけが人生の目的なのだから、適当に勉強して中の上くらいの公立高校にでも入ろうと思っている。おれにはそれが可能だ。
ははは、ははははははと軽い自己陶酔。学校はすぐそこだ。さっさと二度目の人生の一ページを開けよ
ぱきっと、足元で音がした。
「ん?」
慌てて踏み出した足をすっと後ろに戻すと、アクリル製のクリアキーホルダーが、見事に粉砕されていた。
そして。
「あ……あぁ」
思わずどきっとさせられるようなアニメ声に振り返ると、一人の少女が、両目をうるませてそこにいた。
耳にかかる部分だけが異様に長く、前髪はぱっつん、のこりはショートカットという珍妙な髪型をしている。目は大きく、鼻は丸めで、庇護本能をくすぐられる可愛らしい顔立ちだ。鋏介と同じ中学の制服を身に着けており、学年をあらわす胸ポケットの校章の色も、鋏介と同じである。
彼女の視線は、鋏介の足元……つまり、粉砕されたキーホルダーに注がれている。なるほど、読めた。この子が落としたキーホルダーを、おれが誤って踏み潰してしまったというわけか。って、やばくないか⁉ 何をボーっと突っ立ってるんだおれは! はやくあやまらないといけないじゃないか!
と、理性は言っていたのだが、鋏介の身体は一歩たりとも、一ミリたりとも動きはしなかった。
あまりにも、少女は美しすぎたのである。
「ひくっ……ひっく……きらのぉ……きらのねこちゃんがぁ……」
少女がすすり泣きはじめても、鋏介は彼女に釘付けになったままだった。紅潮した頬、赤く腫れた目元、あふれ出る涙にさえ、狂おしいほどの愛しさがこみあげてくる。ああ、彼女に触れたい。今すぐ抱きしめて、自分のものにしてしまいたい。その艶めいた唇を、奪いたい――
思わず手を伸ばした。頬に触れた。彼女は、
「……ひくっ?」
ぴくりと身を震わせた。そして、鋏介の顔を上目遣いに見つめ。
そこで、鋏介の理性は戻った。
「はっ! ご、ごめんっ」
「…………」
少女は、動かない。じっと鋏介を見つめたまま、動かない。
「そ、その……ほんとうにごめん! ちょっと、考え事しててさ……そ、そうだ! このキーホルダー、直してあげるよ!」
「……ほんとう? ほんとうに、な、なおして、くれるんですか?」
前世から数えて齢数千を刻む鋏介であるが、彼は自分で思っているほど大人ではなかった。
「ああ、ほんとうさ! ……きみ、名前は?」
「ひくっ……きら、です。かいはら、きら。きらきらぼしの、『綺羅』です……」
「ん、カイハラ……? いや、わかった、カイハラさんだね。おれは、海松布鋏介。みたところ、学年もおんなじみたいだし……あ、そうだ。クラス発表、いっしょにみようよ! そしたら、直したキーホルダー、いつでも返しにいけるし」
「……うん」
「よし、破片ひろうよ。きみはそこで待ってて」
「だ、だいじょうぶ。き、きらもてつだう」
かくして、鋏介の運命の歯車は、十五年目にしてやっと音をたてはじめたのである。
☆
「はーっはっはっはっはっ! あらわれたな、モクズガニめ!」
「……げ」
ひと悶着の末やっと校門をくぐった鋏介の前に現れたのは、純度100パーセントの邪気眼系厨二病患者(女)だった。
「ふははははは、今日も紅に彩られた前髪が輝いておるな……ときにモクズガニ。なぜ貴様、我が運命で結ばれし双子の妹をはべらせているのだ?」
「あ、やっぱり……」
顔は、悔しいけども綺麗な部類にカテゴライズされるだろう。髪型は最近話題の『くるりんぱ』という、三つ編みをそれぞれ頭の逆側に持ってきて留めるというもので、左眼には黒い星のペインティングが施されている。
そう、彼女の名は怪原吹羅。綺羅の名前を聞いたときから、なんとなくこの展開は予想していた。なにせ『カイハラ』などという苗字はそうそうあるものではない。よくみると顔のパーツも瓜二つなのだが、雰囲気があまりにも違い過ぎて双子とは思えない。
ちなみに鋏介が『モクズガニ』と呼ばれているのは、海藻を意味する姓の『海松布』と名の『鋏介』のハサミからであって、吹羅が鋏介のことを『蟹』だと知っているからではない。最初に呼ばれたときはヒヤヒヤしたものだ。しかし厨二病なら、もう少しましなネーミングもできたのではないか。『煉髪の聖騎士』みたいな。
「あのね、き、きらのねこちゃんがね、きょーすけくんにふみつぶされちゃったの。でも、なおしてくれるの。だから、いっしょに、くらすはっぴょうみるの」
「ふむ、なるほど」
え、今のでわかったの⁉ かなり断片的だったけど⁉ さすがは双子の姉妹といったところ、心も通じ合っているようだ。
「つまり煉髪の聖騎士よ、この妹は、貴様と行動を共にすると言っている。ならば我は、それに従うのみぞ」
……なるほど。やはり、こいつはただのテレパスだ。なんでたった今つけたおれの二つ名をしってるんだよ。
「はーい、そこどいてー」
「おっ、きたきた」
そうこうしているうちに教師陣が、学年百五十二名全員を四つに振り分けた、四枚の長い紙をもってくる。彼らが行く道の前、ざーっと群衆が二つに割れる。モーゼか。
「ふはははは、ついに時は来た……百五十二の魂に、審判が下る時がな……」
厨二、お前は黙れ。
「どきどき、どきどき」
心臓の音を声に出す人間をおれは初めてみたぞ、綺羅ちゃん。
鋏介の心の中でツッコミの応酬が繰り広げられるなかで、百五十二の魂の行く末が記された紙は、果たして体育館の外壁に張り出された。
自分の名前を探そうと、一組から順にみていると、先に吹羅と綺羅の名が見つかった。三年一組六番怪原綺羅、三年一組七番怪原吹羅。あれ、双子なのに同じクラスなのか。珍しいこともあるものだ。
そして――見つけた。三年一組、三十二番、海松布鋏介。
「…………」
喜んでいいのやら、悲しんでいいのやらである。綺羅と同じクラスになったことは飛び上がるほどうれしいのだが、この厨二とは三年連続で同じクラスだ。今年こそは離れられるかと思っていたのに、残念無念また来年だ。来年は卒業だけど。
左の口角は十五度引きあがり、右の口角は十五度引き下げられた微妙な表情で固まった鋏介に、救いの天使が舞い降りた。
「うふふ。お、おなじくらす、だね」
ああ美しい、美しすぎるぞ怪原綺羅。これはもはや宝だ。国の宝、いや全世界の宝だ。世界遺産だ。こんなにも美しい少女の存在に、なぜおれは今まで気づかなかったのか。
「おいモクズガニ、何を附抜けた面をしておるのだ。もしもーし、き、こ、え、て、ま、す、かー」
左右対称に限界まで引き上げられていた鋏介の口角が、吹羅の声で平常に戻った。
「……はっ! え、なに?」
「発表が終わったならば、そのまま新たなる世界へと向かうのが道理であろうと言ったのだ」
ちなみに、『新たなる世界』=新しい教室である。
「あ、それもそうだ」
「ふはは、これだから無能な蟹は困るな。蟹しゃぶにして食べてやろうかいってててててててて痛い痛い痛い、耳をつねるな!」
「調子にのるなよ。誰が無能だ」
いつものように制裁を下しながら、これから一年お世話になる教室へと、鋏介はふたりと階段を上った。
☆
まあ、予想はしていたが。
「解せぬ……我は、我は真実を述べただけだぞ……我がこの世界を救うために、神命を受けてこの世に生まれ落ちた十二使徒のひとりだということを……なのになぜ、『う、うわぁ……』みたいな目で見られなければならない」
「逆に引かないやつのほうがそうそういないと思うけどな、おれは」
珍しく初日から行われた自己紹介、吹羅は早々に黒歴史をまたひとつ打ち立ててしまった。内容は、先に吹羅が言った通り……多少顔のパーツが整っていて、隠れ巨乳でも、こんなのに近づく男は一人もいないであろう。
それに比べて、綺羅ちゃんの自己紹介のなんとつつましやかだったことか。多少どもりながら、
「あ、あの、え、ええええっと、か、怪原綺羅、です……よ、よろしくおねがいしましゅ」なんて言うのを聞いたら、たいていの男は悶え死ぬぞ。
そんなことを考えながらも、鋏介は綺羅を見つめる。無意識のうちに目が行ってしまうのだ。
「…………!」
そう考えたとき鋏介の中に、やっとある疑問が生じた。
なぜ、自分はこんなにも綺羅に惹かれているのか。おれの愛する者は『海蛇』ただ一人……一匹ではなかったのか。無意識のうちに、彼女に心奪われたのはなぜなのか。
……いや待て。そんなことが信じられるか。こんなにも早く、こんなにも近くに、彼女が現れるものなのか。だが、知らず知らず、魂が求めるようなこの感覚は、かつて彼女に初めて会ったときと同じだ。何らかの『力』……それも、とても強い『引力』が、俺に彼女から目を背けることを許さないのだ。果たしてそれは『運命』というものなのか。それとも単なる憧れなのか。
……ならば、
「ねえ、綺羅ちゃん」
「ひゃいっ⁉ な、なに?」
「あとで、ちょっと聞きたいことがあるんだ。終礼が終わったら、美術室前に来てほしいんだけど……」
「あ、うん……い、いいよ」
もしもこれが運命だというのなら。彼女が『海蛇』の生まれ変わりだというのなら……欠片でも、その面影が残っているかもしれない。昔のことを少しでも話せば、記憶が戻るかもしれない。いや、もしかすると記憶はすでにあるのかもしれない。おれが仮初めの姿だから、分かっていないだけかもしれない。
ならば、やってみる価値はある。もし違ったとしても、適当にはぐらかせばいいだけだ。そう、これはおれの生きる目的に関わることなのだ。目的を遂げるためなら、試せるだけのことは全てしておかなくてはならないのだ。
たとえそれが、どんな結末になるとしても。
☆
柚葉南中学校北館一階、美術室前。昇降口や生徒たちが過ごす教室は全て二階より上にあるため、実質地下一階と言ってもいいこの場所は、日当たりが芳しくなく、あまり人が来る場所ではない。
数年前の改装工事で新しくなった蛍光灯に照らされているとはいえ、他の場所に比べると薄暗いそこに、ついに怪原綺羅は現れた。
「待ってたよ。わざわざありがとう」
「あ、ううん……そ、それより……ききたいことって、な、なに?」
鋏介が優しく微笑みかけると、綺羅は少し顔を赤らめた。
「単刀直入に聞くよ。きみは、『ヒュドラ』じゃないのか?」
『ヒュドラ』。うみへび座の怪物。九つの頭を持った不死の毒蛇、全てを拒否する者……それこそが、彼女の真の姿だ。
そしておれは『蟹』。だが、ただの『蟹』だったにも関わらず、選ばれし十二雄となってしまった、幸運な蟹。
かつておれたちは英雄ヘラクレスと戦い敗れたが、最高位の女神・ヘラ様の慈悲によって、夜空に住まうこととなった。そのまま、永遠に幸せに暮らせると思っていた……あの日までは。
それが、俺たちの正体。力ある者に翻弄された、哀れな二匹の怪物。ただのそれだけだ。
綺羅は初め、いつものようにおどおどと視線を揺らしていた。しかし『彼女』の名を聞いた途端、その表情はすっと青ざめた。
「! やっぱり、君なのか⁉」
鋏介は思わず綺羅の肩をつかんだ。やっと……やっと、見つけた! おれの生きる目的は、ついに達成されたのだ!
「ずっと……ずっときみをさがしていたんだ! あの日、きみがいなくなってからずっと! もう、はなさない……はなしたくない!」
そのまま彼女を抱きしめようと、鋏介は手を彼女の体に回そうとする。しかし、それは叶わなかった。
「や……やめてっ!」
「……えっ」
綺羅に一層近づくはずだった鋏介の身体が、強く押し戻された――綺羅は、鋏介を拒否した。今まで見てきたように、彼女の目は少し潤んでいた。だが、その涙の意味は、明らかに今までとは違った。
「そ、それ以上、きらにちかづかないで! な、なにか、勘違いしてる!」
「なんだっ、て……?」
綺羅は懸命に鋏介をさとそうとした。だが、鋏介の耳に、それが入ることはなかった。
『やめて』? 『ちかづかないで』? 嘘だ。きっと空耳だ。あの、おれの愛した、そしておれを愛したヒュドラが、そんなこと言うはずないじゃないか。これは現実じゃない。おれは、認めない!
「なあ……冗談だろ。 君が、そんなことを言うわけないんだ。あれからもう十五年も経つけど……おれたちは、愛し合っていたじゃないか! なのに君は、おれを拒むのか⁉ 答えろ!」
衝撃は絶望に変わり、そして怒りに変わる。
鋏介は綺羅に詰め寄り、今度は彼女の胸ぐらをつかんだ。
「おれは、君を探すためにわざわざこの世に生まれてきたんだぞ? 十五年……本当に長かったよ……だけど、やっと見つかったと思ったら、なんだこの仕打ちは? おれのことを覚えていないとでもいうのか? ……一体君は、何のためにこの世に生まれたんだ! おれと出会うためじゃあなかったのか!」
憤怒に支配された鋏介は、自分を抑えられない。『言ってはいけない』と抑制する理性は吹き飛び、もはや目の前の綺羅すらも見えていなかった。
だからこそ……気づくのが、遅れた。
彼女のほうも、理性が吹き飛びかけていることに。
「…………グルル」
「⁉」
綺羅の口から、人間の域を超越した声……否、唸り声が発せられたのだ。そしてそれは、鋏介の知っている『彼女』のものではなかった。どちらかというと、ライオンに近い、ような。
その異変を感じた時には既に遅かった。綺羅の身体から、黒い布のようなものがいくつも生えてきて、ミイラの包帯のように彼女の身体を覆い始める。そして、その覆われる体も、少しづつ変態を遂げていた。体中に茶色に近いブロンドの毛が生え始め、ばき、ぐしゃっ、ごきっという音と共に、彼女の全身の骨格が形を変えていく。ぼうきれのように細かった腕と脚は野生動物のように筋肉が発達し、犬歯も肉食獣のように伸び、人のカタチが失われていく。
そして、変態は終わった。そこにたたずんでいたのは、一頭のライオンらしきものだった。というのも、全身に黒い拘束具のようなものがつけられており、全貌がつかめないからである。よく見ると下半身は体毛が白く、後ろ足には爪ではなくひづめがあり、尾は蛇になっている。翼のようなものも、体に縛り付けられている。
もちろん鋏介は驚愕した。だが……最も驚いたことは、
「う……うそだ…………ひゅ……ヒュドラじゃ、ないっ⁉」
『転生』というものには、多少面倒な手続きが必要になる。前世の記憶を残すか残さないか、どこの場所・いつの時代に生まれたいかなど、冥府にそれらを記入した申請書を提出し、冥界神ハデスの許可をとり、『転生の門』へと入る――それが転生までの正式なプロセスだが、テュフォーンの襲来によって混乱していたときに、ヒュドラがそれらの手続きを行った……否、行えたとは考えにくい。戦禍から必死で逃げ続けるうちに警備がとだえた『転生の門』にたどり着き、そこに飛び込んだのであろう。
そのように『本来の設定』を無視した場合、記憶が残るかどうかは不明だが、魂は生前そのままの状態を保とうとし、前世と同じ種族に生まれる。彼女の場合は『異形』という枠で、前世とほぼ同じ姿――『海蛇』に生まれているはずだ(余談だが、怪物には遺伝子によって体の形が決まらない種があり、それらを『異形』と呼ぶ。その場合は自分の『魂』の性質が歪んだ形で具現化した姿となる。彼女はその種族であった)。
だが、今目の前にいるのは、ヒュドラとは似ても似つかぬ怪物。つまり、彼女は、ヒュドラではない。
「ははは……なんだ……別物だ……じゃあ、用はないな」
右肩上がりのテンションのグラフの進む先を突如左下方向に変えられ、うつむいた鋏介には、妙な冷徹さが生まれていた。
「俺はいったい、どうしていたんだろう……化けの皮を剥がしてみれば、こんな醜いケダモノじゃあないか……ヒュドラとは程遠い。思わせぶりな反応をしやがって」
誰に語るでもなくぶつぶつと呟く彼は、既に『海松布鋏介』ではなかった。
「いいだろう……『彼女』を冒涜したその罪に、裁きを下そう。この『黄道十二星将』第五の雄、キャンサーがな」
すっと顔を上げた彼の眼は、白い部分が消え、宵闇のように底無しの黒に染まっていた。
「ガグオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」
獅子の怪物が、天地がひっくり返りそうな雄叫びをあげる。その衝撃波に、教室の窓ガラスは音を立てて吹き飛び、新品同然の蛍光灯は無残に砕け散った。
だが彼は、文字通り一ミリたりとも動じなかった。
「どっかの轟竜みたいな咆哮をしてくれたけど。あいにくと、その手の攻撃は俺には通じないんだ」
言い放った彼の姿は、もはや人とはかけ離れたものとなっていた。
全身を、突起がまばらに付いた赤い甲殻が鎧の如く覆っている。その鉄壁の防御と対をなすように、両手は物々しいハサミへと変化、兜のように甲羅で覆われた頭部からのぞく顔面部分はそのままであるかと思いきや、口が甲殻類にみられるタイプの横に開く強靭なアゴとなり、そして目もまたその類の生物のように、無表情に黒く光っている。
一言で表現するなら『カニ男』。人に転生した蟹が本来の力を振るうための、醜い姿だった。
「俺の殻は、どんな物理的圧力にも屈しない……いかなる巨大な力をかけられようとも、全く同じ反作用の力を相手に返すのさ。人が石壁を押して動かないのと同じだよ。誰であろうと、俺に、そして俺の殻に物理的な仕事をすることはできないんだ。――まあ、今の姿の君が理解できるとは思えないけどね」
グロテスクな口を動かし、鋏介は両手のハサミを構える。
「それは、このハサミにしても同じことだ。断ち切る相手の反作用と同じ分だけの作用を与える。そしてそれを俺が動かせば、必然的に相手の反作用を上回るんだ……つまり、このハサミに破壊できないものはない。言わば俺は、どんなものでも貫く矛と、どんなものでも弾き返す盾を持ち合わせているわけだ。ま、この場合は盾が勝つんだけど」
綺羅が爪を振りかざし、跳びかかってきた。だが鋏介はそれを、軽くハサミで殴っただけで返り討ちにする。綺羅は即座に吹き飛び、窓の割れた美術室に突っ込んだ。どこかのクラスの彫刻たちが、机と共に8割方破壊される。
「やっぱり、その姿のときは理性がないのか。もし話を聞いていたら、絶望のままにその場にくずおれるだろうからね。ある意味、今の状態は幸せかもしれない」
無表情に、鋏介は綺羅のもとへ歩き出す。両手のハサミがぎらりと光る。
「粉微塵に切り刻んであげるよ。それからその残骸を、細胞レベルにまで踏み砕いてやる。それが、俺を裏切った罰だ」
獅子は未だ立ち上がっていない。この命を絶つことなど造作もない。そう思って、わざわざ鍵を壊し、右手のハサミを外しドアを開けて美術室に入ろうとした、その時だった。
「……ん?」
戸の引き手が冷たい。冬は先ごろ過ぎ去ったところだというのに、零下何度という環境にずっと放置されていたように、金属製の引き手は冷たい。
不審に思って、戸をよく観察してみると、
「⁉」
戸に、霜が降りている……いや、凍っている。そこで、鋏介は新たな異変に気付いた。
寒いのだ。この鎧に守られており、さらに激昂しており、周囲の気温になど注意を向けている暇がなく気づいていなかったが、今明らかに、この空間は寒い。
はっとして辺りを見回すと、そこはすでに氷の世界だった。ドアだけではなく、壁も、割れたガラス窓も、蛍光灯も、全てが凍り付いている。
「な……何だ、これは! お前、一体何をした!」
すぐさまドアをあけ、鋏介は綺羅に詰め寄ろうとしたが。
「なっ……まさか……」
足が動かない。彼の体もまた、その氷結からは逃れられていなかったのだ。脚を伝って、着々と侵蝕は進んでいる。
鋏介の殻は、物理的な圧力に対してはまさに無敵だ。しかし、ガスや光といった搦め手を敵に回した場合、話は少し違ってくる。この殻を破壊することは不可能だとしても、鋏介自身を無力化するような攻撃には耐性が乏しいのである。
殻の関節部から冷気が流れ込み、内部の筋肉を凍てつかせていく。このままでは氷の彫像となるのも時間の問題だ。
「くっ……仕方ない」
鋏介は意を決し、左のハサミをみつめる。
「うらぁっ! ぐ、ああああああああああああああああっ」
両の太ももにハサミをかけ、鋏介は一気に両脚を切断した。全身が張り裂けそうな激痛が、一気に襲ってきた。
だが、
「はあああ……痛い……痛いぞ……だけど残念だったな……これで、お前のもくろみは立ち消えた……どうやったのかは知らないが、そんな能力を持っていたとはな……でも、これで侵蝕は止まったッ! 今度こそ、お前の息の根を止めてやるっ!」
腰飾りのように生える残りの六本の脚のうちの二本が、新たなメインの脚として再生を始める。躊躇なく脚を切り落としたのは、このスペアがあったからだ。
だが再生を待つまでもなく、ドアは開かれた――否、吹っ飛んだ。
「ぐああっ⁉」
五体満足でなくなった鋏介を、衝撃波が襲った。とっさに殻におおわれていない顔をかばい、ダメージを避ける。
打ち破られたドアから、当然のように獅子が姿を現す。ぐるるるる、と唸り声をあげる。
息を吸い込み、獅子は再び咆哮した。
「ガググォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」
今度は美術室にある、ほぼすべてのものが乱舞した。壁や天井には亀裂が走った。
しかし……冷静になった鋏介には、それ以外のものも、ついに観察できた。
「な、何だ……これは!?」
音の衝撃波の中に、何かキラキラと光るものが混じっている。雄叫びが空気に触れたことによって生み出されたそれは、さながら雪の結晶のようだ。同じように、音を浴びた壁や天井の亀裂も、パキパキと音をたてて凍り付いていく。
『絶零咆哮』。触れるもの全てを凍らせる、暴虐なる咆哮である。
そして――先ほどと同じように、その力は彼に対しても振るわれていた。
「なっ……!」
今度は胸のあたりから、氷結が始まっていた。白い布に染料を少しずつ垂らしていくように、透明の塊が鋏介の胸殻を覆っていく。
今度こそ、鋏介の心の内で、敗北、そして死への絶望の歯車が音を立て始めた。この殻は鋏介の体の一部となっており、ハサミのように取り外すことはできない。この侵蝕を止めようと思うなら、それこそ首を切断するしか道はない。しかし、それをしたところで何になるというのだ。結果的に死ぬのが早まるだけではないか。
再び、筋肉が凍っていく感覚が鋏介を襲う。着実なる死の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「はぁ……はぁ……いやだ……おれはまだ、死にたくなんかない! ちくしょおぉ……おれは、探し出さなくっちゃあならないんだ……また、また一からやりなおしなんて……そんなのないぞ! ちくしょう、ちくしょおぉおおおぉぉおおお!」
右手に再びハサミを出現させ、再生した足で鋏介は立ち上がる。獅子はすでに、すぐそこまで歩み寄っている。
「うらあああああああああああ―――――――――っ!!!!!!」
ハサミを振りかざし、鋏介は飛び出した。もはや自暴自棄だった。
「ガグォオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!」
綺羅も、とどめを刺すために鋏介に跳びかかる。咆哮に冷気は含めない。自らを奮い立たせるための咆哮だ。
ハサミが、爪が、ぶつかり合う
「『穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆す』ァッッ!!!!!!」
「っ!?」
「ガグゥ!?」
ことは、寸前で阻止された。間に割り込んだ、何者かによって。
その者の手に触れたとたんに、鋏介のハサミは忽然と消え去った――いや、ハサミだけではない。彼の『殻』全体が、身体を覆っていた氷と共に、煙のように無くなってしまった。
それは綺羅も同じだった。身を覆っていた拘束具も、ブロンドの体毛も、全てが消え去り、人の姿に戻った綺羅は気を失って、その者の胸に倒れた。
「待て……嘘だろ……この、能力は」
鋏介が驚愕する中、綺羅を抱いたまま、その者は立ち上がった。
「それはこちらのセリフだ、モクズガニ。我が妹が真の姿を顕現させたのを感じ、飛んできてみたら……まさか貴様、『英雄』だったとはな」
顔は、悔しいけども綺麗な部類にカテゴライズされるだろう。髪型は最近話題の『くるりんぱ』という、三つ編みをそれぞれ頭の逆側に持ってきて留めるというもので、左眼には黒い星のペインティングが施されている――まぎれもない怪原吹羅が、そこに立っていた。
「見た目から判断するに、かに座だな? 噂に聞く、『黄道十二星将)』というやつか……フッ。世界を救う十二使徒のひとりは、実は貴様だったというわけか」
蔑みのあらわな、しかしどこか悲しそうな光も灯した目を、吹羅は鋏介にやった。
「一体何をしようとした? 我が父上の情報を聞き出すだけ聞き出して殺すつもりだったのか? まあ、何にしてもこの子には敵わなかったであろうが……我が妹は、いささか加減を知らぬ。仮にもこの拘束具がひとつ残らず外れてしまったとしたら、貴様どころか、この世界そのものが氷に支配されるであろうな」
その眼はすでに、人のものではなかった。黄色く染まり、瞳孔は細く縮み……まるで、蛇のようだ。
「お前とは、仲良くなれると思っていた……生来から続くこの呪われし病によって、人とは相容れない我を、貴様だけは相手にしてくれた。ともだちに、なってくれたと思っていた。だがそれも、単なるペテンだったわけだ。わたしにいい顔をするふりをして、実はいつ情報を脅し取ろうか、いつ殺そうかと画策していたわけだ」
「ちがうっ! おれは」
「黙れッ!!!!」
嗚咽の混ざった声で、吹羅は鋏介の反論を断った。そのスカートの中から、殺気立った灰色の大蛇が、ぬっと顔を出す。チロチロと舌を出しながら、鋏介をにらんでいる。
「もう、貴様の言うことなど信じるか! 貴様は、わたしの妹の命を奪おうとした……それは、揺るぎのない事実だ! 我が妹の敵、それすなわち我が敵! 貴様は、わたしが……わたしが……」
その先を、吹羅は言えなかった。涙が、どうしようもなく涙があふれて、止まらなかった。左目の黒いペインティングが落ちて、涙は黒く染まった。
「なんで? こいつを殺すという、その一言が、どうして言えないの……こいつは、わたしの敵なのに……家族を脅かす、天敵なのに」
スカートからのぞく蛇の殺気は、だんだんと消えた。結局蛇は、何もすることもなく、のったりとスカートの中に戻っていった。
「……怪原」
「消えろ。この町からでていけ。今度会ったときは、貴様を必ずこの世から消してやる」
「違う、怪原……いや、ヒュドラっ!」
「!!!」
床に突っ伏した鋏介が、彼女の真名を叫んで、やっと再び、彼女はこちらを向いた。
「あの異能……触れる全ての異能を無効にしてしまう力。間違いなく、君のものだろう? 本当に、ごめん! お詫びのしようもない……英雄としての責務とか、そんな崇高なものじゃない……ただの感情に流されて、奪うべきでない命を奪おうとしていたんだ……取り返しのつかないことをしてしまった。この街から、いやこの世から、おれは姿を消すよ。君の前に立つ資格なんて、今のおれにはない。でも……ひとつだけ、聞かせてほしい」
申し訳なさ、後悔、自虐……それら全てが入り混じり、しかしその上に立つ、圧倒的なひとつの感情――覚悟のこもったまなざしで、鋏介は吹羅を見つめた。
「やめろ! そんな目でみるなっ!」
「これだけには答えてくれ……おねがいだよ!
君は……今、おれに真の名で呼ばれて、どんな気持ちになった?」
吹羅は鋏介から目を背けた。しかし、彼を無視はせず、詰まりながらも語った。
「分からない……こんな気持ちに、なったことがないんだ……とても、とても懐かしいような……何なんだ……この名は、ただの怪物としての種別の名前ではなかったのか? 今まで戦った英雄に、この名で呼び捨てにされても、何も感じなかったのに……胸の奥が、苦しい……どうしようもなく……」
「ありがとう。それだけで、もう十分だよ」
やはり、彼女はおれのことを忘れていた……だが、完全に記憶が消えていたわけではなかった。おれは確かに、彼女のなかにいる。それだけでいい。
「……さよなら」
右手をハサミに変え、迷いなく自分の首を断ち斬る。ほどなくして、闇が訪れるはずだ。ヘラクレスに踏み潰されたあの時と同じ、ひと時の闇……そして、冥府の空が――
「やめろおおおおおおおぉ――――――――――ッ!!!!!!」
見える、ことはなかった。
吹羅の右手から、白い光が放たれる。それを浴びた鋏介のハサミが、動きを止めたわけではなかった。予定通り、彼の頭と身体の結合部を通った。
だが――ハサミは、彼の首を断ち斬らなかった。
「あれ?」
手ごたえが全くない。空を切るように、刃が首をすり抜けた。
「おかしいな……うらっ」
もう一度、首を斬ってみる。だが、再び吹羅の右手が光ると、同じようにハサミは首を通り抜ける。
「あれ、まただ……も、もう一回」
「もうやめてっ!」
三度自害を試みようとしたところで、今度はハサミ自体が消滅し、もとの人間の手に戻った――翼も生やさず、宙を浮いて移動してきた吹羅が、彼の右腕を掴んでいた。そのまま吹羅は、鋏介を抱きしめた。
「おねがい……死ぬなんて、言わないで……わたしは、お前がいないとダメなの……たとえ、『英雄』だったとしても……わたしは、お前と一緒にいたい!」
「えっ……でもおれは、綺羅ちゃんを殺そうと」
「そんなこと知るか! たとえ、どんな罪を犯したとしても、お前はお前だっ! 海松布鋏介という、ひとりの人間だっ!」
「…………」
『蟹』と『海蛇』という、前世での関係を抜きにしても、彼女はおれのことを好きでいてくれた。怪原吹羅という怪物として、文字通り生まれ変わった彼女は、同じように新しく生まれ変わった、海松布鋏介というおれを、再び愛してくれたのだ。
「だから、おねがい……これからも、わたしといっしょにいて……死ぬまで、ずっと、となりにいて」
涙が吹羅の頬を伝う。それは、抱きしめられた鋏介の顔も濡らした。
そして――彼自身の涙も、彼の、そして彼女の頬を。
「……もちろん、だよ。でも、死ぬまでじゃない。たとえ死んでも、ずっと一緒だ」
☆
「きょうちゃん、いってらっしゃいね」
「はーい、いってきまーす」
心地のいい、暖かな春の朝。海松布鋏介は、早々にカバンを肩にかけ、家を出る。もうすぐ始まる今日に、胸躍らせて。
そして、玄関前にはすでに。
「遅かったな、鋏介」
整った三つ編みが光る『くるりんぱ』、切れ長の目には右側にだけ星形のペインティング……怪原吹羅が、
「吹羅、おまえ……何でそんな立ち方してんの」
脚を肩幅ほどに開いたつま先立ち、両手はリンゴを掴むような形で腰の前に……ジ○ジョ立ち。それも、キープするのがかなり困難な「WRYYYYYYYYYY――ッ立ち」で待っていた。立てたつま先が限界にきているのか、顔が真っ赤で、全身がプルプルと震えている。
「特に理由はない! そういう気分だっただけだ!」
「ねえのかよ! ほら、おれが来たんだからさっさとやめろよ」
「うむ、それもそうだ……痛ったい、足つったっ! あいたたたたたたっ、鋏介ヘルプミー!!」
「まったく、仕方ないな……」
応急処置のため、鋏介は吹羅に駆け寄った。
数千年前の前世から波乱万丈続きの、おれたちの人生。果たしてこの先には、何が待ち受けているのだろう。永遠のふたりの旅路には、きっと無限の障害があるに違いない。
でもおれたちなら、きっと乗り越えていける。おれには彼女がいて、彼女にはおれがいる。たとえ離れ離れになっても、必ずおれたちは巡り会う。おれたちが共にあることは、運命という名の法則で定められているのだから。
《了》




