14. ブライダリー・ダークソーン その⑨
じゅるるる、じゅるる、じゅるるるる。不快な音が、無人となった柚葉駅前広場に鳴り響き続ける。
転がる死体の群れの中心で、吹羅は吸血鬼に貪られつづけている。
(フッ……呪剣さえ解放したにも関わらず、このありさまとは。やはり初めから、無謀な戦いであったようだ)
先ほどまで吹羅の手に握られていた剣は、すでに消えている。アレを放置しておくのは自殺行為に等しいため、負けを覚悟した瞬間、早急に消したのだ。
呪剣アルファルド。海蛇座の二等星と同じ名を持つ、いや当の星そのものである剣。かの星座に置いて唯一、名を与えられたその星には、怪物ヒュドラの真髄とも言うべき能力がある。
それは、猛毒。ギリシア神話最強の英雄・ヘラクレスの命を奪ったほどの、この世で最も強力な毒。
その本質は呪いに近い。『触れた者は必ず死に至る』、そういった概念がこの毒には付与されている。どんな強力な英雄であろうと、神であろうと、不死存在でさえこの呪いから逃れることはできない。
それは持ち主の吹羅とて同じことである。"持ち主"という特権、また自身が毒蛇であるがゆえの毒耐性によって、『必ず死ぬ』という呪いは免れるものの、使い続ければそれらの耐性もいずれは押し負けて、最終的には死に至る。
そこまでのリスクを払って不死殺しの剣を解放してもなお、吸血鬼は倒れなかった。それは、あまりにも強い強制力によって、彼らの死を引き起こすものが『心臓の破壊』のみに限定されてしまっているからだ。
最初の吸血鬼であった人間の異能力者には、それほどの力があった。自らの意思を世界の法則として刻みつけてしまう、神ですら難しい所業である。それを、一芸に秀でた異能者は希に引き起こしてしまうことがある。『法』と一般に呼ばれる彼らは、この世にまだ数人しか誕生していない。
少し話が逸れてしまったが、何が言いたいかというと。要するに吹羅は"星落ち"・海蛇座の英雄なのだ。
だが、魔神の子に生まれた獅子身中の虫というわけではない。彼女がテュフォーンの子として生まれたのは全くの偶然である。テュフォーン襲撃の折、朋友であり夫の化け蟹と共に逃げ惑っていた彼女は、戦火に追われ、天界の〝転生の門〟にたどり着いた。門番もいなかったために、時間や世界線の設定もできずに、意を決して彼女が飛び込んだ先が、その戦争の一年前のエキドナの胎内に通じていたというだけの話である。こうして、本来ひとりだったはずの子が、双子となって生まれてきてしまったというわけだ。
しかし、彼女にはその記憶がない。自分が星座であったことは、感覚的に、また自分の能力を見て分かっているが、どうして自分が生まれおちてきたのかは分かっていない。他の英雄たちと同じように、父を見つけ出すために生まれてきたのだろうとは考えている。だが、そんなことは別段どうでもいいことだ。神のために生きるつもりなど毛頭ない。せっかくこの世に生を受けたのだ、好きに生きたい。
だというのに、この体たらくはどうしたことだろう。自分のためにだけ生きたいと願っていた我は、今、この化け物のためだけに存在する苗床となってしまっているではないか。
我の血を吸い続ける口は、未だ増え続けているようだ。だが、もう抵抗する気力も失せた。確かに痛い。ものすごく痛い。だけれども、もうどうでもいい。
きっとそのうち意識がなくなるだろう。その時を、ただ待つばかりだった。
「ぐじゅるるるるるううううじゅじゅじゅじゅじゅじゅ」
吸血鬼の勢いは止まりそうにない。切り刻まれた『部分』は、吹羅の身体を噛み砕きながら移動して、すでに癒合してひとつになり、身体全体で吹羅の血を吸っている。
その頬は紅潮している。血を吸う事は、彼女にとってこれ以上ない快楽のようだ。
なんて気持ちよさそうなんだろう。我を貪るのはそんなに愉しいのか。我はこんなに痛いのに。
……ひょっとすると、我が語ってきたのはこういう理論ではなかったのか。自分さえ楽しければそれでいい。自分さえ幸せであればそれでいい。例え、他人が傷つこうと知ったことではないと。他人だって『わたし』があるというのに。そんなことは知らない、自分さえよければいいと、たくさんの『わたし』を排斥してきたのではないだろうか。
「……ふっ。ふははは。ふははははは。ふははははは、ふははははははははは!」
結局のところ、そのツケが自分に返ってきたというわけだ。他の奴らのように他人を顧みることなく、『わたし』でありたいと願うという、『なるたけ他のために』という生き物本来の道から外れた生き方をしていたせいで、『世界』が我をついに断罪したのだ。究極的に『個』として生きる獣に、永遠に餌とされるという形で。
我は間違っていた。世界の法則に背くなど、愚かしい行為でしかなかった。
だが、今さら後悔したところでもう遅い。すでに刑は絶賛執行中だ。我は、永遠にこうして苦しみ続けるしかない――
「なぁにやってんの、おまえ」
「……む?」
仰向けに倒れ、曇天の空しか見えなかった視界。そこを遮った者がいた。
日焼けサロンで焼いたことがよく分かる黒い肌、これでもかと盛られたマスカラ、つけまつげ、ピンク色の口紅。ぐるんぐるんにパーマが当てられたツインテールの金髪。びしょ濡れになった、どこかの制服らしい、口紅と同じピンク色のカーディガンに覆われた、むっちりとした胸元。短すぎる紺のスカート。
要するに、ギャルだった。
「笑いながら食われてるとか、ちょーキモいんですけど。なぁに? ドM的な?『もっと食べてくださぁい!』的な? やだ、ウーケーるー!」
あっはっは、と、突然現れたギャルは笑い始める。
「何を……している……こいつに、殺される、ぞ……」
幸いながら、吸血鬼は我を貪ることをやめるつもりはなさそうだ。しかし、それもいつまでか分からない。新たな標的が現れたと知れば、興味を移す可能性は大きい。
「ぐあうるる?」
ほら、言わないことではない。
「にげろおおおおお――――――っ!」
振り向いた吸血鬼が、拳を振りかざし、少女を喰らおうと襲いかかる。
しかし――女は、
「ん」
ハエを払うような仕草。直後、
「――――っ!?」
突風が吹羅の頬を駆け抜けた、その途端。吸血鬼は、「ぱんっ」という何の愛想もない音と共に、跡形もなく爆散した。
それまで吸血鬼を構成していた、大量の血と肉片が、吹羅に降りかかる。
「なっ……」
何者なのだ、この女。考えうるのは英雄か怪物か。我を襲ってきたこいつを倒してくれた以上、同類の怪物なのか。それとも、魔を祓う英雄か。
「お……お前、は」
「……あたし? ガイアですけど?」
「!?」
あまりの驚きに、吹羅は声も出なかった。
大地の女神、ガイア。
愛・夜・冥府・深淵・そして大地の"始原の五神"は、"混沌"から独立し、この世界に最初に現れた魂だ。新たな魂を迎え入れることに心血を注ぐ愛。後に冥帝にその座を追われ、現在は隠遁している冥界神。その冥界神を匿い、夜闇のどこかで気ままに暮らす夜。神々に忌み嫌われ、冥界の最奥に幽閉された深淵。
そして大地は、隠者の多い"始原の五神"の中でも少数派の、現在も世界に干渉し続けている神である。
が、その性質は困ったものだ。その昔から、先代の天界の主・クロノスをそそのかして、天空神ウラノスを封印させたかと思えば、クロノスの子のゼウスに反乱を起こさせ、クロノス政権を転覆させる。それにも飽き足らず、自らの子のテュフォーンを天界に解き放ち、世界を焼き尽くす。その戦いの後、数千年おとなしくしていたかと思えば、エトナ山からこっそり脱出して家庭を築いていたテュフォーンを、家族を人質に脅し、再び反乱を起こさせる。
気まぐれな、しかしその挙動でいちいち世界を巻き込む遊び人。が、その強すぎる力ゆえに誰も咎められない絶対者。
その女神が、今、吹羅の目の前にいた。
「んな……どう、して」
「はーん? なんでって、暇だからだし。あたし、雨好きなんだよねー。濡れんの楽しくね?」
「いや、そういうことが聞きたいのではないっ! なぜ、お祖母様のような方が、ここにいるのかと聞いているのですっ!」
確かにガイアとは気まぐれな女神。しかし、女神とあろうものが、こんなにも無防備に、現世を歩いていていいのか。それもこんな格好で。
すると、ガイアはあからさまに、眉間に皺を寄せた。
「あァ? てめえ、ケンカ売ってんのかコラ。誰がババアだって」
「……!? いえ、そういうつもりでは」
ガイアは吹羅の頬をぐにゃっと掴む。そして、品定めするように睨みつけて、
「はーん。な~る~」
ぱっ、と、マスカラの盛りに盛られた目を見開いた。
「おまえ、テュフォーンとこのガキじゃね? 目とかエキドナに激似だわ。あのお色気ムンムンの感じ。まぁじ似てる」
「はぁ……まあ、そうなのですが」
「やりぃ! 当たった、当たった♪」
楽しそうに笑うガイア。この女神は、話に聞いた通りマイペースな性格らしい。
「んじゃあ、おまえはあたしの孫ってことか。でもさ、『お祖母様』はやめてくんね? 実際あたし、ニュクスと一緒で、この世で一番のばーさんなわけだけどさ。見た目コレじゃん? ぴっちぴちじゃん? ……だーかーら、『ガイア様』くらいにしといてよ」
「はあ……」
先ほどまでの緊迫感が嘘のようだ。自分の身体は血まみれだが、吸血鬼に貪られていたのが今では――
「む」
視界の端に、黒いものが映る。
今もなお脈打ち続けるそれは、黒い心臓だった。なにゆえか手錠によって拘束されているが、それは、まごうことなき、
「……あの吸血鬼の」
まだ残っていたのか。すぐさま、『蛇』で潰そうとする。
が、
「あーだめだめ。ほっとけって」
ガイアが、その肩をぽんぽん、と叩く。
「なぜです。このままでは、またあいつが」
「いーから。見てなって」
ガイアに促されるまま、吹羅は心臓を眺める。
少しすると、吹羅の身体にこびりついていた血や肉片が、心臓に引き寄せられはじめる。
「ほら、言わないことではない! 早く潰さないと――」
「まーまー」
吹羅はあせる。だが、ガイアは肩に置いた手に力を込め、吹羅を押し留める。
みるみるうちに、心臓は肉体を再構成してゆく。ぐちゃっ、みちっ、という生々しい音と共に、臓器が、筋肉が、その形を得てゆく。
だが、最終的にそこに現れたものは、吹羅が想像したものとは少し違っていた。
「あ……」
傷一つない、白く美しい裸身。それは、先ほどまでの獣とは程遠く、しかし元はそれであったもの。
首輪を外す前の、銀髪の女性が、気を失って倒れていた。
「心臓以外を吹っ飛ばしたから、吸血欲求がリセットされたの。暴走した吸血鬼の対処法だよ、覚えとけ」
「は、はあ」
がしがし、とガイアは吹羅の頭をなでる。その笑顔は無邪気で、実に可愛らしかった。
本当のところ、彼女はいいひとなのではないだろうか、と錯覚してしまう。悪いひとがこんな無邪気な笑顔になれるものなのだろうか。とても、天界で四度も反乱を起こした張本人には見えない。
「ん。なーんだ、雨、止んじゃったじゃん。帰ろ」
少し晴れ間が見え始める。その陽光に照らされて、ガイアは立ち去ろうとする。
「ま、待って……」
「その辺のカメラは文字通り粉にしといたから、あんたらが疑われる心配はねーよ。
……んじゃ、バイバイ。気が向いたらまた来るわ」
吹羅の引きとめも気にせず、ガイアは歩きだす。
「待っ、…………」
待ってくれ。頼むから行かないでくれ。そう強く願って、吹羅は気付く。
自分はなぜ、これほどまで彼女に立ち去ってほしくないのか。
本来なら、こんな恐ろしい人、『早く立ち去ってくれ』と願うのが当然。その気になれば、我どころか、この星さえ指一本で吹き飛ばせるような人。
だというのに、なぜ立ち去ってほしくない。あんな自分勝手な人――
「!!」
そう。あの人は自分勝手。それは、今日まで自分が貫いてきたひとつの心の指針。
あのひとは、我と同じ指針を抱いてきた。なのに、あのひとは排斥されることなく自分を貫いて、今日までやってきた。我は世界に許されず、罰を受けた。
その違いは何なのか。我とあの人との違いは何なのか。それを知りたい。どうにかして知りたい。
――いや、答えは既に出ている。それは、『力』だ。圧倒的な力だ。力で世界をねじ曲げているのだ。世界に迎合するのではなく、世界を『わたし』に合わせているのだ。誰にも文句なんて言わせない。どんな神にだって、それこそ世界にだって言わせない。
その力に、我は憧れてしまっていたのだ。
「待って……ください……!」
力が欲しい。誰にも追随を許さないような、強い力が欲しい。それを、あの人に教えてもらいたい。どうすればあんな力が手に入る。どうすればあんなに強くいられる。どうか、どうか、教えてほしい――
すると、女神は笑って振り返る。
「なぁに? まだなんか用?」
「あ、あの……」
言葉が見つからない。この思いのたけを、どうぶつけたらいい……
そうだ!
「我を、弟子にしてくださいっ!」
「……は?」
弟子にしてもらえば、きっと分かる。その強さの真髄が分かる。強大すぎる力の秘密が、分かるはず。
「……ふふ。ふふふ。ふふふふふ。あは、あーっはっはっはっは!」
「……へ?」
なぜ、腹を抱えて笑われるのだ。我は真面目に言っているのだ。だが、ガイアはついに涙まで流しはじめる。
「あははははは! おまえ、まぁじパネェわあ! オモシロすぎだわ! ウケる、マジウケる……あっひひひ」
どんどん、と地面を叩く。一発叩くごとに、地面に亀裂が走っていくのが見える。……やはり、女神の力は恐ろしい。
笑い転げる女神は、その最中で、吹羅の念願を口にした。
「あっははは……。よっしゃ、今日からおまえ、あたしのダチな!」
「えっ……弟子……っ!?」
今、確かに、この人は『弟子』と!
「本当に!? 本当に弟子にしてくれるのですか!?」
「で……? ん、まあ、いいんじゃね。いいよ、弟子で」
「…………!」
ぱっ、と吹羅の顔が輝く。
「やったぁ!」
渾身のガッツポーズだった。いくら歪んでいるとはいえ、彼女とて十四歳の少女。そういった純真さが、まったく消え去ったわけではないのだ。
「んじゃ、まず連絡先教えろし。自分でも分かってっけど、あたし気まぐれだから。連絡とれんと、辛いっしょ?」
「あ、はい、師匠」
醜い怪物の身体から、仮初めの人間の身体へと戻る。濡れてはいるが、身につけていたものも元通りに現れる。携帯は防水タイプなので心配ない。
「ししょう……ぷっくく、いや、いいわ。ほいっ」
未だ笑いをこらえながら、ガイアは目にもとまらぬスピードで携帯のパスワードを解除し、即座にSNSを開く。
「……よーし、これでおっけーかな。用があったらいつでも連絡して。恋バナでもいいよ? むしろそれ求む」
「はいっ! ありがとうございます、師匠!」
じゃーね、と手を振って、ガイアが去っていく。それを、吹羅は希望に満ちた笑顔で見送る。
後にこの『弟子入り』をどれほど後悔することになるか、彼女はまだ知らない。
★
「ただいまーっ」
柚葉市内某所。荘厳な高級マンションの一室らしきところに、大地の女神は帰還を告げる。
「が、ガイアさま……あ、あまり、外は出歩かれないほうが……」
おどおどした動きでガイアに忠告したのは、気の弱そうな、三十路を過ぎたあたりの中肉中背の男だった。
「うっさい。黙ってろヤギ男」
「も、申し訳ございません! どうか、どうかお許しを!」
土下座も空しく、男はガイアに蹴飛ばされる。
「ごへえ!?」
男は後方にあった『玉座』の真下まで転がされ、ようやく止まった。
『目障りだ、パーン。失せよ』
「ももも、申し訳ございましぇぐほぉ!?」
しかし、男は玉座に座っていた男の手の一振りで、今度は後方に吹っ飛ばされ、壁に激突する。
『お帰りなさいませ、母上。本日の散歩はどうでしたかな』
「チョー楽しかった! 久々に孫にも会ったし」
嬉しそうに告げたガイアのその言葉に、玉座の上の存在は、耳をぴくりと動かした。
『孫……といいますと。それは、どの孫で?』
「はぁ? なんでおまえに言わなきゃなんねーの。誰でもいいじゃん、別に」
あからさまに機嫌を悪くするガイアに、玉座の神は心の中で舌打ちする。
『……まあ、いいでしょう。それより母上、今日は冥界より客人が来ているのです』
「へー。誰」
まったくの棒読みでガイアは答える。それに少々苛立ちながらも、玉座の神は客人を呼ぶ。
『戻られた。どうぞ、ご挨拶されよ』
「はっ」
既にその客人の姿は、ガイアが帰ってより彼女の視界に入っている。玉座の向かいのソファに座った。やたらと奇怪な格好をした男……男? まあ、とにかくソレは立ち上がり、ガイアにお辞儀をした。
「ご機嫌麗しゅう、大地の女神。お初にお目にかかります。アタクシ、悪魔の女王・ルシファーと申します」
ひょろりと高い身長、水色の肌。髪型は、どう形容しようもないほどに珍妙で、どうにか表現するとしたなら、紫と白のボーダーになった、ワックスで後ろの部分が持ち上げられたオールバック。
だが最も目を引くのはその服装だ。上半身はバニーガールの服を上下に引きちぎって、肋骨から上の部分だけを着ているような形。下は黒いレギンスの右脚部分だけがなく、骨と皮だけで構成されているように感じるほど細い露出したほうの脚は、網タイツに覆われている。靴は当然のようにハイヒール。
言い忘れたが、この家は欧米圏と同じく、土足OKなのだ。いや、そんなことはどうでもよくて。
「いや、王様じゃね。おまえ男じゃん」
率直過ぎるガイアの感想に、ルシファーの眉間に血管が浮く。
「ヤァダ、ちがいますー! アタシは『ユニセックス』なんDEATHゥー! ンもう、のっけから失礼ねェー!」
渋すぎる低音の美声で放たれたのがこんな言葉づかい。これでは、
「ぷっ」
ガイアが噴き出してしまったのも仕方ないだろう。
「あは、あはは、あははははははは! なぁに、おまえオネェなわけ? 悪魔の王様がぁ? オネェ? ちょっ、待っ、まぁじウケるわあ! あははは、あはは、あははははは!」
『母上、あまり床を叩かれませぬよう。また穴が空きますので』
玉座の上からの呆れ声で、どうにかガイアは笑いをおさめた。
「んで、何の用? まさか、遊びに来たわけでもねーんだろ?」
「ハイ。それはDEATHね」
『デス』の部分にかなりのアクセントを置いて、ルシファーはニタリと嗤う。
「もちろん、クロノス様のお味方になろうと、はるばる馳せ参じたのでございます」
「………………へえ」
瞬間、今まで無邪気だったガイアの顔に、老獪な狐の如き笑みが浮かんだ。
そうして、彼女は玉座の上の神に視線をやる。
『いかがでしょう。この者は、母上のお眼鏡に適いましたかな』
「いいんじゃねーの。あたし、面白え奴は好きだよ」
視線を外さずに、だらだらと歩いて、どかっとルシファーの隣に脚を組んで座る。
「お祭りはもうすぐだね。クロノス」
上目づかいで見上げた先にいたのは、その身体全てが"黒"で構成されたモノだった。
裸なのか、衣服を着ているのかも分からない。ひとつ分かるのは、何か中世の騎士のような兜をかぶっているということだけ。それほどまでに彼の身体は闇に支配されていた。その闇の上には、びっしりとローマ数字が体中に浮かんでいる。
時を司る神・クロノス。数か月前に深淵の体内(正確には魂)から脱出し、現在は天界への革命を企てている、かつての天の支配者。
その身体が闇に覆われてしまったのは、あまりにも長い期間タルタロスの中に幽閉されていたために、その『闇』に体が侵蝕されてしまったからだ。
では、それほど深く暗い闇から、彼はどうして脱出できたのか。『重力の時間』を逆行させたというのが神々の見解であるが、さすがのクロノスといえど、"始原の五神"を上回る強制力を発揮することはできない。
その手引きをしたのが、ガイアなのだ。タルタロスに直接談判を仕掛け、クロノスを解放させたのだ。
「クロノス様、ご到着なされましたぜ。なあ流楠」
「おう兄貴。お着きになられましたぜ~」
噂をすれば、というところ。勢いよくドアを開け、三人の人物が現れた。
車椅子に座った男と、それを押す、高校生くらいの年頃の、二人の少年たち。
虹色の、長くも短くもない髪。首から袈裟がけに、クロスする形でかかった二本の鎖。少しずり落ちたズボン、ぎらぎらと光るたくさんのメタルアクセサリー。それらを互いに左右対称になるように身につけた、瓜二つの二人。
そして。
「クロノス……この二人、口やかましすぎるんだけど……僕、何千年とあの部屋から出ていなかったから、耳が痛くてかなわない……」
不機嫌そうに、車いすの上で頬杖をつく男。白目が埋まるほど血走った眼、その下に刻みこまれた真っ黒なくま。肌は病的に青白く、しかし長い髪は異様に艶がある。背は低く、上下はグレーのスウェット、合成樹脂のサンダル。まるでつい先ほどまで部屋でゴロゴロしていて、新聞を取るのに家から出て来たかのような格好だ。
しかし――床に転がるパーンにさえ、その力の強大さは理解できた。
底が見えない。ガイアが圧倒的な暴虐、嵐だとするならば、それは沈み込んだものを決して返さぬ深海のようだった。
「あ……ああ……あなた、さまは」
あり得ぬ。まさか、あのお方が、人界に姿を現すなど。
『お久しぶりでございますな、タルタロス様。いつぞやは世話になり申した』
「別に、世話をした覚えはないけどね……それより、ああ、照明を少しゆるめてもらえないだろうか……外の世界の光は僕の目には痛すぎる……」
鬱陶しそうに、タルタロスは顔を手で遮る。
「おお、これはこれは、始まりの五神に一度に二人もお会いできますとは。なんたる光栄」
ルシファーが再びお辞儀をする。そして、ガイアは、
「おーっす。久しぶり、タルちゃん。元気してたぁ?」
にやけ顔のまま、彼に笑いかけた。彼には何一つ隠す必要などない、というように。
「…………眩しい。おまえのようなDQNは、僕には眩しすぎる」
「あー。なぁに? ムカつくんですけどぉ」
視線が交差する。バチッ、と火花が散ったような錯覚を、当事者以外の全員がおぼえた。
『……まあまあ、お二方。そのあたりにしておいて下さい』
「…………チッ」
「なーんだ、つまんねー。この子、からかったら面白えのに」
つながった視線がほどける。タルタロスは、どうもガイアを忌避しているようだ。かつて子さえなしたというのに、この二人には何か因縁めいたものがあるらしい。
『……さて。ここに、我を盟主とした、四勢力の同盟が成立した わけだ』
クロノスが立ち上がる。
『これよりひと月の後、世界に対する宣戦布告を行う。依存は』
「ありませんッ? いいえ、ありえませんッ!」
「ないよー」
「…………無い」
不敵に笑う四人の絶対者。それぞれに思惑があり、それぞれの欲望がある。
世界の命運を賭けた戦いが、始まろうとしている。




