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日常の一コマ

一月三十一日が終わり、二月一日になった。


だが、月が替わったからといって何かが変わったということはない。


相変わらずの寒さ。


相変わらずの授業。


相変わらずの日常。


何も変わったことはなく、ただ月日だけが流れていく。


そう、何も変わったことはないはず。



「……」



美坂香里の席が、空白のことと。


美坂栞が、死んだということ以外は。



変わらないはずの日常が。


俺の中だけでは、確かに変わっていた。









日常の一コマ









担任の石橋がホームルームで告げた、いつもと違う言葉。


「美坂は今日休みだ」と、ただそれだけの言葉。


クラス一の優等生だけに、香里が欠席したということに若干のどよめきはあったものの、「まあそういうこともあるか」で済まされるだけのこと。


意識はいつまでもそこに残らず、クラスメイト達は一限目の授業の準備を始める。


日常が、戻ったのだ。


ただ、名雪と北川だけは他のクラスメイト達よりも若干気にした様子ではあったが、それでもいつもと変わりなく授業の準備をする。


俺だってそうだ。


こうして、香里が休んだという事実は、ただの日常で起こりうるだけの一コマになり、そして埋没していくのだ。


何が起こったかなど、誰も気にしないまま。


栞の死など、誰も知らないまま。



栞は、俺の腕の中で死んだ。


バニラアイスが大好きで、学校が大好きで、何より俺を好きでいてくれた彼女は、今日の深夜、笑顔で満足そうに死んでいった。


「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」という言葉を残して。



美坂栞の、お姉ちゃん。


美坂香里。


妹を溺愛するあまり、失うことを恐れ、忘れようとした姉。


結局香里は、最後まで妹を認めようとせず、そして妹は死んでしまった。


互いに思う心が同じな故、引き起こしてしまった悲惨な結末。


栞には未練があった。もう一度姉と一緒に楽しいひと時を過ごす、ということが。


そのひと時が楽しいほど、のちに来る結末が悲しくなる。だから香里は拒絶した。


香里の決断が間違っているとは、一概には言えない。


俺はそれが分かっていながらも栞に最後まで付き合ったわけだが、かといって自分が正しいとも思わない。


それは、栞にとっても同じなのだから。


今が楽しければ楽しいほど、後が辛くなる。


死を、恐れてしまう。


だから栞に余計な悲しみを背負わせないように、という意味では香里も間違ってはいない。むしろ俺が間違っているぐらいだ。


しかし死に逝く時ぐらい、最期ぐらいは望みを叶えてやりたい、という俺の考えも間違っているとは、やはり思えない。


そう、誰も間違っていないのだ。


間違っていないから、栞は言った。恨むわけでもなく、ただ、自分のことを気に病んでいるだろう姉を頼む、と。


だから。



「相沢君、ちょっと来て」



昼過ぎ、遅刻届も出さずに来たであろう香里が自分に責任を感じているとしたら、それは違うと言ってやりたい。


栞の最後の言葉を、教えてやらなければいけない。





屋上に来た。勿論、香里と二人で。


クラスでは香里を心配する面々、その中には名雪や北川の姿も勿論あった。


が、香里はそんなことには見向きもせずに俺を呼び出し、さっさと屋上に上がってしまった。


今頃クラスでは何を言われているだろうか。栞の存在を知らない奴は、俺と香里の関係を幾分誤解して勝手に話しを作ってしまうのだろうか。


まあそんなことどうでもいい。


今は、香里のことに集中しなければならない。


でないと、今変な噂が立つのを必至に止めてくれているであろう名雪や北川に申し訳ない。



理由も知らないはずの二人は、俺が教室から出て行く際、ただ一言。


「頼んだ」と告げた。


恐らく本当に何も知らないだろうが、それでも俺と香里の間に何かがあることぐらいは分かっているだろう。


それも、周りが囃し立てるようなことではなく、深い何かが。


こういう時はいい友人を持ってよかったと思う。


深入りするところとしないところ、任せるべきところと任されるべきところをわかっている奴ら。


本当にいい友人を持ったよ。


香里、お前もな。


少なくとも俺と名雪と北川、この三人はお前のことを心配してるぞ?


それにお前を任された俺としては、差し伸べれるところは手を出したい。


泣いている時は、胸ぐらい貸したいんだ。


そう、正に今のお前にはな。



「……く……うっ……」



目の前には、声を殺しながら泣く香里。


俺と立って向き合いながら、黙って泣いている。


屋上に来てからずっとこうだ。


このご時世にも関わらず閉鎖されていない、屋上への扉を開け。


無表情で立っている香里にどう切り出そうか、と考える間もなく香里は泣き出した。



例えばいつ死んでもおかしくない老人は、死んだ際に速やかに葬儀が行えるよう、予め業者に登録しておく。


栞もそうだったのだろう。正確には両親が、だろうが。


香里がこの時間になって登校したのは、ほぼ間違いなく栞の葬儀のためだろう。


ただ、今の時間はまだ十二時過ぎ。全てを終えてから来たとは思えない。


香里は、抜け出して来たのだ。


そこまでして学校に来た理由は、今俺の前で泣いている理由は分からない。



「私に妹はいない」と、香里は言った。


何事もないように。淡々と事実を述べるように。


それは明らかに強がりで、自分自身を騙すための嘘。そうすることで失う悲しみから逃れようとした。


しかし、それは土台無理な話だ。


愛するが故に忘れるだなんて、できるはずがない。


それは香里にも分かっていたことだろう。


分かっていた、けれど。


それは、栞のためでもあったから。


叶わない夢を見せないよう、そうすることで死に対する恐怖を少しでも和らげさせようと、そのために拒絶した。


そして、そのことは栞にも分かっていた。わかっていたから、最後にあんな言葉を残していったのだ。


最後まで自分のことを思っていてくれた姉に対する、最後の妹の思いやり。


俺は、それを告げた。



「栞は、お前のこと宜しくだってさ」


「……」



嗚咽は止まったが、流れる涙は止まらない。


だが、俺の言葉は聞こえているようだ。頭を上げ、俺を見る顔には、相変わらず何の感情も見受けられない。


まあいい。聞こえているのなら続けよう。


栞の言葉を。


美坂香里の妹である、美坂栞の遺言を。



「『お姉ちゃんのこと、お願いしますね』栞はそう言ったんだ」



香里は、何も言わない。



「最後まで拒絶された姉のこと、宜しくだってさ」



それでも俺は言葉を紡ぐ。



「存在を否定されて、病院にも面会に来てくれなくて、悲しかっただろう。香里を恨みもするはずだ。姉妹なのになぜ、ってな」



紡ぐのは言葉だけでなく。



「でも、最後に栞が残した言葉は、そんな姉を気遣う言葉だった」



姉妹の、絆。



「なあ香里、この意味が分かるか? 誰が見ても逃避にしか見えない香里の行為に対して栞が残した言葉。この意味が分かるか?」



「……分かるわよ」



そこで香里は初めて口を開いた。いつの間にか、涙は止まっていた。


無表情だった顔を緩め。


そして、



「だって私達は、姉妹だもの」



妹を、認めた。


香里は頬を伝っていた涙に触れ、



「だからこの涙は、お別れの涙。悲しくなんてない。悲しいはずはない。

 だって私達は──こんなにも愛し合っていたんですもの」



力強く、満足そうに、香里はそう言った。


仲違いなんてしていない。栞は満足して死んで逝き、香里は満足して見送った。


優しい結末。


ハッピーエンド。


なら、それでいい。何も問題はない。



結末の前に、『都合のいい』という言葉が付かなければ。



死に間際の栞は、確かに『満足そう』に死んでいった。


そして今の香里の顔は、確かに『満足そう』にしている。


だが、二人の本心は決して『満足』していないことは、俺には分かる。


ひと月に満たない付き合いだとしても。


二人の満足そうにしているその顔が、どれほど悲痛な面持ちか。面持ちだったか。


俺には、分かる。


栞の遺言は、一字一句間違えていない。


その解釈も、間違いではないと断言できる。


なのになぜ栞は、香里はこんなにも歪んだ顔をしているのか。


歪んだ、精一杯の笑顔をしているのか。


俺には──分かるんだ。


栞は、もういない。


言うべきだった言葉は、栞にはもう言えない。


だから、俺は香里には言ってやらなければならない。


栞の、最後の願い。


それは通じ合った姉妹が、唯一間違っていたこと。



「だからって、悲しんじゃいけないってこともないだろ」



最後は、笑顔でお別れしましょう。


死に逝く人は、得てしてこのような台詞を残す。


後悔を残さないように。


そりゃあ最後に見る顔は、悲痛そうな顔より笑顔であった方が、思い出としてはいいだろう。


ただ。


だからといって。



「大好きな人の死を、悲しんじゃいけないはずがないだろ」



悲しい。


それは、心が痛くなるということ。


人が死んで、何より大切な人が死んで、心を痛めないわけがない。


それを悲しくない、と。痛くない、と否定することは。


死んだ人を、否定するということだ。



「栞は確かに満足だっただろうさ。だが、それでも悲しかっただろう。

 だけどあいつは最後まで涙を流さずに逝ってしまった。

 悲しかったはずなのに。涙を流したかったはずなのに。心が──痛かったはずなのに」



それは、死に逝く人も同じ。


大切な人と、会えなくなる。悲しくないはずがない。


それは。



決して、否定してはいけないんだ。



妹を否定したはずの姉。姉に否定されたはずの妹。


最期までその関係は変わらなかった。


建前上なだけかもしれない。


事実、二人はこれほどまでに愛し合っていた。


ならば。


妹の存在を、肯定してやるなら。


悲しんでやらなければ、いけないんだ。



俺の言葉を理解したのだろう、香里の顔が歪む。


歪んだ笑顔が、困惑の顔に、そして。


泣きそうな、悲しそうな。


いや。


悲しい、顔に。



「泣いてやれよ。今度は栞のためにも。愛し合った人の為に、悲しんでやれよ」


「……そう、ね。じゃ、あ、今度は、ちょっと、胸、貸して、くれる?」



震えながら、なんとか言葉として言葉を繋げる。


断る理由なんてない。あとは最後の後押しだけだ。



「来いよ。悲しいなら、人の胸で思いっきり泣いちまえよ」


「──!!」



飛び込んできた。それを俺はしっかり支え、倒れないように重心を前に傾ける。


それと同時に、香里はまた泣き出した。たださっきとは違うところは、無表情ではなく、悲しんだ顔をしているということだ。


作って歪んだ顔ではなく、心から悲しんだ顔。


不謹慎だがそれは、先ほどの笑顔よりよっぽど美しかった。



どんなに強がっても、結局は後悔していたのだろう。


本当にこれでいいのか。自分は本当は間違ったことをしているのではないのか。


一人では、そんな考えはいつまでも頭の中を巡り、いつまでたっても答えは出ない。


だから、誰かがちゃんと教えてやらなければいけないのだ。


確認。分かり合えていたはずの二人が、本当に分かり合えていたことへの。


それが必要だったのだ。


俺のしたことはその『誰か』になること、あとほんの少しのお節介。


我慢は良くない。嘘を吐くのは良くない。ただそれだけ。


別に言う必要はなかったかもしれない。


自分を誤魔化したまま、痛みを忘れることもできたのかもしれない。


ただ。


今日初めて香里を見た時。


言うべき言葉は決まっていた。


言ってやらなきゃと、何故かそう思った。



「相沢君」



一頻り泣いたあと。


香里は、顔を上げずにこう言った。



「相沢君で、良かったわ」



主語も何もない、うわ言のような言葉。


どんな意味があるのか、俺には分からない。


分からない、けれど。


自分のしたことが、間違いじゃなかったと。そう思える言葉だった。





それから香里は普段の香里に戻り、俺もまた日常に埋没していった。


だが栞のことはいつまでも忘れず、ずっと香里の心に残っていくだろう。


日常におけるただの一コマ。そう受け止めて、香里はこれからを生きていく。


もちろん、俺も。


一コマは一コマ、パラパラと日常のページを捲ればそれだけでしかないものだけれど。


栞は、俺達の心に、いつまでも残っていく。


大きくもなく、小さくもなく。ただの一コマとして。


栞は、笑顔でそのコマで写っている。


傍らに俺と香里を携えながら。

この作品を読んで頂き、ありがとうございます。

次の投稿を心待ちにされている方がいましたら、大変嬉しく、大変心苦しいのですが、気長にお待ち頂けると助かります。

では。

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