特別な一日
二話目にして超難産。ギブアップ気味。
「今日は晴れたね、祐一」
「ああ、そうだな」
二月の中旬、すっかり見慣れた学校への道を名雪と歩く、いつも通りの登校風景。
ここ最近雪が降り続いており、名雪の言葉通り今日は晴天ではあるものの、道にはまだ雪が残っている。
だが気を抜けば震えてきそうな寒さも、久しぶりのこの太陽の下ではいくらかマシに思えた。
「ん…ふあっ……」
そんな陽気に充てられたのか、名雪が口元に手を当て、目元を緩ませる。
さすがの女の子。男子なら人目を憚らず大口を開けているところだ。
しかし、名雪が欠伸。
陽気とかそれ以前に、どう考えてもおかしい。
「何だ名雪、昨日は九時に寝たくせに寝不足か? それ以上寝ると三年に一度しか起きなくなっちまうぞ」
「三年寝雪にはなりたくないよ……」
四年に一度でも可だが。日暮寝雪。違和感がありそうでない。
それより睡眠時間十時間で欠伸など、世の中の睡眠時間を削ってでもやらなければならないことがある人に対して失礼だろ。
名雪は少し俯いて、「それよりも」と前置きして話題を変える。何かと不本意な話題だったのだろう。名雪弄りはこれからだったのだが、まあいい。
「もうこの町にも慣れた?」
「大体な。だが今日はまだマシとは言え、この寒さには未来永劫慣れるとは思えないけどな」
「あはは。祐一は寒がりだもんね」
「いや、この町に住んでる奴らがおかしいんだ。見てるこっちが寒くなってくる」
名雪の今の服装は学校指定の制服の上にコート。どうやら中も下着の他には一枚だけしか着ていないと見える。
それに対し俺の服装はシャツ二枚にセーター、その上に制服を着て更にコートを羽織っている。
俺が寒がりなのは認めるが、前の町の奴らだってこの気温なら四枚は着ていたはずだ。第一こんな気温にさえ滅多にならないが。
天気予報を見れば、当然のようにこの地域の最高気温は氷点下。それに誰も驚かない。
かく言う俺もこの地域に住みだしてもう一ヶ月、今更驚きはしない。
驚かないが、だからといって慣れることはこれからもないだろう。
いや、無理だから。
「でも、私は普通の方だよ。ほら、同じ学校の人でもコート着てない人もいるし、商店街へ行けば半袖の人だっているかもしれないよ」
「いや、多分後者の人は気合いを入れるためであって、実際寒いと思うぞ」
「そうかなあ……」
そんな他愛もない話をしている、本当にいつもの朝の時間。
気候に悪態をつきつつも、昨日よりは少しだけ気分のいい日。
「Yo! Happy Saint Valentine's Day!!」
……だった日は、俺とは比べものにならないハイテンションなアンテナによって一気に気分を害されてしまった。
とりあえず北川、日本語を喋れ。
特別な日
「おはよう北川君」
「水瀬君! 君はそんなローテンションでいいのかね!? 今日二月十四日という日は全世界中が待ち望んだ祭の日なんだぞ!!?」
「お前がハイテンション過ぎるだけだ。あと声がでかい」
おかげで俺達と同じく登校途中の見知らぬ生徒にまで奇異の目で見られてるじゃないか。
それに、お前がいくらこの日を待ち望んでも無駄だと思うぞ。前に下級生が『アンテナ先輩』と呼んでるのを聞いたことがあるし。
「何だね相沢君、その『お前じゃ無理。俺の方が貰える自信がある』とでも言いたげな目は」
「そこまでは思っていないが。大体転校してきて一ヶ月しか経ってない俺がそんなに貰えるはずがないだろ」
「ちなみに去年は零個だ!」
「聞いてねえよ」
なら尚更何故こんなモテない男が一年でトップクラスに嫌う日をわざわざ裏切られるために期待するのか分からん。
そういう俺はというと、別段好きでも嫌いでもない。
今時二月十四日なんて彼氏彼女がいるやつら限定で特別になる日だろう。そりゃあ義理ぐらいは親しい友人や一ヶ月後目当てで配る奴もいるかもしれないが、そんなの大して特別扱いするまでもない。
俺にとってはいつもと変わらない普通の日。の、はずだが──
「はい、祐一。これ」
「ん?」
俺と北川のやりとりを傍で聞いていた名雪は思い出したように自分の鞄に手を伸ばし、中から綺麗に包装された長方形の物体を取り出し、俺に渡して来た。
これは……その、あれだよな?
何だ? これは俺に何かボケを求めているのだろうか。北川は固まってるし。
「祐一にとっては普通の日でも、女の子にとってはやっぱり今日は特別な日なんだよ。特に、私みたいな女の子とかは」
「……そうらしいな」
一瞬『秋子さんからか?』とか言おうとしたのだが、目の前でほんのり頬を赤らめた少女の前で言うのはさすがに空気を読めていないし、俺は最低限その類の空気は読めているつもりだ。
だがやはり女というモノは分からない。名雪と家を出てしばらく歩いていたが、至って普通の日常だった。
それがいつからこんなことになってしまったのか。
「──って何俺を差し置いて二人で純愛路線を展開しとんのじゃあ-!!」
………ああ、こいつが現れてからか。そういうことにしておこう。
名雪は不満そうな顔をしていたが、仕方ないとでも言うように一つ溜め息をつき、また鞄の中に手を突っ込み、今度はさっきとは違った円錐型の袋を取り出した。
「これはお母さんからだよ」
「ん、サンキュ」
「だから無視すんなっての!」
「それから北川君にも、はい」
「へ?」
北川、再び停止。手には名雪から渡された、俺のより一回り小さい物体。
何だおい、待ち望んでおいて貰ったら驚愕で思考停止かよ。
「言っておくけど、北川君のは義理だからね」
「お…お……おぉー!!! さすが水瀬様!! いい! 義理でもいい!! これで親に『また零個? いい加減一人ぐらい女の子捕まえてきなさいよ』の言葉を六年連続で聞かなくて済む!!!」
やたらとエクスクラメーションマークをつけながら北川がまくし立てる。よほど嬉しかったのか。
……名雪の『のは』という言葉は聞かなかったことにしよう、うん。
俺は鈍感なんだ。
せっかく誤魔化せたかに思えた答えを再度催促するものだとは気付いていない。
「ヘタレ」
「のわっ!」
と、突然背後からの声に俺は慌てて振り返る。前方を行く北川と名雪もその声に気づき、一緒に振り返った。
そこにいたのは、
「香里か」
「香里よ。おはよう相沢君。名雪と北川君も」
「おはよー」
「Hallo every one! Meのheartはalwaysでyouのfrom the heartなloveのcrystalを受け付けているよ!!」
「……後ろから聞いてたけど、今日はどうしたの彼は?」
一人だけ異常なテンションを保っている北川に、当然の疑問を被せる香里。
口調こそいつもの淡々としたものだが、北川を見る目は違った。
そう、それはまるでノックもせずに部屋に入ったら、身内のとんでもない変態行為を見てしまった時にするような、途轍もない冷めた目だ。
と言うか何故俺はやけに具体的な喩えを思い浮かべてしまったのだろう。デシャヴに似た感覚。
……これ以上このことについて考えるのはやめよう。北川は変態。それでいいじゃないか。
しかし、微妙に香里もずれているのか?
如何に北川の本性がどす黒く鬼畜な完全変態だとしても、そうなった理由は明白だ。
二月十四日。
名雪が言うに、この日は女の子にとって特別な日らしいが、まさか香里は
「相沢君? 何かよからぬことを考えてないでしょうねぇ?」
「イヤナニモ」
「……まあいいけど。はい、二人とも」
香里から俺と北川に渡されたのは勿論チョコレート。
こいつ、初めから北川が壊れた理由を分かってるくせに、あえて惚けやがったな。
期待させない振りして突然渡す。落として上げるという高等技術だ。
「さんきゅ」
「っっっっっっむぁってましたー!!!! これで二つ目! まだ相沢とも一つしか変わらないぜ!! まだだ、まだ勝負は始まったばかりなのだぁー!!!」
そのギャップにまんまと引っかかったのか、落ち込み気味だった調子をさっき以上のテンションで喜ぶ北川。
まあ……義理とはいえ、六年連続零個という不名誉な記録を持っていた奴だ。それが今年になって早二つ。よほど嬉しいのか小躍りまで始めている。
俺の近くでお前を見る二人の女子、そして通り掛かりに見ていく人々の目が、その、寒い。厚着も視線には意味を成さない。
北川、そのチョコが最初で最後にならなきゃいいな。希望は捨てちゃいけないぞ。
それはそうと、その歓喜の叫びの中に聞き捨てならない言葉があったのを俺は逃すわけにはいかない。
「ちょっと待てそこのアンテナ。いつ俺がお前と勝負すると言った」
「ふふふ、とぼけても無駄だよ相沢君。君の八方美人ぷりにはウンザリだ」
俺がいつ八方美人な振る舞いを見せた。真実しか言ってないわ。
「……相沢君? 北川君はともかくとして、貴方がそんな乙女心を踏みにじるような勝負を受けるとは思わなかったわ」
いや受けてないから。そしてさり気なく北川に酷いぞ。
「香里、祐一はそんなことする人じゃないよ」
名雪、ナイスフォロー。
「でも、これで誤魔化しっぱなしだと前言撤回しちゃうかもよ?」
んでもって地雷をありがとう。
「あらあら、相沢君ったら罪深い人ね」
楽しんでるだろ香里。
「相沢、勝負はこれからだぜ!!」
色々言いたいことはあるが、まずお前は黙れ。
「……ん?」
ふと、さっき貰った香里からのチョコレートを見てみる。
名雪と同じく長方形に包装されたその裏に、何かがあった。
「どうしたの、祐一?」
「いや、なんでもない。それより急がないか。周りの生徒も少なくなってきた」
「そうね、行くわよ北川君。慌てなくても、バレンタインといえば下駄箱と机の中ってのが相場で決まってるでしょ?」
「うううううぉぉぉぉぉぉ!!!!! それだ美坂、さすが学年主席!! 相沢、水瀬、何をモタモタしておる! 今すぐ学校へ赴くのだぁ!!!」
名雪の言葉に、俺は思わず誤魔化す。
誤魔化した理由が分かっているのだろう、香里も便乗し、北川を煽りつつ歩き出す。
その香里から受け取った物の真意。
「祐一、急ぐんじゃなかったの?」
「あ、ああ。行くか」
香里から受け取ったチョコレートの裏にあった手紙。
中には、こう書いてあった。
『放課後、誰もいなくなった後教室で待っていて』
なるほど、今日は確かに特別な日らしい。
放課後。俺は言われた通り教室で待っていた。
香里はいない。恐らく余計なことを勘繰られないよう、一旦教室から離れ、クラスメイトが帰った頃を見計らって戻ってくるつもりだろう。
あれから二週間。
二月一日、遅刻をした優等生。その優等生が、只ならぬ雰囲気で男子生徒を呼び出した。これ以上の情報は誰にも入っていないはずだ。
だが、そこは思春期の高校生。遅刻した理由は告白の中身を考えていただとか、昨晩はお楽しみが過ぎたとか、とにかく馬鹿みたいな噂が飛び交った。
しかし次の日からいつも通りの様子に戻った香里に、いつも通りに接する俺を見て、その噂は急速に収まりつつある。
元々噂なんてそんなものだろう。
その中に妹が死んだ、などと言うものはなかった。これに関しては名雪や北川に感謝するしかない。
だが、まだ油断はできない。収まりつつはあるが、収まってはいない。
そんな渦中にいる男女二人が、二月十四日という日に教室で誰もいなくなるのを待っているとどうなるか、香里も良く分かっているだろう。
こうやって隠れて逢い引きしているのを目撃されたらもっと拙いが、香里はあえてそんな危険のある教室を指定してきた。
出来る限り危険は回避するが、場所までは回避できない。できない理由があるのだろう。
その理由に心当たりは、無いことはない。
……あまり好ましくないところに思考が行き着いてしまったようだ。
待っている時間は、人に様々なことを考えさせられる。期待よりも不安しかない待機なら尚更だろう。
ひとまず思考を打ち切り、他愛のないことでも考えて落ち着こう。
さて、今日起こったことと言えば、まず朝。
北川の下駄箱には当然スリッパ以外何も入っていなかった。むしろスリッパも片方なかった。日頃の行いがこの日に出ようとは、敵ながらあっぱれである。
俺はと言えば、一年の天野からのチョコレートが入っていた。天野とは栞を通じてたまたま知り合ったのだが、たかが数回話しただけなのに何故わざわざ俺にくれたのか。
……理由は明白なのだが、そのことを考え出すとまた好ましくないところに思考が行ってしまうので、一先ず閑話休題。
ともかくそれを見て名雪は膨れ、香里は無表情で、北川は号泣。三種三様。泣くなよ。
昼休み、佐祐理さんと舞が教室に来て共にチョコレートを渡してくれた。これで全学年の人から貰ったこととなる。当然北川、真っ白に燃え尽きる。
そして放課後。北川は名雪と香里から貰って以来、ついに誰からも貰えなかった。
愉悦感に浸るつもりはないが、転校したての俺より少ないってのは少々同情を誘う。まあ俺は名雪という従兄妹持ちのステータスはあったが。
とぼとぼと帰宅して行く後ろ姿は、見えもしないはずの縦線が見えた気がした。
そして気付いたのは、この町は確かに他の地域に比べて二月十四日という日を重要視しているようだ。
中庭が見える俺の席から、休み時間毎に一組以上の男女が密会を行っていた。見えているので密会でもないが。
他にも教室や廊下、見てはいないが屋上への階段などで次々に乙女の戦いがあったらしい。学年も様々。今日だけで何組のカップルが生まれたかは想像もつかない。また、今現在もどこかで生まれているのかもしれない。
俺が前に住んでいた町では、ここまで盛んに長方形の包みを渡す姿は見受けられなかった。
精々仲の良い者同士、予め付き合っている者同士で内々に渡されているのだろう。
秘めたる思いを伝える一大イベント、とまでは遠く及ばない。そんな日、そんな町だった。
しかし、この町にとって今日と言う日は。
いつもは単なる休み時間や昼休みでも、二月十四日の魔法に掛かってしまえばそれだけで特別な時間になってしまっている。
俺にしても確かに登校途中、登校直後の下駄箱の前、昼休みの三つは特別な時間だったのかもしれない。
前の町では体験できなかった、特別な日の特別な行事。
だが。
俺にとっての真に特別な時間とは、これから。
「お待たせ、相沢君」
香里からの手紙。
あれだけでは普通何の用かイマイチ分からない。今日のメインイベントであるはずのチョコの裏に、その手紙はあったのだから。
普通なら、分からない。
だけど、俺と香里に限って言えば、分かる。
「そんなに待ってないな。香里だって誰もいなくなるのを見計らって来たんだろ?」
「まあそうね。名雪には悪かったけど、今年のこの日だけはどうしても、と思ってね」
言わなくても、分かってしまう。
「はい、『栞からの』チョコレートよ」
受け取ったのはハート型のチョコ。
「香里……」
思わず名前を呼んでしまう。
手紙を読んだ時から懸念していたこと。残念ながら、当ては外れていなかったらしい。
本当に、残念ながら。
二月一日。その日、香里は俺を呼び出した。
今日のような忍んだものではなく、皆の前で堂々と。
いや、堂々とは少しもしていない。香里らしからぬ思慮に欠けた、困窮を極めたものだった。
無理はない。最愛なる妹の死を受け止めきれていなかった香里に、普段通りの冷静さを求めるのは酷だろう。
そうして呼び出された屋上で、香里は泣いた。
特に二度目は号泣と言っていい。
一度目は、溢れただけ。
お別れの涙、と香里は言った。悔いでもなく悲哀でもなく、ただ見送るだけの涙。
後悔なんてしていない。
悲しくなんてない。
栞は精一杯生きて、満足して死んで逝ったんだ。
悲しくなんて、あってはいけないんだ。
……そんなわけがないのに。
人が死んで、悲しくない訳がないのに。
仲の良い姉妹が、最期まで直せなかったボタンの掛け間違い。
それを直してやった時、香里は二度目の涙を流した。
悲しいことは、悲しめばいい。溜め込む必要はない。
いっぱい泣いて、いっぱい後悔して、清算して。そこで初めて、綺麗な思い出として刻まれる。
そう。
清算した、はずだった。
手元には、受け取った長方形の包み。
白い包装に、赤いリボン。右下に書かれた字は、「栞より」。
天国からの贈り物、ではない。生前から残しておいたものでもないだろう。
これは、贖罪。
栞がしたかったこと。生きていたら、まず行っていたこと。
それを代行する意味は何もない。「たられば」は物語の中だけで充分だ。
栞なら、どんな風に渡すだろうな。そう思いながら笑ってやることが、栞の一番の願いだと、お前は気付いていないのか?
お前は、いつまで栞に囚われているつもりだ!?
「分かってるわ。こんなことに意味なんてないって。……栞を傷付けてるだけなんだって」
ただの自己満足に過ぎないと。
香里は、言った。
「でも、これだけは譲れないの」
しかしその顔は、その目に映るものは。
決して悲痛な、後悔の滲むものではなかった。
それを見て俺は、ただの自己満足だけではないことを悟る。
死者に囚われている者はこんな顔はしない。ただただ悲痛さに顔を歪め、後悔という呪縛に囚われてしまう。
そんな奴に映る瞳には、絶望の二文字しか見えない。だが、今俺の目の前にいる少女は違う。
その目に映るものは、決意。
譲れないという言葉通りの、揺らがぬ意思が見えていた。
「栞はね」
俺が何も口に出さない、出すつもりがないのを確認し、香里は語り出す。
それは、最愛の妹を最も理解している姉の想い出話。
「少女漫画が好きだった。栞が持ってた漫画の数は結構な量だったわ。
内容は決まってベタベタな学園恋愛モノ。同じクラスの女の子が男の子に精一杯アピールして、最後は教室で告白して結ばれる。そんなのばかり。
だけど病院での生活が続く中、姉にも構ってもらえない栞の唯一の楽しみであり、憧れだったんでしょうね」
後半の物言いに少し思うことはあったが、香里の表情が変わらないところを見ると杞憂だったようだ。
栞を避けていたことを、しっかり想い出として受け止めている。
言葉に出せないということは、想い出すだけで辛いということ。何かと想い出したくない過去であるということだ。
今の香里の表情に、強がりは見えない。
栞を避けていたこと。そこに一片の悔いもなく、むしろ誇らしく。
想い出を、受け止められている。
一方で、栞の少女趣味は漫画から来ていたのか、と今更ながら思う。
俺が栞と出会って、約一ヶ月。
特に後半の半月ほどは毎日のように会い、毎日話していた。
決まって話すのは栞。内容なんてない、ただの日常会話を、本当に楽しそうに話し掛けてきた。
その中で物語のような恋愛への憧れを知り、最愛の姉の存在を知り、どうしようもない身体の状態を知り。
栞のことなら、大体のことは知っているつもりだった。
だが、やはり姉妹の絆には敵わない。
たかが一ヶ月。されど一ヶ月。
それでも、香里にとってはたかが一ヶ月なのだろう。
一ヶ月なんてそれこそ霞むような、長い長い時間。
一時分かれようとも、心では繋がっていた時間。
「その漫画の中でも、特に栞のお気に入りなシーンが、バレンタインの日。
まだ体がそんなに悪くない時から栞はバレンタインが好きだったの。好きな子ができたとかはなかったんだけど、いつか少女漫画みたいな恋をして、誰もいない教室でバレンタインチョコを渡す日を夢見てた」
栞らしいと言えば栞らしい、陳腐で在り来たりなお話。
しかしそれは、とてもとても美しい想い出だった。
「私の名前は美坂香里。美坂栞の姉。
その私だから、栞がこれを相沢君に渡す時、何て言っただろうか分かるわ」
もう助からない命が、もしこの日まで持ったのなら。
栞が何を言うのか。
「──さようなら、よ」
それは美しい想い出の終焉。
夢から覚めた、瞬間だった。
俺は香里から包みを受け取り、包装を開け、中身を取り出す。
ハート型の茶色い固形。これまた陳腐で在り来たりなチョコレート。それを手で割り、欠片を摘む。
栞のチョコは、彼女が大好きだった甘味で満ちていた。
「……甘いな」
「栞のだもの。本当はバニラアイスにしようか迷ったんだけどね」
「それは勘弁してくれ」
喋りながらも、チョコを口に運ぶ。
あまり甘いものは食べない俺だが、これは食べなければいけない。
夢に戻らない為に。
栞の死を本当の意味で受け止め、清算する為に。
未練を、残さない為に。
「御馳走様。美味かったよ」
「お世辞を言うのはもう少し表情を作ってからにしなさい。前の私より酷い顔してるわよ」
そう言う香里の顔は晴々している。
晴々と、満足しきった顔で。
香里は今度こそ、全てを清算した。
「んじゃ、帰るか」
「ええ。甘いものが苦手だからって、家で吐かないでよ?」
「誰がするかそんなこと」
二人で笑い合い、その後も他愛のないことを話しながら帰った。
水瀬家に着き、名雪にどうしたのかと言われるも「秘密」とだけ言って自分の部屋に逃げた。部屋に行く前に秋子さんにありがとうございましたとだけ伝えておいた。
そして夕飯を食べ、風呂に入り、また部屋に戻り、ベッドに潜ると、あっというまに瞼が重くなってくる。
今日は疲れた。色々あり過ぎた。名雪への返事とか、色々考えることもあるが、とりあえず後回しだ。
もう何も考えられなくなってきた。思考が鈍ってくる。眠気が体全体を襲う。
じゃあ、特別な今日と言う日を締めくくるか。
「さよなら、栞」
多分、香里も同じことを言っていると思う。
そうして、俺は眠りについた。
口元には、まだあの甘ったるいものが残っている気がした。
引き続き読んでくださっている方……いるのでしょうか?
ともかく、最後まで辿り着ける様頑張ります。




