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第九節 ― 流れていく声

 海が戻ったあとも、オルダ=アンカリスの警報は鳴り続けていた。


 外港では船が波に揺れ、固定桟橋では係留索が張り直され、潮位標の数字が目まぐるしく変わっている。昨日までなら異常と呼ばれたはずの光景だったが、今はただ、海が海として動いているだけだった。


 七錨格納区の床も、ゆるやかに揺れている。右へ傾いたと思えば、少し遅れて左へ戻り、ときおり足元から低い振動が届く。もう七錨の駆動音ではない。湾内へ入り込んだ波が、都市の底そのものを叩く音だった。


 ヴァルカ=ドレインは動かなかった。黒真珠色の静潮指揮杖を手にしたまま、機能を失った七本の錨を見つめている。


 黒銀の光は消えていた。折れても、崩れてもいない。ただ古層との接続だけを失い、巨大な鉄塊としてそこに残っている。


『回収名札庫、保持構文低下』


 壁面の記録盤から機械声が響き、ヴァルカの目がわずかに動いた。


『第一保管列、固定解除。第二保管列、名響流出を確認』


 ルカも顔を上げる。


「回収名札庫?」


 聞き覚えがあった。


 海へ流れれば失われる。ならば、失われる前に回収し、留めておけばいい。


 錨記庁はそうして、還名儀式へ出されるはずだった名札や、漂着した名札、持ち主の分からない名、返す先を見つけられない名を保管してきた。


 ヴァルカにとって、それは失わせないための保存だった。


『第三保管列――』


 警告音が重なる。


『固定不能』


 次の瞬間、格納区の上方、いくつもの階層を隔てたどこかから、大量の何かが鳴る音が届いた。


 から、からから、と。


 貝。木。薄い金属。


 無数の名札が、風に触れて揺れる音だった。


「動いてる」


 エルンが言った。


 まだ顔色は悪く、ルカに肩を借りて立っている。それでも少年は耳を澄ませるように上を見た。


「上?」


「うん」


「名札?」


「いっぱい」


 止まっていたものが、流れ始めている。


     *


 回収名札庫は、格納区からいくつもの階層を上がった場所にあった。


 外海へ直接面してはいない。名を海へ還さず、その場所へ留めておくために、潮も風も光も極力入り込まないよう切り離された部屋だった。


 長い棚には番号が振られ、一枚ごとに封印と記録を施された名札が並んでいる。その数は何百、あるいは何千。木札、貝札、薄い金属札。形も大きさも違う名が、整然と保存されていた。


 七錨が眠ったあと、最初に変わったのは風だった。


 本来なら入り込むはずのない場所から、一筋だけ空気が流れ込む。


 一枚の名札に結ばれた紐が揺れた。


 その隣も。さらに奥の一枚も。


 から、と小さな音がする。それをきっかけにしたように、同じ音が次々と庫内へ広がっていった。


 保存構文が、薄れている。


 文字が消えたわけではない。札そのものが壊れたわけでもない。ただ、そこに留め続けていた見えない重みだけが、潮の引くように抜けていく。


 やがて一枚の名札が棚から滑り落ちた。


 けれど床には落ちなかった。


 風にすくい上げられ、ほんの少し浮いたまま、開いた排潮口の方へ流れていく。


 続いてもう一枚。


 その次も。


 十枚、百枚と、名札が少しずつ棚を離れ始めた。


 まるで、ずっと向かいたかった場所を、ようやく思い出したように。


     *


 ヴァルカは何も言わず、七錨格納区を出ていった。


 ルカは追わなかった。エルンも止めない。


 彼がどこへ向かったのか、二人とも分かっていた。


     *


 回収名札庫の扉は、すでに開いていた。


 ヴァルカは一人で中へ入る。


 足元には何枚もの名札が流れ、靴先へ触れては離れていく。彼は一枚も踏まなかった。避けるようにゆっくり歩きながら、ただ流れていく名を見ていた。


 どの札にも、それぞれの文字がある。


 削れたもの。読めないもの。音だけを残したもの。何も書かれていないように見えるもの。


 これまで、すべてここへ置けば消えなかった。


 少なくとも、なくならなかった。


 流さない。


 失わせない。


 待たせない。


 ここにあれば、まだ存在している。存在している限り、失われてはいない。


 ヴァルカはそう考え、そうして守ってきた。


 から、と一枚の名札が肩をかすめた。


 彼は振り返らない。


 からからと音を立てながら、次々と名が外へ向かって流れていく。遠い排潮口の向こうには海の光が見えた。


 揺れている。


 一瞬ごとに形を変え、二度と同じ反射を作らない水の光だった。


 ヴァルカは長いあいだ、それを見ていた。


 やがて、声がした。


 最初は、名札同士が擦れた音だと思った。


 小さい。


 ひどく幼い声だった。


『――兄さま』


 ヴァルカの身体が止まった。


 呼吸まで止まったように見えた。


 声は、もう一度は来なかった。


 ゆっくりと顔を向ける。


 どの名札から聞こえたのかは分からない。何枚もの札が、同じように床を滑り、風へ持ち上がっては排潮口へ流れていく。


 少女の名札は、ここにはない。


 あの日、海へ流した。


 ならば今の声は、その札に残っていたものではない。


 ここに保存されていた別の名へ混ざっていたのか。海を巡るうち、どこかへ残った残響が七錨によって止められ、この場所まで流れ着いていたのか。


 それすら分からない。


 ただ、たった一度だけ聞こえた。


『兄さま』


 幼い頃、背後からそう呼ばれたような響き。


 遠くへ行きすぎた時、追いかけてきた少女が、自分を見つけて声を上げたような響き。


 ヴァルカの右手が、ほんの少し動いた。


 流れていく名札へ向かって伸びる。


 一歩進めば、まだ届く。


 掴むこともできる。


 棚へ戻すことも、保存構文は失われていても、自分の手の中へ留めることならできる。


 けれど指先は途中で止まった。


 一枚の名札が、その向こうを通り過ぎていく。


 から、と音を残して。


 続いて、もう一枚。


 どれだったのかは、もう分からない。


 ヴァルカの手だけが、何も掴まないまま宙に残った。


 声は薄れていく。


 追えば、まだ間に合うかもしれない。名響を測り、流出経路を閉じ、記録構文へ再固定する方法を探すこともできるかもしれない。


 それでも彼は、静潮指揮杖を上げなかった。


 伸ばしていた右手を、ゆっくりと下ろす。


 幼い声は、排潮口の向こうへ流れていった。


 海へ還ったのか。


 ただ遠ざかっただけなのか。


 ヴァルカには分からない。


 妹本人が帰ってきたわけではない。長いあいだ失われていた名が、完全な形で戻ってきたわけでもない。


 かつて自分を呼んだ、たった一声。


 その残りが、どこかに沈みきらずに残っていただけなのかもしれない。


 それでも、その一声は確かに届いた。


 波の光が、名札庫の床へ揺れている。二度と同じ形にはならない光だった。


 ヴァルカは長いあいだ、その先を見つめていた。


 流れていく声を追わず、留めもせず、ただ最後まで見送っていた。

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