第三節 ― 海賊は道を開ける
オルダ=アンカリスは、近づくほど巨大さを増していった。
海峡の両岸を塞ぐように灰色の防波構造が伸び、その奥から何本もの塔が真っ直ぐ空へ突き出している。自然の岩を利用した港でも、入り江に街が寄り添っているわけでもない。海の上へ巨大な線を引き、その内側だけを港と決めたような都市だった。
海面には測量標が並び、岸壁には等間隔で灯が据えられている。遠くからでも、桟橋が寸分違わぬ間隔で並んでいるのが分かった。
そして、その手前には錨記庁の艦隊がいた。
「……多い」
エルンが言った。
「うん」
ルカも途中で数えるのを諦めた。
大型艦が三隻。その間を中型の監視船が埋め、さらに小型の警備艇が前後を行き来している。軍港へ続く海路を横一列に塞ぎ、まるで海面そのものへ灰色の壁を築いているようだった。
もちろん、本当に隙間がないわけではない。船と船の間には、小型船なら十分通り抜けられそうな空間がある。
普通の海なら。
「隙間を通れない」
ルカは《潮鏡》を覗き込んだ。
水面に映る航路は、相変わらず一本だけ。その光の線は軍艦の手前まで伸びたところで、きれいに止められている。左右へ迂回しようとすれば、海そのものがナミル=レイを元の航路へ押し戻す。
《還名航法》を使えば、固定された道から多少は外へ出られる。けれど軍港へ近づいた途端、その隙間さえ急に狭くなっていた。
ルカは帆柱から吊るされた名札へ触れた。
還ろうとする向きが、細い。
今までなら指先へ残っていた微かな引きが、この海域へ入ってから目に見えない壁へ押し潰されているように弱くなっていた。
「道、ある?」
エルンが訊く。
「ある」
ルカは答え、少しだけ間を置いた。
「細いけど」
「どこ?」
「あそこ」
二隻の監視船の間を指す。
人の目で見るだけなら、ナミル=レイ一隻が十分通れる幅があった。けれど、名の流れはその途中で押し潰されている。
「入ったら?」
「途中で戻される」
「軍艦に?」
「たぶん横腹から」
「痛そう」
「船だからね」
ナミル=レイの名灯が、不安そうに一度だけ明滅した。
「大丈夫」
ルカは船縁を撫でる。
「無理には行かないから」
そう言いながら、行かなければならないことも分かっていた。
七錨を止めるには、あの都市へ入るしかない。海上から中枢へ干渉する方法は、今のところ何ひとつ見つかっていない。
その時、軍艦の中央から低い警告鐘が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
信号塔から白い光が立ち上がり、続いて増幅された声が水面を真っ直ぐ走ってくる。
『前方小型船へ告ぐ。当海域は、潮流管理機構《錨記庁》による特別静潮管理下にある。許可なき軍港への接近を禁ずる』
ルカは小さく息を呑んだ。
「やっぱり見つかってる」
「どうする?」
エルンが訊く。
「止まったら入れない」
「行ったら?」
「たぶん捕まる」
「どっちも駄目」
「そうなんだよね」
再び警告が流れる。
『直ちに指定航路へ復帰せよ』
その言葉に、ルカは少しだけ顔をしかめた。
正しい航路へ戻れ。
今は海そのものがそう命じている。そして、その海を管理する人間たちまで同じ言葉を口にする。
「ルカ」
「うん?」
「来た」
何が、と訊く必要はなかった。
背後から低い帆鳴りが届いた。風の音より荒く、黒い布が海の上で潮そのものを噛んだような音だった。
ルカが振り返る。
「遅い!」
思わず叫んだ。
水平線の低いところに、黒い帆が見えた。珊瑚赤の縫い跡。船首には、翼と牙を組み合わせたような奇妙な像。
《ネームレス・ガル》。
真っ直ぐ来たわけではない。船尾から残る航跡はひどく歪み、一度遠ざかり、別の流れへ乗り、また戻ってきたことが分かる。それでも、本当にここまで辿り着いた。
赤い牙貝が鳴る。
ルカはすぐに掴んだ。
「カイラ!」
『聞こえてるよ』
「本当に来た!」
『信じてなかったね?』
「半分くらい!」
『正直でよろしい』
通信の向こうで、カイラが笑った。
《ネームレス・ガル》は速かった。普段以上に黒い潮帆を大きく張り、固定された主航路の外側にわずかに残っている黒潮の細い流れへ無理やり食らいついている。
「そこ、通れるんですか!」
『通れるんじゃない』
カイラの声が返る。
『通してる』
「無茶してるって意味ですよね!」
『海賊が正しい航路だけ走ると思ったかい』
「今それ、ちょっと格好いい!」
『後で褒めな』
《ネームレス・ガル》がナミル=レイの横へ並んだ。一瞬だけ二隻の速度が揃い、ルカは相手の甲板に立つカイラの姿を肉眼で見ることができた。
黒褐色の髪を風になびかせ、舵輪の前に立っている。遠くの軍港を見据えた顔から、さっきまでの笑みは消えていた。
「……きっちり塞いできたね」
肉声でも届く距離だった。
「抜けられる?」
ルカが訊く。
「普通なら無理」
「普通じゃなかったら?」
「海賊に聞く質問としては正しい」
カイラは口元だけ笑った。
三度目の警告が飛んでくる。
『未登録船』
「名前知ってるじゃないか」
カイラが呟く。
『貴船は複数の航路法違反、および静潮管理命令違反の疑いがある。両船、停船せよ』
「嫌だね」
即答だった。
ルカが苦笑する。
「聞こえてないですよ」
「気分さ」
カイラは舵輪を切った。
「ルカ」
「はい」
「あんた、あの隙間まで行ける?」
軍艦二隻の間。
「途中までなら」
「途中で押し戻される?」
「うん」
カイラは視線を前へ向けたまま、短く頷いた。
「じゃあ、その押し戻されるところまで行きな」
「その先は?」
「あたしが開ける」
ルカは一瞬、意味を測りかねた。
「軍艦を?」
「道を」
「できるんですか?」
「できなきゃ逃げる」
「それでいいんですか」
「海賊だよ?」
「便利だなあ、その言葉」
「使える時に使いな」
カイラが片手を上げる。
《ネームレス・ガル》の甲板で、船員たちが一斉に動いた。
「黒潮帆――全開!」
黒い帆が大きく膨らんだ。
一瞬、船そのものが海面へ沈み込んだように見えた。船腹が水を強く噛み、次の瞬間には前へ跳ぶ。
「え」
エルンが目を丸くする。
「速い」
「うん」
ルカも同じ顔をしていた。
軍艦側の警告灯が一斉に赤へ変わる。
『進路を変更せよ!』
だが、《ネームレス・ガル》は変えない。
封鎖線へ真正面から突っ込んでいく。
「カイラ!」
ルカが叫んだ。
軍艦と軍艦の間へ飛び込む。このままならぶつかる。
そう見えた瞬間だった。
「潮牙鉤!」
カイラの声が飛ぶ。
《ネームレス・ガル》の船首から巨大な鉤が射出された。
狙ったのは軍艦ではない。
「え?」
封鎖線の脇で立ち往生していた、一隻の民間貨物船だった。
*
貨物船は、軍港へ入る直前で動けなくなっていた。
進入を止められたものの、指定航路から外へ避けることもできない。後退しようとすれば静潮が再び前へ押し戻す。動いて、戻され、また動いて、また戻される。
それを繰り返しているうちに、後続の輸送艇まで詰まり始めていた。
「民間船いるじゃん!」
ルカが叫ぶ。
「だから先にどかす!」
カイラが怒鳴り返す。
潮牙鉤が貨物船の船尾側にある救助環へ食いついた。金属音が響き、《ネームレス・ガル》の船員たちが一斉に綱を巻き取る。
「引け!」
海賊船が横へ走った。
黒潮帆が、固定航路の外側にわずかに残っていた細い流れを噛む。貨物船も横へ引かれるが、最初はほとんど動かなかった。静潮の力が、船体を元の線へ留めようとしている。
「帆落とすな!」
カイラが怒鳴る。
「船長! 鉤が保ちません!」
「保たせな!」
「簡単に言う!」
「簡単なら海賊に頼むな!」
綱が張り、船腹が軋む。
貨物船側の船頭たちも、ようやくカイラの意図を理解した。自分たちの帆を畳み、舵を《ネームレス・ガル》に引かれる方向へ合わせる。
ほんの少しだけ、船首が動いた。
「出た!」
誰かが叫ぶ。
貨物船が指定航路の端から横へ滑った。
そこには、登録航路ではない別の細い流れが残っている。普通の船では拾いにくいが、黒潮帆なら噛める。
カイラは軍港の封鎖を破るより先に、民間船をそこへ押し込んだ。
「鉤、外せ!」
巨大な鉤が外れる。
貨物船は自由に動ける場所まで流され、後続船にも空間が生まれた。
軍港から怒声が飛んでくる。
『《ネームレス・ガル》! 救難作業を中止せよ!』
カイラは心底嫌そうな顔をした。
「人助けを止めろとは、ずいぶん偉くなったね」
次の瞬間、《ネームレス・ガル》は軍艦へ向き直った。
*
赤い牙貝が鳴る。
『ルカ! 行くよ!』
「何をするの!」
『見てな!』
黒潮帆の半分が、一気に畳まれた。
《ネームレス・ガル》が急減速する。
それを好機と見たのか、軍艦側の警備艇が包囲のため前へ出た。一隻、二隻。狙い通り、カイラの船へ寄っていく。
「来たね」
海賊船の甲板では、船員たちがいくつもの樽を転がしていた。
「煙幕!」
蓋が外れ、青黒い湿った煙が海面へ落ちた。
白煙ではない。水に触れた煙は低く広がったあと、一気に立ち上がり、《ネームレス・ガル》の周囲を飲み込んでいく。
『視界不良!』
軍艦側から声が上がる。
『観測構文へ切り替えろ!』
しかし、《ネームレス・ガル》はただ煙へ隠れるだけの船ではなかった。
黒帆の一部が特殊な角度へ折り畳まれ、名隠しの帆布が煙と重なる。船影そのものが、錨記庁の記録上で曖昧になった。
「消えた?」
エルンが言う。
「消えてない」
ルカには肉眼でうっすらと見えている。
けれど、軍艦側の測定灯は何度も違う場所を照らしていた。船がなくなったわけではない。ただ、どこにいるのかを確定できなくなっている。
「記録から外れてる」
ルカが呟く。
煙の中から、カイラの笑い声が響いた。
「海で線ばっか見てるからだよ!」
黒い影が一瞬だけ煙から飛び出す。
右。
警備艇が追う。
また煙へ入る。
次に姿を見せたのは左だった。別の警備艇が動く。
「……誘ってる」
ルカは気づいた。
カイラは封鎖線を正面から壊そうとしていない。
敵船を、一隻ずつ動かしている。
静潮の海でも、軍艦そのものは命令を受ければ転舵する。一隻が《ネームレス・ガル》を追い、もう一隻が逃げ道を塞ぐため前へ出る。大型艦は、その警備艇を巻き込まないようわずかに位置を変える。
それだけで、整然としていた封鎖線に隙間が生まれた。
「ルカ!」
赤い牙貝から声が飛ぶ。
『今!』
ルカはすぐに名札へ手を伸ばした。
一枚目。
弱い。
次。
別の名。
「こっち!」
舵を切る。
ナミル=レイが封鎖線へ向かった。
『小型船、進入を停止せよ!』
「無理!」
ルカは叫んだ。
「今までずっと止められてたんだから!」
エルンが舷側へ掴まる。
「ルカ」
「うん!」
「右から来る」
警備艇が一隻、こちらへ向きを変えている。
「見えてる!」
左には大型艦。
その二隻の間に、カイラが作った細い道がある。
ナミル=レイは迷わず飛び込んだ。
「還って!」
ルカは名札を読む。
一枚目。
「こっち!」
船首が右へ振れる。
二枚目。
「今、左!」
固定航路へ押し戻す力。軍艦の起こす波。煙。名の流れ。
すべてが重なる。
「前!」
ナミル=レイが海面を跳ねた。
警告灯が大きくなり、灰色の軍艦の船腹が迫る。鋼の表面。錨記庁の紋章。手を伸ばせば届きそうなほど近い。
「近い!」
エルンが叫ぶ。
「分かってる!」
ルカも叫び返した。
船縁すれすれを、ナミル=レイが抜ける。
その時、後ろで重い音が響いた。
「カイラ!」
ルカが振り返る。
警備艇の一隻が、《ネームレス・ガル》へ接近しすぎていた。黒い海賊船が横へ押されている。
それでもカイラは逃げなかった。
「潮牙鉤!」
再び巨大な鉤が飛ぶ。
今度こそ相手は敵船だった。
「船長!」
「沈めやしない!」
鉤は警備艇の上部構造ではなく、船首側の係留環へ掛かった。
《ネームレス・ガル》が自分の船体を使い、相手を横へ引く。壊すためではない。向きを変えるためだ。
警備艇の船首が、ナミル=レイから外れていく。
「行け!」
カイラが叫んだ。
煙越しでも、波越しでも、はっきり聞こえた。
「でも!」
「振り返るんじゃない!」
ルカは舵を握ったまま、すぐには前を向けなかった。
「カイラも!」
「あたしが中まで行ってどうする!」
黒い煙の切れ間から、カイラの姿が見えた。
片手で舵輪を握り、もう片方の手を大きく振る。ルカたちを、前へ追い払うように。
「ここから先は、あんたらの海だ!」
その言葉が、ルカの胸の奥を強く打った。
これまでなら、分からない時も、危険な時も、カイラがいた。最後には何とかしてくれる大人がいて、自分たちはその背中の後ろへ戻ることができた。
けれど、これから向かう場所は違う。
名前を読むのはルカだ。
海の深いところへ届くのはエルンだ。
何を選び、どこへ進むのかを決めるのも、もう二人だった。
「行きな、航海士」
カイラが言った。
ルカは息を呑んだ。
名拾いではない。
航海士。
「船は、あたしが沈めさせない」
軍艦の信号灯が再び赤く光る。
別の警備艇が《ネームレス・ガル》へ向かった。
カイラはもう、ルカを見ていなかった。自分の仕事へ戻り、次に来る船へ舵を向けている。
ルカは唇を噛み、前を向いた。
「エルン」
「うん」
「行くよ」
「うん」
最後の名札へ触れる。
名が還ろうとしている向き。その先には、灰色の軍港がある。
「ナミル=レイ」
名灯が強く光った。
「行こう」
白い小船が、封鎖線を抜けた。
*
後ろでは、まだ青黒い煙が広がっていた。
《ネームレス・ガル》と錨記庁の警備艇、大型艦。その姿はもう遠く、煙と波の向こうで輪郭を失い始めている。
砲撃戦にはなっていない。
カイラは相手を沈めるために残ったわけではない。追ってくる船を引きつけ、封鎖線を乱し、動けなくなった民間船があれば逃がす。
道を閉じさせない。
彼女がしているのは、それだけだった。
「ルカ」
「うん?」
エルンは前方の軍港を見たまま訊いた。
「カイラ、来ない?」
「来ないと思う」
「どうして?」
「言ったでしょ」
ルカは一度だけ後ろを振り返った。
黒い煙の中に、珊瑚赤の縫い跡が入った帆が一瞬だけ見えた。それはすぐに別の煙へ隠れた。
「ここから先は、私たちの海だって」
エルンはしばらく考えた。
「僕も?」
「当たり前でしょ」
「ルカだけ航海士って呼ばれた」
「そこ気にする?」
「ちょっと」
ルカは思わず笑った。
「じゃあエルンは……海底係」
「嫌」
「即答?」
「もっと格好いいの」
「今そんな場合じゃないって」
それでも、ほんの少しだけ怖さが薄れた。
ルカは前を見る。
オルダ=アンカリスは、もう遠くから眺めるだけの都市ではなかった。
固定桟橋。高い測量塔。鋼鉄の岸壁。そして海面から立ち上がる、巨大な錨塔。その一つ一つが、船が進むたび輪郭を増していく。
都市が近づいているのではない。
自分たちから、そこへ向かっている。
ナミル=レイは封鎖線を越えた。もうカイラが進む道を決めてくれる場所にはいない。
潮も、星も、正しい航路を教えてはくれない。昨日まで頼ってきた海の答えは、いまや進むことそのものを止めようとしている。
それでもルカの手には舵があり、隣にはエルンがいる。帆柱では、まだどこかへ還ろうとする名札が風に鳴っていた。
誰かに用意された正しい道でなくても、進むことはできる。
潮はそれを黙って見送るように、白い船腹へ細かな波を返していた。
ルカは舵を握り直した。
今の二人には、それで十分だった。




