第二節 ― 名を航路にする
道がないなら、何を頼りに船を進めるのか。
その答えになるかもしれないものは、ずっとナミル=レイに吊られていた。
「……これ」
ルカは帆柱を見上げた。
風に鳴る、小さな名札たち。木、貝、薄い金属。色も形も違う札が何本もの細い紐で吊られ、船が揺れるたび、かすかな音を重ねている。
どれも海から拾ったものだった。持ち主へ返せた札は、もうここにはない。帰る場所を確かめるまで預かっているもの。名前の一部しか残っていないもの。文字は読めても誰のものか分からないもの。文字そのものが潮に削られ、響きだけが残ったもの。
それらは、ナミル=レイが《名拾いの船》と呼ばれる理由の一つでもあった。
「名札?」
エルンが訊いた。
「うん」
「道になる?」
「まだ分かんない」
「さっき、あるかもって言った」
「あるかも、だからね」
「分かってない?」
「今から分かる予定」
エルンが、最近覚えたばかりの疑い深い顔をした。
「その顔やめて」
「どの顔?」
「絶対うまくいかないと思ってる顔」
「ちょっとだけ」
「正直すぎるなあ」
ルカは帆柱へ近づいた。ナミル=レイは相変わらず、海に定められた一本の航路を進んでいる。潮鏡に映る線は一つ。星潮羅針盤も同じ方角を指し、船霊は少しでもそこから外れれば、過去の航跡へ戻ろうとする。
今まで航海に使ってきたものは、ほとんど信用できない。
それなら、使わなければいい。
「潮を読めないなら」
ルカは一番低いところに吊るされた札へ指を伸ばした。
「潮じゃないものを読む」
「名?」
「それなら、まだ読める」
触れたのは薄い木札だった。長く海を流れたのか、縁は丸く削れ、刻まれた文字も半分ほど消えている。
残っているのは、――リ。あるいは、――イ。
それだけだった。
名前として読むには足りない。誰の名なのかも分からない。それでも、名前そのものが完全に失われたわけではなかった。
ルカは目を閉じる。
いつものように文字を読むのではなく、札に残った、潮へ触れた名の気配へ指先を沈めていく。
「……あ」
小さく声が漏れた。
「何?」
エルンが横から覗き込む。
「引っ張る」
「名札が?」
「うん」
「どこへ?」
ルカは目を閉じたまま、右手を上げた。船首より、わずかに東。
「向こう」
「何がある?」
「分かんない」
「島?」
「分かんない」
「人?」
「それも分かんない」
エルンが首を傾げる。
「何が分かったの」
「向き」
ルカは目を開いた。
木札はただ風に揺れている。それなのに、触れた瞬間、確かに感じた。
この名前は、どこかへ還ろうとしている。
場所は読めない。港の名も島の名も、持ち主の顔も分からない。それでも、水へ流された名が本来どちらへ行こうとしていたのか、その向きだけがかすかに残っている。
「もう一個」
今度は別の貝札へ触れた。白い表面に三文字ほど刻まれているが、ルカの知らない地方の書式だった。
「……こっち」
さっきより北寄り。
「違う?」
エルンが訊く。
「うん」
「じゃあ道にならない」
「待って」
三枚目は細い金属札。縁には赤茶色の錆が浮いていた。
「こっちは……南寄り」
「ばらばら」
「うん」
「もっと駄目」
「ちょっと黙ってて」
「はい」
エルンが素直に口を閉じる。
ルカは次々と名札へ触れていった。一枚、二枚、三枚。五枚。十枚。
還ろうとしている方向は、どれも違った。似た方角を示すものもあれば、正反対へ引かれるものもある。何も感じられない札もあり、逆に指先が持っていかれそうなほど強く引くものもあった。ほとんど眠ったままの名もある。
一つとして、同じではない。
「……うーん」
ルカは腕を組んだ。
エルンは黙っている。
「言っていいよ」
「ばらばら」
「そうなんだよね」
「道にならない」
「それもそう」
「失敗?」
「まだ」
ルカは帆柱を見上げながら考えた。
一枚だけなら、その名が還ろうとしている先へ向かえばいい。けれど、自分たちが行きたいのは、その札の持ち主のところではない。
オルダ=アンカリス。
七錨の中枢がある場所。
たまたまそこへ還ろうとしている名札が、ナミル=レイに吊られているとは限らない。
「オルダ=アンカリスの名札があればいい?」
エルンが訊いた。
「そういう名札が都合よくあったら楽なんだけど」
「探す?」
「今の海で?」
「うん」
「見つかる前に全部止まりそう」
それに、何かが違う気がした。
ルカは最初の木札をもう一度手に取る。
名が還ろうとしている。
それは本当に、地図上の一点へ戻ろうとしているという意味なのだろうか。
ミラ=セレイで知ったことがある。
帰るとは、同じ場所へ戻ることだけではない。
名前にも、たぶん同じことがある。
「場所じゃないのかも」
ルカが呟いた。
「何が?」
「還る先」
「場所じゃない?」
「うん」
札を胸元へ近づける。
「この子が行きたいのは、島とか港じゃなくて」
誰か。
祈り。
家族。
記憶。
あるいは、まだその名を呼び続けている何か。
「自分が届くべきところ」
エルンはしばらく考えた。
「同じじゃない?」
「地図では違う」
ルカは答えた。
地図なら、海上の一点を示す。緯度、潮位、星、島、港。
けれど、名が還る先はそこにないこともある。持ち主が移動しているかもしれない。家が失われているかもしれない。その名を呼んでいた人が、もう別の土地へいるかもしれない。
それでも名は、何かを目指して流れる。
「地図の場所を読もうとするから駄目なんだ」
ルカが言った。
「じゃあ?」
「名が行こうとしてる方を見る」
「それだけ?」
「それだけ」
言いながら、ルカ自身、本当にそれでいいのかは分からなかった。
でも、試すしかない。
*
赤い牙貝が鳴ったのは、その少しあとだった。
『聞こえるかい』
ざらついた潮音の向こうから、カイラの声が届く。
「カイラ!」
『大声出さなくても聞こえてるよ』
「今どこです?」
『あんたらの西。見えないか』
ルカは水平線を見渡した。しばらく探すと、岩礁の陰から黒い帆の先端が覗いている。
「いた」
『こっちも大して自由に動けない。航路から外そうとすると船霊が怒る』
「ネームレス・ガルも?」
『ああ。こんなに素直な船だった覚えはないんだけどね』
背後から船員の声が飛ぶ。
『船長! また戻されます!』
『分かってる! 舵を離すんじゃないよ!』
カイラの声が少し遠ざかり、すぐに戻ってくる。
『で、オルダへ行くんだろ』
「なんで分かるんですか」
『他に行く場所あるのかい』
「ないです」
『なら、道を考えな』
「今考えてるところです」
『遅いね』
「海が道使わせてくれないんですよ!」
『だから別の道を使う』
ルカは黙った。
「……カイラも同じこと言うんだ」
『何が』
「なんでもないです」
『こっちはしばらく並走する。面白いもの見つけたら呼びな』
「面白いものじゃなくても助けてください」
『内容による』
「大人ですよね?」
『海賊だよ』
通信が切れた。
「ほら」
エルンが言う。
「何が?」
「道がなければ作るって言った」
「やっぱり言うと思った」
「ルカも同じことする?」
「今からする」
多分。
*
ナミル=レイの甲板へ、ルカは二十三枚の名札を並べた。
全部ではない。何も反応しない札は外し、逆に一方向へ強く引きすぎるものも除いた。
「どうして?」
エルンが訊く。
「強すぎると引っ張られるから」
「名に?」
「読む私が」
名はただの情報ではない。誰かが呼び、誰かが持ち、誰かが失ったものだ。深く読みすぎれば、その人の未練や願い、痛みまでルカの中へ流れ込んでくる。
航海のために、勝手にそこまで覗くわけにはいかない。
「見るのは方向だけ」
ルカは、自分にも言い聞かせるように言った。
「誰かまでは読まない」
「名前も?」
「読めても、今はいらない」
「もったいない」
「そういう問題じゃない」
名札を円形に置き、その中心へ潮鏡を据える。ただし、潮鏡そのものを航路を見るためには使わない。
今そこに映っている一本の線は、七錨に固定された海が示す答えだ。使うのは鏡面だけ。名札がどちらへ引かれるのか、それを見比べるための水面として利用する。
「エルン、こっち持って」
「これ?」
「うん」
二人で細い紐を張り、名札一枚ごとに、還ろうとする方向へ伸ばしていく。
東。
北東。
南。
西。
北。
すぐに甲板は、見事なくらい滅茶苦茶になった。
「やっぱり道じゃない」
エルンが言う。
「分かってる」
「絡まった」
「それも分かってる」
「僕の足も」
「動かないで!」
ルカは一本ずつ紐を見る。
二十三の向き。どれも違う。
けれど、本当にすべて無関係なのだろうか。
「……違う」
小さく呟く。
「何?」
「この札」
一枚を取る。
東へ向いている。
隣の札は北東、その隣は北。それぞれ別の場所を目指しているように見える。
それでも、指先へ残る感覚には違いがあった。
「遠さが違う」
「分かるの?」
「場所の距離じゃない」
ルカは札へ指を置いた。
「還ろうとする強さ」
すぐそこへ届きそうな名。
まだ何度も潮を渡らなければならない名。
どこへ向かうべきか迷っている名。
方向だけでなく、そこにはわずかな濃淡がある。
「これを……」
ルカは紐を解いた。
「一本ずつ道にしちゃ駄目なんだ」
「どうする?」
「重ねる」
二十三の向きすべてを、一つの目的地へ向かう矢印として使うのではない。
見るべきなのは、名が今この海で、どちらへならまだ流れられるのか。
ルカは潮鏡へ手をかざした。
名札そのものではなく、名札と海の間。そこへ触れている潮へ意識を広げていく。
一つは東へ。
一つは北へ。
一つは南西へ。
ばらばらだ。
それでも全部、止まってはいない。
七錨は名の還流まで固定しようとしている。それなのに、名前の中に残っている、還ろうとする意思。流れようとする残響。
それだけはまだ、海の固定へ抗っている。
「……見える」
ルカが呟いた。
「何が?」
「隙間」
七錨によって決められた航路。その間に、船の通れない空白がある。
潮鏡には映らない。星潮羅針盤も示さない。
けれど名だけは、そこを細く抜けようとしていた。
「道じゃない」
ルカは目を開いた。
「まだ」
エルンが近づく。
「じゃあ何?」
「道になる前の流れ」
ルカは少し笑った。
「名前だけが知ってる」
*
最初の試みは、三分も保たなかった。
「右!」
ルカが叫ぶ。
ナミル=レイが右へ向く。
すぐに、
「やっぱ左!」
「どっち!」
「待って、違う札が引っ張った!」
「船は待てない!」
「分かってる!」
船首が揺れ、固定航路から外れかける。そこへ海から押し戻す力が掛かった。
「また戻る!」
「ナミル=レイ、もうちょっと!」
船霊の名灯が弱々しく明滅し、右へ、左へ、また右へと迷った末、最後には元の航路へ戻される。
「……駄目だった」
ルカが舵輪へ突っ伏した。
「三分」
エルンが言う。
「数えなくていい」
「最初より長い?」
「最初は出てすらないからね」
二度目は五分。
三度目は七分。
四度目は、また三分。
「戻った」
「言わなくていい」
「記録」
「誰が頼んだの」
「ルカ」
「頼んでない」
「顔に書いてあった」
「最近そういう言い方どこで覚えたの?」
「カイラ」
「でしょうね!」
失敗するたび、少しずつ分かってきた。
一枚の札へ長く触れてはいけない。強い名だけを追えば、その名自身の還り先へ船が寄ってしまう。だからといって、すべての名を同じ強さで読んでも駄目だった。
名ごとに、動き方が違う。
読むべきなのは、名前そのものではない。
「流れ方」
五度目の試みを前に、ルカが呟いた。
「名がどこへ行くかじゃなくて、どんな向きへ、どのくらい、今動こうとしてるか。そこだけ読む」
一つの大きな矢印へまとめる必要もない。
船首の前に、次へ進める一歩だけを作ればいい。
「右、少し」
ナミル=レイが動く。
すぐに固定航路の力が船底へ掛かった。
「まだ」
押し戻される直前、ルカは別の札へ触れる。
「前」
船首がほんの少し、道の外へ出た。
「今、左」
次の札。
「真っ直ぐ」
さらに次。
名から名へ。札から札へ。
ルカは自分でも意識しないうちに、甲板の上を忙しく動き回っていた。
「右」
「前」
「そのまま」
「ちょっと南」
「今!」
エルンが舵を補助し、ナミル=レイが船体を傾ける。
固定航路の外へ、一隻分。
出た。
「……出た」
ルカが息を呑む。
「戻ってない」
エルンも言った。
海は今も、ナミル=レイを正しい航路へ戻そうとしている。けれど、その力と、別の名が還ろうとする流れが、ほんの一瞬だけ互いを打ち消していた。
「次!」
ルカはすぐ別の札へ指を置く。
「こっち!」
船が進む。
一本の航路から外へ、さらにもう一歩。
「動いてる」
「うん」
「道ないのに」
「うん!」
ルカは笑った。
「名があるから!」
*
十分。
二十分。
今度は戻されなかった。
もちろん真っ直ぐには進めない。名札が示す隙間を渡るため、ナミル=レイの航跡はひどく不格好だった。
右へ行き、左へ戻り、ときには少し逆行してから、また前へ進む。地図に線を引けば、酔った人間が歩いた跡のように見えるだろう。
それでも進んでいる。
七錨が作った正しい航路から、確実に外へ。
「ルカ」
「何?」
「オルダの方向と違う」
ルカは一瞬黙った。
「……うん」
「大丈夫?」
「多分」
「また多分」
「仕方ないでしょ」
今使っている名札は、オルダ=アンカリスへ向かっているわけではない。それぞれが、それぞれの還る先へ向かっている。
だから全体として見れば、当然遠回りする。ときには目的地とは逆方向へ進むことだってある。
「でも」
ルカは次の名札へ触れた。
「地図の最短距離は、今は使えない」
「うん」
「なら、行けるところを繋ぐ」
東へ還る名。
北へ還る名。
南へ還る名。
目的地はすべて違う。
けれど、一つの名が海の固定へ逆らって動ける場所から、次の名が動ける場所へ渡していくことはできる。
「島伝いみたい」
エルンが言った。
「そう」
「島ないけど」
「名前伝い」
「変」
「新しいからね」
口にしてから、ルカは少しだけ驚いた。
新しい。
今日が終わらなくなった海で、今、自分は昨日にはなかったことをしている。
「……いいかも」
「何が?」
「ううん」
ルカは笑った。
*
夕方、《ネームレス・ガル》が追いついた。
正確には、追いつこうとして何度も固定航路へ引き戻され、ようやく近くの航路まで寄ってきたのだ。
『あんたら、何だいその航跡!』
赤い牙貝からカイラの声が飛ぶ。
「航海してます!」
『酔っ払いでももっと真っ直ぐ歩くよ!』
「今はこれが一番真っ直ぐなんです!」
『どこが!』
ルカは後ろを見た。
確かに、ナミル=レイの白い航跡はぐねぐねと蛇行し、我ながらひどい。
「……見た目はちょっと」
『ちょっとじゃないね』
「でも固定航路から出てます!」
向こうが黙った。
『何した』
声が変わる。
ルカは説明した。
潮鏡でも星でもなく、帆柱へ吊るした漂着名札を使う。一つ一つの名が、まだ還ろうとしている向きを読み、その流れを順番に繋ぐ。
『つまり』
カイラが言う。
『名札を羅針盤にしてる?』
「羅針盤とはちょっと違う」
『じゃあ海図』
「それも違う」
『面倒だね。何なんだい』
ルカは答えようとして、言葉に詰まった。
まだ、名前をつけていない。
「……名の」
一度考える。
「還る道を読む航法?」
『長い』
「今考えたんだから仕方ないでしょ!」
赤い牙貝の向こうで、船員の誰かが何か言った。声までは聞き取れない。
カイラが笑う。
『《還名航法》でいいだろ』
ルカは瞬きをした。
「還名航法」
『還ろうとしてる名を使うんだろ』
「うん」
『なら、それでいい』
あまりにも簡単に決められてしまった。
「そんな決め方でいいのかな」
『名前なんて、最初はそんなもんさ』
ルカは少し笑った。
「じゃあ」
帆柱を見上げる。
「《還名航法》」
名札が風に鳴った。
から、と小さな音。
誰かの返事のようだった。
『で』
カイラの声が続く。
『あたしらも通れるのかい、その道』
「無理」
『即答か』
「私が読めるのはナミル=レイの上からだけ。そっちの船へ同時に指示できない」
『なら自分で行くしかないね』
「ごめんなさい」
『謝るな』
カイラは、ごく普通のことのように言った。
『先に行きな』
「でも」
『あたしらには、あたしらのやり方がある』
少し間を置いてから、続ける。
『軍港沖で追いつく』
「本当に?」
『誰に言ってる』
「海賊に」
『分かってるなら信じな』
通信が切れた。
ルカは遠くの黒い帆を見る。少しずつ、互いの航路が離れていく。
「カイラ、来れる?」
エルンが訊いた。
「来るって言ったから」
「方法は?」
「多分、無茶する」
「それなら来る」
「納得しないで」
*
夜になり、星が出た。
それでも星潮羅針盤は昨日と同じ方角を示していた。
ルカはもう見なかった。潮鏡も閉じた。
頼るのは、甲板へ並べた名札と、自分の指だけだった。
一枚へ触れる。
浅く読む。
方向だけを確かめ、離す。
次の一枚へ。
また次へ。
やっていることだけなら単純だったが、ひどく疲れた。名を深く読む時ほど一枚ごとの負担は大きくない。その代わり、船が動き続ける限り、読み続けなければならない。
「ルカ」
エルンが言った。
「顔白い」
「星明かりだから」
「違う」
「……ちょっと疲れた」
「休む?」
「休んだら道なくなる」
ナミル=レイは今、海図にない隙間を走っている。ルカが読むのをやめれば、すぐ登録航路へ押し戻されるだろう。
「僕が読む?」
「無理」
「どうして」
「エルンが読むと深すぎる」
彼なら名札一枚から、持ち主、その下に沈んだ記憶、名が失われた経緯まで拾ってしまう。
今必要なのはそこではない。
表面に残っている、還ろうとする向きだけでいい。
「それに」
ルカは少し間を置いた。
「これは私がやりたい」
「どうして?」
問われると、すぐには答えられなかった。
なぜ、これまで自分は海から名前を拾ってきたのだろう。
漂着した名。
混ざった名。
誰かへ侵食した名。
帰れなくなった名。
見つけて、読み、持ち主を探す。
それが名拾いだと思っていた。
けれど今、自分がしていることは少し違う。
名前を拾っているのではない。
名が自分から進もうとしている方向を読んでいる。
「この子たち」
ルカは一枚の名札を、そっと指で撫でた。
「ずっと道を持ってたんだね」
「名札が?」
「うん」
「書いてない」
「文字じゃないから」
今までは、名札とは帰してやるものだと思っていた。
自分が拾い、自分が読み、自分が持ち主を見つけ、それで返す。
でも、もしかすると違う。
「私が連れて帰るんじゃないのかも」
「誰が?」
「名が」
ルカは夜の海を見た。
「自分で還ろうとしてる」
その途中で迷い、止まり、沈み、ときには誰かに拾われる。
名札へ触れた指先から、かすかな揺れが潮へ溶けていく。
海はまだ、その名を手放していなかった。
「私は、その道を見つけるだけなのかも」
エルンがルカを見る。
「航海士?」
言われて、ルカは目を瞬かせた。
「……まだ」
すぐに答える。
「違う?」
「分かんない」
名拾い。
そう名乗ることには、もう慣れている。
けれど、航海士。
その言葉は、まだ自分には少し大きく感じた。
「今日やってるだけだし」
「じゃあ明日もやったら?」
「二日じゃ決まらないでしょ」
「何日?」
「そういう問題かな」
エルンはよく分からない顔で海を見る。
「でも」
「うん?」
「ルカが読まないと進めない」
ナミル=レイも、名札も、今の海も。
「今は」
ルカは答えた。
「今はね」
まだ完成していない。
名の行き先を正確に読めるわけではないし、通ってきた全航路も、この先どこへ繋がるかも分からない。
ただ次に、どちらへ流れようとしているのか。
その小さな向きを何十も繋いでいるだけだ。
それでも船は進む。
「……次、右」
ルカが言った。
エルンが舵を補助する。
「どのくらい?」
「少し」
「少しって?」
「船半分」
「分からない」
「じゃあ三呼吸」
「最初からそう言って」
一。
二。
三。
「戻して」
ナミル=レイが進む。
名から、次の名へ。
そしてまた、その次へ。
*
朝焼けが海を白く染め始めた頃、水平線に黒い線が見えた。
最初は雲だと思った。けれど、その黒い影は動かない。
やがて一本、二本と塔の形が現れた。遠くても、それが海から真っ直ぐ立ち上がる巨大な構造物だと分かる。
さらに、その周囲には灰色の防波構文。軍用灯台。そして整然と並ぶ艦影。
ルカは目を細めた。
「……見えた」
エルンも船首へ来る。
「何?」
「オルダ=アンカリス」
目的地。
七錨軍港都市。
錨記庁の本拠。
ヴァルカ=ドレインがいて、七錨静潮機の中枢がある場所。
地図上の最短航路では来ていない。潮鏡の示した道でも、星潮羅針盤の道でもなかった。
名札を一枚ずつ読み、それぞれが還ろうとする方向だけを繋いで、ここまで辿り着いた。
「着いた?」
エルンが訊いた。
「まだ」
ルカは笑った。
「見えただけ」
「でも来れた」
「うん」
そこだけは、少し胸を張りたかった。
ルカは甲板へ並んだ名札を見る。
「ありがとう」
誰にともなく言った。
持ち主も知らない。帰る場所も知らない。それでも、一つ一つの名前が自分から還ろうとしていたから、道になった。
名札が風に鳴る。
ルカは最後の一枚から指を離した。長く読み続けた指先は、じん、と痺れていた。
「《還名航法》」
もう一度、その名を口にしてみる。
まだ不格好だ。遠回りもする。読む者が疲れれば終わるし、一度見つけた道を、もう一度まったく同じように辿れる保証もない。
完成した航法には程遠い。
それでも、潮が止まっても、星が昨日を指しても、海図から道が消えても、名前はどこかへ行こうとしている。
なら、その向きを繋げばいい。
ルカは船首へ立ち、朝靄の向こうに浮かぶオルダ=アンカリスを見つめた。
まだ遠い。
けれど、もう行けない場所ではない。
そして、その事実に安堵するより先に、エルンが低い声を出した。
「ルカ」
「うん」
「あれ」
ルカにも見えていた。
オルダ=アンカリスの手前、その海面をいくつもの灰色の影が横切っている。
一隻ではない。
軍港へ入る海路を塞ぐように、錨記庁の艦隊がゆっくりと展開を始めていた。
見つけたばかりの道の先へ、今度は人の手で壁が築かれていく。
ルカは小さく息を吐いた。
「道を見つけたと思ったら、今度は塞がれてる」
朝風を受け、ナミル=レイの帆が大きく鳴った。
「どうする?」
エルンが訊いた。
ルカは遠い海を見た。
まだ黒い帆は見えない。
けれど、来ると言った。
あの女海賊なら、きっと本当に来る。
だからルカは、軍港の前へ広がっていく灰色の艦隊を見つめながら、ほんの少しだけ笑った。
「ここからは、海賊の得意な道だと思う」




