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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第4話 止まった潮は、提督の名で凍った
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第九節 ― 水面から呼び、底から返す

 ネームレス・ガルが、止まった潮へ牙を立てた。


 船首の白い牙飾りが赤く光り、海面に引かれていた黒銀の線へ食い込む。鎖の形をした構文は、金属のようには砕けなかった。だが、そこには確かに抵抗が生まれた。


 ぎり、と。


 海のどこかで、硬いものが軋む。


 カイラ=マレイスは船首に立ち、片手で帆柱の縄を掴みながら、もう片方の手で鉤縄を振った。


「左の標識具を潰せ! 鎖の根っこは海面じゃない、浮標の下だ!」


「合点!」


「名札船に当てるんじゃないよ! あれを傷つけたら、助け賃に修理代を上乗せする!」


 船員たちが笑いながら応える。


 けれど、その動きは一切ふざけていなかった。


 黒い霧の中へ、鉤縄が何本も飛ぶ。錨除けの潮札を貼った刃が、静潮標の外周に浮かぶ小さな黒銀の浮標を狙う。浮標は海面の上に並んでいるだけに見えたが、その下には細い物理鎖が沈んでいた。静潮標本体を固定し、名の流れを止めるための基礎具だ。


 ひとつの鉤が浮標に絡む。


「引け!」


 船員たちが縄を引いた。


 浮標が水面から持ち上がる。


 その下から、海藻ではなく黒い鎖が現れた。貝も藻も付着していない、不自然に清潔な鎖だった。潮に濡れているのに、海の匂いがしない。


 カイラが顔をしかめる。


「気に入らないね。海に入ってて、海に馴染まない鎖ってのは」


 彼女は鉤縄を足で押さえ、腰の短剣を抜いた。


 その瞬間、オルヴァ=グレイヴの艦側面が開いた。


 砲門が並ぶ。


 大砲ではない。


 砲身は黒銀で、先端に錨を逆さにしたような紋が刻まれている。砲口には火薬の匂いがなく、代わりに冷たい潮の気配が渦巻いていた。


 静潮砲。


 ルカは、それが撃たれる前に名灯の火が縮むのを感じた。


「カイラさん!」


 叫ぶのと、砲が鳴るのはほとんど同時だった。


 音は低かった。


 どん、という破裂ではない。


 海の呼吸が、一瞬だけ止められる音。


 ネームレス・ガルの前方にあった波が、その形のまま固まった。


 白い波頭が空中へ跳ねた姿で止まり、泡が泡のまま動かなくなる。水ではなく、透明な壁になったようだった。ネームレス・ガルの進路が塞がれる。


 船首がその壁へ突っ込む。


 衝撃で船体が大きく傾いた。


 船員のひとりが甲板を転がり、別の者が帆柱にしがみつく。カイラだけは足を踏ん張り、むしろ楽しそうに歯を見せた。


「いい砲だ」


 彼女は舌打ち混じりに笑う。


「だが、波を止めた程度で海賊が止まると思うなよ!」


 カイラが赤い鉤縄を振る。


 ネームレス・ガルの船首の牙飾りがさらに強く光った。船は真正面から進むのをやめ、固まった波の縁を噛むように斜めへ滑る。船員たちは左右から鉤を打ち、止められた波を足場にして浮標へ飛び移った。


 静潮砲が再び唸る。


 ネームレス・ガルの進路を奪うため、次々と波が凍る。だが、海賊船は止まった波を障害物ではなく足場に変えていく。


 カイラは本当に、錨を断つつもりだった。


 ならば。


 ルカは、ナミル=レイの舳先へ立った。


 こちらの仕事をしなければならない。


 錨を断つのはカイラ。


 潮を戻すのは、自分たち。


 黒銀の静潮標を中心に、止まった名札たちはまだ波間に貼りついている。名札からは保存された声が漏れ続けていた。船歌、鐘、呼び名、祈り。すべてが同じ場所で繰り返されている。


 読めば、分かるかもしれない。


 誰の名札か。

 どんな祈りだったか。

 どこへ還るべきだったか。


 ルカの指は、反射的に名灯を握りしめていた。


 けれど、彼女は自分を止めた。


 読んではいけない。


 かつて、カイラに言われた言葉が胸の中で響いた。


 その子が許してない名を、読むんじゃない。


 名を読むことが、いつも救いとは限らない。

 読めば助かると、誰が決めたのか。


 今、海面に止められている名札たちも同じだ。


 中身を覗く必要はない。


 その名が誰のものなのかを暴く必要もない。


 必要なのは、流れるための水面を作ること。


 ルカは名灯を両手で持ち、ナミル=レイの船縁から海面へかざした。


 名灯の真珠色の光が、細い線になって水面へ落ちる。


 黒銀の静潮に触れた瞬間、光は弾かれそうになった。まるで、冷たい硝子へ火を押し当てたように、ちりちりと音を立てる。


 ルカは目を閉じなかった。


 読まない。


 けれど、呼ぶ。


「帰ってきて、とは言いません」


 声は、最初、風に飲まれそうだった。


 ルカは息を吸い直す。


 ミリカの父の船歌が聞こえる。

 浜の人々の泣き声が聞こえる。

 エルンの苦しい呼吸が聞こえる。

 静潮砲の低い唸りが聞こえる。


 そのすべての中で、ルカはもう一度言った。


「戻ってきなさい、とも言いません」


 名灯の光が、水面に薄い輪を作る。


 それは、静潮標の黒銀の円とは違っていた。黒銀の円は名を囲い、固定する。ルカの光は、囲わない。輪郭を押しつけるのではなく、そこに水面があることを思い出させるように、柔らかく広がる。


「ただ、あなたを待っている声が、まだ海の上にあります」


 名札のひとつが、かすかに揺れた。


 ほんの少し。


 流れたのではない。

 まだ、動けてはいない。


 けれど、繰り返されていた声の調子が、わずかに変わった。


 同じ船歌の同じ一節に、かすかな息継ぎが混じったように聞こえた。


 ルカの胸が熱くなる。


 できる。


 完全ではなくても、呼びかけは届いている。


 その時、エルンが船底に手を当てた。


 膝をついたまま、彼は甲板に片手を置く。船底越しに、さらに下の名を聞こうとしていた。


「無理しないで」


 ルカが言うと、エルンは首を振った。


「僕は、読むんじゃない」


 彼の声は苦しげだったが、先ほどより少しだけ芯が戻っていた。


「下から、返す」


 エルンの指先が、甲板の木目をなぞる。


 ナミル=レイの船霊が、それに応えるように小さく鳴った。船底から真珠色の光が走り、エルンの手の下で淡く渦を巻く。


 エルンは目を伏せた。


「下は、まだ沈んでない」


 彼の声が、低くなる。


 まるで、船底のさらに下、静潮標に押さえられた名札の影へ直接話しているようだった。


「止められてるだけ」


 黒銀の鎖が、彼の声に反応した。


 錨名鎖が再びエルンの胸元へ伸びる。ルカは名灯をかざしたまま、片手でエルンの肩に触れた。


 船に乗せた人を、測らせない。


 ナミル=レイの名灯が、細く強く光る。


 黒い鎖は揺れ、行き先を一瞬見失う。


 エルンは唇を噛みながら続けた。


「上へ行っていい」


 声が震えている。


「流れていい」


 名札が、またひとつ震えた。


 今度は、複数。


 黒銀の円の中で、止められていた札たちが、ほんのわずかに向きを変える。潮の流れはない。風だけなら、ここまで揃って動くはずがない。


 名が、自分の向かう先を思い出そうとしている。


 オルヴァ=グレイヴの甲板で、測名官が叫んだ。


「固定名流に乱れ!」


「静潮標、第三補助浮標を再接続!」


「ネームレス・ガルが外周鎖を破壊中!」


 カイラの笑い声が響く。


「遅い!」


 ネームレス・ガルの船員が、凍った波の上から飛び、補助浮標へ鉤を打ち込む。別の船員が、浮標の下に沈む物理鎖へ斧を振るった。斧の刃には潮札が巻かれている。黒銀の鎖は一撃で切れない。だが、二撃、三撃と重ねるたび、静潮標の光がわずかに揺らぐ。


 静潮砲が三度目の音を立てた。


 今度はネームレス・ガルの真正面ではない。左右の波を同時に止め、船を囲うように透明な壁を作る。


 カイラが短銃を撃つ。


 弾丸は波の壁に弾かれた。


 だが、弾そのものが目的ではなかった。弾に結ばれていた細い赤紐が波の壁へ張りつき、次の瞬間、紐につながれた牙貝片がいっせいに鳴った。


 ごり、ごり、ごり、と。


 赤い音が、止まった波の内側を噛み砕く。


 波の壁に亀裂が入る。


「錨はあたしが断つと言ったろ!」


 カイラは甲板から身を乗り出し、ルカへ叫んだ。


「名拾い、迷うな! 読まなくていい、流せ!」


 その声が、ルカの背を押した。


 読まなくていい。


 流す。


 ルカは名灯を高く掲げた。


 光が、止まった名札たちの上へ降る。


「あなたを待つ声があるなら、そこへ向かってください」


 ルカは言った。


「もう待つ人がいないなら、海へ還ってください」


 ミリカの父の船歌が、また揺れる。


 ルカは、その名札を読まない。


 父の名を確かめない。


 ミリカが海へ預けたものを、勝手に覗かない。


 ただ、声が閉じ込められたままにならないように、水面を作る。


「誰にも呼ばれたくない名なら、沈んでいい」


 その言葉に、エルンが顔を上げた。


 ルカは続ける。


「でも、沈む場所は、錨が決めるんじゃない。あなた自身が選んでいい」


 エルンの瞳が、わずかに揺れた。


 それは、彼自身にも向けられた言葉だった。


 黒箱漂着体。

 沈名反応、強。

 読名不能。

 回収優先。


 錨記庁が与えた項目ではない。


 エルンは、エルンだ。


 全部の名をまだ持っていなくても。


 底に置いてきた名があっても。


 どこへ沈むか、誰に呼ばれるか、誰と船に乗るかを、彼自身が選んでいい。


 ルカはエルンを見た。


「エルン」


「うん」


「私が水面から呼ぶ」


 エルンは、苦しそうに、それでも確かに頷いた。


 ルカは言葉を続けた。


「あなたは、底から返して」


 その一瞬、ナミル=レイの上で、外の音が遠くなった。


 静潮砲の唸りも。

 カイラの怒号も。

 オルヴァ=グレイヴの記録官の声も。

 浜の泣き声も。


 すべてが遠のき、ルカとエルンの間に、小さな潮だまりのような静けさが生まれる。


 エルンは船底に手を置き直した。


 その手は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「……うん」


 彼は言った。


「沈ませない」


 その言葉が、船底へ落ちた。


 ナミル=レイの船体が、深く鳴る。


 船の内側にあった真珠色の流れが、船底から外の海へ滲み出した。黒銀の静潮に触れた途端、じゅ、と音がした。押し戻される。だが、消えない。


 ルカの名灯の光が、水面を作る。


 エルンの声が、底から名を押し返す。


 ふたつの力が、止まった名札の下で出会う。


 黒銀の円が乱れた。


 名札が、ひとつ震えた。


 次に、ふたつ。


 三つ。


 十。


 止まっていた名札たちが、いっせいに細かく震え始めた。


 保存された声が、途切れる。


 同じ場所で繰り返されていた船歌に、初めて次の息が入った。


 沈んだ鐘の音が、同じ一打を繰り返すのをやめ、長い余韻を海の底へ返そうとする。


 母が息子を呼ぶ声が、三度目の呼び名のあとに、かすかな沈黙を取り戻す。


 沈黙。


 それは、終わりではなかった。


 次へ行くための間だった。


 ルカの目に涙が滲んだ。


 声が息をしている。


 まだ完全ではない。

 まだ流れ出したわけではない。


 けれど、止まった声が、息を思い出している。


 オルヴァ=グレイヴの潮位記録塔が警告の光を放った。


「固定崩壊率、上昇!」


「静潮標、名流保持限界に接近!」


「黒箱漂着体から逆流反応!」


「船主ルカ=ネリスの名灯反応、拡大!」


 ヴァルカ=ドレインは、動かなかった。


 ただ、ルカとエルンを見ていた。


 測るように。

 そして、記憶するように。


 黒銀の静潮標が、不穏に鳴る。


 カイラの船が、外周の物理鎖をもう一本断つ。


 止まっていた海面に、ほんのわずかな波紋が生まれた。


 それは小さな波だった。


 だが、確かに流れていた。

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