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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第4話 止まった潮は、提督の名で凍った
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第八節 ― 赤い牙貝

 錨名鎖は、音もなくナミル=レイへ絡みついた。


 縄が軋む音はしない。鉄が船腹を打つ音もない。けれど、ルカには分かった。見えない黒い鎖が、船の名を、船体を、船に乗る者の呼び名の輪郭を、ひとつずつ確かめながら締めている。


 帆が風を受けなくなった。


 正確には、風は吹いていた。帆布は膨らんでいる。潮の匂いも、霧の湿り気も、頬を撫でる冷たさもある。


 それなのに、ナミル=レイは進まない。


 船首が波を切る音が止まった。


 星潮羅針盤が、船室で一度だけ甲高く鳴った。

 ちりん、ではない。

 針が折れかけたような、細い悲鳴だった。


 ルカは振り返る。


 羅針盤の針は、器の中で震えながら、とうとう止まった。どの方角も指していない。下でもない。北でもない。港でもない。ただ、黒銀の静潮標へ向かう線の上で、針そのものが息を止めている。


 潮鏡は黒く沈んでいた。


 鏡面に映っていた黒い縦線は、もう線ではなく、穴になっている。星も空も海も映さない。覗けば、そのまま底のない箱の中へ引き込まれそうな黒だった。


 名灯の火が、細くなる。


 真珠色に灯っていた光が、鎖に押さえ込まれるように縮み、芯だけになった。消えてはいない。だが、今にも息を引き取るような小さな火だった。


 ナミル=レイが苦しんでいる。


 ルカはそう思った。


 船に感情があるなどと、陸の人間なら笑うかもしれない。けれど、名札船に乗る者は知っている。船はただの木と釘ではない。潮を渡り、名を運び、祈りを預かるうちに、船は少しずつ自分の呼び名を持つ。


 その呼び名が、今、鎖で締められている。


「ルカ……」


 エルンの声が、腕の中でかすれた。


 彼は立っていられなかった。ルカが支えていなければ、甲板へ倒れていただろう。胸元の割れた貝殻は黒く光り、彼の呼吸に合わせるどころか、逆に呼吸を奪うように震えていた。


 黒い鎖の一本が、エルンの胸元へ伸びる。


 ナミル=レイの掟が押し返している。船籍札から伸びる真珠色の流れが、黒い鎖の行く手を何度も逸らしている。


 しかし、鎖は諦めない。


 エルンを測ろうとしている。

 名前ではなく、名前が沈んでいる深さを。

 彼が何者かではなく、どこへ回収すべきものかを。


 ルカはエルンを抱きしめた。


「エルン、聞いて。ここにいるよ」


「うん」


「ナミル=レイにいる。箱じゃない。底じゃない」


「……うん」


 返事はある。


 けれど、弱い。


 エルンの瞳の奥が、少しずつ遠くなる。今ここを見ているのに、同時に、どこか暗い水底へ引かれているようだった。


 ルカの胸元で、赤い牙貝が重く揺れた。


 前にカイラ=マレイスが投げて寄こしたものだ。


 一度だけ鳴らせ。

 本当に沈みそうな時だけだ。


 ルカは、手を伸ばしかけた。


 そして、止めた。


 鳴らせば、カイラを巻き込む。


 イシュラ=マレの海賊船長。名を売らない海賊。確かに彼女なら、錨記庁に怯えず駆けつけるかもしれない。けれど、それはカイラの船も、船員たちも、錨記庁の静潮試験に巻き込むということだ。


 それだけではない。


 助け賃は高いよ。


 カイラの笑い声が思い出される。


 ルカは、こんな状況なのに、少しだけ悔しくなった。


 また助けられるのか。


 あのときは、エルンの力がなければ沈んだ名を返せなかった。

 べつのときは、カイラの掟がなければ読まないことで守る意味を知らなかった。

 そして今、ナミル=レイの掟を立てたばかりなのに、その船を守るためにまた誰かを呼ぶのか。


 名拾いとして。

 船主として。

 エルンの相棒候補として。


 自分たちだけで何とかしたい。


 その思いは、意地だった。


 けれど、意地だけでは鎖は切れない。


 黒い錨名鎖が、さらに強まった。


 船首の名札飾りが、ぱき、と音を立てた。一本の古い貝紐が切れ、名札が甲板へ落ちる。ルカははっとした。


 ナミル=レイの名が、削られている。


 船体の外側ではなく、船が何を運ぶ船なのかという輪郭を、鎖が少しずつ固定し、奪い、錨記庁の記録へ引き込もうとしている。


 オルヴァ=グレイヴの甲板から、測名官の声が届いた。


「錨名鎖、対象船籍へ固定開始。黒箱漂着体との接続反応、再上昇」


 ヴァルカの声が続く。


「損傷させるな。船を沈める必要はない。船籍を固定し、対象だけを分離する」


 対象だけを分離する。


 その言葉で、ルカの迷いは切れた。


 エルンを、対象と呼ばせたくない。


 船から分離させたくない。


 この船に乗せた人を測らせないと、自分で決めたばかりではないか。


 守る力が足りないなら、助けを呼ぶ。


 それも、船の掟だ。


 ひとりで沈ませない。


 ルカは赤い牙貝を握った。


 貝殻は、思っていたより熱かった。


 珊瑚赤の表面に、牙のような白い筋が走っている。普通の法螺貝よりずっと小さい。子どもの手にも収まるほどだ。けれど、握った瞬間、掌の中で獣の心臓のように一度だけ脈打った。


 エルンが、かすかに目を開ける。


「それ……」


「カイラさんを呼ぶ」


「巻き込む?」


「うん」


 ルカは正直に言った。


「でも、沈ませない」


 エルンは、ほんの少し笑ったように見えた。


「助け賃、高いね」


「あとで働こう」


「船員候補として?」


「相棒候補として」


 その言葉を聞いて、エルンの指が少しだけルカの袖を握り返した。


 ルカは赤い牙貝を唇へ当てた。


 吹くものだと思った。


 だが、違った。


 息を入れた瞬間、貝殻は音を出さなかった。代わりに、貝殻の内側で何かが目覚める。潮が牙の隙間へ流れ込み、噛み砕かれ、低く唸る。


 ごり、と。


 海の底で、巨大な獣が貝殻を噛むような音。


 それは笛ではなかった。


 呼び声でもない。


 牙が潮を噛み砕く音だった。


 赤い響きが、霧の中へ走る。


 黒銀の静潮標が、その音を止めようと光を放つ。だが、赤い響きは名ではなかった。祈りでもない。測定される前に、潮の裏側を噛み破って進む。


 オルヴァ=グレイヴの記録官たちがざわめいた。


「未登録潮鳴反応!」


「海賊式の牙貝信号です!」


「発信先、不明。霧中へ逸れます!」


 ヴァルカが、初めて視線を霧の方へ移した。


 その横顔に、わずかな警戒が走る。


 赤い牙貝の響きに、霧の向こうで何かが応えた。


 最初は、帆の鳴る音だった。


 ばさり、と湿った霧を裂く音。


 次に、木材が波を踏む音。


 それから、笑い声のような潮騒。


 黒銀の円の外側、霧の厚い場所で、赤い灯がひとつ瞬いた。


 灯台の光ではない。


 牙灯。


 海賊の灯。


 霧が割れた。


 そこから現れたのは、潮牙帆船ネームレス・ガルだった。


 ナミル=レイとはまるで違う船影。


 帆は深い赤と黒。破れを継いだ跡があるのに、みすぼらしくはない。むしろ、その継ぎ目ひとつひとつが過去の航海の傷跡のようだった。船首には牙を模した白い飾りがあり、海面を噛み裂くように突き出している。舷側には名札とも骨飾りともつかない小さな札が揺れ、霧を浴びながらも、一枚も静潮に捕まっていない。


 船は、止まった海を進んでいた。


 いや、進んでいるというより、止まった潮の表面を噛み砕いて道を作っているようだった。


 船首に立つ女がいた。


 カイラ=マレイス。


 銅赤の髪を潮風に乱し、肩に帆布の外套を引っかけ、片手に鉤縄、もう片手に短銃を持っている。琥珀にも海緑にも見える瞳が、オルヴァ=グレイヴとナミル=レイを一瞬で見比べた。


 そして、笑った。


「鳴らすのが早いね、名拾い!」


 声が霧を裂いて届く。


 ルカはエルンを支えながら叫び返した。


「本当に沈みそうだったので!」


「なら、まけといてやる」


 カイラは口角を上げた。


「少しだけね」


 その言葉に、ネームレス・ガルの船員たちが笑った。


 だが、笑いながらも動きは速い。


 船員たちは帆を絞り、鉤縄を投げ、錨避けの潮札を船縁へ打ち込んでいく。甲板の上には子どもをからかうような余裕があるのに、戦う時の手は一切迷わない。


 カイラは、すぐに状況を読んだ。


 静潮標。

 オルヴァ=グレイヴ。

 ナミル=レイを縛る錨名鎖。

 エルンへ伸びる黒い線。

 そして、ルカの胸元で微かに白く光る空白札。


 彼女の笑みが、少しだけ消えた。


「ああ、なるほどね」


 カイラは低く言った。


「錨の連中、とうとう子どもまで鎖で測る気か」


 オルヴァ=グレイヴ側から警告音が鳴る。


「未登録海賊船、進路を止めよ」


 潮声管が冷たく命じた。


「本海域は錨記庁静潮試験中である。干渉は法により――」


「うるさい」


 カイラが短銃を上げた。


 発砲音は一発。


 弾はオルヴァ=グレイヴへ向かったのではない。静潮標の近くで黒く光っていた補助浮標を撃ち抜いた。


 浮標が破裂し、黒銀の火花が散る。


 錨名鎖の一本が大きく揺れた。


 ナミル=レイの船体が、わずかに自由を取り戻す。


 カイラは鉤縄を肩に回しながら叫んだ。


「錨はあたしが断つ!」


 その声は、冗談でも虚勢でもなかった。


 海賊船長としての命令だった。


 ネームレス・ガルの船員たちが一斉に応える。


「潮牙、錨噛み!」


「霧帆、左へ!」


「名札船を巻き込むな!」


「坊主の線を切り分けろ、船籍じゃなく鎖を狙え!」


 ルカは息を呑んだ。


 カイラの船員たちは、ただ乱暴に攻撃しているのではなかった。ナミル=レイを傷つけず、エルンに触れず、錨名鎖だけを狙っている。名を売らない海賊。読まないことで守る者たち。


 彼らは、名を直接覗かないまま、鎖だけを斬ろうとしている。


 カイラがナミル=レイへ視線を戻した。


「でも、潮を戻すのは、あんたらの仕事だ」


 ルカは、返事を忘れた。


 カイラは続ける。


「あたしは錨を噛む。道を開ける。けど、止められた名をどこへ流すかまでは決めない。そこは名拾いと、底から来た坊主の領分だろ」


 エルンが、苦しそうに顔を上げた。


 カイラは彼を見た。


 値踏みではない。


 売れる情報を見る目でもない。


 船に乗せた子どもがまだ沈んでいないか確かめる、大人の目だった。


「坊主、生きてるか」


「……たぶん」


「たぶんでいい。沈むな。沈んだら助け賃が倍だ」


「高い」


「生還割引はあるよ」


 エルンは、ほんの少しだけ息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


 ルカは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 助けを呼んだことは、負けではなかった。


 船に掟があるなら、呼べる名もある。

 助けを求める相手を選ぶことも、船主の判断だ。


 ナミル=レイの名灯が、再び少しだけ太くなった。


 黒い鎖はまだ残っている。

 静潮標も止まっていない。

 オルヴァ=グレイヴは、なお巨大だ。


 だが、霧の中から現れたネームレス・ガルが、止まった潮に牙を立てていた。


 カイラは外套を翻し、船首から黒銀の標を睨む。


「さあて、錨記庁」


 彼女は笑った。


「海賊の海で、錨を下ろした代金は高いよ」


 その言葉と同時に、ネームレス・ガルの牙飾りが赤く光った。


 止められた潮の上で、初めて、別の波が立つ。


 ルカはエルンを支えながら、黒銀の静潮標を見た。


 カイラが錨を断つ。


 なら、自分たちは潮を戻す。


 水面から呼ぶ。

 底から返す。


 その原型が、ルカの中でまだ言葉にならないまま、確かな形を取り始めていた。

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