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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
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第五節 ― 潮議会の広場

 潮議会の広場は、港の中央にはなかった。


 イシュラ=マレの水路をいくつも渡り、赤い珊瑚灯の下をくぐり、古い船体を半分沈めて作られた倉庫街を抜けた先に、それはあった。


 王宮でもない。

 役所でもない。

 神殿でもない。


 そこは、古い船の甲板を何枚もつなぎ合わせた、海の上の広場だった。


 大船の甲板、小型船の船尾板、壊れた軍船の床材、商船の荷積み台、沈没船から引き上げられた黒ずんだ板。それらを太い鎖と縄で結び、岩礁の間に浮かべてある。歩くたび、足元がわずかに軋み、波に合わせて広場全体が呼吸するように揺れた。


 広場の周囲には、背の高い杭が立っている。

 その杭には、旗ではなく、帆の切れ端が結ばれていた。


 赤帆。黒帆。灰帆。穴だらけの帆。焼け焦げた帆。白く塩を吹いた帆。どれも船の名を直接示してはいない。けれど、それぞれの船長と船団だけが分かる印なのだろう。帆の下には、海賊たちが集まっていた。


 ルカは、思わず息を呑んだ。


 潮牙亭の中も騒がしかったが、ここはもっと重い。


 酒場の荒さとは違う。

 ここには、港の意思があった。


 海賊船長たちは、いかにも荒くれという者ばかりではなかった。片腕の老女、真珠色の髭を編んだ大男、顔を銀布で覆った細身の人物、片目だけに青い硝子をはめた若い船長、礼服の上から革の胸当てをつけた商船崩れの男。彼らはばらばらの見た目をしているのに、視線だけは同じように鋭かった。


 ルカとエルンが入ると、その視線が一斉に向いた。


 名拾いの少女。

 海底から来たような少年。

 カイラ=マレイスに連れられた、見慣れぬ二人。


 値踏みされている。


 ルカは背筋を伸ばした。


 エルンは、ルカの斜め後ろに立っている。潮牙亭を出てから、彼の顔色はさらに悪くなっていた。イシュラ=マレの港全体に浮く無数の呼び名が、彼には水音の重なりとして聞こえているらしい。


 それでも、彼は歩いていた。


 胸元の割れた貝殻を押さえ、足元の甲板を時々見ながら。


「沈む?」


 ルカが小声で尋ねると、エルンは首を横に振った。


「沈まない。でも、床の下が鳴ってる」


「床の下?」


「あとで」


 エルンは短く答えた。


 その声には、まだ言葉にできないものを聞いている時の硬さがあった。


 カイラは、広場の中央へ進んだ。


 潮牙亭では酒杯を持ち、賭け札を操っていた女船長が、ここでは別の顔をしている。片足を椅子に乗せることもない。笑いもしない。肩の古い帆布の外套を風に揺らしながら、広場の中央に立つ。


「潮議会を開け」


 その一言で、周囲の空気が変わった。


 真珠髭の大男が鼻を鳴らす。


「昼間から騒がしいな、カイラ。酒場の喧嘩を議会に持ち込む気か」


「酒場の喧嘩なら、相手の歯を折って終わらせてる」


 カイラは言った。


「これは、港の掟に針を刺された話だ」


 片腕の老女が、ゆっくり顔を上げた。


「名かい」


 短い問いだった。


 それだけで、広場にいた者たちが沈黙する。


 カイラは頷いた。


「偽の潮名証が出回ってる。少なくとも一人、潮牙亭で倒れた。子どもだ。呼び名への反応が遅れ、首に下げた証は黒く濁っていた」


 ざわめきが起きた。


 怒りではない。

 最初に広がったのは、恐れだった。


 ルカはそれを感じ取った。


 この港で、名を売ることは禁忌のはずだ。ならば、皆が即座に怒ると思っていた。カイラのように、名売りを許さないと立ち上がるのだと。


 けれど、実際には違った。


 海賊たちは互いに顔を見合わせた。

 声を落とした。

 周囲の水路を見た。

 まるで、この広場のどこかにも見えない耳があると恐れているように。


「偽の証だと、なぜ分かる」


 銀布で顔を覆った人物が言った。声からすると男とも女ともつかない。


 カイラは、ルカを顎で示した。


「名拾いが読んだ。いや、読めなかった。名がないんじゃない。どこかへ引かれてる。こっちの坊主は、もっとはっきり聞いた」


 視線がエルンに集中した。


 エルンの肩が少しだけ揺れる。


 ルカは、無意識に一歩前へ出た。


 カイラがそれを横目で見たが、止めはしなかった。


「海底ではありません」


 ルカは言った。


 声が少し硬い。


「第……いえ、ナラ=オルテで見た沈名の錨とは違います。あれは海底へ縫いつけるものでした。でも、今回の潮名証は、生きている子の呼び名の糸を、港のどこかへ引いています」


 片目に青硝子をはめた若い船長が眉を寄せる。


「生きてる奴の名を?」


「はい」


 ルカは頷いた。


「完全に奪っているわけではありません。呼ばれた時に反応する名の端だけを、少しずつ抜き取っているように見えます」


「売れる形にしてるってことか」


 真珠髭の大男が低く言った。


 その声には、ようやく怒りが滲んでいた。


 だが、別の老海賊がすぐに口を挟んだ。


「待て。潮名証を買った連中にも事情があるだろう。後ろ暗いものを抱えてるから安物に手を出した。そいつらを庇えば、港ごと錨記庁に睨まれる」


 カイラの目が細くなった。


「今、何て言った」


「現実の話をしてるんだ」


 老海賊は引かなかった。


「錨記庁が絡んでいるなら、港全体が危ない。名売りを探すより、偽の証を持った連中を港から出した方が早い。証を捨てさせて、霧の外へ逃がせ。それで済むなら済ませるべきだ」


「済む?」


 カイラの声が低くなる。


「子どもの名が抜かれてる。どこかの箱に沈められてる。それを見て、港から出せば済むって?」


「港が沈めば、もっと多く死ぬ」


 老海賊の言葉は冷たかった。


 けれど、ただの臆病ではなかった。

 彼もまた、港を守ろうとしている。


 ルカはそれに気づき、胸が重くなった。


 イシュラ=マレは、理想の港ではない。


 名を売らぬ掟がある。

 本名を聞かない宿がある。

 漂流者を見捨てない者たちがいる。


 でも、恐れもある。

 自分たちの港を守るために、目をそらしたくなる者もいる。

 錨記庁という名だけで、声を小さくする者たちがいる。


 法の外にある港だからこそ、強いのではない。

 法の外にあるからこそ、いつ壊されるか分からないのだ。


 ルカは初めて、その危うさを肌で感じた。


 カイラは老海賊を睨んだまま、笑わなかった。


「港を守るために、名を売られた奴を外へ捨てるのか」


「捨てるとは言っていない」


「同じだ」


「カイラ」


 片腕の老女が割って入った。


「怒るのは分かる。だが、数を確かめなければ動けない。偽の証を持った者は、リオ一人かい」


 その問いに、広場の隅から小さな声がした。


「……一人じゃない」


 皆が振り返る。


 声を上げたのは、痩せた船員だった。髪は潮焼けで白くなり、服の袖は片方だけ裂けている。年齢はまだ若いが、目の下に深い隈がある。


 彼は胸元から、小さな札を出した。


 潮名証。


 縁が黒ずんでいる。


「俺も買った」


 船員は言った。


「船を失って、船籍もなくて、どこも雇ってくれなかった。これがあれば、仮の潮名で荷運びに乗れるって言われた」


 次に、帆の陰から少女が出てきた。


 ルカより少し幼い。髪を頭巾で隠し、手首には陸のものらしい細い鎖跡が残っている。


「私も」


 少女は震える声で言った。


「陸の家から逃げてきた。本名で呼ばれたら連れ戻される。だから、安い証を買った」


 さらに、広場の奥に立っていた中年の男が、苦々しく笑った。


「俺は本名を捨てたかった。昔の名で呼ばれるたびに、昔の罪が追ってくる。新しい潮名が欲しかっただけだ」


 老婆のそばに座っていた失名者らしき人物が、自分の首元を押さえた。


「私は……名を思い出しかけていた」


 声は細い。


「でも、思い出すのが怖くて。証があれば、思い出すまでの名を預けられると言われた」


 最後に、水路側から来た漂名民の女が、抱えた荷を置いた。


「検問を逃れたかった。錨記庁の船が、浮上都市へ渡る水路で名を聞いてくる。答えられない者は止められる。だから、証が必要だった」


 広場が沈黙した。


 一人ではない。


 被害者は複数いる。


 船を失った船員。

 陸から逃げてきた少女。

 本名を捨てたい男。

 名を思い出しかけている失名者。

 検問を逃れたい漂名民。


 共通しているのは、みな、本名を隠したい理由があったことだった。


 ルカは胸の奥が痛んだ。


 彼らは、名を軽く扱ったわけではない。

 生きるために、隠せる名を求めた。


 そこにつけ込まれたのだ。


 カイラは、一人ひとりを見た。


 怒鳴らない。

 責めない。

 ただ、全員の顔と呼び名を覚えるように、目を通していく。


「いつからだ」


 カイラが聞いた。


 最初に答えたのは、船を失った船員だった。


「三日前」


「私は四日前」


 頭巾の少女が言う。


「俺は五日前だ」


 中年の男が苦い顔をした。


 片腕の老女が低く呟く。


「数日前から、港の中で静かに売っていたわけか」


「誰が売った」


 カイラが問う。


 被害者たちは、それぞれ口ごもった。


 顔を見た者は少ない。

 水路の下。

 倉庫街の影。

 黒い箱。

 安い証。

 声は柔らかく、手は白かった。

 潮名預かり人の印を見せられた者もいる。


 だが、誰も確かな本名を知らない。


 ここでも本名は出てこない。


 イシュラ=マレでは、本名を聞かない。

 その掟が、守りであると同時に、犯人の隠れ蓑にもなっていた。


「証を集める」


 カイラが言った。


「偽の潮名証を持ってる奴は、全部出せ。隠したいなら、顔を隠して出せ。呼び名も言わなくていい。だが、証だけは出せ」


「それをどうする」


 青硝子の若船長が問う。


「辿る」


「誰が」


 カイラはルカとエルンを見た。


「この二人が」


 再び視線が集まった。


 ルカは思わず息を詰めた。


 自分たちは、まだこの港に来たばかりだ。

 カイラに完全に信用されているとも思えない。

 潮議会の船長たちからすれば、霧の外から来た子どもにすぎない。


 案の定、真珠髭の大男が唸った。


「名拾いの小娘と、得体の知れない坊主に港の名を触らせるのか」


「港の名には触らせない」


 カイラは即答した。


「偽の証だけだ。被害者の本名は読ませない。潮牙亭でも同じ約束をしている」


 老海賊が苦い顔をする。


「それで足りるのか」


「足りないなら、足りない分はあたしが殴って吐かせる」


「雑だな」


「海賊に上品な捜査を求めるな」


 広場の空気が、少しだけ動いた。


 だが、まだ全員が納得したわけではない。


 顔を銀布で覆った船長が静かに言った。


「錨記庁が絡んでいるなら、正面から当たるのは危険だ。証を売った者を探すより、被害者を港から出した方が早いという意見にも一理ある」


「一理で子どもの名を見捨てるのかい」


 カイラが返す。


「見捨てるのではない。港を守る」


「港ってのは、何でできてる」


 カイラの声が鋭くなった。


「岩礁か? 桟橋か? 霧か? 違うね。ここへ逃げてきた奴らだ。呼ばれたくない名を抱えて、それでも明日の呼び名を探してる連中だ。そいつらの名が売られてるのに、港を守るためだって黙るなら、守る港なんざ最初からない」


 広場が静まり返った。


 ルカは、カイラの背中を見つめた。


 乱暴で、金にうるさくて、子ども相手にも遠慮がない。


 でも、この人は線を引く。


 名を隠すことは許す。

 名を捨てたい痛みも、呼ばれたくない過去も、逃げたい理由も、そのまま置いておく。


 けれど、名を売ることだけは許さない。


 ルカは、その違いをようやく少し理解した気がした。


 その時、エルンが突然、足元を見た。


「エルン?」


 ルカが声をかける。


 エルンは、広場の中央から少し離れた場所に立っていた。古い船板をつなげた床の上に膝をつき、片手を板へ当てている。


 カイラが気づく。


「坊主」


「下じゃない」


 エルンは言った。


 声が低い。

 でも、はっきりしていた。


「港の中を、流れてる」


 ルカは彼のそばに膝をついた。


「何が?」


「名前の糸」


 エルンは目を閉じた。


「証が、同じ場所に繋がってる」


 広場の被害者たちが、はっと息を呑んだ。


 ルカは、リオの潮名証を思い出す。


 誰かの箱の中に沈められている。

 海ではない。

 港のどこか。


「どこか分かる?」


 ルカが尋ねると、エルンは首を傾けた。


「まだ、絡んでる。呼び名が多すぎる。偽の証の糸だけ、集めないと分からない」


 カイラはすぐに動いた。


「聞いたな。証を出せ」


 誰も、もう反論しなかった。


 ひとり、またひとりと、偽の潮名証が広場の中央へ置かれていく。布に包まれたもの。紐ごと外されたもの。震える手で差し出されたもの。投げるように置かれたもの。


 どれも、縁が黒く濁っていた。


 ルカはそれを見て、胸の奥に冷たい怒りが沈むのを感じた。


 こんなにも多い。


 これだけの人が、名を隠したいという弱さや痛みにつけ込まれた。


 カイラは腕を組み、証が集まるのを見ていた。


「潮議会として決める」


 片腕の老女が言った。


「偽造潮名証を売った者を探す。被害者を責めない。本名を問わない。証は集め、糸を辿る。ただし、錨記庁が表へ出た場合は、港全体の対応に切り替える」


 老海賊は渋い顔のまま黙っていたが、反対はしなかった。


 銀布の船長も頷く。


「本名を問わない。それは守るべきだ」


「名売りは吊るす」


 真珠髭の大男が低く言った。


「陸の屑としてな」


 その言葉に、広場のあちこちから同意の声が上がった。


 ルカは、集められた潮名証の前に立った。


 小皿の上ではない。

 広場の中央に置かれた黒く濁った札の群れ。


 それらは名を守る形をしていながら、名を抜く針を隠している。


 エルンが隣に立つ。


「聞こえる?」


 ルカが尋ねると、彼は頷いた。


「さっきより、はっきり」


「どこへ?」


「港の下じゃない。海の底でもない」


 エルンは、広場の奥、水路が暗く沈む方角を見た。


「水路の中を、横に流れてる」


 カイラがその視線を追う。


「下層水路か」


 広場の船長たちの顔色が変わった。


 カイラは舌打ちした。


「面倒な場所に店を出したもんだね」


 ルカは黒い潮名証を見下ろした。


 証の内側に仕込まれた微細な錨の印。

 名を守るふりをして、呼び名の糸を抜く仕掛け。

 その糸が、港の下層水路へ向かって流れている。


 事件は、ようやく形を持ち始めた。


 そして同時に、ルカは知った。


 イシュラ=マレは名を売らぬ港だ。

 けれど、その港の中にも、名を売る者が潜む余地はある。


 掟があることと、掟が破られないことは違う。


 だから、掟を守る者が必要なのだ。


 カイラ=マレイスは、黒く濁った証の群れを見下ろし、低く言った。


「名を抜く墨の匂いがする」


 ルカは顔を上げた。


「名を抜く墨?」


「潮名を書くための墨を、ねじ曲げたやつだ」


 カイラの声は冷たい。


「次は、それを嗅ぐ。売り手の手は、必ず墨で汚れてる」

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