第五節 ― 潮議会の広場
潮議会の広場は、港の中央にはなかった。
イシュラ=マレの水路をいくつも渡り、赤い珊瑚灯の下をくぐり、古い船体を半分沈めて作られた倉庫街を抜けた先に、それはあった。
王宮でもない。
役所でもない。
神殿でもない。
そこは、古い船の甲板を何枚もつなぎ合わせた、海の上の広場だった。
大船の甲板、小型船の船尾板、壊れた軍船の床材、商船の荷積み台、沈没船から引き上げられた黒ずんだ板。それらを太い鎖と縄で結び、岩礁の間に浮かべてある。歩くたび、足元がわずかに軋み、波に合わせて広場全体が呼吸するように揺れた。
広場の周囲には、背の高い杭が立っている。
その杭には、旗ではなく、帆の切れ端が結ばれていた。
赤帆。黒帆。灰帆。穴だらけの帆。焼け焦げた帆。白く塩を吹いた帆。どれも船の名を直接示してはいない。けれど、それぞれの船長と船団だけが分かる印なのだろう。帆の下には、海賊たちが集まっていた。
ルカは、思わず息を呑んだ。
潮牙亭の中も騒がしかったが、ここはもっと重い。
酒場の荒さとは違う。
ここには、港の意思があった。
海賊船長たちは、いかにも荒くれという者ばかりではなかった。片腕の老女、真珠色の髭を編んだ大男、顔を銀布で覆った細身の人物、片目だけに青い硝子をはめた若い船長、礼服の上から革の胸当てをつけた商船崩れの男。彼らはばらばらの見た目をしているのに、視線だけは同じように鋭かった。
ルカとエルンが入ると、その視線が一斉に向いた。
名拾いの少女。
海底から来たような少年。
カイラ=マレイスに連れられた、見慣れぬ二人。
値踏みされている。
ルカは背筋を伸ばした。
エルンは、ルカの斜め後ろに立っている。潮牙亭を出てから、彼の顔色はさらに悪くなっていた。イシュラ=マレの港全体に浮く無数の呼び名が、彼には水音の重なりとして聞こえているらしい。
それでも、彼は歩いていた。
胸元の割れた貝殻を押さえ、足元の甲板を時々見ながら。
「沈む?」
ルカが小声で尋ねると、エルンは首を横に振った。
「沈まない。でも、床の下が鳴ってる」
「床の下?」
「あとで」
エルンは短く答えた。
その声には、まだ言葉にできないものを聞いている時の硬さがあった。
カイラは、広場の中央へ進んだ。
潮牙亭では酒杯を持ち、賭け札を操っていた女船長が、ここでは別の顔をしている。片足を椅子に乗せることもない。笑いもしない。肩の古い帆布の外套を風に揺らしながら、広場の中央に立つ。
「潮議会を開け」
その一言で、周囲の空気が変わった。
真珠髭の大男が鼻を鳴らす。
「昼間から騒がしいな、カイラ。酒場の喧嘩を議会に持ち込む気か」
「酒場の喧嘩なら、相手の歯を折って終わらせてる」
カイラは言った。
「これは、港の掟に針を刺された話だ」
片腕の老女が、ゆっくり顔を上げた。
「名かい」
短い問いだった。
それだけで、広場にいた者たちが沈黙する。
カイラは頷いた。
「偽の潮名証が出回ってる。少なくとも一人、潮牙亭で倒れた。子どもだ。呼び名への反応が遅れ、首に下げた証は黒く濁っていた」
ざわめきが起きた。
怒りではない。
最初に広がったのは、恐れだった。
ルカはそれを感じ取った。
この港で、名を売ることは禁忌のはずだ。ならば、皆が即座に怒ると思っていた。カイラのように、名売りを許さないと立ち上がるのだと。
けれど、実際には違った。
海賊たちは互いに顔を見合わせた。
声を落とした。
周囲の水路を見た。
まるで、この広場のどこかにも見えない耳があると恐れているように。
「偽の証だと、なぜ分かる」
銀布で顔を覆った人物が言った。声からすると男とも女ともつかない。
カイラは、ルカを顎で示した。
「名拾いが読んだ。いや、読めなかった。名がないんじゃない。どこかへ引かれてる。こっちの坊主は、もっとはっきり聞いた」
視線がエルンに集中した。
エルンの肩が少しだけ揺れる。
ルカは、無意識に一歩前へ出た。
カイラがそれを横目で見たが、止めはしなかった。
「海底ではありません」
ルカは言った。
声が少し硬い。
「第……いえ、ナラ=オルテで見た沈名の錨とは違います。あれは海底へ縫いつけるものでした。でも、今回の潮名証は、生きている子の呼び名の糸を、港のどこかへ引いています」
片目に青硝子をはめた若い船長が眉を寄せる。
「生きてる奴の名を?」
「はい」
ルカは頷いた。
「完全に奪っているわけではありません。呼ばれた時に反応する名の端だけを、少しずつ抜き取っているように見えます」
「売れる形にしてるってことか」
真珠髭の大男が低く言った。
その声には、ようやく怒りが滲んでいた。
だが、別の老海賊がすぐに口を挟んだ。
「待て。潮名証を買った連中にも事情があるだろう。後ろ暗いものを抱えてるから安物に手を出した。そいつらを庇えば、港ごと錨記庁に睨まれる」
カイラの目が細くなった。
「今、何て言った」
「現実の話をしてるんだ」
老海賊は引かなかった。
「錨記庁が絡んでいるなら、港全体が危ない。名売りを探すより、偽の証を持った連中を港から出した方が早い。証を捨てさせて、霧の外へ逃がせ。それで済むなら済ませるべきだ」
「済む?」
カイラの声が低くなる。
「子どもの名が抜かれてる。どこかの箱に沈められてる。それを見て、港から出せば済むって?」
「港が沈めば、もっと多く死ぬ」
老海賊の言葉は冷たかった。
けれど、ただの臆病ではなかった。
彼もまた、港を守ろうとしている。
ルカはそれに気づき、胸が重くなった。
イシュラ=マレは、理想の港ではない。
名を売らぬ掟がある。
本名を聞かない宿がある。
漂流者を見捨てない者たちがいる。
でも、恐れもある。
自分たちの港を守るために、目をそらしたくなる者もいる。
錨記庁という名だけで、声を小さくする者たちがいる。
法の外にある港だからこそ、強いのではない。
法の外にあるからこそ、いつ壊されるか分からないのだ。
ルカは初めて、その危うさを肌で感じた。
カイラは老海賊を睨んだまま、笑わなかった。
「港を守るために、名を売られた奴を外へ捨てるのか」
「捨てるとは言っていない」
「同じだ」
「カイラ」
片腕の老女が割って入った。
「怒るのは分かる。だが、数を確かめなければ動けない。偽の証を持った者は、リオ一人かい」
その問いに、広場の隅から小さな声がした。
「……一人じゃない」
皆が振り返る。
声を上げたのは、痩せた船員だった。髪は潮焼けで白くなり、服の袖は片方だけ裂けている。年齢はまだ若いが、目の下に深い隈がある。
彼は胸元から、小さな札を出した。
潮名証。
縁が黒ずんでいる。
「俺も買った」
船員は言った。
「船を失って、船籍もなくて、どこも雇ってくれなかった。これがあれば、仮の潮名で荷運びに乗れるって言われた」
次に、帆の陰から少女が出てきた。
ルカより少し幼い。髪を頭巾で隠し、手首には陸のものらしい細い鎖跡が残っている。
「私も」
少女は震える声で言った。
「陸の家から逃げてきた。本名で呼ばれたら連れ戻される。だから、安い証を買った」
さらに、広場の奥に立っていた中年の男が、苦々しく笑った。
「俺は本名を捨てたかった。昔の名で呼ばれるたびに、昔の罪が追ってくる。新しい潮名が欲しかっただけだ」
老婆のそばに座っていた失名者らしき人物が、自分の首元を押さえた。
「私は……名を思い出しかけていた」
声は細い。
「でも、思い出すのが怖くて。証があれば、思い出すまでの名を預けられると言われた」
最後に、水路側から来た漂名民の女が、抱えた荷を置いた。
「検問を逃れたかった。錨記庁の船が、浮上都市へ渡る水路で名を聞いてくる。答えられない者は止められる。だから、証が必要だった」
広場が沈黙した。
一人ではない。
被害者は複数いる。
船を失った船員。
陸から逃げてきた少女。
本名を捨てたい男。
名を思い出しかけている失名者。
検問を逃れたい漂名民。
共通しているのは、みな、本名を隠したい理由があったことだった。
ルカは胸の奥が痛んだ。
彼らは、名を軽く扱ったわけではない。
生きるために、隠せる名を求めた。
そこにつけ込まれたのだ。
カイラは、一人ひとりを見た。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、全員の顔と呼び名を覚えるように、目を通していく。
「いつからだ」
カイラが聞いた。
最初に答えたのは、船を失った船員だった。
「三日前」
「私は四日前」
頭巾の少女が言う。
「俺は五日前だ」
中年の男が苦い顔をした。
片腕の老女が低く呟く。
「数日前から、港の中で静かに売っていたわけか」
「誰が売った」
カイラが問う。
被害者たちは、それぞれ口ごもった。
顔を見た者は少ない。
水路の下。
倉庫街の影。
黒い箱。
安い証。
声は柔らかく、手は白かった。
潮名預かり人の印を見せられた者もいる。
だが、誰も確かな本名を知らない。
ここでも本名は出てこない。
イシュラ=マレでは、本名を聞かない。
その掟が、守りであると同時に、犯人の隠れ蓑にもなっていた。
「証を集める」
カイラが言った。
「偽の潮名証を持ってる奴は、全部出せ。隠したいなら、顔を隠して出せ。呼び名も言わなくていい。だが、証だけは出せ」
「それをどうする」
青硝子の若船長が問う。
「辿る」
「誰が」
カイラはルカとエルンを見た。
「この二人が」
再び視線が集まった。
ルカは思わず息を詰めた。
自分たちは、まだこの港に来たばかりだ。
カイラに完全に信用されているとも思えない。
潮議会の船長たちからすれば、霧の外から来た子どもにすぎない。
案の定、真珠髭の大男が唸った。
「名拾いの小娘と、得体の知れない坊主に港の名を触らせるのか」
「港の名には触らせない」
カイラは即答した。
「偽の証だけだ。被害者の本名は読ませない。潮牙亭でも同じ約束をしている」
老海賊が苦い顔をする。
「それで足りるのか」
「足りないなら、足りない分はあたしが殴って吐かせる」
「雑だな」
「海賊に上品な捜査を求めるな」
広場の空気が、少しだけ動いた。
だが、まだ全員が納得したわけではない。
顔を銀布で覆った船長が静かに言った。
「錨記庁が絡んでいるなら、正面から当たるのは危険だ。証を売った者を探すより、被害者を港から出した方が早いという意見にも一理ある」
「一理で子どもの名を見捨てるのかい」
カイラが返す。
「見捨てるのではない。港を守る」
「港ってのは、何でできてる」
カイラの声が鋭くなった。
「岩礁か? 桟橋か? 霧か? 違うね。ここへ逃げてきた奴らだ。呼ばれたくない名を抱えて、それでも明日の呼び名を探してる連中だ。そいつらの名が売られてるのに、港を守るためだって黙るなら、守る港なんざ最初からない」
広場が静まり返った。
ルカは、カイラの背中を見つめた。
乱暴で、金にうるさくて、子ども相手にも遠慮がない。
でも、この人は線を引く。
名を隠すことは許す。
名を捨てたい痛みも、呼ばれたくない過去も、逃げたい理由も、そのまま置いておく。
けれど、名を売ることだけは許さない。
ルカは、その違いをようやく少し理解した気がした。
その時、エルンが突然、足元を見た。
「エルン?」
ルカが声をかける。
エルンは、広場の中央から少し離れた場所に立っていた。古い船板をつなげた床の上に膝をつき、片手を板へ当てている。
カイラが気づく。
「坊主」
「下じゃない」
エルンは言った。
声が低い。
でも、はっきりしていた。
「港の中を、流れてる」
ルカは彼のそばに膝をついた。
「何が?」
「名前の糸」
エルンは目を閉じた。
「証が、同じ場所に繋がってる」
広場の被害者たちが、はっと息を呑んだ。
ルカは、リオの潮名証を思い出す。
誰かの箱の中に沈められている。
海ではない。
港のどこか。
「どこか分かる?」
ルカが尋ねると、エルンは首を傾けた。
「まだ、絡んでる。呼び名が多すぎる。偽の証の糸だけ、集めないと分からない」
カイラはすぐに動いた。
「聞いたな。証を出せ」
誰も、もう反論しなかった。
ひとり、またひとりと、偽の潮名証が広場の中央へ置かれていく。布に包まれたもの。紐ごと外されたもの。震える手で差し出されたもの。投げるように置かれたもの。
どれも、縁が黒く濁っていた。
ルカはそれを見て、胸の奥に冷たい怒りが沈むのを感じた。
こんなにも多い。
これだけの人が、名を隠したいという弱さや痛みにつけ込まれた。
カイラは腕を組み、証が集まるのを見ていた。
「潮議会として決める」
片腕の老女が言った。
「偽造潮名証を売った者を探す。被害者を責めない。本名を問わない。証は集め、糸を辿る。ただし、錨記庁が表へ出た場合は、港全体の対応に切り替える」
老海賊は渋い顔のまま黙っていたが、反対はしなかった。
銀布の船長も頷く。
「本名を問わない。それは守るべきだ」
「名売りは吊るす」
真珠髭の大男が低く言った。
「陸の屑としてな」
その言葉に、広場のあちこちから同意の声が上がった。
ルカは、集められた潮名証の前に立った。
小皿の上ではない。
広場の中央に置かれた黒く濁った札の群れ。
それらは名を守る形をしていながら、名を抜く針を隠している。
エルンが隣に立つ。
「聞こえる?」
ルカが尋ねると、彼は頷いた。
「さっきより、はっきり」
「どこへ?」
「港の下じゃない。海の底でもない」
エルンは、広場の奥、水路が暗く沈む方角を見た。
「水路の中を、横に流れてる」
カイラがその視線を追う。
「下層水路か」
広場の船長たちの顔色が変わった。
カイラは舌打ちした。
「面倒な場所に店を出したもんだね」
ルカは黒い潮名証を見下ろした。
証の内側に仕込まれた微細な錨の印。
名を守るふりをして、呼び名の糸を抜く仕掛け。
その糸が、港の下層水路へ向かって流れている。
事件は、ようやく形を持ち始めた。
そして同時に、ルカは知った。
イシュラ=マレは名を売らぬ港だ。
けれど、その港の中にも、名を売る者が潜む余地はある。
掟があることと、掟が破られないことは違う。
だから、掟を守る者が必要なのだ。
カイラ=マレイスは、黒く濁った証の群れを見下ろし、低く言った。
「名を抜く墨の匂いがする」
ルカは顔を上げた。
「名を抜く墨?」
「潮名を書くための墨を、ねじ曲げたやつだ」
カイラの声は冷たい。
「次は、それを嗅ぐ。売り手の手は、必ず墨で汚れてる」




