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夫の愛人が「奥様の代わりなんて簡単」と言ったので、どうぞお任せします  作者: 九葉(くずは)


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第4話 簡単じゃない

馬車は南へ進み続ける。


景色が変わった。山が低くなり、畑の色が変わった。馬車夫は口数が少ないが、道に迷わない。


二日目の昼、街道沿いの宿で馬を休ませた。食堂で商人の会話が耳に入った。


「——グランフォール領、本当に大変だそうだ」


別の男が、酒を飲みながら応じた。


「やはり? そうなるとは思ったがな」


「侯爵夫人が出て行ったら、診療所がもう回らないそうじゃないか。領民が新しい奥様に苦情を言ってるって」


「えっ?」


「薬草の仕入先が、『ベルモンテ嬢でなければ』と言って、引き継ぎを拒否したらしい。マニュアルは渡されたそうだが」


最初の商人が身を乗り出した。


「供給が止まるってことか」


「そうみたいだ。『たかが薬草だろう』っていう侯爵の一言で、領民の薬が足りなくなるわけだ」


食べていたスープが口の中で止まった。


曲げていたスプーンを、そっと置いた。


音を立てないようにして、フォークを置いた。


ルグラン商会の老ルグランが、取引を拒否した。そんなことは予想できた。あの人は「薬師本人」でなければ売らないと言っていたから。でも、マニュアルには取引方法を書いた。何度も確認した。


あの紙の束があれば、困らないはずだった。


「侯爵領の情報、もっと聞かせてくれ」


別の客が乗ってきた。


「東から来た商人の話らしいが、秋口に季節病が流行りそうって」


「で、対策は」


「対策がない。以前の奥様のシステムが全部、あの人の頭の中にあったらしい」


「はは、そりゃ詰んでるな」


食堂がざわざわしている。他の客たちも聞いている。グランフォール領の話は、商人たちの関心を引いているらしい。


不安が、胸ではなく、どこか別の場所から上ってくる。乾いた薬草の匂いがしているような気がした。幻嗅だ。


新しい奥様が、本当に簡単には行かないってことか。


さらに別の商人が言った。


「それにしても、嫁いだばかりの娘があんなシステムを作ったってのが、信じられないな。十五歳だぞ」


「ベルモンテの血だからな。名門の」


「でも、あくまで女。そこまでやるのは」


聞こえていなくてもいい会話だ。


でも、耳に入った。


十五歳のとき、自分が何をしていたか、もう覚えていない。あの時代は、一日が一年のように長かった。病人で埋め尽くされた診療所。足りない薬草。逃げた医者たち。その全部と闘った八年。


目玉焼きをナイフで切った。黄身が崩れた。


「もう一杯」


別の客が酒を注がせた。


「しかしな、診療所ってのはそういうもんだ。一人の人間に頼りきるのは。だから医学ギルドがある。マニュアルがある」


「でもマニュアルじゃ、その人の判断を完全にはコピーできないってことだろ」


「その通り。所詮は人。取り替え不可能な部分ってのがある」


その言葉が、食堂の中で反響したように感じた。


取り替え不可能。


ルグラン商会との取引。季節ごとの予防計画。処方の判断。全部、八年かかってそこにたどり着いた。新しい奥様にはそれがない。マニュアルがあっても、あの老人ルグランを説得することはできない。あの人は、「人を見る」のだから。


あの領地が困っていることは、知っている。だが、もう私の問題ではない。新しい奥様が解決すればいい。それが引き継ぎだ。


なのに。


胸じゃなくて、別の場所が痛む。診療所で何度も感じた、あの違和感だ。患者の症状を聞いて、処方を決めて、それでも患者が治らないかもしれない、という不確実性。それが来た。


食堂を出た。


宿屋の外は、昼間の陽射しが強い。目を細めた。


誰のせいでもない。私はもう、あの領地の医者ではないのだ。



◇◇◇



その夜、宿の窓からこっそり様子を見ていた。街道沿いの食堂から、さっきの商人グループが出てくるのが見えた。北へ向かっている。グランフォール領へ向かう方向だ。


もう関係ない。


でも、あの領地の秋、患者数が増えるはずだ。季節病が流行るなら。


処方簿を思い出した。八年間で書いた、二百以上の処方箋。「秋に咳が出やすい」「夏場に怪我が増える」「冬は関節痛」。その全部が、人間の体と季節の関係を読んだものだ。


マニュアルには書いた。けれど、マニュアルだけでは——。


やめよう。考えるな。


廊下を歩く。宿の食堂へ向かう。何か食べよう。


その時、グリル料理の匂いがしてきた。魚だ。


「お嬢様、グリルした魚、いかがですか」


給仕が聞いてきた。


「……何ですか、その魚は」


「南部産の小イワシです。今日の朝仕込んだばかり」


八年間、診療所での食事は全部、侍女たちが用意してくれた。栄養面を考えられた食事。薬のような食事。


八年ぶりに、自分で選ぼう。


「その魚をください」


給仕が持ってくるまで、待った。


白い身。焼きの香ばしい匂い。レモンが少し絞ってある。


一口、食べた。


自分で選んだ食べ物。初めてだ。こんなことで涙が出そうになるなんて、と思った。でも、本当に涙が出ていた。


食べた。


もう一口。もう一口。


この食事が、グランフォール領の患者たちのことを忘れるために必要だったのかもしれない。


「美味しいですか」


「ええ。八年ぶりに自分で選んだ食事なので」


給仕が不思議そうな顔をした。そうだろう。誰が聞いても、おかしな話だ。


でも、本当だった。



◇◇◇



朝、地図を確認した。


港町ノーヴァ。あと一日。


最後の宿で、グランフォール領についての話をもう一度聞いた。別の商人から。どこでも同じ話だった。


「あの領地、診療所がもう機能していないらしい」


「誰か医者は」


「いるんだが、その医者が何をしたらいいかわからないって。以前の医者の個人的なノウハウがあったんだろう」


「で、領民は」


「待ってるんだろう。その医者がなんとかしてくれるのを」


新しい奥様も、待っているのだろう。マニュアルを読んで、一生懸命に。でも、マニュアルには書けない部分がある。それを知ったのは、八年後だった。


港町へ向かう馬車の中で、母の薬草図鑑を開いた。


母の手書きの注釈がたくさん入っている。「このイラストは間違い。実際にはもう少し大きい」「南部産と北部産で効能が違う」。母は、この図鑑の知識を自分の経験で補正していた。


本だけでは足りない。本を見ながら、実際の植物に触れて、患者の症状を見て、初めて理解できるものがある。


新しい奥様も、今、そのことに気づいているのかもしれない。


けれど、もう遅い。季節病は待たない。秋は来る。


窓の外は、だんだんと景色が変わっていた。山が低くなり、畑が広がり、遠くに水の匂いがしてきた。もう港町は近い。


馬車が一台、前から近づいてきた。グランフォール領へ向かうのだろう。何か緊急の物資を運ぶのかもしれない。


すれ違う時、「頑張ってください」と言いたくなった。けれど、馬車の中から見えるのは、運転手だけだ。


もう関係ない。


でも、あの領地の秋が思い出される。九月になると、いつも流行病の予兆が見える。葉の色が変わり始めると、患者の症状も変わる。人間の体は季節に同期している。だから八月に予防薬を渡したのだ。一ヶ月早く。


新しい奥様は、そのタイミングを知っているだろうか。マニュアルに書いただろうか。


書いた。「秋の季節病対策:九月上旬までに白薔薇精油の備蓄を通常の二倍に」と。最後のページに。走り書きで。


読んでもらえるといいが。


馬車は進み続けた。


南へ。海へ。


もう、振り返らないと決めた。


たとえ、自分が去った後の話が聞こえてきても。


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