表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫の愛人が「奥様の代わりなんて簡単」と言ったので、どうぞお任せします  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 白薔薇の奥様、お元気で

「私がいなくても大丈夫」


そう思い込もうとしながら、朝の第五診療所の記録簿に目を通す。


患者の名前と処方の履歴。「田中の母——冬場の咳。今年は八月に予防薬を」「小作人の娘——日中の頭痛。水分補給と月見草オイル」。走り書きばかりだ。


けれど、この走り書きがなければ、季節が巡ってくるたびに患者は同じ症状で苦しむことになる。


「カティア様」


若い薬師助手マリアが入ってきた。赤い目をしている。


「最後の発注、いつもの通りルグラン商会で?」


「ええ。今月分をお願いしてきました。来月からは……」


言葉が詰まった。


「——来月からは、奥様の方で」


マリアが眼鏡を外して、目頭を押さえた。このところ、皆そういう顔をしている。


私は診療所の一室を一周した。八年間、毎日ここで手を動かした場所。調合台、乾燥棚、ガラス瓶の列。全部がそのままで、全部が明日からは誰かほかの人のものになる。


「大丈夫ですよ。マリア」


「……本当ですか」


「ええ」


本当か嘘か、もう区別がつかなかった。


「これまで私が教えたやり方で、きちんとこなしてください。患者さんはあなたたちを見ています。大丈夫だと信じていますから」


自分の言葉じゃなくて、誰かから聞いたセリフのようにも思える。八年間、何度も繰り返してきた台詞。



◇◇◇



最後の巡回は午後いっぱい。


第一診療所では看護手のティナが涙ぐんでいた。第二では処方箋の整理方法をもう一度確認された。第三は山道で疲れた。第四では領民の人たちが寄ってきて、何度も「ありがとうございました」と言ってくれた。


「白薔薇の奥様、本当にありがとうございました」


年老いた女が、私の手を握った。


「お祖母さん、まだお体の方は」


「ああ、おかげさまで。あなたのお薬がなかったら、もう五年前に逝ってたと思いますよ」


「そんなことはありませんよ」


けれど、多分本当のことだ。その女の処方箋には「秋冬の関節痛。毎年八月に予防薬」と書いてある。


「これからもお体を大切になさってください。新しい……」


新しい誰かのこと、は言わなかった。


道を戻る途中、別の老女に会った。自分の患者の一人だ。名前はセルジェ。五年前、膝の痛みで診療所に来た。毎月、月見草の根の干したものを処方している。


「白薔薇の奥様! お疲れ様です」


セルジェが私の手首をつかんだ。その手は温かかった。


「セルジェさん、お怪我ですか」


「いいえ、お薬のおかげで。膝も楽になりました」


この女は毎年、秋になると膝が痛むはずだ。冬になるとさらに悪化する。だから八月に予防薬を渡していた。


新しい医者が、そのことを知っているだろうか。記録には書いてある。マニュアルには書いてある。けれど、患者の顔を思い浮かべながら処方する、その部分は——。


「これからも身体を大切にしてくださいね」


「ああ、もう十分です。あなたのお薬があれば。どうぞ、お幸せに、奥様」


セルジェが涙ぐんでいた。


私はもう、答える言葉がなかった。


屋敷に戻ったのは夕方だった。



◇◇◇



侍女長マルタが玄関で待っていた。


八年間、毎朝この人が私を迎えてくれた。白髪の厳しい顔をしていても、この人の手は温かかった。


「お疲れ様です、奥様——いいえ、もう奥様ではありませんね」


「マルタ、今日で本当に最後です」


マルタが何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。その顔が急に崩れた。


「お嬢様……」


「マルタ」


膝をついて、この老女の手を取った。爪が黄色くなっていた。もう七十を超えている。


「お嬢様、どうかお幸せに」


マルタが私の手を握り返した。握力が強い。涙が頬を伝っている。


「この領地で、あなたほど誠実な人を見たことがありません。あなたの後任の奥様も、いつかあなたのようにならなくてはと思いますが——」


「——マルタ」


唇が震えた。これはいけない。泣いてはいけない。


「もう大丈夫です。あなたも、みなさんも」


マルタの目を見ずに、立ち上がった。


「こちらが最後の医療記録の控えです。診療所ごとの患者リスト、季節ごとの用意、それぞれの助手への指導内容。全部マニュアルに書いてありますから」


声が揺れた。


「頑張ってください」


マルタは何も言わなかった。ただ、泣いていた。



◇◇◇



仕事部屋に入ると、封筒が机の上にあった。父の字だ。


『カティアへ


お疲れだったな。八年も、よく頑張った。あの領地で何ができたか、お前自身が一番知っているだろう。


外部からはどう見えるかは知らない。だが、お前の仕事が無駄ではなかったことを、誰かは見ている。それで十分だ。


もう十分だ。帰っておいで。


父より』


十年ぶりのような感覚で、目から水が出た。


机に封筒を置いて、壁に背をもたれた。呼吸を整える。涙は止まらない。八年間、一度も出さなかったものが、急に堤防を決壊させたみたいに流れてくる。



◇◇◇



夜明け前、馬車に乗った。


トランクは後ろに固定された。母の薬草図鑑が中に入っている。乳鉢と乳棒も。あとは、白い手袋と、着替えと、父からの手紙。


馬車の中で、マルタが詰めてくれた弁当を見た。温かい。匂いを嗅いでみると、おかゆ。その下には胃薬が布に包まれて入っている。


マルタ、最後まで心配性だ。八年間、この人が何度も私の身体を心配してくれた。朝に熱を計られ、夜に「お温みになってください」と言われ。


一度だけ、本気で病気になったことがある。三年目の冬。流行病が領地を襲った時だ。自分も患者を治すために動いていたら、同時に患者になった。マルタはその時、三日三晩、私の枕元を離れなかった。


もう会えないんだ、と思った。


馬車が城門を出た。


領民が見送りに来ていた。朝が早いのに。二十人、いや三十人はいるだろう。


「白薔薇の奥様、お元気で」


「ご幸せに」


「ありがとうございました」


老人も、子どもも、農民も。皆が私を見ている。


手を上げた。


「皆さん、ありがとうございました。もう十分です。——大丈夫じゃなくても、もう私の仕事じゃない」


声が小さかったと思う。けれど、誰かが「頑張ってください」と言ったのが聞こえた。


馬車は進む。


後ろを向いて、領地が遠ざかるのを見た。白い診療所の屋根が見える。薬草畑が見える。もう関係ないのだ。


目をそらした。


前を向く。南に向かう道。風が潮の匂いをもたらしている。海が近い。


八年間、一度も見たことのない海。


「どこへ向かっているんですか」


馬車夫が聞いてきた。


「港町ノーヴァです。海を見たいので」


「あと三日かかりますな」


「ええ」


まあ、いい。もう急ぐ必要はない。


弁当を開いた。おかゆは温かい。喉を通す。胃薬の匂いがする。薬っぽい、というより、家のような匂いだ。


これからどうするのか、具体的な計画は何もない。港町ノーヴァにたどり着いて、薬師として生きていく。それくらい。


けれど、初めて自分で選んだ食事というのが、なぜか、涙が出そうだった。


八年ぶりに、自分で選んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ