第2話 三日間の引き継ぎ
朝の第一診療所は、消毒液と乾燥薬草の匂いがする。
八年間、毎朝嗅いだ匂い。窓から差し込む光が、磨いたオーク材の調合台に縞模様を落としている。棚のガラス瓶が光を受けて、青や琥珀色にちらちら揺れる。
今日で、最後になる場所。
「こちらが第一診療所です。領内五つの診療所の中核で、薬草の在庫管理と処方箋の原本もここにあります」
リゼッタ様が、亜麻色の巻き毛を揺らしながら中を見回した。薄紫のドレスに白い手袋。診療所に来るのにドレスを着てくるあたり、この人は本当に——いや、やめよう。
「まあ、意外と広いのですね」
「ええ。患者用の待合室が二部屋、調合室が一室、薬草の保管室が一室、あとは記録室です」
「記録室?」
「患者ごとの処方履歴を保管しています。二百名以上の領民の体質と処方記録がありますので」
リゼッタ様の目が少しだけ見開かれた。が、すぐに笑顔を取り繕う。
「なるほど。では、どこから始めましょうか」
◇◇◇
引き継ぎ一日目。
午前は診療所の基本業務——患者の受付手順、薬草の在庫確認方法、処方箋の書き方——を説明した。
リゼッタ様は真面目に聞いていた。メモもとっていた。学院で薬学の基礎を修めているだけあって、薬草の名前はほとんど知っている。
ただ。
「この薬草の乾燥具合を確認してください。指で擦って、粉の細かさで判断します」
リゼッタ様が白い手袋のまま薬草に触れようとした。
「手袋を外してください。指の腹の感触で判断するので」
「……素手で?」
「ええ。素手で」
少しの間があった。リゼッタ様は手袋を外し、おそるおそる乾燥した薬草を指で擦った。爪の間に緑色の粉が入り込む。
「これは……合格の細かさ、ですか?」
「いいえ。まだ粗いです。あと半日乾燥が必要ですね」
リゼッタ様が指先を見つめている。爪の間の緑色は、洗ってもすぐには落ちない。私の指は八年分の緑が染みついていて、もう元の色を忘れた。
午後は仕入れ先の説明に入った。
「薬草の主要な仕入れ先は三件です。ルグラン商会、東方薬師ギルド、そして地元の採取人グループ。それぞれ取引条件と発注方法が異なります」
「マニュアルに書いてありますわよね?」
「はい。ですが、一点だけ。ルグラン商会の主人——老ルグランは、書面での発注を受け付けません。必ず対面で、薬師本人が品物を見て判断する必要があります」
「え?」
「あの方は『薬を扱う人間の目を見て商売する』が信条なので。代理人では取引してもらえません」
リゼッタ様の手がメモの上で止まった。
◇◇◇
引き継ぎ二日目。
第三診療所と第五診療所を回った。第三は山間部の集落にあり、冬場は雪で孤立することがある。第五は南端の農村で、農繁期には怪我人が増える。
それぞれに薬師助手が一名、看護手が二名。彼女たちは私の指導で育った。仕事は任せられる。
ただ、統括——仕入れの判断、季節ごとの予防計画、緊急時の処方変更——は、私がやってきた。
「各診療所の助手は優秀です。日常業務は問題なくこなせます。ただ、仕入れ先との交渉と、流行病の予兆を見極めての先手対応は、マニュアルだけでは難しいかもしれません」
「経験、ということですか」
「ええ」
リゼッタ様が黙り込んだ。メモを見つめている。二日間で書いたメモは、もう十ページを超えていた。
「カティア様」
「はい」
「……これ、本当に一人でやっていらしたの?」
「ええ。まあ、助手や看護手のみなさんの力あってのことですけれど」
リゼッタ様は何も言わなかった。メモ帳を閉じて、窓の外を見た。
私は待った。
この沈黙の意味を、私は知っている。八年前、嫁いだばかりの私が、壊滅した医療体制を前にして同じ沈黙を味わったから。
あの時は、泣いた。誰にも見えないところで。
リゼッタ様には、まだ泣く理由もないだろう。今のところは。
夕方、ルグラン商会を訪問した。
老ルグランは私たちを奥の応接間に通し、薬草茶を淹れてくれた。渋くて苦い、いつもの味。
「紹介に来たんだよ」
「ほう」
老ルグランがリゼッタ様を見た。品定めするような目。
「……お噂はかねがね」
「あら、ありがとうございます」
リゼッタ様が社交界仕込みの笑みを見せた。老ルグランの表情は変わらなかった。
「カティア嬢ちゃんの後任、か。大変だな」
「嬢ちゃんはやめてください。もう二十三ですから」
「わしから見りゃ嬢ちゃんだよ。——で、取引は続けてもらえるんかね」
老ルグランは私を見て言った。リゼッタ様ではなく。
「後任の方にも、同じ条件でお願いできますか」
「……まあ、嬢ちゃんの頼みなら考えるが。品物の目利きは自分でやってもらうぞ」
リゼッタ様が、少し唇を噛んだのが見えた。
◇◇◇
引き継ぎ三日目。最終日。
朝、マニュアルの最終版を手渡した。二百ページ。革の表紙に綴じ込んで、目次に色付きの栞を挟んである。
「こちらが引き継ぎ資料の全てです。業務手順、仕入れ先一覧、季節病対策カレンダー、処方の基本方針。あとは——」
棚から薄い冊子を取り出した。
「緊急対応マニュアルです。流行病が発生した場合の手順と、使える薬草の在庫が不足した時の代替処方をまとめてあります」
リゼッタ様がマニュアルを受け取った。その厚さにわずかにたじろいだのが、見えた。
「これ以上は、実務経験で覚えていただくしかありません」
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
「どうぞ、お任せします」
私は微笑んだ。
八年分の笑顔の技術を、全部注ぎ込んだ微笑み。
リゼッタ様は何か言いかけて、口を閉じた。
◇◇◇
夜。
仕事部屋で荷造りをしている。持っていくものは少ない。革のトランク一つ分。
薬師の白い手袋——八年で何組も替えた。今のは三代目。
乳鉢と乳棒——これは持っていく。私の手に馴染んだものだ。
母から受け継いだ薬草図鑑。革の表紙がすり減って、角が丸くなっている。幼い頃、母に手を引かれて薬草を摘んだ記憶。母の手は薬草の匂いがした。
トランクに図鑑をしまう。
棚のガラス瓶を見つめた。百本以上の薬瓶。私のラベル。私の字。私の八年。
でも、これは持っていけない。ここの薬はここの患者のものだから。
窓の外は暗い。星が出ている。
マニュアルの最後のページに、メモを一枚挟んだ。「秋の季節病対策:九月上旬までに白薔薇精油の備蓄を通常の二倍に」と書いた走り書き。
読んでもらえるかはわからない。でも、書いた。
トランクの蓋を閉じた。
明日、この屋敷を出る。
私は八年間、この家のために働いた。一つも手を抜かなかった。引き継ぎも、一つも隠さなかった。
もう十分でしょう。
——十分のはずだ。
トランクの上に、薬草図鑑の角が少しだけはみ出している。押し込もうとして、やめた。
母の本は、手元に置いておこう。
新しい場所で、もう一度。




