6話 汝、ダマスカスの薔薇
夕刻が迫れば、定期市の客や商人は散っていった。
遠方からの商人はどこぞに宿を借りに行く。
俺たちは城の厩を借りると話が付いているが、他にも大所帯の一行も残っていた。
身なりは鮮やかだが、寄せ集めだ。脇が紐締めになっているチュニックや高い帽子はイベリア風で、前合わせの服はイスラム風。ちぐはぐに纏っていた。
楽器を抱え、轡をはめた熊まで連れている。
南方から訪れた大道芸の一団だろう。
ペトロニラからの話に聞くところによれば、エドマンドの若君は享楽に耽っている。豊かではない領地に芸人が長居する様子なのは、城のお抱えを狙っているのだろうか。
芸人たちは火を焚き始めていた。
小さいが赤々と尽きぬ焚火をみなで取り囲み、椀で麦酒を酌み交わし始める。ハーディガーディの旋律や、太鼓の律動が、耳に届く。
回されているハーディガーディは軋み混ざりだから、ろくな調律がされてない。歌っているフランスの娘も調子はずれだから、音楽そのものより、衣服の派手さと熊の曲芸が主軸かもしれない。
耳障りな音色だ。
抜歯屋も顔を顰めている。
「下手だな」
その率直さは失礼の範疇に入るが、反論する気持ちはない。むしろ同意寄りな心情であった。
早く厩に入れないものか。
「また客人か」
抜歯屋の呟きに促されて、道へ視線を動かす。
城下から、馬に跨った旅人が訪れた。
夕暮れの昏くなった光に照らされているのは、異郷の身なりの男だ。
縞模様のターバン。広い袖のチュニックには、ムーア人風の刺繍のついた朱の飾り縁。青ざめて擦り切れたサーコートを纏っていた。
背中に負った革包みは、リュートのかたちをしている。
ムーア人の吟遊詩人だろうか?
……それにしては靴がフランス製だな。
ふくらはぎ丈の騎馬ブーツで、先端を尖らせる詰め物がしている。
そもそも跨っている馬も、体格からして見事なアラブ馬だ。黒々とした毛並みの艶に、馬具は白革鞣しで贅を凝らしていた。
「定期市の黄昏も風情があるな」
ターバンの陰から零れた囁きは、美しく、妖しく……艶やかだった。
男らしい低い声なのに、ぞっとするほどの魅惑が宿っている。
言葉を交わすためだけなら、これほどの美しさを要するだろうか。聖歌や聖句のために、神から与えられたのではないか。そうでなくば、こんな美しさが人の声帯に宿るものか。
大道芸人たちも気圧されたのか、誰も何も言えなくなっていた。
ただ焚火が爆ぜる沈黙の中、ハーディガーディを抱えていた若者が立ち上がる。
「定期市に間に合わなかった負け惜しみか。あんたも城のお抱えを狙ってきたのかい? リュート弾きか?」
「いや、これはリュートではない」
ターバンの男は背中の革覆いを外す。
リュートによく似ていたが、異郷の透かし彫りが入っていた。
「琴柱、どっかに落としたのか?」
ハーディガーディの若者が問う。からかう口調を装っているが、ターバンの男に少し気圧されているのは横目でも分かった。
「もとから無い。これは聖地の楽器だ」
ターバンの男は、リュートに似た弦楽器を掻き鳴らした。
摩訶不思議なほどに指は巧みに弦を弾き、押さえ、音を紡いでいく。
歌の一節。
断片に過ぎない歌が、夕暮れに満ちる。
彼から紡がれる音律が、世界そのものになってしまったようだった。
大道芸人たちのひとりが、惚けていたのか椀を落とした。麦酒の入った木椀だ。
落ちて、石に跳ね、焚火へと転がる。焚火にぶつかって、火の粉が散った。
火の粉が舞って、曲芸熊の鼻先まで届く。
「ガゥウッ」
曲芸熊は大きくかぶりを振った。
轡を付けられているが、巨体の毛が逆立っている。
「おい! やばいやばい、鎖、鎖っ!」
軽業の小男が叫ぶ。
歌い女が悲鳴を上げる。
熊を押さえているはずの鎖の杭が、抜けかかっていた。男たちは楽器を放り出し、棒で曲芸熊を押さえつける。
だが、曲芸熊がかぶりを振った瞬間、すっぽ抜けた鎖がうねり、鞭のように撓う。
うちの驢馬も動揺して、抜歯屋が宥めにかかる。
ある程度距離を保っていた俺たちはいいが、向こうの馬や驢馬は哀れに怯えていた。男たちがなんとか獣を御そうとするが、熊は抗うばかりだ。
「うぎゃっ!」
「ひゃっ」
熊の重い鎖が、近くの男たちを打ち据えてしまった。
「可哀想そうに」
ターバンの男は呟いて、リュートめいた楽器を鞍に預けた。
事も無げに、不機嫌な曲芸熊に近づく。主を失った鎖が、じゃりじゃりと振り回されていた。
鎖は地面を打ち据え、風を斬る。もしもぶつかれば肉は裂けてしまう。
「楽師は下がってください」
俺が前に出ようとすれば、ターバンの男は手だけで制した。
命じなれている挙措だ。
「私は楽師ではない」
さっきまで弦を弾いていた手が、荒れ狂っている鎖を掴む。鎖が軋み、鉄の匂いが流れる。
そういえば彼は、独りでここにきた。
追い剥ぎや狼が出没しかねない荒れた街道を、ただ独りで。
非力な楽師ではない。
「強いて言えばサアーリーク……盗賊詩人か」
知らない単語。聖地の響きを含んだ囁き。
熊が暴れているのに、この男の囁きに意識と視線が奪われる。
「どうどう。大丈夫だ」
鎖を引き、曲芸熊と力比べをしているようだ。
熊が力の限り暴れているのに、片手だけで持っている鎖は微動だにしない。ぞっとするほどの怪力だ。
暴れ熊の力をいなし、踊るように御する。そう、舞いだ。異国の舞い。
彼の血肉が旋律で作られているように、動きは音楽そのものだった。
「お前はやんちゃだな」
熊の鎖を握りながら、楽しそうに笑っている。
元々、人慣れしている熊は、彼の笑いに感化されたのか、しだいに落ち着きを取り戻した。火花が鼻先にぶつかって驚いただけなのだろう。おとなしくなる。
その隙に、芸人たちが鎖を杭で留めた。今度は厳重に。
ハーディガーディの若者はおもしろくなさそうな顔で、鼻息を荒げた。
部外者に自分たちの熊を御されたのが、矜持を傷つけたのだろうか。
「ふ、ふん。ま、こんくらいオレらだけでも出来たけど、お節介に感謝はしといてやるよ。そっちも麦酒のお恵みくらい期待してんだろ」
「差し出がましい真似だったかな。すまない」
美しい声で語りながら、乱れてほどけかかったターバンを取る。
夕映えに銀髪が煌めいた。
豊かな銀の輝きが零れ落ちる。褐色の肌に。
──髪は磨かれたばかりの銀器みたいで、腰まで伸ばしている──
──サラセンの血が入っているらしくって、膚は浅黒い──
──背丈はあんたより少し高いね──
──三十路を越したばかり──
ペトロニラから教えられた容姿が、耳の奥で蘇る。
「だが麦酒は結構だ。私のために酌を望むなら、城で待ってるものたちの後にしてくれ」
暮れなずむ世界の中、彼は微笑む。
大輪が咲き誇るように。
──薔薇みたいな男だよ──
──ダマスカスの薔薇みたいな美丈夫さ──
ペトロニラの言葉に嘘はなかった。それどころかあまりに謙虚だ。
彼の美声より、なお上回る美貌。
あれがユーグ・ドゥレートル。
城に巣くっている悪徳騎士たちの頭目か……!
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