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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十七、張郃伝
596/603

三、立ちはだかる男

3.

文帝即王位,以郃爲左將軍,進爵都鄕侯。及踐阼,進封鄚侯。詔郃與曹眞討安定盧水胡及東羌,召郃與眞並朝許宮,遣南與夏侯尙擊江陵。郃別督諸軍渡江,取洲上屯塢。明帝即位,遣南屯荆州,與司馬宣王擊孫權別將劉阿等,追至祁口,交戰,破之。諸葛亮出祁山。加郃位特進,遣督諸軍,拒亮將馬謖於街亭。謖依阻南山,不下據城。郃絶其汲道,擊,大破之。南安、天水、安定郡反應亮,郃皆破平之。詔曰:「賊亮以巴蜀之衆,當虓虎之師。將軍被堅執鋭,所向克定,朕甚嘉之。益邑千戸,並前四千三百戸。」司馬宣王治水軍於荆州,欲順沔入江伐吳,詔郃督關中諸軍往受節度。至荆州,會冬水淺,大船不得行,乃還屯方城。諸葛亮復出,急攻陳倉,帝驛馬召郃到京都。帝自幸河南城,置酒送郃,遣南北軍士三萬及分遣武衞、虎賁使衞郃,因問郃曰:「遲將軍到,亮得無已得陳倉乎!」郃知亮縣軍無穀,不能久攻,對曰:「比臣未到,亮已走矣;屈指計亮糧不至十日。」郃晨夜進至南鄭,亮退。詔郃還京都,拜征西車騎將軍。

郃識變數,善處營陳,料戰勢地形,無不如計,自諸葛亮皆憚之。郃雖武將而愛樂儒士,嘗薦同鄕卑湛經明行修,詔曰:「昔祭遵爲將,奏置五經大夫,居軍中,與諸生雅歌投壺。今將軍外勒戎旅,內存國朝。朕嘉將軍之意,今擢湛爲博士。」

(訳)

文帝(曹丕)が王位に即くと

張郃を左将軍とし

爵位を都郷侯に進めた。

践祚するに及んでばく侯に進封された。


張郃と曹真そうしんに詔を下して

安定あんてい盧水ろすいの胡族及び東羌を討たせ、

張郃と曹真を召し、揃って許宮に入朝させ

南へ派遣して夏侯尚かこうしょうとともに江陵こうりょうを撃たせた。

張郃は別に諸軍を監督して長江を渡り

洲上の屯塢とんうを取った。

(呉には勝てなかった)


明帝(曹叡そうえい)が即位すると

南へ遣わされて荊州に駐屯し、

司馬宣王(司馬懿しばい)とともに

孫権の別将の劉阿りゅうあ等を撃ち

追って祁口きこうまで至ると

交戦してこれを破った。


諸葛亮しょかつりょう祁山きざんへ出撃すると

張郃に特進とくしんの位を加えて

諸軍を監督させ、諸葛亮の将の馬謖ばしょく

街亭がいていにて拒いだ。


馬謖は険阻な南山をたのみに

下ってこず、城に據った。

張郃はその給水路を絶ち

攻撃してこれを大破した。

南安なんあん天水てんすい安定あんてい郡が反いて

諸葛亮に応じていたが、

張郃はこれらを全て破り、平定した。

詔に曰く、


「賊の諸葛亮は巴蜀はしょくの部衆を以て

虓虎(吠え猛る虎=勇将)の師団に当たった。

将軍は被堅執鋭(鎧着て武器を手に)して

向かう所で勝利平定したが

朕は甚だこれを嘉する。

食邑を千戸増益し、以前のものとあわせて

四千三百戸とする」


司馬宣王が荊州にて水軍を治め

沔水めんすいに順って長江へ入り

呉を討とうとすると、

(曹叡は)詔を下して

張郃に関中の諸軍を監督して

(荊州へ)往かせ、

(司馬懿の)節度を受けさせた。


荊州に至るころ

ちょうど冬期で水深が浅く、

大船で行く事ができなくなり、

かくて戻って方城に駐屯した。


諸葛亮が再び出撃して陳倉ちんそうを急撃すると、

帝は駅馬はゆまで張郃を召し京都へ至らせた。

帝は自ら河南城を御幸し

宴会を開いて張郃を見送ると

南北の軍士三万人を遣わした上

武衛ぶえい虎賁こひを分けて張郃を護衛させ、

そこで張郃に問うた。


「将軍の到着が遅れているなかで、

諸葛亮は已に陳倉を得ずにおれようか」


張郃は諸葛亮の懸る軍に

穀物が無く、久しく攻められない事を

承知しており、対して言った。


「臣が到着する前に

諸葛亮は已に逃走しているでしょう。

諸葛亮の食糧を指して計るに、十日に至りません」


張郃が晨夜進撃して南鄭へ至ると

諸葛亮は退却した。

詔を下して張郃を京都へ戻し

征西せいせい車騎しゃき将軍に拝した。


張郃は変数を識っており、

善く陣営を処置し、

戦勢や地形をはかる際に

計の通りでない事がなく、

諸葛亮以下全員が彼を憚っていた。


張郃は武将と雖も儒者を愛楽しており

嘗て、同郷の卑湛ひたん

経書に明るく、行い修めていると推薦していた。

詔に曰く、


「昔、祭遵さいじゅんは将となると

上奏して五経大夫を置き

軍中に居っても諸生とともに

雅楽、詩歌、投壺をたのしんでいた。


今、将軍は外は戎旅をおさ

内は国朝を存立させてくれている。

朕は将軍の意を嘉し、今

卑湛を抜擢して博士とする」


(註釈)

曹丕そうひが即位すると、曹仁そうじんが大将軍で

張遼ちょうりょうが前、徐晃じょこうが右、張郃が左、朱霊しゅれいが後将軍。


朱霊は曹操に嫌われてたけど

曹丕の代に復帰??


張郃は222年9月の呉征伐にも従軍したが

あまり目立った戦果はなかった。


曹叡の代になると、

司馬懿とともに荊州で劉阿りゅうあを下した。

226年7月ごろの

孫権の江夏攻めかな?


228年、諸葛亮の一次北伐は、

馬謖伝に詳しくまとめてあります。


街亭(街泉亭)を守る馬謖は

南山の険阻をたのみに

城に立てこもったが

張郃は給水路を絶ってこれを大破。


思えば、馬謖が生まれる前から

張郃さんは戦場に立ち続けてるんだもんな。

本格的な指揮は初めての馬謖と

この道40年余りの大ベテランじゃ

そりゃこうなるよ。


「馬謖を重用するな」とも

「夏侯淵より張郃のが手強い(意訳)」とも

言い遺してた劉備は、やっぱ

人を見る目が格段に優れてる。


諸葛亮の意図を打ち砕き

天水、南安、安定の三郡を

平定した功績で、

張郃の食邑は1000戸プラスの

4300戸になった。


最終的な食邑が于禁と楽進1200、

張遼2600だった事を考えるとスゴイ。

宗族の曹仁すら3500なのに。


司馬氏を除くと、

異姓のなかで最大の数字だと思われます。


228年12月に二度目の北伐。

諸葛亮は散関さんかんから出て陳倉ちんそうを包囲したが

郝昭かくしょうに堅守され、

攻城兵器は潰されるわ

坑道も見破られるわで大苦戦。

陳倉にそこまで兵は配備されてない筈だが

二十日余り経っても抜けなかった。


曹真は費耀ひようを、曹叡は張郃を遣わすが

張郃の目論見どおり、到着する前に

諸葛亮は兵糧が尽きて撤退した。


蜀軍にとってはまさに

目の上のたんこぶのような張郃であった。


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