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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十七、張郃伝
594/603

一・註一・註二、官渡の成敗/裴松之の疑問

1.

張郃字雋乂,河間鄚人也。漢末應募討黃巾,爲軍司馬,屬韓馥。馥敗,以兵歸袁紹。紹以郃爲校尉,使拒公孫瓚。瓚破,郃功多,遷寧國中郎將。太祖與袁紹相拒於官渡,紹遣將淳于瓊等督運屯烏巢,太祖自將急擊之。郃説紹曰:「曹公兵精,往必破瓊等;瓊等破,則將軍事去矣,宜急引兵救之。」郭圖曰:「郃計非也。不如攻其本營,勢必還,此爲不救而自解也。」郃曰:「曹公營固,攻之必不拔,若瓊等見禽,吾屬盡爲虜矣。」紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻太祖營,不能下。太祖果破瓊等,紹軍潰。圖慚,又更譖郃曰:「郃快軍敗,出言不遜。」郃懼,乃歸太祖。

(訳)

張郃ちょうこうは字を雋乂しゅんがい河間かかん(ばく)県の人である。

漢末に召募に応じて黄巾を討ち

軍の司馬となり、韓馥かんふくに属した。

韓馥が敗れると、兵を以て袁紹えんしょうに帰順した。


袁紹は張郃を校尉として公孫瓚こうそんさんを拒がせた。

公孫瓚を破った際に

張郃の功績が多大であったため

寧国ねいこく中郎将ちゅうろうしょうに遷った。


太祖が袁紹と官渡で拒ぎ合うと、

袁紹は淳于瓊じゅんうけい等に

(食糧の)運搬を監督させ、烏巣うそうに駐屯させた。

太祖が自らこれを急撃せんとすると、

張郃は袁紹に説いた。


「曹公の兵は精鋭で、往けば

必ず淳于瓊等は破られてしまうでしょう。

淳于瓊等が破られれば、則ち

将軍の事業は去ってしまいます、

急ぎ兵を率い、これを救援なさるべきです」


郭図かくとが言った。


「張郃の計は間違っております。

その本営を攻めるに越した事はなく、

勢いからして(曹操は)必ず

戻っていくでしょう。

さすれば救援せずとも

自ずと解決するものと存じます」


袁紹はただ軽騎に淳于瓊を救援させるのみで

重装の兵で太祖の陣営を攻めたが、

下す事はできなかった。

太祖は果たして淳于瓊等を破り、

袁紹の軍は潰散した。


郭図は慚愧する一方で

張郃を改めて讒訴した。


「張郃は軍が敗北した事をよろこんでおり

出てくる言葉は不遜なものです」


張郃は懼れ、かくて太祖に帰順した。


註1.

漢晉春秋曰:「郃説紹曰:『公雖連勝,然勿與曹公戰也,密遣輕騎鈔絶其南,則兵自敗矣。』紹不從之。」

(訳)

漢晋春秋にいう、

張郃は袁紹に説いた。

「公は連勝なさっていると雖も

曹公と戦ってはなりませぬ、

密かに軽騎を遣わしてその南を

鈔絶(掃滅)すれば

即ち兵は自ずと敗れます」

袁紹は従わなかった。


註2.

臣松之案武紀及袁紹傳幷云袁紹使張郃、高覽攻太祖營,郃等聞淳于瓊破,遂來降,紹衆於是大潰。是則緣郃等降而後紹軍壞也。至如此傳,爲紹軍先潰,懼郭圖之譖,然後歸太祖,爲參錯不同矣。

(訳)

わたくし松之が

武帝紀及び袁紹伝を勘案するに、

どちらも袁紹が張郃、高覧こうらん

太祖の陣営を攻めさせ、

張郃等が淳于系が敗れたと聞いて

遂に来降し、袁紹の部衆はこうして

大いに潰えた…と云っている。

さすれば則ち、張郃等が降伏した事によって

後に袁紹の軍勢が壊乱した事になる。


至ってこの伝の通りなら、

袁紹の軍勢が先に潰滅し

懼れた郭図が讒言して

然る後に(張郃が)太祖に帰順した事になるが

互いに錯雑していて同様でない。


(註釈)

張郃は字を雋乂。

しゅんしゅんと同義で、

「俊乂」は才能が傑出しているという意味。

夏侯淵の「妙才」に近いニュアンス。


冀州河間郡の人。

漢末に募兵に応じて黄巾をうつ。


185年、冀州博陵郡の張牛角

187年、幽州漁陽郡の張純が乱を起こす。

どっちも河間郡に近いので、

張郃も戦闘に参加してたかもしれない。


韓馥かんふく御史ぎょし中丞ちゅうじょう(英雄記)、尚書しょうしょ(許靖伝)で

189年の末頃に董卓の任命で

冀州きしゅうぼくになった。

張郃が彼の傘下に入ったのはこの後だろう。


191年7月、渤海ぼっかい太守の袁紹が冀州をうばう。

張郃は兵をあげて袁紹に帰順した。


192年、袁紹は公孫瓚こうそんさん界橋かいきょうで戦い、

麹義きくぎの活躍で勝利するが

公孫瓚の置いた青州刺史田楷(でんかい)に大苦戦。

連年の戦による百姓の奪い合いで、

青州は草も生えていない状態だったという。


公孫瓚は193年に幽州牧の劉虞りゅうぐを殺し

幽州を領有するが、従事の鮮于輔せんうほなど

劉虞に恩を感じていた者達から報復を受ける。

公孫瓚はえきを要塞化して立てこもり、

袁紹はこれを下すのに199年までかかっている。

張郃は、この際に戦功があったようだ。


(袁紹と公孫瓚は三国志だけでなく

後漢書にも列伝があり、

色々とややこしいため

まとめるのがムズカシイ。

後ほど詳しくやります)


200年に官渡の戦い。

袁紹の物量の前にさすがの曹操そうそうも弱気に陥り、

撤退すらも考えていたが、

荀彧じゅんいくの激励でなんとか踏みとどまる。


袁紹の謀臣の許攸きょゆうが降り

淳于瓊じゅんうけいの輸送部隊の襲撃を進言、

曹操はそこで本営に曹洪そうこうを留め

自ら五千を率いて淳于瓊の宿次する

烏巣うそうを夜襲した。


張郃と高覧は、曹操に降った。


裴松之先生の言うように、

武帝紀と袁紹伝では

張郃と高覧が降ったせいで

袁紹の部衆が総崩れになった

という文脈になっている。


・武帝紀

袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然衆少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「却十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。【郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰,】紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珎寶,虜其衆。


・袁紹伝

會紹遣淳于瓊等將兵萬餘人北迎運車,沮授說紹:「可遣將蔣奇別為支軍於表,以斷曹公之鈔。」紹復不從。瓊宿烏巢,去紹軍四十里。太祖乃留曹洪守,自將步騎五千候夜潛往攻瓊。紹遣騎救之,敗走。破瓊等,悉斬之。太祖還,未至營,【紹將高覽、張郃等率其衆降。紹衆大潰,】紹與譚單騎退渡河。餘衆偽降,盡坑之。


少なくとも「三国志」の本紀や列伝は

本人にとって不名誉な事は載せない。

たとえば、

夏侯惇かこうとんが劉備の伏兵を読めないのとか

関羽かんう青泥せいでいでピンチに陥ってるとか

徐盛じょせい軍が合肥ごうひの時に潰走してるのとか

本人の伝には書かれてない。


「張郃が降ったせいで袁紹が負けた」

という文脈にはしづらいんでしょう。


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