三・註二、晩節を汚す/イジメの前フリ
3.
建安二十四年,太祖在長安,使曹仁討關羽於樊,又遣禁助仁。秋,大霖雨,漢水溢,平地水數丈,禁等七軍皆沒。禁與諸將登高望水,無所回避,羽乘大船就攻禁等,禁遂降,惟龐德不屈節而死。太祖聞之,哀嘆者久之,曰:「吾知禁三十年,何意臨危處難,反不如龐德邪!」會孫權禽羽,獲其衆,禁復在吳。文帝踐阼,權稱籓,遣禁還。帝引見禁,鬚髮皓白,形容憔悴,泣涕頓首。帝慰諭以荀林父、孟明視故事,拜爲安遠將軍。欲遣使吳,先令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋畫關羽戰克、龐德憤怒、禁降服之狀。禁見,慚恚發病薨。子圭嗣,封益壽亭侯。諡禁曰厲侯。
(訳)
建安二十四年(219)、太祖は長安に在って
曹仁を遣わして樊に関羽を討たせ
一方で于禁に曹仁の援助をさせた。
秋の大規模な霖雨で漢水が溢れ、
平地の水かさが数丈にまでなり、
于禁等の七軍は皆水没してしまった。
于禁と諸将は高きに登って
水流を望見したものの、
回避できる所はなく、
関羽が大船に乗って
于禁等の攻撃に就いた。
于禁は遂に投降したが、
ただ龐徳だけは節を曲げずに死んだ。
太祖はこの事を聞くと
やや久しく悲嘆し、このように言った。
「吾が于禁を知って三十年になるが、
危機に臨み、難事に対処する事で
龐徳に及ばぬとは思わなんだ」
折しも孫権が関羽を擒として
その部衆を捕獲したため
于禁は今度は呉に身を置く事となった。
文帝(曹丕)が践祚し、孫権が称籓すると
于禁は(魏に)返還された。
帝が于禁を引見すると
鬚や髪が皓白(真っ白)で、
形容は憔悴しており、涙を流して頓首した。
帝は荀林父や孟明視の故事によって慰諭し、
拝して安遠将軍とした。
呉への使者として遣わそうと考え、
先ず北方の鄴へと詣らせて
高陵(曹操の墓)に参謁させようとしたが、
帝は予め陵墓の屋根に、関羽が戦勝し、
龐徳が憤怒し、于禁が降伏する様子を書かせていた。
于禁はこれを見ると慚恚し、
病を発して薨じてしまった。
子の于圭が嗣ぎ、益寿亭侯に封じられた。
于禁は厲侯と諡された。
註2.
魏書載制曰:「昔荀林父敗績於邲,孟明喪師於殽,秦晉不替,使復其位。其後晉獲狄土,秦霸西戎,區區小國,猶尙若斯,而況萬乘乎?樊城之敗,水災暴至,非戰之咎,其復禁等官。」
(訳)
魏書は制令を掲載している、曰く、
「昔、荀林父は邲にて敗北をかさね
孟明は殽にて師団を喪失したが
秦、晋は交替させずに
その地位を回復させた。
その後、晋は狄の地を獲て
秦は西戎を覇占した。
區區たる小国がかくの如くであり
況してや万乗(の大国)であれば尚更であろう。
樊城の敗北は水による災害が
急激に至ったもので、戦の咎ではない。
そこで于禁等の官位を回復させる事とする」
(註釈)
219年8月、
樊城への援軍として遣わされたが
長雨による漢水の氾濫で全軍水没。
進退窮まった于禁は関羽に降伏した。
判断は間違っちゃいないが、
龐徳が力尽きるまで戦い
降伏を肯じなかったために
于禁への風当たりが強くなってしまった。
しかも関羽が呉に敗れて
二重捕虜になっちゃうし、
ずっと仕えてきた曹操の死に目に
会うこともかなわず、
帰国したあとは曹丕のからかいの
格好の的にされてしまった。
「包囲された後に降った者は赦されない」
昌豨を斬った際に掲げたこの文句が
自分自身にブッ刺さる事になるとは
なんたる皮肉か。
やはりどこかで報いはあるものだ。
しかし、曹丕の仕打ちはひどい。
仮にも人の上に立つ者のする事じゃない。
個人的な于禁評です↓
・戦闘 ★★★★★★★★ 8
陶謙、呂布、張超、橋蕤、張繍、
眭固、袁紹、昌豨、梅成らとの戦いで
バリバリ活躍。
最後でミソがついちゃった感あるけど
樊城の直前まで筆頭武将。
樊城の失態(?)も
司馬懿と蒋済の言葉を借りれば
戦って敗れたわけではないので
ここの評価を大きく落とすものではない
という事にします。
・戦略 ★★★★★★ 6
楽進と同じ条件で1点プラス。
・内政 ★★★★★★ 6
彼だけ節ではなく
節鉞を仮されている、
風紀を引き締めるのに適役だろう。
統治の経験はないけど1点プラスで…。
・人格 ★★★★ 4
法の運用が厳しすぎて
恐れられはしても敬われはしなかった。
昌豨を容赦なく斬った事と
関羽に降った事で自縄自縛状態。
そりゃ髪も髭も真っ白になる。
それでも、張遼、楽進と同じくらいの点数が
妥当だと思います。
次は、吉川三国志で三回くらい死んでる張郃伝。
予約更新の時間間違えてもうた! ごめんなさい…




