一、規律を重んず
規律に厳しい于禁伝。
1.
于禁字文則,泰山鉅平人也。黃巾起,鮑信招合徒衆,禁附從焉。及太祖領兗州,禁與其黨俱詣爲都伯,屬將軍王朗。朗異之,薦禁才任大將軍。太祖召見與語,拜軍司馬,使將兵詣徐州,攻廣威,拔之,拜陷陳都尉。從討呂布於濮陽,別破布二營於城南,又別將破高雅於須昌。從攻壽張、定陶、離狐,圍張超於雍丘,皆拔之。從征黃巾劉辟、黃邵等,屯版梁,邵等夜襲太祖營,禁帥麾下擊破之,斬(辟、)邵等,盡降其衆。遷平虜校尉。從圍橋蕤於苦,斬蕤等四將。從至宛,降張繡。繡復叛,太祖與戰不利,軍敗,還舞陰。是時軍亂,各間行求太祖,禁獨勒所將數百人,且戰且引,雖有死傷不相離。虜追稍緩,禁徐整行隊,鳴鼓而還。未至太祖所,道見十餘人被創裸走,禁問其故,曰:「爲靑州兵所劫。」初,黃巾降,號靑州兵,太祖寛之,故敢因緣爲略。禁怒,令其衆曰:「靑州兵同屬曹公,而還爲賊乎!」乃討之,數之以罪。靑州兵遽走詣太祖自訴。禁旣至,先立營壘,不時謁太祖。或謂禁:「靑州兵已訴君矣,宜促詣公辨之。」禁曰:「今賊在後,追至無時,不先爲備,何以待敵?且公聰明,譖訴何緣!」徐鑿塹安營訖,乃入謁,具陳其狀。太祖悅,謂禁曰:「淯水之難,吾其急也,將軍在亂能整,討暴堅壘,有不可動之節,雖古名將,何以加之!」於是録禁前後功,封益壽亭侯。復從攻張繡於穰,禽呂布於下邳,別與史渙、曹仁攻眭固於射犬,破斬之。
(訳)
于禁は字を文則、泰山郡鉅平県の人である。
黄巾が起こり、鮑信が徒衆を招き集めると
于禁は付き従った。
太祖が兗州を領有するに及んで
于禁とその支党は倶に詣って都伯となり
将軍の王朗に属した。
王朗は彼を非凡と見なし、
于禁の才能は大将軍に
任じられる程だと推薦した。
太祖は召見してともに語らうと
軍の司馬に拝し、
兵を率いさせて徐州へ詣らせた。
広威を攻めてこれを抜き
陥陣都尉に拝された。
濮陽に呂布を討伐した際は
別れて城南に於ける呂布の二つの屯営を破り、
一方で別働隊として高雅を須昌に破った。
寿張、定陶、離狐攻めに従軍し、
張超を雍丘を包囲して
これらを全て抜いた。
黄巾の劉辟、黄邵等の征伐に従い、
版梁に駐屯した。
黄邵等が太祖の陣営を夜襲した際に
于禁は麾下を統制してこれを撃破し
劉辟、黄邵等を斬って
その部衆を盡く降伏させた。
平虜校尉に遷った。
苦に於ける橋蕤包囲に従い
橋蕤等四人の将を斬った。
従って宛へと至り、張繍を降した。
張繍がまた叛くと、
太祖はともに戦って不利となり、
軍は敗れて舞陰へ帰還した。
この時軍は乱れており、
各々が間行して太祖を探し求めたが、
于禁は獨り率いる所の数百人を勒え
戦いながら引き、
死傷者が有っても互いに離れなかった。
虜(張繍)の追撃が稍稍に緩やかになると
于禁は徐に隊伍を整え、
太鼓を鳴らして戻った。
いまだ太祖の所に至らぬうちに、
道中で十人余りが創を被り、
裸で走っているのを見かけて
于禁がその故を問うと、こう言った。
「青州兵に劫められたのです」
(192年)当初に黄巾が降って
「青州兵」と号していたが、
太祖がこれを寛大に扱っていたため
敢えて縁に因り略奪を為したのである。
于禁は怒り、その部衆に命令して言った。
「青州兵は同じく曹公に属していたが
賊に戻ってしまったのか!」
かくてこれを討ち、その罪を責めた。
青州兵は遽かに逃走し、
太祖のもとを詣でて
自ずから(于禁が反逆したと)訴え出た。
于禁は至った後、先ず営類を立てて
即時に太祖に拝謁しなかった。
或る者が于禁に言うには、
「青州兵は已に君に訴えました、
早くに公のもとへ詣ってこの事を
弁解なさるのが宜しいかと」
于禁は言った。
「今、賊が後方に在って
追手が至るまで時間がない、
先んじて備えを設けねば
何を以て敵を待つというのだ?
且つ、公は聡明であられ、
讒訴が何の因果となろうか!」
徐に塹壕を開鑿し、
屯営を落ち着かせた後
かくて入って拝謁し、
具にその状況を陳べた。
太祖は悦び、于禁にこう言った。
「淯水の難事で、吾は危急であった。
将軍は混乱の中に在って能く整え
暴徒を討って塁壁を堅くし
動かす事のできない節義を有している。
古の名将と雖も何を以て
これに加えられようか」
こうして、于禁の前後の功績を記録し
益寿亭侯に封じた。
再度、穰に於ける張繍攻めに従い、
下邳にて呂布を虜とし、
別れて史渙、曹仁とともに
射犬に眭固を攻め、
破ってこれを斬った。
(註釈)
于禁は泰山の人。
諱は禁、字は則で、禁則になる。
名は体をあらわし、規律に厳しい人だった。
もとは済北相、騎都尉の鮑信の部下。
子が魏書に立伝されているので
詳しい事はその際に触れます。
劉繇の兄で、兗州刺史の劉岱が
青州の黄巾にやられちゃったため
鮑信は曹操を後釜に据えようとする。
その鮑信も青州黄巾との戦いで散り、
于禁は曹操に仕える事になった。
194年秋に陶謙を攻めた際に、陥陣都尉。
195年の濮陽の呂布、雍丘の張超、
197年の苦の橋蕤戦で、
功績があったのは、楽進と同じ。
196年2月に汝南、穎川の黄巾
何儀、劉辟、黄邵、何曼らを討伐。
彼らは当初袁術に応じ、孫堅に附いたのだという。
劉辟、黄邵を斬ると、何儀らは皆降った。
于禁は平虜校尉に遷った。
(先主伝では、官渡の戦いの時に
劉辟らが叛いて袁紹についた、とあり
劉辟は斬られておらず、
降伏したのだと思われる)
天子(後漢の献帝)を洛陽に迎え、
197年正月に南征して宛へ。張繍は一旦降ったが
後になってまた反逆した。
宛の戦いについての記述を集めました↓
・武帝紀
二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,為流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。
公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛為繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數為繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。
・武帝紀の引く「魏書」
魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。
魏書曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。
・武帝紀の引く「世語」
世語曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。
世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。
・張繍伝
繡隨濟,以軍功稍遷至建忠將軍,封宣威侯。濟屯弘農,士卒饑餓,南攻穰,為流矢所中死。繡領其衆,屯宛,與劉表合。太祖南征,軍淯水,繡等舉衆降。太祖納濟妻,繡恨之。太祖聞其不恱,密有殺繡之計。計漏,繡掩襲太祖。太祖軍敗,二子沒。繡還保穰,
・典韋伝
太祖征荊州,至宛,張繡迎降。太祖甚恱,延繡及其將帥,置酒高會。太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。竟酒,繡及其將帥莫敢仰視。後十餘日,繡反,襲太祖營,太祖出戰不利,輕騎引去。韋戰於門中,賊不得入。兵遂散從他門並入。時韋校尚有十餘人,皆殊死戰,無不一當十。賊前後至稍多,韋以長戟左右擊之,一叉入,輒十餘矛摧。左右死傷者略盡。韋被數十創,短兵接戰,賊前搏之。韋雙挾兩賊擊殺之,餘賊不敢前。韋復前突賊,殺數人,創重發,瞋目大罵而死。賊乃敢前,取其頭,傳觀之,覆軍就視其軀。太祖退住舞陰,聞韋死,為流涕,募閒取其喪,親自臨哭之,遣歸葬襄邑,拜子滿為郎中。車駕每過,常祠以中牢。太祖思韋,拜滿為司馬,引自近。
張繡は武威郡祖厲県の人で驃騎将軍張済の族子。
張済は董卓が敗れると李傕らとともに呂布を撃った。
張繍は父に従って軍功をあげ
建忠将軍、宣威侯となり
父の死後は軍勢を継承し
宛に駐屯して劉表と合流した。
曹操は淯水に駐留すると
張済の妻を納れ、
この事から張繍の反感を買った。
曹操はそれを知ると、密かに
彼を殺す計画を立てたが、
露見してしまったために
張繍から急襲された。
これにより、典韋、長子の曹昂、
甥の曹安民が命を落としてしまう。
曹操は「絶影」という名馬に乗っており
絶影は傷を負っていてもなお走れたため
逃げ延びることができたという。
軍勢が混乱する中で
于禁だけは手勢を抑えつつ
逃げながら戦った。
かつての青州黄巾は
曹操の下で「青州兵」となっていたが、
彼らは曹操から大切に
扱われているのをいい事に
この時、略奪をはたらいていた。
ブチ切れた于禁は
その罪を責めたてて青州兵に襲いかかる。
世話になった鮑信が
青州黄巾に殺されてるわけだし、
内心では絶対よく思ってなかっただろう。
青州兵は曹操に訴え出たが、
于禁は曹操に事情を説明するよりも
防備を固める方を優先し、
一通り終わってから状況を具申した。
さすが聡明な曹操は
于禁の功績を嘉し、
于禁は益寿亭侯に封じられた。
197年に袁術が称帝し
呂布に破られる。
9月に袁術が陳を攻めると曹操は東征し、
袁術は橋蕤らを留めて逃げ出した。
于禁は橋蕤ら四人の将を斬る活躍を見せた。
198年3月に張繍を穰に包囲し
5月に劉表が派兵して張繍を救援した。
前後から攻撃を受けたが、策を駆使して下し、
7月に許へ戻った。
9月に呂布の討伐に向かい、
荀攸と郭嘉の策を用いて水攻めで下した。
199年2月に、張楊が部将の楊醜に殺され
眭固がまた楊醜を殺し
手勢を率いて袁紹に帰順し、射犬に駐屯した。
4月、曹仁、史渙、于禁らが眭固を破った。
ここまでは楽進とともに、
常に安定した戦果を見せている。




