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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十七、楽進伝
589/603

一、小さな勇者

強いけど記録は少ない楽進伝。

1.

樂進字文謙,陽平衞國人也。容貌短小,以膽烈從太祖,爲帳下吏。遣還本郡募兵,得千餘人,還爲軍假司馬、陷陳都尉。從擊呂布於濮陽,張超於雍丘,橋蕤於苦,皆先登有功,封廣昌亭侯。從征張繡於安衆,圍呂布於下邳,破別將,擊眭固於射犬,攻劉備於沛,皆破之,拜討寇校尉。渡河攻獲嘉,還,從擊袁紹於官渡,力戰,斬紹將淳于瓊。從擊譚尙於黎陽,斬其大將嚴敬,行遊擊將軍。別擊黃巾,破之,定樂安郡。從圍鄴,鄴定,從擊袁譚於南皮,先登,入譚東門。譚敗,別攻雍奴,破之。建安十一年,太祖表漢帝,稱進及于禁、張遼曰:「武力旣弘,計略周備,質忠性一,守執節義,每臨戰攻,常爲督率,奮強突固,無堅不陷,自援枹鼓,手不知倦。又遣別征,統御師旅,撫衆則和,奉令無犯,當敵制決,靡有遺失。論功紀用,宜各顯寵。」於是禁爲虎威;進,折衝;遼,蕩寇將軍。

(訳)

楽進がくしんは字を文謙ぶんけん陽平ようへい衛国(えいこく)の人である。

容貌は短小(体が小さい)であったが、

胆力、勇烈を以て太祖(曹操)に従い

帳下の吏となった。


本郡に帰されて兵を募り、千余人を得ると

戻って軍の仮の司馬、陥陣かんじん都尉といとなった。


濮陽ぼくように於ける呂布、雍丘に於ける張超ちょうちょう

苦に於ける橋蕤きょうずい攻撃に従い、

全てで先鋒の功績が有り

広昌こうしょう亭侯に封じられた。


安衆あんしゅうに於ける張繍ちょうしゅう征伐に従い、

下邳かひに於いて呂布りょふを囲んだ際は別将を破り、

射犬しゃけんに於いて眭固すいこを撃ち、

はいに於いて劉備を攻め、これらを全て破って

討寇とうこう校尉こういに拝された。


渡河して獲嘉かくかを攻め、帰還すると

官渡かんとに於ける袁紹えんしょう攻撃に従い、

力戦して袁紹の将の淳于瓊じゅんうけいを斬った。


黎陽れいように於ける袁譚えんたん袁尚えんしょう攻撃に従い、

その大将の厳敬げんけいを斬り、行遊撃将軍となった。


別れて黄巾を撃破し、楽安郡を平定した。


鄴の包囲に従軍し、鄴が平定されると

南皮なんぴに於ける袁譚攻撃に従い

先鋒となって袁譚の東門へと突入した。


袁譚が敗れると、

別れて雍奴ようどを攻め、これを破った。


建安十一年(206)、

太祖は漢の(献)帝に上表し

楽進及び于禁、張遼を称えて言った。


「武力は既に弘大、計略はあまねく備わり、

性質は忠実一途にして節義を守執し、

戦攻に臨むたび常に統率を為し、

強きに奮い立ち、固きを突いて

決して陥さぬことはなく

自ら枹鼓を援引し、

手は倦むという事を知りませぬ。


また別けて征伐に遣わしますと、

師旅を制御し

部衆を安撫して和ませ、

命令を奉じて侵犯する事がなく

敵に当たりて裁決し

遺失がございません。


功績を論じ用途を記され、各々に

恩寵を顕らかになさるべきかと存じます」


こうして于禁は虎威こい将軍、

楽進は折衝せっしょう将軍、張遼は盪寇とうこう将軍となった。


(注釈)

楽進は陽平郡衛国の人。

諱がすすむで、字の謙は対義ぽい。


武帝紀の212年に

「割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衞國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。」


文帝紀の221年に

「改許縣為許昌縣。以魏郡東部為陽平郡,西部為廣平郡」


(212年)

河内かだい郡の蕩陰とういん朝歌ちょうか林慮りんりょ

とう郡のえい国、頓丘とんきゅう東武陽とうぶよう発干はつかん

鉅鹿きょろく郡の廮陶えいとう曲周きょくしゅう南和なんか

広平こうへい郡の任城じんじょう

趙郡の襄国じょうこく邯鄲かんたん易陽えきようを分割して

魏郡を増益した。


(221年)

許県を改めて許昌きょしょう県とし、

魏郡の東部を陽平ようへい郡、

西部を広平こうへい郡とした…とある。


続漢書を参照してみても、

衛国はもともと東郡に属していたのがわかる。


武帝紀で

「黑山賊于毒、白繞、眭固等十餘萬衆略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表太祖爲東郡太守,治東武陽」


とあり、曹操が東郡に入って

太守になったあたりで

楽進は出仕したんじゃなかろうか。

この時191年秋ごろであり

張遼より7年ほど早く仕えていることになる。


于禁うきんは済北相の鮑信ほうしんの部下なので

やはり初平年間の初め(190〜)頃から

曹操とは面識がある事になる。

樊城の戦いの時の

「わしは于禁を30年見てきたが…」

というセリフとも合致。


楽進は東郡で募兵し、軍の(仮の)司馬、

陥陣かんじん都尉といになる。


曹操は青州黄巾を吸収し、袁術えんすいを討つ。

194年には父の報復で徐州へ攻め入る。


于禁もはじめは司馬であり

徐州を攻めた際に陷陣都尉になってる。


張邈ちょうばくが兗州に呂布りょふを迎え入れ

曹操は徐州からとんぼ返り、

195年に呂布を濮陽に破り

8月に張邈の弟の張超ちょうちょう雍丘ようきゅうにて包囲、

12月に雍丘は落ち、張超は自殺、

張邈は袁術の元へ向かうが

その中途で殺され、兗州は平定された。


于禁は黄巾賊の劉辟りゅうへき黄邵こうしょうを下し、

楽進と于禁で袁術の将の橋蕤きょうずいを苦(地名)に破る、

楽進は広昌こうしょう亭侯、于禁は平虜へいりょ校尉こうい


同じくらいの時期に

夏侯惇かこうとん陳留ちんりゅう済陰せいいん太守、建武けんむ将軍、高安こうあん郷侯、

曹仁そうじんは広陽太守、曹洪そうこう鷹揚おうよう校尉こうい


曹操が洛陽に天子を迎えると徐晃じょこうが帰順。


于禁はえんの戦いの際に益寿えきじゅ亭侯。

楽進は張繍ちょうしゅう呂布りょふ眭固すいこ劉備りゅうびを破り、

討寇とうこう校尉に任じられた。

また、呂布軍から張遼ちょうりょうが加入する。


徐晃は下邳の呂布戦の前に

巻・原武の賊を討伐して裨将軍に。


袁紹えんしょうとの官渡かんとの決戦では、楽進は

烏巣の淳于瓊じゅんうけいを破る活躍を見せたが

何か官職を与えられた様子はない。

于禁は袁紹の別営を破って裨將軍、

官渡の戦いのあとに偏将軍。

張遼もしばしば戦功をあげて裨将軍。

徐晃は文醜を破って偏将軍、

功が最も多かったため都亭侯。

ここで袁紹軍から張郃ちょうこうが加入し

彼も偏将軍、都亭侯に。


黎陽れいようの袁譚、袁尚攻めで

楽進は行遊撃将軍、張遼は行中堅将軍。


東海が平定されると于禁は虎威将軍、

鄴を平定したあと張遼が盪寇将軍とあるが

任じられたのは206年?らしい。

(楽進は折衝将軍)


張遼は時期不明だが

荊州の江夏の諸県を平定して都亭侯。

何気に亭侯に封じられてるのが

五将軍の中で一番遅い。


柳城攻め、蹋頓とうとん撃破で

張郃は平狄将軍、徐晃は横野将軍。



河北平定時の官職はこんな感じ↓


夏侯惇 伏波将軍、河南尹、高安郷侯

夏侯淵 典軍校尉、陳留・潁川太守

曹仁  厲鋒校尉、広陽太守、都亭侯

曹純  議郎、司空軍事、広陵亭侯

曹洪  揚武中郎将、諫議大夫

夏侯尚 司馬


張遼  盪寇将軍、都亭侯

楽進  折衝将軍、広昌亭侯

于禁  虎威将軍、益寿亭侯

張郃  平狄将軍、都亭侯

徐晃  横野将軍、都亭侯


李典  捕虜将軍、離狐太守、都亭侯

李通  裨将軍、陽安都尉、汝南太守、建功(亭?)侯、(都亭侯)

臧覇  威虜将軍、徐州刺史、都亭侯

呂虔  騎都尉?、泰山太守

許褚  校尉、関内侯


こうしてまとめてみると、

五将軍(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)は

武事オンリーで、

県令や太守などの統治の職務が

回ってきてないのがよくわかる。


都亭侯より地名亭侯の方が格は上。

曹操の上表で、名前を出す順番が

①于禁 ②楽進 ③張遼の順になってるように

この時点での張遼の功績は

生え抜きの于禁、楽進には及ばない。


なお関羽かんうは降った際に偏将軍、

顔良を斬った功績で

漢寿かんじゅ亭侯に封じられており

楽進、于禁級の扱いをされてるのがわかる。


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