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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、呂蒙伝
579/603

九、関羽を破る

9.

後羽討樊,留兵將備公安、南郡。蒙上疏曰:「羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也。蒙常有病,乞分士眾還建業,以治疾為名。羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽。大軍浮江,晝夜馳上,襲其空虛,則南郡可下,而羽可擒也。」遂稱病篤,權乃露檄召蒙還,陰與圖計。羽果信之,稍撤兵以赴樊。魏使于禁救樊,羽盡擒禁等,人馬數萬,託以糧乏,擅取湘關米。權聞之,遂行。先遣蒙在前。蒙至尋陽,盡伏其精兵〔舟+冓〕〔舟+鹿〕中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行,至羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。遂到南郡,士仁、麋芳皆降。蒙入據城,盡得羽及將士家屬,皆撫慰,約令軍中不得乾歷人家,有所求取。蒙麾下士,是汝南人,取民家一笠,以覆官鎧,官鎧雖公,蒙猶以為犯軍令,不可以鄉里故而廢法,遂垂涕斬之。於是軍中震慄,道不拾遺。蒙旦暮使親近存卹耆老,問所不足,疾病者給醫藥,饑寒者賜衣糧。羽府藏財寶,皆封閉以待權至。羽還,在道路,數使人與蒙相聞,蒙輒厚遇其使,周遊城中,家家致問,或手書示信。羽人還,私相參訊,咸知家門無恙,見待過於平時,故羽吏士無鬬心。會權尋至,羽自知孤窮,乃走麥城,西至漳鄉,眾皆委羽而降。權使朱然、潘璋斷其徑路,即父子俱獲,荊州遂定。

(訳)

その後、関羽ははんを討伐し

将兵を留めて公安、南郡を防備した。

呂蒙が上疏して言うには、


「関羽が樊を討伐しましたが

多く守備兵を留めておりますのは

間違いなく、わたしがその背後を

図るのを恐れたためにございます。


わたしには宿痾がございまして

(最近は常に病気がち?)

士衆を分けて建業へ帰還し

病気の治療を名目と

いたしとうございます。


関羽はこれを聞けば

必ずや守備兵を撤廃し

盡くを襄陽へ赴かせるでしょう。


大軍を長江へ出航させ

昼夜をかけて馳せ上り

その空虚を襲えば、

則ち南郡を下して関羽を

とりことする事ができましょう」


かくて病気が重篤であると称し

孫権はそこで露檄(封をしない檄文)

によって呂蒙を召還して

ひそかに一緒に計を練った。


関羽は果たせるかなこれを信じ

稍稍に撤兵して樊へ赴かせた。


魏は于禁を遣わして樊を救援させたが

関羽は于禁等をことごとく擒にした。

(于禁の)人馬は数万であり

食糧が欠乏した事に託けて

湘関しょうかんの米をほしいままに取った。


孫権はこれを聞くと遂に行動し、

先ず呂蒙を前衛に遣った。

呂蒙は尋陽じんように至ると

その精兵盡くを※冓鹿こうろくに伏せて

(※舟偏、輸送船のこと)

白衣(平民)に櫓(櫂)でがせ

商売人の服を作って昼夜兼行し、

関羽の配置した長江周辺の

屯候(哨戒)を盡く捕縛した。

このため、関羽は

(南郡の動きについて)

知ることができなくなった。


かくて南郡へ到着すると

士仁、麋芳はいずれも降伏した。


呂蒙は入って城を占據せんきょ

関羽及び将士の家属を得ると

皆慰撫して、軍中には

人家を不安にさせたり

略奪を求めてはならないと

命じる事を約束した。


呂蒙麾下の士で汝南じょなんの者が

民家から笠を一つ取って

官の鎧のおおいとした。

官の鎧はおおやけのものと雖も

呂蒙はなお軍令を犯したとして

郷里(の者)であるがために

法を廃す事はできないと考え、

とうとう涙を流してこれを斬った。


こうして軍中は震えおのの

道に遺棄されたものすら

拾うことはなくなった。


呂蒙は朝から暮れまで

親近に耆老きろうを救恤させて

不足している所を問い、

病疾の者には医薬を支給し、

飢餓や寒さに苦しむ者には

衣服や食糧を賜り、

関羽の府蔵の財宝にはすべて封をして

孫権が至るのを待った。


関羽は帰還する際

道路に在ってしばしば人を遣わし

呂蒙と互いに聞かせあった(連絡した)。

呂蒙は決まってその使者を厚遇し

城中を周遊して家家を訪問したり

或いは手ずから書いて信義を示した。


関羽の人(使者)が帰ってくると、

私的に訊ねにやって来たが、

みな、家門がつつがなき事と

平時に過ぎる待遇をされている事を

知ったが故に、関羽の吏士は

戦意をなくしてしまった。


ちょうど孫権が至り

関羽は自らが孤立、窮乏して

いる事を知ると、

かくて麦城へと走り

西のかた漳郷へと至ったが

部衆は皆関羽を見捨てて降伏した。


孫権は朱然、潘璋を遣わして

その経路を断ち、即座に

父子(関羽と関平)ともに捕獲した。

荊州はかくて平定された。



(註釈)

この樊城の戦いは、

三国全てが動いてるだけあり

記述も豊富です。


・武帝紀

(建安二十三年=218年)冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。

(219年)秋七月,以夫人卞氏爲王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。冬十月,軍還洛陽。孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。

二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。


・曹仁伝

侯音以宛叛,略傍縣衆數千人,仁率諸軍攻破音,斬其首,還屯樊,即拜征南將軍。關羽攻樊,時漢水暴溢,于禁等七軍皆沒,禁降羽。仁人馬數千人守城,城不沒者數板。羽乘船臨城,圍數重,外內斷絕,糧食欲盡,救兵不至。仁激厲將士,示以必死,將士感之皆無二。徐晃救至,水亦稍減,晃從外擊羽,仁得潰圍出,羽退走。


・管寧伝

建安二十三年,陸渾長張固被書調丁夫,當給漢中。百姓惡憚遠役,並懷擾擾。民孫狼等因興兵殺縣主簿,作為叛亂,縣邑殘破。固率將十餘吏卒,依昭住止,招集遺民,安復社稷。狼等遂南附關羽。羽授印給兵,還為寇賊,到陸渾南長樂亭,自相約誓,言:「胡居士賢者也,一不得犯其部落。」一川賴昭,咸無怵惕。天下安輯,徙宅宜陽。


・董昭伝

及關羽圍曹仁於樊,孫權遣使辭以「遣兵西上,欲掩取羽。江陵、公安累重,羽失二城,必自奔走,樊軍之圍,不救自解。乞密不漏,令羽有備。」太祖詰羣臣,羣臣咸言宜當密之。昭曰:「軍事尚權,期於合宜。宜應權以密,而內露之。羽聞權上,若還自護,圍則速解,便獲其利。可使兩賊相對銜持,坐待其弊。祕而不露,使權得志,非計之上。又,圍中將吏不知有救,計糧怖懼,儻有他意,為難不小。露之為便。且羽為人彊梁,自恃二城守固,必不速退。」太祖曰:「善。」即勑救將徐晃以權書射著圍裏及羽屯中,圍裏聞之,志氣百倍。羽果猶豫。權軍至,得其二城,羽乃破敗。


・蒋済伝

關羽圍樊、襄陽。太祖以漢帝在許,近賊,欲徙都。司馬宣王及濟說太祖曰:「于禁等為水所沒,非戰攻之失,於國家大計未足有損。劉備、孫權,外親內踈,關羽得志,權必不願也。可遣人勸躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。」太祖如其言。權聞之,即引兵西襲公安、江陵。羽遂見禽。


・温恢伝

建安二十四年,孫權攻合肥,是時諸州皆屯戍。恢謂兖州刺史裴潛曰:「此閒雖有賊,不足憂,而畏征南方有變。今水生而子孝縣軍,無有遠備。關羽驍銳,乘利而進,必將為患。」於是有樊城之事。詔書召潛及豫州刺史呂貢等,潛等緩之。恢密語潛曰:「此必襄陽之急欲赴之也。所以不為急會者,不欲驚動遠衆。一二日必有密書促卿進道,張遼等又將被召。遼等素知王意,後召前至,卿受其責矣!」潛受其言,置輜重,更為輕裝速發,果被促令。遼等尋各見召,如恢所策。


・張遼伝

關羽圍曹仁於樊,會權稱藩,召遼及諸軍悉還救仁。遼未至,徐晃已破關羽,仁圍解。遼與太祖會摩陂。遼軍至,太祖乘輦出勞之,還屯陳郡。


・于禁伝

建安二十四年,太祖在長安,使曹仁討關羽於樊,又遣禁助仁。秋,大霖雨,漢水溢,平地水數丈,禁等七軍皆沒。禁與諸將登高望水,無所回避,羽乘大船就攻禁等,禁遂降,惟龐悳不屈節而死。太祖聞之,哀歎者乆之,曰:「吾知禁三十年,何意臨危處難,反不如龐悳邪!」會孫權禽羽,獲其衆,禁復在吳。


・徐晃伝

復遣晃助曹仁討關羽,屯宛。會漢水暴隘,于禁等沒。羽圍仁於樊,又圍將軍呂常於襄陽。晃所將多新卒,以羽難與爭鋒,遂前至陽陵陂屯。太祖復還,遣將軍徐商、呂建等詣晃,令曰:「須兵馬集至,乃俱前。」賊屯偃城。晃到,詭道作都塹,示欲截其後,賊燒屯走。晃得偃城,兩面連營,稍前,去賊圍三丈所。未攻,太祖前後遣殷署、朱蓋等凡十二營詣晃。賊圍頭有屯,又別屯四冢。晃揚聲當攻圍頭屯,而密攻四冢。羽見四冢欲壞,自將步騎五千出戰,晃擊之,退走,遂追陷與俱入圍,破之,或自投沔水死。太祖令曰:「賊圍塹鹿角十重,將軍致戰全勝,遂陷賊圍,多斬首虜。吾用兵三十餘年,及所聞古之善用兵者,未有長驅徑入敵圍者也。且樊、襄陽之在圍,過於莒、即墨,將軍之功,踰孫武、穰苴。」晃振旅還摩陂,太祖迎晃七里,置酒大會。太祖舉巵酒勸晃,且勞之曰:「全樊、襄陽,將軍之功也。」時諸軍皆集,太祖案行諸營,士卒咸離陣觀,而晃軍營整齊,將士駐陣不動。太祖歎曰:「徐將軍可謂有周亞夫之風矣。」


・龐徳伝

侯音、衞開等以宛叛,悳將所領與曹仁共攻拔宛,斬音、開,遂南屯樊,討關羽。樊下諸將以悳兄在漢中,頗疑之。悳常曰:「我受國恩,義在效死。我欲身自擊羽。今年我不殺羽,羽當殺我。」後親與羽交戰,射羽中額。時悳常乘白馬,羽軍謂之白馬將軍,皆憚之。仁使悳屯樊北十里,會天霖雨十餘日,漢水暴溢,樊下平地五六丈,悳與諸將避水上隄。羽乘船攻之,以大船四面射隄上。悳被甲持弓,箭不虛發。將軍董衡、部曲將董超等欲降,悳皆收斬之。自平旦力戰至日過中,羽攻益急,矢盡,短兵接戰。悳謂督將成何曰:「吾聞良將不怯死以苟免,烈士不毀節以求生,今日,我死日也。」戰益怒,氣愈壯,而水浸盛,吏士皆降。悳與麾下將一人,伍伯二人,彎弓傅矢,乘小船欲還仁營。水盛船覆,失弓矢,獨抱船覆水中,為羽所得,立而不跪。羽謂曰:「卿兄在漢中,我欲以卿為將,不早降何為?」悳罵羽曰:「豎子,何謂降也!魏王帶甲百萬,威振天下。汝劉備庸才耳,豈能敵邪!我寧為國家鬼,不為賊將也。」遂為羽所殺。太祖聞而悲之,為之流涕,封其二子為列侯。文帝即王位,乃遣使就悳墓賜謚,策曰:「昔先軫喪元,王蠋絕脰,隕身徇節,前代美之。惟侯戎昭果毅,蹈難成名,聲溢當時,義高在昔,寡人愍焉,謚曰壯侯。」又賜子會等四人爵關內侯,邑各百戶。會勇烈有父風,官至中尉將軍,封列侯。


・陳思王植(曹植)伝

二十四年,曹仁為關羽所圍。太祖以植為南中郎將,行征虜將軍。欲遣救仁,呼有所勑戒。植醉不能受命,於是悔而罷之。


・桓階伝

曹仁為關羽所圍,太祖遣徐晃救之,不解。太祖欲自南征,以問羣下。羣下皆謂:「王不亟行,今敗矣。」階獨曰:「大王以仁等為足以料事勢不也?」曰:「能。」「大王恐二人遺力邪?」曰:「不。」「然則何為自往?」曰:「吾恐虜衆多,而晃等勢不便耳。」階曰:「今仁等處重圍之中而守死無貳者,誠以大王遠為之勢也。夫居萬死之地,必有死爭之心;內懷死爭,外有彊救,大王案六軍以示餘力,何憂於敗而欲自往?」太祖善其言,駐軍於摩陂。賊遂退。


・趙儼伝

關羽圍征南將軍曹仁於樊。儼以議郎參仁軍事南行,與平寇將軍徐晃俱前。旣到,羽圍仁遂堅,餘救兵未到。晃所督不足解圍,而諸將呵責晃促救。儼謂諸將曰:「今賊圍素固,水潦猶盛。我徒卒單少,而仁隔絕不得同力,此舉適所以弊內外耳。當今不若前軍偪圍,遣諜通仁,使知外救,以勵將士。計北軍不過十日,尚足堅守。然後表裏俱發,破賊必矣。如有緩救之戮,余為諸軍當之。」諸將皆喜,便作地道,箭飛書與仁,消息數通,北軍亦至,并勢大戰。羽軍旣退,舟船猶據沔水,襄陽隔絕不通,而孫權襲取羽輜重,羽聞之,即走南還。仁會諸將議,咸曰:「今因羽危懼,必可追禽也。」儼曰:「權邀羽連兵之難,欲掩制其後,顧羽還救,恐我承其兩疲,故順辭求效,乘釁因變,以觀利鈍耳。今羽已孤迸,更宜存之以為權害。若深入追北,權則改虞於彼,將生患於我矣。王必以此為深慮。」仁乃解嚴。太祖聞羽走,恐諸將追之,果疾勑仁,如儼所策。


・満寵伝

關羽圍襄陽,寵助征南將軍曹仁屯樊城拒之,而左將軍于禁等軍以霖雨水長為羽所沒。羽急攻樊城,樊城得水,往往崩壞,衆皆失色。或謂仁曰:「今日之危,非力所支。可及羽圍未合,乘輕船夜走,雖失城,尚可全身。」寵曰:「山水速疾,兾其不久。聞羽遣別將已在郟下,自許以南,百姓擾擾,羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎其後耳。今若遁去,洪河以南,非復國家有也;君宜待之。」仁曰:「善。」寵乃沈白馬,與軍人盟誓。會徐晃等救至,寵力戰有功,羽遂退。進封安昌亭侯。


・劉焉伝(子、劉璋)

孫權殺關羽,取荊州,以璋為益州牧,駐秭歸。璋卒,南中豪率雍闓據益郡反,附於吳。權復以璋子闡為益州刺史,處交、益界首。丞相諸葛亮平南土,闡還吳,為御史中丞。


・先主伝

時關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊。俄而孫權襲殺羽,取荊州。


・関羽伝

二十四年,先主為漢中王,拜羽為前將軍,假節鉞。是歲,羽率眾攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐德。梁、郟、陸渾群盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏。曹公議徙許都以避其銳,司馬宣王、蔣濟以為關羽得志,孫權必不原也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。曹公從之。先是,權遣使為子索羽女,羽罵辱其使,不許婚,權大怒。又南郡太守麋芳在江陵,將軍士仁屯公安,素皆嫌羽輕己。羽之出軍,芳、仁供給軍資,不悉相救。羽言「還當治之」,芳、仁咸懷懼不安。於是權陰誘芳、仁,芳、仁使人迎權。而曹公遣徐晃救曹仁,羽不能克,引軍退還。權已據江陵,盡虜羽士眾妻子,羽軍遂散。權遣將逆擊羽,斬羽及子平於臨沮。


・糜竺伝

芳為南郡太守,與關羽共事,而私好攜貳,叛迎孫權,羽因覆敗。笁面縛請罪,先主慰諭以兄弟罪不相及,崇待如初。笁慙恚發病,歲餘卒。


・劉封伝

自關羽圍樊城、襄陽,連呼封、達,令發兵自助。封、達辭以山郡初附,未可動搖,不承羽命。會羽覆敗,先主恨之。又封與達忿爭不和,封尋奪達鼔吹。達旣懼罪,又忿恚封,遂表辭先主,率所領降魏。


・費詩伝

先主為漢中王,遣詩拜關羽為前將軍,羽聞黃忠為後將軍,羽怒曰:「大丈夫終不與老兵同列!」不肯受拜。詩謂羽曰:「夫立王業者,所用非一。昔蕭、曹與高祖少小親舊,而陳、韓亡命後至,論其班列,韓最居上,未聞蕭、曹以此為怨。今漢王以一時之功,隆崇於漢室,然意之輕重,寧當與君侯齊乎!且王與君侯,譬猶一體,同休等戚,禍福共之,愚為君侯,不宜計官號之高下,爵祿之多少為意也。僕一介之使,銜命之人,君侯不受拜,如是便還,但相為惜此舉動,恐有後悔耳!」羽大感悟,遽即受拜。


・宗預伝(廖化)

廖化字元儉,本名淳,襄陽人也。為前將軍關羽主簿,羽敗,屬吳。思歸先主,乃詐死,時人謂為信然,因携持老母晝夜西行。會先主東征,遇於秭歸。先主大恱,以化為宜都太守。


・楊戯伝(季漢輔臣賛)

糜芳字子方,東海人也,為南郡太守。士仁字君義,廣陽人也,為將軍,住公安,統屬關羽;與羽有隙,叛迎孫權。


・呉主伝

二十四年,關羽圍曹仁於襄陽,曹公遣左將軍于禁救之。會漢水暴起,羽以舟兵盡虜禁等步騎三萬送江陵,惟城未拔。權內憚羽,外欲以為己功,牋與曹公,乞以討羽自效。曹公且欲使羽與權相持以鬬之,驛傳權書,使曹仁以弩射示羽。羽猶豫不能去。閏月,權征羽,先遣呂蒙襲公安,獲將軍士仁。蒙到南郡,南郡太守麋芳以城降。蒙據江陵,撫其老弱,釋于禁之囚。陸遜別取宜都,獲秭歸、枝江、夷道,還屯夷陵,守峽口以備蜀。關羽還當陽,西保麥城。權使誘之。羽偽降,立幡旗為象人於城上,因遁走,兵皆解散,尚十餘騎。權先使朱然、潘璋斷其徑路。十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。是歲大疫,盡除荊州民租稅。曹公表權為驃騎將軍,假節、領荊州牧,封南昌侯。


・呉主伝の引く「魏略」

浩周字孔異,上黨人。建安中仕為蕭令,至徐州刺史。後領護于禁軍,軍沒,為關羽所得。權襲羽,并得周,甚禮之。


・孫桓伝の引く「呉書」

(孫)河有四子。長助,曲阿長。次誼,海鹽長。並早卒。次桓,儀容端正,器懷聦朗,博學彊記,能論議應對,權常稱為宗室顏淵,擢為武衞都尉。從討關羽於華容,誘羽餘黨,得五千人,牛馬器械甚衆。


・諸葛瑾伝

後從討關羽,封宣城侯,以綏南將軍代呂蒙領南郡太守,住公安。


・蒋欽伝

權討關羽,欽督水軍入沔,還,道病卒。


・周泰伝

後權破關羽,欲進圖蜀,拜泰漢中太守、奮威將軍,封陵陽侯。


・潘璋伝

權征關羽,璋與朱然斷羽走道,到臨沮,住夾石。璋部下司馬馬忠禽羽,并羽子平、都督趙累等。權即分宜都巫、秭歸二縣為固陵郡,拜璋為太守、振威將軍,封溧陽侯。


・朱然伝

建安二十四年,從討關羽,別與潘璋到臨沮禽羽,遷昭武將軍,封西安鄉侯。


・呂範伝

權討關羽,過範館,謂曰:「昔早從卿言,無此勞也。今當上取之,卿為我守建業。」權破羽還,都武昌,拜範建威將軍,封宛陵侯,領丹楊太守,治建業,督扶州以下至海,轉以溧陽、懷安、寧國為奉邑。


・虞翻伝

呂蒙圖取關羽,稱疾還建業,以翻兼知醫術,請以自隨,亦欲因此令翻得釋也。


・陸遜伝

呂蒙稱疾詣建業,遜往見之。謂曰:「關羽接境,如何遠下,後不當可憂也?」蒙曰:「誠如來言,然我病篤。」遜曰:「羽矜其驍氣,陵轢於人。始有大功,意驕志逸,但務北進,未嫌於我,有相聞病,必益無備。今出其不意,自可禽制。下見至尊,宜好為計。」蒙曰:「羽素勇猛,既難為敵,且已據荊州,恩信大行,兼始有功,膽勢益盛,未易圖也。」蒙至都,權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長,才堪負重,觀其規慮,終可大任。而未有遠名,非羽所忌,無復是過。若用之,當令外自韜隱,內察形便,然後可克。」權乃召遜,拜偏將軍右部督代蒙。遜至陸口,書與羽曰:「前承觀釁而動,以律行師,小舉大克,一何巍巍!敵國敗績,利在同盟,聞慶拊節,想遂席捲,共獎王綱。近以不敏,受任來西,延慕光塵,思廩良規。」又曰:于禁等見獲,遐邇欣歎,以為將軍之勳足以長世,雖昔晉文城濮之師,淮陰拔趙之略,蔑以尚茲。聞徐晃等少騎駐旌,窺望麾葆。操猾虜也,忿不思難,恐潛增眾,以逞其心。雖雲師老,猶有驍悍。且戰捷之後,常苦輕敵,古人杖術,軍勝彌警,願將軍廣為方計,以全獨克。僕書生疏遲,忝所不堪。喜鄰威德,樂自傾盡。雖未合策,猶可懷也。倘明注仰,有以察之。

羽覽遜書,有謙下自托之意,意大安,無復所嫌。遜具啟形狀,陳其可禽之要。權乃潛軍而上,使遜與呂蒙為前部,至即克公安、南郡。遜徑進,領宜都太守,拜撫邊將軍,封華亭侯。備宜都太守樊友委郡走,諸城長吏及蠻夷君長皆降。遜請金銀銅印,以假授初附。是歲建安二十四年十一月也。


・全琮伝

建安二十四年,劉備將關羽圍樊、襄陽,琮上疏陳羽可討之計,權時已與呂蒙陰議襲之,恐事泄,故寢琮表不荅。及禽羽,權置酒公安,顧謂琮曰:「君前陳此,孤雖不相荅,今日之捷,抑亦君之功也。」於是封陽華亭侯。


・潘濬伝

孫權殺關羽,并荊土,拜濬輔軍中郎將,授以兵。遷奮威將軍,封常遷亭侯。


・潘濬伝の引く「江表伝」

權克荊州,將吏悉皆歸附,而濬獨稱疾不見。權遣人以牀就家輿致之,濬伏面著牀席不起,涕泣交橫,哀哽不能自勝。權慰勞與語,呼其字曰:「承明,昔觀丁父,鄀俘也,武王以為軍帥;彭仲爽,申俘也,文王以為令尹。此二人,卿荊國之先賢也,初雖見囚,後皆擢用,為楚名臣。卿獨不然,未肯降意,將以孤異古人之量邪?」使親近以手巾拭其面,濬起下地拜謝。即以為治中,荊州諸軍事一以諮之。武陵郡從事樊伷誘導諸夷,圖以武陵屬劉備,外白差督督萬人往討之。權不聽,特召問濬,濬荅:「以五千兵往,足可以擒伷。」權曰:「卿何以輕之?」濬曰:「伷是南陽舊姓,頗能弄脣吻,而實無辯論之才。臣所以知之者,伷昔甞為州人設饌,比至日中,食不可得,而十餘自起,此亦侏儒觀一節之驗也。」權大笑而納其言,即遣濬將五千往,果斬平之。


・是儀伝

呂蒙圖襲關羽,權以問儀,儀善其計,勸權聽之。從討羽,拜忠義校尉。儀陳謝,權令曰:「孤雖非趙簡子,卿安得不自屈為周舍邪?」


・呉範伝

權與呂蒙謀襲關羽,議之近臣,多曰不可。權以問範,範曰:「得之。」後羽在麥城,使使請降。權問範曰:「竟當降否?」範曰:「彼有走氣,言降詐耳。」權使潘璋邀其徑路,覘候者還,白羽已去。範曰:「雖去不免。」問其期,曰:「明日日中。」權立表下漏以待之。及中不至,權問其故,範曰:「時尚未正中也。」頃之,有風動帷,範拊手曰:「羽至矣。」須臾,外稱萬歲,傳言得羽。


・晋書、宣帝《司馬懿》紀

帝又言荊州刺史胡脩粗暴,南鄉太守傅方驕奢,並不可居邊。魏武不之察。及蜀將關羽圍曹仁於樊,于禁等七軍皆沒,脩、方果降羽,而仁圍甚急焉。

是時漢帝都許昌,魏武以為近賊,欲徙河北。帝諫曰:「禁等為水所沒,非戰守之所失,於國家大計未有所損,而便遷都,既示敵以弱,又淮沔之人大不安矣。孫權、劉備,外親內疏,羽之得意,權所不願也。可喻權所,令掎其後,則樊圍自解。」魏武從之。權果遣將呂蒙西襲公安,拔之,羽遂為蒙所獲。

魏武以荊州遺黎及屯田在潁川者逼近南寇,皆欲徙之。帝曰:「荊楚輕脫,易動難安。關羽新破,諸為惡者藏竄觀望。今徙其善者,既傷其意,將令去者不敢復還。」從之。其後諸亡者悉復業。


218年10月、

宛の守将の侯音こうおんが反乱を起こし

周辺の数千人を略取した。


当初、曹仁そうじんはん城に據り

関羽に当たっていたが、

曹操はわざわざ曹仁を動かして

侯音を討伐させる事にした。

という事は結構影響が大きかったのだろう。


曹仁は龐徳らといっしょに攻め

侯音を破って樊城に戻ってきたが、

(この時219年1月)

全部関羽の差し金じゃないかと思えてくる。


南陽なんよう太守の東里衮とうりこん

功曹の応余おうよが命懸けで

守ってくれたお陰で

どうにか脱出を果たしており、

また、侯音の支党500人余を捕えて

処刑すべきと上表している。

田豫でんよが彼らに更生の道を説き

一時的に枷を外してあげたため、

みな叩頭して赦免を請い

恩徳を仲間に伝え合ったがために

即日にして賊徒は解散したという。


資治通鑑によると219年7月に

劉備が漢中かんちゅう王となり、

関羽は前将軍に任命され節鉞せつえつを仮された。

軍事の独断専行権である。


任命のために費詩ひし

関羽のもとに遣わされると

関羽は黄忠こうちゅうが後将軍になったと聞いて

「大丈夫が終には老兵などと

同列になってしまうとは!」

と怒りを露わにした。


関羽は、馬超が加入した際も

「彼はどれほどのレベルですか?」

という対抗心剥き出しの手紙を送っており、

その場は費詩に説得されたものの

功を焦っていたと思われる。

武帝紀によると、8月には

于禁うきんの援軍を差し向けた事が

書かれているので、

関羽は仮節鉞となって

すぐに兵を動かしたようだ。


樊城への出征に際して関羽は

江陵こうりょうには糜芳びほう公安こうあんには士仁しじんを留めて

守備を固めさせており

呉に背後を衝かれる事は十分警戒していた。


これより以前、孫権は使者を遣わして

自身の子と関羽の娘の婚約を

取り結ばせようとしていたが、

関羽は使者を罵倒して承諾しなかった。

孫権は当然の如く怒り、

関羽との関係は一触即発と言っていいほど

悪化の一途を辿っていたのだ。


(趙雲別伝の情報だけど

劉備に輿入れした孫権の妹も

入蜀の際に呉に帰された模様)


この気難しい関羽に荊州の分割統治を

承諾させた魯粛ろしゅくって、改めてすごいよね…。


一方の呂蒙も、関羽の意図については

百も承知している。

ちょうど病気がちだったため

一旦建業(けんぎょう)で療養に当たるとともに

関羽を油断させようと目論んだ。

自分の体調すら計略に取り込むあたり

この人も筋金入りである。


呂蒙は建業で陸遜りくそんと会見し、

彼が卓越した能力を持ちつつも

まだ名前を知られていない事から、

自身の代役として赴任させる

(関羽を油断させる)には

もってこいだと考えた。

孫権もこの案に賛同し、

陸遜は偏将軍、右都督として

陸口に進駐する事となった。


全琮ぜんそうも、関羽を討つべきと主張し

その計略を孫権に上疏していたが、

孫権は呂蒙とともにこっそりと

襲撃の策を練っていた最中であり、

事が漏れる事を恐れて

全琮の上表は寝かせたままにしていた。


孫権は呂蒙と協議したあと

是非を是儀しぎに訊ねたが

是儀も計に賛同していたようだ。


また、孫権を怒らせて左遷されていた虞翻ぐはん

医術を心得ている事から

呂蒙は彼を従軍させる事を要請している。

自身の病状をチェックしてもらうとともに

名誉挽回の機会を与えようとしたのだという。


龐徳は、南陽で侯音らを討ったあと

樊城で関羽を迎え撃つことになったが、

彼はもともと馬超に仕えており

兄が漢中にいる事から

寝返るのではないかと

諸将に疑惑を持たれていた。


龐徳は、

「国から恩を受けたからには

義は死ぬことにございます。

関羽が死ぬか、私が死ぬかです」

と決死の覚悟を決めており、

関羽の眉間に矢を命中させるなど

紛紜を一蹴する活躍を見せる。

彼は白い馬に乗っていたため

「白馬将軍」と謳われた。


関羽はそれを聞いて

公孫瓚こうそんさんを思い出したに違いない…。


8月になると曹操は

于禁うきんを助太刀に遣ったが、

折しも十日余の霖雨りんうにより

漢水が物凄い勢いで氾濫し

その七軍は水没してしまった。

「暴溢平地五、六丈」とあるので

樊城もほぼ水びたしレベルだろう。


于禁が関羽に降伏する一方で、

龐徳は水を避けんと堤に上ったが

船を用意しておいた関羽軍に攻められ、

絶体絶命の状況に陥る。

それでも決して降ろうとせず

矢尽き刀折れるまで戦った。


曹操は話を聞くと、

「わしは于禁を30年見てきたが

いよいよとなって新参の龐徳に

及ばぬとは、思いもしなかった」

と、嘆息したという。


また、司馬懿はかねてより

粗暴な性格だという荊州刺史の胡修こしゅう

驕慢で奢侈を好む南郷太守の傅方ふほう

解任を訴えていたが聴き入れられず、

果たしてその二人も関羽への降伏を選び

痛恨極まる事態となった。


また、温恢おんかい伝には

ポーズとはいえ魏に降伏した孫権が

219年になってから合肥ごうひ

攻めたことが書かれている。


「今、水が発生しているのに

子孝(曹仁)は敵地深くまで遠征し

(中略)

関羽が利に乗じて進軍してくれば…」


と温恢が言ってるので

まだ関羽が攻めてきておらず

かつ雨が降り始めた頃だろうか。

南郡の方を意識させまいと

孫権自ら陽動を買って出たとか?


船団を繰り出してくる関羽の手際が

余りにも良すぎるので、

はじめから鉄砲水を利用して

樊城を抜くつもりだったのか。

孫権が合肥を攻めたことからも

大チャンスだと考えたのだろう。


また、曹操は息子の曹植そうち

南中郎将、行征虜将軍に任命して

樊城の救援に赴かせようとしている。

長幼の序に従えば後継者は曹丕そうひだが

曹操が死のギリギリまで迷ってるあたり

曹植を選びたかったのが本音だろう。

戦場での経験を積ませるとともに

ここで手柄を立てさせれば

あとあと話がスムーズになる…と

考えていたんだろうが、

曹植は酔っ払っていて拝命できず

父の失望を買ってしまう。

当然、上記の二職はクビになった。


9月には、鍾繇しょうようが召辟して

(相国府)西曹掾としていた沛国の魏諷ぎふう

民衆を扇動し、ぎょうの襲撃を画策した。

衛尉の陳禕ちんいがこれを漏らしたため

魏諷の一党は曹丕に誅殺され、

鍾繇は免官となった。


難事における曹丕と曹植の

対応力の差は、ここに歴然と

してしまった事だろう。


勢いに乗る関羽は

りょうこう陸渾りくこんの群盗に印綬をばらまき

(資治通鑑によると10月に)

陸渾の民、孫狼そんろうらが

魏に対して反乱を起こし

主簿を殺して関羽についた。


賊徒に官位ばらまいて懐柔するのは

後漢が割と使ってた手法であり、

西陵の戦の時にも馬良ばりょうを遣わして

武陵ぶりょう五谿ごけいの蛮族に印号を与えさせ

味方につけている。


ほとんど水没した樊城は

関羽の船団に囲まれており、

兵は数千人程度、さらには

食糧まで払底しかかっていた。

襄陽じょうよう呂常りょじょうも関羽の兵に

囲まれ、内外は断絶された状態にある。

陥落はもはや、時間の問題かと思われた。


「今日の危機は力で支える事はできません。

関羽の包囲が完成する前に

軽舟に乗って脱出しましょう。

樊城を失いはしても命は助かります」


と、曹仁に進言する者もいたが、

満寵まんちょうはこう言った。


「山の水はすぐに引きますので

今のような(冠水)状態は

長く続きますまい。

聞けば関羽は別将をこう下へ遣っており

きょ以南の百姓は不安を感じておるそうです。

関羽が敢えて進もうとせぬのは

我が軍がその背後を衝くのを

恐れているからにすぎませぬ。

もう少し待たれるのがよいでしょう」


曹仁は頷き、絶望的な状況下で

なお将士にゲキを飛ばして

決死の覚悟を示した。

主将が曹仁と満寵じゃなかったら

樊城はとっっっくに

陥落していた事だろう。


一方の陸遜は、陸口に赴任した後

関羽をヨイショする書状を送っていた。

いわく、


「釁隙を観て動かれ、規律により戦を行われ

弱兵を挙げて大勝をおさめられるとは

何と巍々たることでしょうか!

(……中略……)

ぼくは愚鈍でございまして、

任務を受けて西へ赴任してより

光塵をお慕い申しております。

よきはかりごとをお授けいただければと

愚考してございます!」


「于禁らを捕えられたとの事で

遠近は欣喜しております。

将軍の勲功は後世に伝えるに足り

晋の文公の城濮じょうぼくの戦や

淮陰わいいん侯(韓信かんしん)が趙を

抜いた際の計略ですらまるで及びません。

(……中略……)

ぼくは愚鈍な書生でございまして

任に堪えられぬ事を畏れております。

威徳に隣接できた事は喜ばしく、

全力でお力添えいたします。

まだ互いの策略を合わせてはおりませぬが

それでもなお尊敬の念に堪えません。

私の仰慕の明らかなことを

どうかお察しくださいませ」


自尊心の強い関羽には

このへりくだった文面は効果覿面。

雨のおかげとはいえ

魏にボロ勝ちした後なので

余計に増長してしまっていただろう。


気をよくした関羽は

呉への警戒を解いてしまい、

公安や南郡に置いていた守備兵を

どんどん樊城攻撃に投入し始める。


10月に(漢中から)

洛陽へと戻ってきた曹操は

万一関羽が許昌まで攻め込んできたら

献帝を奪われるのではないかと

危惧しており、遷都まで考えていた所、

司馬懿と蒋済しょうせいが進み出て、


「于禁らは水没してしまいましたが

守っていた所を戦闘で失ったわけでは

ございません。

国家の大計としては損ずる所はなく

たちまちに遷都してしまえば

敵に弱きを示す事になり

淮・沔の人々が混乱してしまいます。


孫権と劉備は表面上こそ親しいですが

内心では疎み合っており

関羽が我が意を得ても

孫権は喜びますまい。


孫権を動かして背後を衝かせれば

樊城の包囲は解けるでしょう」


曹操は頷き、ここに

魏と呉の利害が一致する形となる。


張遼ちょうりょう伝には、関羽が樊城を囲むと

ちょうど孫権が称藩した…とある。

合肥を攻めていたのも全部、

関羽を欺くためだったとしか思えない。

孫権は曹操のもとに

使者を遣わしてこう述べた。


「兵を西へ遣り、関羽を掩襲いたしたく。

江陵、公安は累重しており

関羽はこの二城を失えば自ずと奔走し

樊城の包囲は解けましょう。

どうか秘密厳守で

関羽に備えを設けさせないでください」


曹操含めて一同は

孫権の言う通りにしようとするが

董昭とうしょうが反駁した。


「孫権には秘すると答えておいて

内部に漏らしてしまいましょう。

関羽は孫権が遡上したと聞いて

もし戻って自衛したなら

樊城の囲みは直ちに解け、

その利を得ることができます。

孫権の思い通りにさせるのは

上計ではございません」


曹操はもっともだと考え、

徐晃に命じて、孫権の書状を

関羽の屯営及び包囲の内に

射たせて、わかりやす〜く示した。


これにより、

樊城の士気は100倍となり

関羽は逆に猶予いざよってしまった。

関羽にとっては魏の策略なのか

マジで呉が裏切ったのか

判然としない所だったが、

答えはその両方であった。


また、関羽は上庸じょうよう劉封りゅうほう孟達もうたつ

何度も援軍を要請していたが、

情勢が不安定だからと理由をつけて

二人は兵を寄越さなかった。


留守を預かる士仁しじん糜芳びほう

平素から関羽に軽んじられていたため

サポートしようという意欲は薄く

軍資の供給は滞っていた。

(帰ったら処分してやると関羽に脅されてもいる)


このように、関羽は期せずして

三国すべてを敵に回したような状態に

なってしまっていた……。


劉備ですら関羽を援護している様子はなく

最悪の場合、関羽が兵を動かしてるのを

知った頃にはもう手遅れの

状態だったのかもしれない。


当初、徐晃じょこうは曹仁の補助として

えんに駐屯していたが、

急拵えの徴兵だったのか

率いているのは新兵ばかりだった。

漢水の氾濫で于禁や龐徳が敗れ

関羽と鋒を争うのは困難であると

判断した彼は、とりあえず

前進して陽陵ようりょう陂に據った。


徐晃の諸将は早いとこ

樊城の救援へ向かうよう

彼を叱責していたが、

議郎の趙儼ちょうげんは徐晃に賛同して、


「いま賊の包囲は固く

水の勢いもまだ盛んですが、

我々の兵は少なく

曹仁将軍とは隔絶されて

力を合わせる事ができません。

ここで動いても

内外の弊害になるだけです。


今は軍を進めて囲みに迫り

曹仁将軍に通牒して

外から救援が来ている事を知らせ

将士を激励するに

越した事はございません。

北軍を計るに十日を過ぎず

なお堅守に足ります。

しかる後に内外で倶に発すれば

賊を必ず破れましょう」


関羽の兵は樊城から北に位置する

えん城に駐屯しており、

徐晃が陽動として塹壕を堀ると

(趙儼伝の坑道を作って…も多分これの事)

屯営を焼いて逃げていった。

徐晃は偃城を取ると

陣営を連ねてじりじりと前進、

包囲から三丈まで迫り

矢文で曹仁と連絡を取り合った。

(たぶんここで孫権の書状も公開)


一丈が230〜240cmくらいなので

三丈は7メートルくらい。

もうほとんど関羽軍は目の前!


徐晃でもすぐには

樊城の囲みを解けなかったため

曹操は親征も視野に入れて

その是非を群臣に諮ったが、

桓階かんかいは、曹仁や徐晃を信じているなら

親征すべきではないと反対した。


これを納れた曹操は、そこで

摩陂まはに軍を駐留させるのみにとどめ、

一方で徐商じょしょう呂建りょけんらを徐晃のもとへ派遣し

合流したら速やかに前進せよ、と命じた。

前後に渡って殷署いんしょ朱蓋しゅがい

凡そ十二営が援軍に向かっており、

合流を果たした徐晃は

曹操の指示通り、攻撃を開始した。


関羽軍の屯営は囲頭いとう四冢しちょうにあり、

徐晃は囲頭を攻めると喧伝して

四冢を討つ、声東撃西策を用いた。


四冢が壊滅しかかっているのを見て

関羽は五千を率いて迎撃に出たが

徐晃はこれを返り討ちに。

徐晃は追撃しつつ包囲を破り、

曹仁も水がだんだん引いてきたのを

見計らい、遂に囲みを突破する。


関羽は軍を一旦退かせたが、

船団はなおも沔水を占拠しており

襄陽じょうよう方面への経路は

依然として断たれたままだった。

…が、孫権が南郡を襲撃したとの

報せが入り、関羽は慌てて

南方へと旋転したのであった。


皆が追撃に出て関羽を

捕えるべきだと述べたが、

趙儼は、関羽と孫権を争わせた方が

得だと考えて反対。

果たして関羽は捨て置かれたが

コレは曹操の見解と全く一緒であった。


曹操は徐晃の戦功を讃え、

田単でんたん孫武そんぶ司馬しば穰苴じょうしょ周亜夫しゅうあふなど

色んな偉人を引用するベタ褒めっぷり。

曹仁、徐晃、張遼、満寵…本当に

魏は人材のレベルが高い。


また、兗州刺史の裴潜はいせん、豫州刺史の呂貢りょこう

そして張遼ちょうりょうらにも

前後に渡って召集がかけられており、

表向きは(人々を混乱させぬよう)

ゆっくり行軍せよ…とあったが

温恢おんかいはその真意を読んで

襄陽じょうようへ急行するよう促していた。

なお張遼らが至った際には

関羽は既に敗走していた。


南郡では一体何が起きていたのか?


呂蒙は関羽が南郡をガラ空きにするのを

ずっと待っており、

既に関羽に降伏していた

于禁の兵馬(数万)が腹を空かせて

湘関しょうかんの備蓄を勝手に食べ始めた事を

きっかけに、遂に行動を開始した。

これが于禁の指示だったとしたら

最後の矜持を見せた事になる。


呂範りょはんは、かつて劉備が

(入蜀の相談のために)

孫権に見えた際に、

劉備を留めるよう進言しており、

関羽討伐に際して呂範の屋敷を

通りがかった孫権は、


「昔、あなたの言う通りにしていれば

このような苦労はなかった。

これから遡上してこれ(関羽)を

取ろうと思うが、その間私の為に

建業を守ってはくれまいか」


と述べ、建業の留守を任せた。


呂蒙は尋陽じんように至ると

精兵を輸送船に隠し、

商人の一団に扮して

昼夜兼行で江陵へと向かい、

関羽が置いた斥候を悉く捕縛。

南郡が陥落するまで

関羽に一切の報せがなかったのは

このためであった。


江陵と公安の守備兵は殆ど

関羽が持っていってしまったため

その戦力は望むべくもなく、

加えて軍資を満足に

供給できなかったかどで

関羽に罰されるのではないかと

恐れ慄いていた糜芳と士仁は

呂蒙にあっさりと降ってしまう。

宜都ぎと太守の樊友はんゆうも逃げ出してしまい

諸城の長史、蛮夷の長、そして

荊州の事務に当たっていた潘濬はんしゅんも降ってしまった。

江表伝によると、

荊州の将吏が孫権に帰順する中で

潘濬だけは病と称して現れなかったが

孫権は床に就かせた状態のままで

彼を連行し、説得したのだという。

季漢輔臣賛では糜芳、士仁とともに

裏切り者扱いをされているが、

陳寿は「公清害斷,節概梗梗,有大丈夫格業」

と、彼を非常に高く評価している。


陸遜伝によると、これが11月のこと。


呂蒙は江陵へ入ると

関羽や将兵の家族を手厚く保護し

軍中に命じて一切の略奪を禁じさせた。


呂蒙と同郷の兵が

民家から笠を一つだけ取って

公式の鎧の覆いとすると、

呂蒙は軍律に違反したとして

涙を流しながら彼を処刑。

同郷の者とて特別扱いしない

呂蒙の態度を見て

軍はピリッと引き締まり

拾遺する者すらなくなった。


呂蒙はさらに、

老人、病人、飢餓者を救恤して

関羽よりも人々を厚遇。

倉庫には封をして

孫権の到着と沙汰を待った。


関羽は半信半疑のまま

江陵と連絡を取り合ったが、

その使者も厚く遇されており、

家族が丁重に持て成されている事を

使者から聞いた関羽の兵士は

完全に戦意を失ってしまい、

遂には関羽の事を見捨ててしまった。


呂蒙は兵器を駆使するよりも

心を攻めるのが上策ということを

よく理解していた。


一方で陸遜は江陵の西側の

宜都ぎと秭歸しき枝江しこう夷道いどう等をおさえ

夷陵いりょうに駐屯して劉備に備えた。


江陵を孫権に占拠されたとわかると

関羽は残った手勢とともに

当陽とうようから、西のばく城へ走った。


呉書によると、孫河そんかの子の孫桓そんかん

華容かようで関羽討伐に従い

余党を誘引して五千人と

多数の牛馬、器械を得た、とある。


こうなるともう、恥を忍んで

巴蜀に逃げ込むしかなかっただろう。


孫権は関羽を誘引したが

関羽は降伏する振りをして

城の上に人のように見せかけた

旗を立ててから遁走した。

兵はバラバラになってしまい

十余騎だけが残った。


孫権は朱然や潘璋に命じて

退路を断たせており、

12月になって関羽は親子共々

潘璋の司馬の馬忠ばちゅうに捕えられた。


風水師の呉範ごはんは、

関羽が正午に捕えられると予言しており、

孫権は日時計を作って待っていた所、

果たしてその通りの時刻に

関羽が連行されてきたとか。


関羽が降伏を肯じる事はなく

とうとう臨沮で斬られてしまった。


関羽が敗れるに及んで

于禁及びその兵馬、目付役の浩周こうしゅう

于禁の司馬となっていた南陽太守の東里衮は

一時的に孫呉の傘下に入る事になった。

また、劉備に敗れて以来、南郡の公安に

移っていた劉璋りゅうしょうに関しては

益州牧として秭歸しきに駐留させたという。


関羽の主簿しゅぼであった廖化りょうか

劉備のもとへ帰ろうと考え、

死んだと偽った上で、老母を抱えて

昼夜兼行で西へと走った。

ちょうど劉備は呉の討伐に向かう所であり

秭歸で廖化と出会して大変に喜び、

彼を宜都ぎと太守に任じたのだという。


関羽が敗死したのは

外交や人間関係を軽視した事に起因するが、

樊城攻めに関しては

本当に惜しいところまでいってた。

曹操がここまで狼狽していたのは

官渡で荀彧じゅんいくに手紙出した時

以来じゃなかろうか。


呂蒙は間も無く病死してしまい、

水軍を指揮して沔水へ向かった蒋欽しょうきん

帰還の途上で病没してしまっており

マジで関羽の呪いのように感じられる。


弟の糜芳びほうが呉に降ってしまった事を知った

兄の糜竺びじくは、自ら縄目を受けて

劉備のもとに出頭し、罪を請うたが

劉備は糜竺を責めず、従来通りに接した。

しかし、糜竺は慙愧のあまりに

ほどなくして死んでしまったという。


糜兄弟は劉備に仕えて二十余年。

于禁もそうだが、長年主君を支えた人材が

晩節を汚す結果になってしまった。


糜竺を許す一方、

関羽に援軍を出さなかった劉封と孟達に

劉備は怒りを露わにしている。

結局孟達は魏に亡命してしまい、

劉封は死を賜る事になった。


その後、孫権は関羽の首を魏に送った。

「我々は魏の属国です」と

宣言したに等しい。

前後関係を整理しただけでこの文字数。

関羽の影響力はすごいんですね。

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