七、合肥の鬼神、張遼
7.
師還,遂徵合肥,既撤兵,為張遼等所襲,蒙與淩統以死扦衛。後曹公又大出濡須,權以蒙為督,據前所立塢,置強弩萬張於其上,以拒曹公。曹公前鋒屯未就,蒙攻破之,曹公引退。拜蒙左護軍、虎威將軍。
(訳)
師団は帰還し
かくて合肥を征伐したが
撤兵の後、張遼等の為に
襲撃される所となり、呂蒙と凌統は
死を以て防衛した。
その後、曹公がまたも
濡須に大軍を出撃させると、
孫権は呂蒙を督として
以前に立てた塢に據らせ
強弩一万張をその上に置く事で
曹公を拒いだ。
曹公の先鋒が屯営に就かぬうちに
呂蒙がこれを攻め破ったため
曹公は引き退がった。
呂蒙は左護軍、虎威将軍に拝された。
(註釈)
・武帝紀
(建安二十年=215年)八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。
・張遼伝
太祖旣征孫權還,使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯,教與護軍薛悌,署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬衆圍合肥,乃共發教,教曰:「若孫權至者,張、李將軍出戰;樂將軍守,護軍勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢,以安衆心,然後可守也。成敗之機,在此一戰,諸君何疑?」李典亦與遼同。於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。平旦,遼被甲持戟,先登陷陣,殺數十人,斬二將,大呼自名,衝壘入,至權麾下。權大驚,衆不知所為,走登高冢,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將衆少,乃聚圍遼數重。遼左右麾圍,直前急擊,圍開,遼將麾下數十人得出,餘衆號呼曰:「將軍棄我乎!」遼復還突圍,拔出餘衆。權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣,還脩守備,衆心乃安,諸將咸服。權守合肥十餘日,城不可拔,乃引退。遼率諸軍追擊,幾復獲權。太祖大壯遼,拜征東將軍。
建安二十一年,太祖復征孫權,到合肥,循行遼戰處,歎息者良乆。乃增遼兵,多留諸軍,徙屯居巢。
・楽進伝
後從征孫權,假進節。太祖還,留進與張遼、李典屯合肥,增邑五百,并前凡千二百戶。
・李典伝
與張遼、樂進屯合肥,孫權率衆圍之,遼欲奉教出戰。進、典、遼皆素不睦,遼恐其不從,典慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾不可以私憾而忘公義乎!」乃率衆與遼破走權。增邑百戶,并前三百戶。
・呉主伝
權反自陸口,遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與凌統、甘寧等在津北為魏將張遼所襲,統等以死扞權,權乘駿馬越津橋得去。
・呉主伝の引く「献帝春秋」
獻帝春秋曰:張遼問吳降人:「向有紫髯將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人荅曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍歎恨。江表傳曰:權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超渡。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直為親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。
・蒋欽伝
從征合肥,魏將張遼襲權於津北,欽力戰有功,遷盪寇將軍,領濡須督。
・陳武伝
建安二十年,從擊合肥,奮命戰死。權哀之,自臨其葬。
・甘寧伝
建安二十年,從攻合肥,會疫疾,軍旅皆已引出,唯車下虎士千餘人,并呂蒙、蔣欽、凌統及寧,從權逍遙津北。張遼覘望知之,即將步騎奄至。寧引弓射敵,與統等死戰。寧厲聲問鼓吹何以不作,壯氣毅然,權尤嘉之。
・凌統伝
與呂蒙等西取三郡,反自益陽,從往合肥,為右部督。時權徹軍,前部已發,魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵,兵去已遠,勢不相及,統率親近三百人陷圍,扶扞權出。敵已毀橋,橋之屬者兩版,權策馬驅馳,統復還戰,左右盡死,身亦被創,所殺數十人,度權已免,乃還。橋敗路絕,統被甲潛行。權旣御船,見之驚喜。統痛親近無反者,悲不自勝。權引袂拭之,謂曰:「公績,亡者已矣,苟使卿在,何患無人?」
・凌統伝の引く「呉書」
統創甚,權遂留統於舟,盡易其衣服。其創賴得卓氏良藥,故得不死。
・潘璋伝
合肥之役,張遼奄至,諸將不備,陳武鬬死,宋謙、徐盛皆披走,璋身次在後,便馳進,橫馬斬謙、盛兵走者二人,兵皆還戰。權甚壯之,拜偏將軍,遂領百校,屯半州。
・賀斉伝
二十年,從權征合肥。時城中出戰,徐盛被創失矛,齊引兵拒擊,得盛所失。
武帝紀によると215年8月。
凌統伝を見た感じだと
劉備と和睦したあと
すぐ合肥攻めに入っている。
甘寧伝だと
益陽で関羽を防いだ(215)後に
皖城の戦い(214)になっていて
順番が前後している?
合肥には、張遼、李典、楽進らと
7000余りの兵が駐屯していた。
対する孫権の軍勢は10万。
前年には皖城を
わずか数時間で陥しており
荊南の三郡もあまり被害を出さずに
平定する事がかなっている。
しかも曹操は漢中へ出征中。
さらに多勢に無勢とくれば
呉側に楽勝ムードが
漂っていてもおかしくない。
しかし孫権は忘れていた…。
赤壁の前後にも
10万の軍勢で合肥を攻めて
下せていなかったことを。
そして孫権は知らなかった…。
張文遠が人間の皮を被った
モンスターだということを。
曹操は、張魯討伐にあたり
護軍の薛悌を通じて
張遼らに箱を与えておいた。
「賊が来たら開けろ」と書いてある箱を。
孫権が10万余の軍勢を引き連れて
合肥を囲むと、張遼らは
かくて箱を開けた。すると…
「もし孫権がやって来たら
張遼・李典は出撃し
楽進は城を固めて交戦せぬように」
と書かれていた。
諸将はどういう事だろうと訝ったが
張遼が言った。
「公は遠征されて外部におり
救援が至るころには、間違いなく
我らは奴らに破られているだろう。
これは、奴らが
集まりきらぬうちに逆撃して
その威勢を挫き、皆を安心させてから
守れ……と教示されたものだ。
成功と失敗の機はこの一戦にある、
諸君らは何を疑うのか」
李典も張遼に賛同した。
李典の従父の李乾は、
呂布の軍に殺されているため
元呂布の部下である張遼とは
当然折り合いが悪かった。
故に張遼は、いざという時も
彼との足並みが揃わぬだろうと
考えていたが、李典は言った。
「これは国家の大事です。
私は私情により
公義を忘れたりはしません」
カッコエエ!
こうして張遼、李典、
楽進(楽進も仲が悪かった)は
国家の大事の前に
一致団結する事を決めた。
こうして張遼は敢從の士を募り、
800人を獲得。
翌日に大勝負を挑む前に
牛を兵士たちに振る舞った。
出撃は黎明のころ。
張遼は鎧を纏って戟を手に取ると
先頭に立って陣を落とし
数十の兵と二人の将を斬殺して
「我こそは張文遠!!」と
大音声で自らの名を呼ばわり
塁に突入した。
まるで皖城の意趣返しであり
孫権軍はその勢いの前に
完全に浮き足立ってしまう。
孫権は高冢にダッシュで登ると
長戟で自守したが、
張遼は「下りてきて戦え!」と
怒声を浴びせた。
蛇に睨まれた蛙のように
身動きの取れない孫権であったが、
見れば張遼は寡勢である。
兵を集め、張遼を重囲した。
張遼は囲みを左右に動き回った後
急にペースを変えて突き入り
張遼と麾下数十人は囲みから
脱出を果たす。
取り残されてしまった余勢は
「将軍は我々を見捨てられた!」
と叫んだが、
なんと張遼は囲みの中に再突入し
彼らを助け出してしまう。
わずか800人に
100000人がなす術なし!
もはや妖怪の類にしか見えない張遼に
誰も当たろうとはせず、
夜明けから日中までの戦いで
呉軍は完全に戦意を失ってしまった。
張遼が無事合肥の城に戻ると
諸将は感服し、魏軍は平静を取り戻した。
十日余りしても合肥は抜けず
江南名物、疫病が蔓延し始めたため
孫権は撤退する事に。
甘寧伝を見た感じだと
孫権自らが殿を担わなきゃならない程に
士気がガタガタになっていたようで、
孫権には一千人ほどの虎士と
呂蒙、甘寧、凌統、蒋欽などが
従っているだけの状態だった。
張遼がこれを見逃すわけがなく、
透かさず逍遙津の北へ追撃に出てくる。
撤退中の前軍とはもはや
距離が離れすぎてしまっており、
不意を衝かれて陳武が戦死、
徐盛が負傷して矛を失い
宋謙は蹴散らされて敗走と
孫権は未曾有の大ピンチに陥った。
凌統は親近者三百人で孫権を護衛し
甘寧は弓で懸命に応戦、
呂蒙、蒋欽も死に物狂いで戦った。
後方に控えていた潘璋は
敗走していた徐盛、宋謙の兵を二人斬って
戦線に復帰させ、賀斉もまた
徐盛の兵の収斂に当たった。
橋はすでに壊されており、二枚の板で
繋がっているだけの状態だったが
谷利の助力により、孫権の馬は
なんとかこれを飛び越える事に成功。
凌統は戻ってさらに戦い
自身も負傷しながら数十人を倒す。
孫権が無事に逃げた事を確認してから
凌統は甲を纏ったまま潜行し
なんとか逃げおおせることが出来たが、
左右の三百人は全滅してしまい
自ずと涙に暮れたという。
その姿を見た孫権は
自らの袖で凌統の涙を拭ってやり、
「公績、亡くなった者は帰ってこない。
苟もきみが健在であるなら
どうして人がいないと憂患する事があろう」
と述べて慰めた。
呉書によると、凌統の傷は深く、
卓氏の良薬によりどうにか
持ち直したようだが、これ以降は
戦闘に参加してる様子がない。
父の代からの精鋭と
健康体を失ってしまっては
無理もなかろう。
かくて合肥の戦は
呉側にとっては
惨憺たる結果に終わった。
この戦における張遼の活躍ぶりは
語り草となり、
「蒙求」にはこんな一説が。
公超霧市,魯般雲梯。
田單火牛,江逌爇雞。
蔡裔殞盜,【張遼止啼】
陳平多轍,李廣成蹊。
陳遵投轄,山簡倒載。
「張遼は啼く子を止ませる」と。
これが「泣く子も黙る」の語源です。
また、献帝春秋に、ちょっと
シュールな逸話が載っています。
張遼が呉の降伏者に問うた。
「向こうに紫の髯で胴長短足で
馬や弓の扱いがうまい将軍がいたが、
あれは誰なのかね?」
降人答えて、
「それは孫会稽(孫権)です」
張遼は楽進とあい遇すると、
「早くにこの事を知っていれば
急追して捕えられたものを」
と、軍を挙げて悔しがった。
この、紫髯で胴長短足という
孫権の変なビジュアルは
無事演義に採用されてしまった。




