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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、呂蒙伝
574/603

四・註二、濡須の塢/塢の必要性

4.

魏使廬江謝奇為蘄春典農,屯皖田鄉,數為邊寇。蒙使人誘之,不從,則伺隙襲擊,奇遂縮退,其部伍孫子才、宋豪等,皆攜負老弱,詣蒙降。後從權拒曹公於濡須,數近奇計,又勸權夾水口立塢,所以備禦甚精,曹公不能下而退。

(訳)

魏は廬江ろこう謝奇しゃき蘄春きしゅん典農てんのうとして

皖の郷で屯田をおこなわせ

しばしば辺境を侵掠させた。


呂蒙は人を遣わしてこれを誘引したが

従わなかったため、

そこで隙を伺って襲撃した。

謝奇はかくて畏縮して退却し

その卒伍の孫子才そんしさい宋豪そうごう等は

皆老弱を引き連れ、背負って

呂蒙のもとにまいって降伏した。


その後、孫権に従って

曹公を濡須じゅしゅにて拒ぎ、

しばしば奇計を進言した。

また、孫権に水口を挟んで

を立てるように勧め、

それにより防御が

甚だ精緻なものとなったため

曹公は下す事ができずに退却した。


註2.

吳錄曰:權欲作塢,諸將皆曰:「上岸擊賊,洗足入船,何用塢為?」呂蒙曰:「兵有利鈍,戰無百勝,如有邂逅,敵步騎蹙人,不暇及水,其得入船乎?」權曰:「善。」遂作之。

(訳)

呉録にいう、

孫権が塢を作ろうとすると

諸将は皆言った。


「岸へ上って賊を撃ち、

足を洗って船へ入るだけであって

どうして塢が用を為しましょう」


呂蒙は言った。


「兵には鋭きものと鈍きものがあり

(百回)戦って百勝する事などない。

もし邂逅があって

敵の歩兵や騎兵が人にせまれば

水まで及ぶ暇はない、

その場合、船に入る事ができようか?」


孫権は「よし」と言い、

かくて塢を作った。


(註釈)

続漢書地理志によると

蘄春きしゅん江夏こうか郡に属す。


210年、孫権は長沙郡を分けて

漢昌かんしょう郡を作り、魯粛をその太守に。

長沙郡に線を引いて

荊州が全部お前ら(劉備)の

もんではないぞ、貸してるだけだぞ

という意思表示だろう。


211年は関中で馬超ばちょうと戦っている曹操。

濡須じゅしゅを攻めてくるのは、

馬超を片付けてからだ。


謝奇しゃきに屯田を行わせ

辺境を侵略させていたが

これは呂蒙が処理した。


211年に孫権は治所を秣陵ばつりょうにうつし、

212年には建業けんぎょうと改名。

曹操が攻めてきそうな雰囲気があるから

濡須に塢を作っておいた。

塢は、防衛用の小さな堡塁のこと。


・武帝紀

(十七年)冬十月,公征孫權。

十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。

二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。


・臧覇伝

霸從討孫權於濡須口,與張遼為前鋒,行遇霖雨,大軍先及,水遂長,賊舩稍進,將士皆不安。遼欲去,霸止之曰:「公明於利鈍,寧肯捐吾等邪?」明日果有令。遼至,以語太祖。太祖善之,拜揚威將軍,假節。後權乞降,太祖還,留霸與夏侯惇等屯居巢。


・呉主伝

十八年正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。初,曹公恐江濵郡縣為權所略,徵令內移。民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵戶十餘萬皆東渡江,江西遂虛,合肥以南惟有皖城。

二十一年冬,曹公次於居巢,遂攻濡須。


孫瑜そんゆ

後從權拒曹公於濡須,權欲交戰,瑜說權持重,權不從,軍果無功。


孫皎そんこう

是時曹公數出濡須,皎每赴拒,號為精銳。遷都護征虜將軍,代程普督夏口。


蒋欽しょうきん

曹公出濡須,欽與呂蒙持諸軍節度。


周泰しゅうたい

曹公出濡須,泰復赴擊,曹公退,留督濡須,拜平虜將軍。


・董襲伝

曹公出濡須,襲從權赴之,使襲督五樓船住濡須口。夜卒暴風,五樓船傾覆,左右散走舸,乞使襲出。襲怒曰:「受將軍任,在此備賊,何等委去也,敢復言此者斬!」於是莫敢干。其夜船敗,襲死。權改服臨殯,供給甚厚。


・甘寧伝

後曹公出濡須,寧為前部督,受勑出斫敵前營。權特賜米酒衆殽,寧乃料賜手下百餘人食。食畢,寧先以銀盌酌酒,自飲兩盌,乃酌與其都督。都督伏,不肯時持。寧引白削置膝上,呵謂之曰:「卿見知於至尊,孰與甘寧?甘寧尚不惜死,卿何以獨惜死乎?」都督見寧色厲,即起拜待酒次,通酌兵各一銀盌。至二更時,銜枚出斫敵。敵驚動,遂退。寧益貴重,增兵二千人。


・甘寧伝の引く江表伝

江表傳曰:「曹公出濡須,號步騎四十萬,臨江飲馬。權率衆七萬應之,使寧領三千人為前部督。權密勑寧,使夜入魏軍。寧乃選手下健兒百餘人,徑詣曹公營下,使拔鹿角,踰壘入營,斬得數十級。北軍驚駭鼓譟,舉火如星,寧已還入營,作鼓吹,稱萬歲。因夜見權,權喜曰:「足以驚駭老子否?聊以觀卿膽耳。」即賜絹千匹,刀百口。權曰:「孟德有張遼,孤有興霸,足相敵也。」停住月餘,北軍便退。


徐盛じょせい

曹公出濡須,從權禦之。魏甞大出橫江,盛與諸將俱赴討。時乘蒙衝,遇迅風,船落敵岸下,諸將恐懼,未有出者,盛獨將兵,上突斫敵,敵披退走,有所傷殺,風止便還,權大壯之。


朱然しゅぜん

曹公出濡須,然備大塢及三關屯,拜偏將軍。



212年冬10月、曹操が攻めてきた。

呂蒙の作った塢が硬くて

下す事ができずに退却したのはこの時か?

また、朱然しゅぜんが塢の整備に

大忙しだった事がわかる。


213年正月、曹操が濡須を攻め、

孫権の江西の陣営を破って

都督の公孫陽こうそんようを捕えている。


防ぎ合うこと一ヶ月余り、

曹操は孫権の軍を望見したが

整っていて厳粛だったため

(呉歴では「孫権みたいな子が欲しい」

と漏らすほどだった)

かくて退却した。


当初曹操は長江周りの郡県を

孫権に略取される事を恐れていたため

布令を出して内部に人を移そうとした。

民衆はびっくりしてしまい、

廬江、九江、蘄春、広陵の

十万余戸が長江へ東へ渡った。

江西は空っぽになってしまい

合肥以南は皖城が残るのみとなった。


濡須の戦役は

212年冬〜213年春と

216年冬〜217年春で2回あり、

呉将の「曹公出濡須…」は

どっちなのか吟味する必要がある。


孫皎そんこうは、程普に代わって…とあり

恐らく前者。

蒋欽は合肥ごうひの戦の後に

書かれてるから恐らく後者だろう。


董襲伝、徐盛伝では

強風だった事が書かれてるので

たぶん同時期のこと。


江表伝には

曹操の軍勢が40万と書かれてるが

あまり鵜呑みにしないほうがよさそう。

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