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淡々三国志  作者: ンバ
呉書第九、呂蒙伝
572/603

三、見よ、呂子明の才略

3.

魯肅代周瑜,當之陸口,過蒙屯下。肅意尚輕蒙,或說肅曰:「呂將軍功名日顯,不可以故意待也,君宜顧之。」遂往詣蒙。酒酣,蒙問肅曰:「君受重任,與關羽為鄰,將何計畧以備不虞?」肅造次應曰:「臨時施宜。」蒙曰:「今東西雖為一家,而關羽實熊虎也,計安可不豫定?」因為肅畫五策。肅於是越席就之,拊其背曰:「呂子明,吾不知卿才畧所及乃至於此也。」遂拜蒙母,結友而別。時蒙與成當、宋定、徐顧屯次比近,三將死,子弟幼弱,權悉以兵並蒙。蒙固辭,陳啟顧等皆勤勞國事,子弟雖小,不可廢也。書三上,權乃聽。蒙於是又為擇師,使輔導之,其操心率如此。

(訳)

魯粛が周瑜に代わり、

陸口へこうとした際、

呂蒙の屯営下を通過した。

魯粛の意思としては

尚も呂蒙を軽んじていたが

或る者が魯粛に説いて言うには、


「呂将軍の功名は日ごと

顕著となっておりまして、

故意(以前の認識)によって

待遇してはなりませぬ。

君はこの事を顧慮なさるべきです」


かくて呂蒙を参詣した。

酒が酣となると

呂蒙は魯粛に問うて言った。


「君は重任を受け、関羽とは

(郡が)となり合っておりますが

どのような計略で不虞(不測の事態)に

備えようとしておられるのですか」


魯粛は造次に(一瞬で)応えて言った。


「その時に臨んで妥当に対処する」


呂蒙は言った。


「今、東西が一つの家となったと雖も

関羽の実は熊虎であり、

計画をどうして予め

定めておかずにおれましょう?」


そこで魯粛のために五つの策を書いた。

魯粛はここで席を越えて

これ(呂蒙のところ)に就座し

その背をでて言った。


「呂子明どの、吾は卿の才略の及ぶ所が

ここまで至っていたとは知らなかった」


遂には呂蒙の母に拝謁して

友のちぎりを結んで別れた。


時にに呂蒙は成当せいとう宋定そうてい徐顧じょこ

屯次(駐屯)していて

彼らと近しかった。

三将が死んだ際、

子弟が幼弱であったため

孫権は兵の悉くを

呂蒙に併合させようとしたが、

呂蒙は固辞し、

徐顧等は皆国事に勤労しており

子弟が小さいと雖も

廃すべきではない、と啓上した。


三度上書すると、

孫権はそこで聴き入れた。


呂蒙はここでも

(徐顧らの子弟のため)師をえらんで

彼らを補導させた。

その操心(心配り、労り)は

おおよそかくの如くであった。


(註釈)

周瑜の死後、その後釜には

魯粛が据えられている。

周瑜の遺言によるものだった。


魯粛伝には、

「後備詣京見權,求都督荊州,惟肅勸權借之,共拒曹公」

とあり、劉備は孫権に報告しないと

荊州に居座ることのできない

微妙な立場にいる。

魯粛「だけ」が劉備に荊州を貸して

一緒に曹操を防ぐよう勧めた。


習鑿歯の漢晋春秋では、

呂範勸留備,肅曰:「不可。將軍雖神武命世,然曹公威力實重,初臨荊州,恩信未洽,宜以藉備,使撫安之。多操之敵,而自為樹黨,計之上也。」權即從之。


とあり、劉備を留めるよう

孫権に勧めているのは呂範りょはんで、

魯粛は荊州に恩徳が行き渡ってないから

劉備に安撫してもらって、

曹操の敵を増やしながら

勲功を樹立するのが上計、と言ってます。

曹操と劉備を潰し合わせて

孫呉が漁夫の利を得ようという。


生前の周瑜、そして甘寧かんねい

孫権に蜀取りを勧めていた。


赤壁、南郡で結果を出した

周瑜が征蜀の任に当たる筈だったが

その周瑜が死んでしまう。


征蜀に関しては、

赤壁の際に周瑜と肩を並べた

宿将の程普ていふが継ぐ事になっていただろう。

孫権は程普を周瑜に代えて

南郡太守にしている。


魯粛は、周瑜の兵を継いだとはいえ

この時点では兵を率いた経験が殆どない。

山越を討伐してた陸遜りくそんとは違う。

甘寧はまだ帰順して日が浅いし

呂蒙は周瑜より格が一段劣る時期。

ここはやはり、程普が適任。


その程普も

「代領南郡太守。權分荊州與劉備,普復還領江夏,遷盪寇將軍,卒」

とあり、割とすぐに亡くなっている。

なんなら劉備が殺したのかもしれない。


孫権が劉備に相談したのは

周瑜と程普がいなくなってしまい

征蜀を誰に任せればいいのか

わからなくなったからだろう。


劉備は孫権に助けてもらった手前

その客将っぽい立場になっているが、

もともと他者の掣肘を嫌う人である。

孫権は歩騭を派遣して

交州支配に乗り出しており、

このままだと益州にも兵出すだろう。

そこで劉備は、


「私に免じて劉璋をお許しください、

お願いを聞いてくださらなかったら

私はもう下野しますから」


みたいな事を言って孫権を騙し、

関羽を留めて益州へ行ってしまった。


孫権は「騙したなペテン野郎!」

と、後になって激昂した。


また、龐統ほうとうが周瑜の功曹だったなら

丸一年に渡る南郡の戦いにも

参加していた可能性が高い。

周瑜の後を継いだ魯粛の案で

荊州を劉備に貸す事になり、

とりあえず龐統もその傘下に

入ることになったのかな?


桂陽けいよう郡の耒陽らいよう県は

ちょっと東に行けばもう揚州であり、

ここの県令に任じたイコール

過小評価していた、という事だが

劉備が龐統を遠ざけたがっている

ようにも見える。


周瑜や魯粛ほどの人なら

劉備の背信も十分計算に入れており、

龐統を監視役として劉備に

つけたのではないか。


法正ほうせい劉璋りゅうしょうに当てた書簡の中で

孫権が弟、甘寧かんねい李異りい

派遣して劉備の後続としている…

と言っている部分があり、

呉範伝では呂岱りょたいが蜀から白帝へ

帰還して…‥というくだりがある。


これを見た感じ、

まるで劉備がやられ次第

即座に孫権の軍勢が

劉璋に襲い掛かる手筈が

整っていたかのよう。

呂岱は、劉備の余力を測りにきた

偵察役だろう。


劉備が益州へ向かった当初

関羽や張飛は南郡にいる。


魯粛伝によると、

「及羽與肅鄰界,數生狐疑,疆場紛錯,肅常以歡好撫之」

で、関羽と魯粛の治める界域が

隣接していて、疑惑や混乱が

生じていたが、魯粛がいつも

友好的な態度で慰撫していた、とされる。


劉備に肩入れするのは

みんながクエスチョンマークを

つけた戦略だが、

魯粛は自前の兵力に乏しいので、

劉備の戦力をある程度

アテにせざるを得なかったんだろう。


魯粛は江陵に駐留していたが

やがて陸口へ下った。

そんな折、呂蒙の屯営を通りがかった。


魯粛伝をやった時に

劉備陣営に対して

意外とノープランで当たっている

魯粛に、呂蒙がアドバイスを

した……という風に書きましたが、

「肅意尚輕蒙」だから、

魯粛は呂蒙を舐めています。


呂蒙「劉備や関羽にどう当たります」

魯粛「臨機応変にやるよ」


という問答も、

造次応(一瞬で応えた)と書かれてるし

テキトーに流してるのがわかる。

「コイツに話しても無駄だよなぁ」

と思っている感じ。


そこで呂蒙は関羽を「熊虎」と称し

魯粛のために五つの策をしたためる。

具体的にはどんな内容なのか

書かれてないけど、

「呂蒙」って呼んでもいい立場が

「呂子明」と名指しを避けたあたり

敬意が生まれたのがよく表現されてる。


また、呂蒙は自身の境遇からか

弱小の軍閥を解体させることには

かなりの拒否反応を示している。


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