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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第九、董允伝
564/603

一・注一、忠諫の士/郭攸之

董和の息子にして、劉禅りゅうぜんを厳しく諌める董允とういん伝。

1.

董允字休昭,掌軍中郎將和之子也。先主立太子,允以選為捨人,徙洗馬。後主襲位,遷黃門侍郎。丞相亮將北征,住漢中,慮後主富於春秋,硃紫難別,以允秉心公亮,欲任以宮省之事。上疏曰:「侍中郭攸之、費禕、侍郎董允等,先帝簡拔以遺陛下,至於斟酌規益,進盡忠言,則其任也。愚以為宮中之事,事無大小,悉以諮之,必能裨補闕漏,有所廣益。若無興德之言,則戮允等以彰其慢。」亮尋請禕為參軍,允遷為侍中,領虎賁中郎將,統宿衛親兵。攸之性素和順,備員而已。獻納之任,允皆專之矣。允處事為防制,甚盡匡救之理。後主常欲採擇以充后宮,允以為古者天子后妃之數不過十二,今嬪嬙已具,不宜增益,終執不聽。後主益嚴憚之。尚書令蔣琬領益州刺史,上疏以讓費禕及允,又表「允內侍歷年,翼贊王室,宜賜爵土以褒勳勞。」允固辭不受。後主漸長大,愛宦人黃皓。皓便闢佞慧,欲自容入。允常上則正色匡主,下則數責於皓。皓畏允,不敢為非。終允之世,皓位不過黃門丞。

(訳)

董允とういんは字を休昭きゅうしょう

掌軍中郎将董和(とうか)の子である。


先主(劉備)は太子(劉禅)を立てると

董允を選抜して(太子)舎人しゃじんとし、

(太子)洗馬せんばに遷った。


後主(劉禅)が帝位をぐと

黄門侍郎こうもんじろうに遷った。


丞相の諸葛亮は北征せんとして

漢中かんちゅうへ向かった際に、

後主の春秋が富み(年齢が若い)

朱と紫(物事の理非)を見分ける事は

難しかろう、と憂慮しており、

董允が公平明亮の心を

保っている事から

宮廷の事を委任しようと考えた。

上疏して述べるには、


「侍中の郭攸之かくゆうし費禕ひい

侍郎じろう董允とういんらは、先帝が

選り抜き、陛下に遺された者たちです。

法度や利益を斟酌し

進んで忠言をくす事が

則ち彼らの任にございます。


愚見を申さば、

宮省の事に関しては

事の大小に関係なく

悉く彼らに諮問なさいませ。

必ずや闕失や遺漏を補い

広くに利益がございましょう。

もし徳をさかんにする

言葉がなければ、即ち

董允らを誅戮して

その怠慢をあきらかになさってください」


諸葛亮はやがて請願して

費禕を参軍とし、

董允を遷して侍中とし

虎賁こほん中郎将ちゅうろうしょうを兼領させて

宿衛、親衛の兵を統括させた。


郭攸之の性格はもとより

温和で柔順であり、

人員として備わるだけであった。

(そのため)献納の任は

董允がすべて専らとした。


董允は物事を処理する際、

しっかり準備をして

(劉禅が気ままに振る舞わぬよう)

抑制し、甚だ匡救の理を尽くしていた。


後主は常に採択によって

後宮を充実させようとしていたが

董允は、古の天子の后妃の数は

十二人を過ぎておらず

今嬪嬙(宮女)は已に具わっており

増益は宜しくない、と考え

終に聴き入れなかった。

後主はますます彼の厳しさを憚った。


尚書令の蒋琬が益州刺史を兼領した際

上疏して費禕及び董允に譲ろうとした。

また、このように上表した。


「董允は内に侍従し年を歴て

王室を翼賛しております。

宜しく爵位、封地を賜り

功労を褒賞なさいますよう

お願い申し上げます」


董允は固辞して受けなかった。


後主は漸次に長大し(大人になった)

宦人の黄皓こうこうを寵愛するようになった。


黄皓は言葉巧みに阿諛追従し

狡猾であり、自ら取り入ろうとした。


董允は常々、

上は顔色を正して主君をたす

下はしばしば黄皓を責譲した。


黄皓は董允を畏れており

敢えて非行を為そうとはしなかった。


董允の世が終わるまで

黄皓の地位は黄門丞こうもんじょうに過ぎなかった。


註1.

楚國先賢傳曰:攸之,南陽人,以器業知名於時。

(訳)

楚国先賢伝にいう、

攸之ゆうしは南陽の人で

器量、学識によって当時名を知られた。


(註釈)

蜀書9巻の最初に出てきた

董和の子、董允。


董和は、息子と費禕ひい

どっちが優秀か、なかなか

測りかねていたというので

許靖きょせいの息子の葬式に於ける態度で

費禕の方が優れていると確信)

ふたりは年が近いのだろう。


また、費禕伝に

「少孤,依族父伯仁。伯仁姑,益州牧劉璋之母也。璋遣使迎仁,仁將禕遊學入蜀。會先主定蜀,禕遂留益土……」

とあり、

蜀が平定された時点では費禕はまだ

官途に就くような年齢では

ない事が窺える。

馬謖ばしょく(190生)よりさらに若いだろう。


費禕と董允は、劉禅が太子になると

太子舎人に任じられた。

費禕は太子庶子、

董允は太子洗馬にうつる。

劉禅が即位すると

二人とも黄門侍郎に任命されており

ここまではほぼ同格に

扱われてるのがわかる。


諸葛亮は南蛮征伐から帰ると

費禕を昭信しょうしん校尉こういとし、呉に遣わした。

孫権からは

「君は天下の淑徳、必ずや蜀の

股肱の臣になるだろうから

そう何度も来れないだろうな」

と、絶大な評価を受け、

帰国後、侍中に任じられた。


董允は対してまだ黄門侍郎のまま。


費禕は随所随所で

泰然自若とした態度が

描かれているので、

諸葛亮が彼を都尉に任じたり

北伐に連れてこうと考えたのも、

この子の動じなさは

将帥に向いてるかもしれん…と

考えたのかもしれない。


諸葛亮が北伐に及んで

遂に董允にも大役。

劉禅がまだ若いことから

(即位時17歳、1次北伐時21〜22歳)

董允がその指導及び宮廷の事を

担うこととなった。


郭攸之かくゆうしは、諸葛亮が出師表すいしのひょうの中で

忠義の心を持つ有能な人物として

費禕、董允とともに挙げている。


ほか、廖立りょうりつ伝では

「中郎の郭演長かくえんちょうは人に従うだけで

ともに大事を図るには足りぬのに

侍中じちゅうになっている」

と、批判を受けてもいる。


ここでも

「攸之性素和順,備員而已」

と書かれており、

いまいち主体性がない

人物だった事が窺える。


郭攸之が指示待ちタイプなので

劉禅の教導は董允が

そのほとんどを担う事になった。


費禕が参軍となると

董允が侍中、虎賁中郎将となり

上奏の事、宿直、親衛隊の

管理を任されるようになる。


6巻を読み返すと

関羽、張飛、趙雲の子や孫も

侍中や虎賁中郎将に至っており、

功臣の子弟が歩む

エリートコースかも。


劉禅には厳しい態度で臨み、

妃がいっぱい欲しい

などと言い出しても、当然聞かず。

劉禅は董允の前では

常に背スジを伸ばしていた事だろう。


その反動なのか、成長した劉禅は

おべっか使いの黄皓を寵愛し始めるが

董允の目が黒いうちには

邪な行為には走れなかった。


ふつう、子の事績は

親の後に載せるのに

董和と董允がその例に漏れたのは

この事を強調したかったのかな。

246年の蒋琬しょうえんと董允の死が

蜀漢の終わりの始まりだ。


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